第50話 その能力
思った通り、である。この魔物もサラたちと同様、『精霊の加護』を知っていたのだ。
私の顔を眺めていた魔物が、少しだけ眼を細める。
「やはりそうか。
術無効化は、ヒトにも魔族にもない能力だ。
かつてこの能力を、意図的に創り出そうとした者たちがいた。ヒトは魔族に、魔族はヒトに対抗する手段として」
この話は初耳だ。そのような能力を意図的に創るなど、聞いたことがない。
「だがそれは両者とも未だに成し得ていないはず。
『精霊の加護』という術無効化能力には、『精霊の意思』が必要不可欠だからな。地上に居る我らが簡単に創り出せるものではない」
(精霊の意思?)
何のことだろうか。
……それに。
(術無効化?)
この魔物は今『精霊の加護』が、「術効力を無効化」できると言った。
だが実際に、私が目の当たりにしたアレックスの能力は、「術効力を防御」していただけに過ぎない。つまり効力を消失せずに防御術と同等の能力―――ただ攻撃を防いでいただけだった。
『無効化』というからには当然、相手の術効力も消失させなければならない。それは防御能力とは異なるはずだが、この認識の矛盾は一体何なのだろうか。
私が疑問に思っていると、頭上から微かな羽音のようなものが聞こえてきた。
そこに居たのは、黒くて丸い目玉が一つ。両脇にはコウモリのような羽も生えている。
この前、サラやリチャードと一緒にいた小魔物に似ている……というか、恐らく同じものだろう。
同じく見上げていた魔物の元に、ソレはふわふわと揺らめきながら降りてくる。
手の届く範囲にまで来た時、彼は少し距離を置いた状態でその頭を右手で翳した。次いで小魔物の全身が、黒く光り出す。
しばらく彼らはそのまま佇んでいた。が、やがて小魔物のほうは巣立ったばかりの雛鳥のように、不安定な動きで羽ばたきながら、木々の向こう側へと消えていった。
魔物は私に背を向け、それが視界から消えるまで見送っていたのだが。
「この場所には瘴気が充満している。君もその知識はあるのだろう?」
こちらへは振り向かずに訊いてきた。
瘴気。
父から受けていた講義で、何度も出てきた言葉だ。
術士や魔物が術を使用する時に必要な精霊の力は、この地上の大気中に存在している。そしてその中には「瘴気」も含まれている。
瘴気は通常、低濃度で浮遊しているため、人体への影響は皆無である。だが濃度がある程度高くなった場合には、徐々に体内へと入り込んでしまう。
嘔吐や頭痛、悪寒、恐怖心、気力低下、全身麻痺、圧迫感、破壊・暴力衝動……などなど、人によって症状は様々であるが、それらを引き起こし、最悪の場合には死に至る―――と、この程度の知識ならば私にもあった。
「君は瘴気に侵されていた。俺がそれを中和して、影響力を一時的に防いでいる。が、およそ三時間程度の効力しかない」
「え!? 防いでいる???」
「君の身体に、防御用の薄い膜を張った」
私はその言葉で、自分の両手や体中を見回してみた。それらが先程から何故かキラキラと輝いて見えていたが、もしかしたらこれがそうなのか。
「但し体内に瘴気が入り込まない代わりに、精霊術も使えない。それにこれはあくまでも、瘴気を防御するためだけの処置だ。外部からの攻撃を防ぐこともできない」
つまり今攻撃を受けてしまうと、防御さえもできないということなのか。
私は愕然とした。精霊術を使えない精霊術士なんて――。
「あ……あなた一体、何を企んでいるわけ?」
「企む?」
「そうよ。術を封じて、その隙に私を一体、どうしようって言うの!?」
混乱しつつも精一杯張った私の虚勢に対して、魔物は少し吃驚したような顔付きを見せた。しかし直ぐにまた元の険しい表情に戻る。
「どうもしない。ただ君を殺す理由がないだけだ」
それだけを言うとこちらを振り向きもせずに、そのまま前へ歩き出そうとする。
「ちょ…! それって、答えになっていないわよ!」
その返答に納得のいかない私は走り寄って、思わず彼の翼に触れようと手を伸ばした。
が。
雷のような轟音とともに、私は地面へと投げ出されていた。
痺れと全身を暴れ回るような激痛。もし「大きな雷に打たれる」とするならば、こんな感覚なのだろうか。
「精霊術は使えないが『精霊の加護』ならば発動するはずだ。君はその能力を使って、この場所から早々に立ち去るがいい」
