第49話 精霊の加護
第5章 異なる者(エリス編)
「やはり人間か」
地面で微睡みに飲み込まれそうになっていたが、その声で無理矢理覚醒させられた。
頭を動かしたくなかった私は眼球だけを傾ける。
無数に咲く色とりどりの花の隙間から、黒いブーツのようなものが覗いている。先程聞こえてきた低音は男性のものだ。
人間? 或いは魔物か?
だが今の私にとってはどうでもいい。それを確かめる気にもなれない。
「ここはヒトが来て良い場所ではない」
声は頭上で聞こえてきた。先程よりも近い。
「どうやら既に、瘴気には侵されているようだな」
(瘴……気……)
私は朦朧としている意識の中で、その言葉だけを反芻していた。それが意味のない行為だということが、頭の何処かでは分かっている。しかし何故か止められない。
閉じかけた瞼の裏側では、黒い影が蠢いているような気がした。すると、身体が急に軽くなる。意識も鮮明になってきた。
「な……今、何を……!」
驚いた私は、そのまま勢いよく身を起こした。
私を覗き込んでいたのは、切れ長の緋眼。長い黒髪。深い端正な顔立ち。
頬や腕など、薄手の布地の下から現れている浅黒い肌には刺青なのか、濃紺色の幾何学模様的なペインティングが数ヶ所に施されている。
外見上では二十~三十歳代の男性だった。簡単に一言でいってしまうと、近寄りがたい感じの「美形」である。
アレックスやディーンも美形だが、彼らのような柔らかい雰囲気は感じられない。深紅の瞳の奥には凍て付くような鋭い刃と、触れれば一瞬で燃やし尽くされそうな焔が混在している。
それはもしかしたら、彼が魔物だからかもしれない。
そう、魔物だ。
背後に携えているのは漆黒の翼。それが少し距離を置き、私の視線へ合わせるかのように真っ直ぐに、こちらを見詰めている。
双眸は炎のように紅々としていたが、眼差しは氷のように冷たく感じられた。
「君は一体、どうやってこの中に入り込んできた?」
美形の魔物は私の眼を覗き込みながら、逆に訊いてきた。
「この中には俺以外は誰も入ってこられないはずだ。それなのに君はどのような手段でここへ来た?
他にも複数の者が入り込んでいたな。この結界を解いたのは君なのか、或いは他の者か?」
結界―――。
『あたしが、あの中にいるヤツに用があるからだ』
不意に彼女の言葉を思い出す。
そうか。もしかしたらこの場所は、そしてこの魔物が。
「ルティナの言っていた……」
「ルティナ?」
思わず口に出してしまったことに気付き、私は慌てて顔を逸らした。
魔物ハンターである彼女の『用』というのは、素人の私でも簡単に想像がつく。なのに部外者である私が敵の前で、不用意にその名を口走ってしまった。
「成る程な」
(……あれ?)
その声に驚いた私は、反射的に顔を上げた。
たった一言の呟き。先程までは冷たい印象だったが、その言葉の中には少し、柔らかさのようなものも含まれている気がしたのだ。
だが表情を見ると先程同様、冷めた眼差しを向けている。私の気のせいだったのだろうか。
「大陸三大国、何れかの差し金かとも思っていたが……あの娘か」
魔物は私から身体を離すと、背を向けた。
だが私は見た。後ろを向いた瞬間に、彼の口角が少し上がっていたのを。やはり先程のアレは、気のせいなどではない。
「ルティナを知っているの?」
「当然だ。隻眼の魔物ハンター『キラー・アイ』の名は、俺の元にも届いているからな」
再び抑揚のない口調が返ってくる。
「再度問う。結界(モンスター・ミスト)を破ったのは、君の能力か?」
先程よりも、更に強い口調だった。翼越しからこちらを窺うように覗いている瞳も揺らぐことなく、冷ややかだ。
「え……ええと、それは……」
私は迷っていた。本当のことを言うべきかどうか。
いつの間にか入り込んでしまっている私だったが、モンスター・ミストの結界を解いたのはアレックスだと思っている。そしてルティナも同行しているはずだ。
何故なら彼が誰の干渉も受けず、一人でこの結界を破るとは考えられないからだ……多分。
勿論ここへ来る途中で彼らに出会わなかったし、その場面を見た訳でもなかったが、何となくそんな気がする。
それに目の前にいる魔物は恐らく、上位クラスだ。
何故そう断言できるかといえば、先程私にかけた術のようなもの。あれは何らかの精霊術だろう。
そして先日出遭った上位クラスの魔物――サラが唱えていた術文と、似たようなものも唱えていた。
しかもこの魔物、サラと顔立ちや瞳の色が似ているような気がする。もしかしたら同じ種族なのかもしれない。
サラには私にもアレックスと同じ能力、『精霊の加護』が付いていると思い込ませていた。そして恐らくはそのお陰だと思うが、私たちは殺されずにすんだのだ。
だからもしかしたら今回も―――。
「この結界を破壊できるのは、俺が許可しているモノと、もう一つ。
術効力を無効化できる能力――今のところ考えられるのは、精霊が英雄に与えたと言われている『精霊の加護』のみ」