第38話 辿り着いた場所
精霊術士が身の危険を感じた時、咄嗟に出てくるのは普段使い慣れている術文である。
だからこの瞬間で私が唱えるであろうものは、本来ならば先程まで使いまくっていた、風属性防御術であるはずなのだが。
「烈風天駆!」
瞬時に口をついて出てきた言葉は、意外にも予想に反したものだった。
これはただ強風が吹き荒れるだけで、殺傷能力も皆無に等しい術文である。つまり戦闘時においては、あまり役に立たないのだ。
しかも攻撃術でもあるため、今の私では普段の能力が出せない。それなのに何故出てきたのか、言った瞬間に自分でも戸惑っていた。
自分の過ちに気付いた私は、思わず目を瞑る。
だが。
聞き慣れた轟音が耳許で唸っていた。
「エリスさん~今のうちに、こちらですぅ~!」
それとともに聞こえてくる高音ボイス。
弾かれるように開けたその目で見たものは、落ち葉のように上空へ舞い上げられている魔物の姿だった。
私はその光景で再び、呆気に取られそうになっていた。が、今が逃げるチャンスだということにようやく気付くと、エドから放たれる光に向かって夢中で走り出していた。
いつもの術力だった。
咄嗟のことだったので加減が出来ず、出力時には強い負荷がかかっていたはずだ。
その手応えを確かに感じていた。
つまり私の術力が、いつの間にか戻っていたのである。
『一時的に、術が使えなくなっているだけだと思う』
彼女の言葉を思い出す。
本当に一時的なものだったのだろうか。それとも偶々、使えるようになっただけなのか。
何れにせよルティナには、後で詳しく訊いてみなければならなかった。しかし今は逃げることに専念しなければならない。
息が上がってくる。意識も朦朧として、前もよく見えなくなってきた。
いつ背後から攻撃をされるのか分からない。敵がどのくらいの距離まで縮めてきているのか、それを確認する余裕さえもなかった。
心臓から伝えられる鼓動が、有り得ないくらいの速さで動いているのが分かる。それでも今の私は余計なことを考えず、限界まで足を動かすしかないのだ。
だが自分の意に反し、地面へ向けて身体が傾いていた。
どうやら何かにつまずき、足がもつれてしまったようだ。直ぐに体勢を立て直そうとしたが、疲れ切った身体ではどうにもならなかった。
そのまま勢いよく倒れ込む私。顔面から滑り込んだために皮膚を擦り剥いてしまったが、そんなことに構っている時間はない。
私は起き上がろうとした。が、焦る気持ちとは裏腹に、一度崩した身体は、言うことを聞いてはくれなかった。
しかし。
「……は……あれ?」
私は異変に気付き、顔を上げた。そして肩で息をしながら辺りを見回してみる。
周囲の闇が一面、いつの間にか白濁色に変化していたのだ。
おまけにエドの後ろ姿も見失っていた。後方にいた敵の姿も見えなくなっている。更に先程まで宙一杯に広がっていた星々までもが、この白濁色に遮られているかのように確認できなかった。
だが唯一、周囲に樹木が生えていることだけは分かる。
この突然の異常事態で、私はいつの間にか冷静さを取り戻していた。
私は息を整え、やがてゆっくりと起き上がる。そして付近に生えている樹木の感触を確認しながら、改めて恐る恐る辺りを見回してみた。
「一体、どうなっちゃったの?」
エドは何処へ行ってしまったのか。
敵も何処へ消えたのか。
耳を澄ませてみるが、生き物の気配がまるで感じられなかった。
この世にたった一人、自分だけが取り残されてしまったかのような感覚だ。
どうしてこんなことになってしまったのか。先程まで夢中で走っていた私には、状況がさっぱり分からない。
「ええと、確かエドと一緒に、走って逃げていたのよね」
私はわざと大きな声で確認してみた。声を出していないと、とてつもない不安感が襲ってくるような気がしたからだ。
「で、それからどうなったんだっけ?」
私は首を捻ってみた。
知らない間にエドと敵が消え、周囲が闇から白に変化している。
その原因を頭の中で探ってみたが、一向に解決できなかった。しばらくその場で考え込んでいた私だが。
「……仕方ない。エドを探すか」
考えても分からないのなら、先へ進むしかない。
そう判断した私は、樹木を辿りながら進むことにした。
恐らく先に行けば、エドと合流できるはずだ。
根拠のない一筋の希望を胸に抱きながら、私はそれを支えにゆっくりと歩き出していたのだが――。
不意に視界が広がる。
そこは辺り一面、赤や青、黄色に紫ピンクなど、色とりどりの名も知らない花が無数に咲き誇っていた。気が付けば、周囲を取り巻いていた白濁色のものが消えている。
「花? この時期に??」
私は眉を顰めていた。鮮やかな花々が今の寒い時期に、咲くはずがない。
しかも―――――。
「何で昼間?」
上空には雲一つない青空が広がっている。辺りも明るい。
今は「夜」のはずなのに、だ。
周囲にはこの色彩空間を取り囲むように、青々とした樹木も立ち並んでいた。この光景を見れば、少しくらいは暖かくても良さそうだが、妙に肌寒かった。
私は戸惑っていた。が、今の状況を把握しておかなければ、何も解決はしないのだ。
そう自分を奮い立たせた私は、足首ほどの高さに咲く野花を踏みしめ、慎重に歩みを進めていた。
だが何故だろうか。
足を一歩前へ出す度に、全身が重くなっていく。視界も徐々に狭まってきているようだ。足取りさえも覚束無くなっている。
気が付くと私は、咲き誇っている花々へ顔を埋めるようにして、地面に倒れ込んでいた。
全身に力が入らない。それに起き上がろうという気持ちも、何故か全く湧いてはこなかった。
(あー、このまま寝ちゃおうかなぁ)
いろいろと面倒くさい。大体こうやって、考えること自体が面倒だ。それにこの体勢も、何だか妙に心地良い感じだし。
私は柔らかいクッションへ身を委ね、そのまま眠りに入ろうと目を閉じたのだが。
「やはり人間か」
頭上で声が聞こえてきた。