魔物は何事もなかったかのようにそう言い残すと、木々の間へと消えていった。横たわったまま、呆然と後姿を見送っている私だけが、その場に取り残されていた。
彼は私には『何も』していない。こちらに敵意も見せなかったし、攻撃も――指一本さえも動かさなかった。
単に私が彼に触れようとしただけである。それともアレは私にかけたものと同じ、防御術の類だろうか。
だが相手は上位クラスだ。私の知らない術を使っていたとしてもおかしくはない。その辺りのことは、あまり深く考えない方がいいのかもしれない。
しばらくの間、全身に感じる痺れと痛みで、立ち上がることさえできなかった。あの激痛でよく死なずにすんだものだと、我ながら感心してしまう。
ようやく何とか起き上がれた私は、早速掌へ意識を集中させてみる。
「烈風天駆」
他にもいくつか思いつくままに術を唱えてみたが、何れも駄目だった。昼間の時は弱いながらも使用できたが、今回は精霊石さえも反応しない。
『精霊術は使えないが、「精霊の加護」ならば発動するはずだ』
何故あの魔物は、そう断言できたのだろうか。それに人間である私を瘴気から保護し、ご丁寧に忠告まで添えて、殺さずに放置するのは何故だろう。
考えられるのは、私のことを『精霊の加護保持者』と思っていることくらいだ。
もし翼の魔物がサラの仲間だった場合には、その可能性が一番高い。彼女もまたそのような理由で、私たちを殺さなかったのだから。
それにサラと同種族のような感じだったし、何より同じような術文も唱えていた。
……あれ? 同じ術文?
私は左腕を押さえる。
もしかしたら彼ならば、サラに付けられたこの「紋様」が何なのかを、知っているのだろうか。
しかし。
彼の消えていった方向へ目を向けた。
―――――あそこへは行きたくない。
それは本能的なものだろう。そして何故そのように感じているのか、理由を私は知っている。
瘴気だ。
私は幼い頃に、中位クラスから放たれる瘴気を浴びたことがあった。その時のことは今でもあまり思い出したくはないが、畏怖の念を抱いたことを強く憶えている。
当時はその感覚が何なのかを知らなかった。しかし後にその時の状況を父へ話した時、それが魔物の放つ「瘴気」だと教えられたのだ。
先へは行きたくない。けれど、腕に付けられた紋様の効力を知りたい。
私がその場でしばらく悩んでいると。
「……ハァ……ハァ……」
不意に背後から、獣の荒い息遣いのようなものが聞こえてきた。
それが耳に入った瞬間、私の身体は無意識に動いていた。そして前方にある木陰へと滑り込んだ。
ここは「モンスター・ミスト」――つまり、魔物の創り出した結界の中だ。獣など居るはずがない。居るとすれば恐らく、結界を解いたであろうルティナたち、そして先程の魔物と私たちを追ってきた敵だ。
しばらく私はそこへ隠れて様子を窺っていた。息遣いは確実にこちらへ近付いている。
後方の木陰から黒いものが現れる。遠目からもその姿を捉えることができた。
黒装束に身を包んだ、トカゲの顔をした魔物――私の予想通りだった。
しかし徐々にその姿が大きくなるに従って、何処か様子のおかしいことに気が付いた。
酔っ払ったかのような覚束無い足取り。顔を前へ突き出し、不恰好に丸められた背。
剥がれたマスクから覗く口元は、だらしなく開けられ、血走った焦点の定まらない眼は動かずに、真っ直ぐ前を向いたままだ。
「……臭う……臭うぞ……」
魔物は口から涎を垂れ流して、そのような言葉を呟きながら、私の直ぐ脇を通り過ぎていく。こちらには全く気付いていないようだ。
私は魔物が茂みの奥へ消えていくのを、そのまま見送っていた。
何が「臭う」のだろう。確かにこの奥からは、瘴気を感じているけれど。
私はここで覚悟を決めることにした。
どちらにせよ私には、「精霊の加護」がないのだ。勿論アレックスが居なければ、ここから抜け出せるはずがない。
昼間のルティナの話から考えると、彼女は先程の翼の魔物の元へ行くつもりなのだろう。ということはそこに行けば、或いは彼女たちに会えるかもしれない。
それに今の敵の様子も気になるし。
「取り敢えず、行ってみるしかないわね」
私は気合いを入れるかのように呟くと、思い切って茂みの中へ足を踏み入れた。