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矜持を貫く吾輩

掲載日:2026/10/20

 吾輩は猪である。

 猪突猛進などという、いささか雑な言葉で説明されるのは本意ではない。吾輩はただ、一度定めたことを曲げぬだけである。志に向かって真っ直ぐ進むことを、人が勝手にそう呼んでいるにすぎぬ。


 近頃、山はめっきり実りが悪い。


 落ちた木の実は少ない。掘っても乏しい。鼻先で土を返してみても、腹にたまるものはなかなか見つからぬ。吾輩だけなら、まあよい。多少ひもじくとも、風格で補えぬことはない。だが、家族はそうもいかぬ。


 小さな鼻が、夜ごと土を探る。

 短い足が、あちこち駆け回る。

 それでも見つからず、子らは眠る前に小さく鳴く。


 あれは、いかぬ。


 伴侶が言った。

「隣の山は、まだあるらしいよ」


 まだあるらしい。

 その、らしい、というところが気に入らなかった。あるのか、ないのか、どちらなのだ。だが、ないと決まったわけでもない。


 子の一頭が言った。

「おなかすいた」


 それで十分であった。


 吾輩の家族がひもじい思いをしている。

 その事実がある以上、吾輩は鼻先を丸めてうずくまっているわけにはいかぬ。隣の山が豊かだというのなら、行って確かめればよい。もし行く手に道がないなら、切り開けばよい。それだけのことである。


 伴侶は、吾輩を見て少し目を細めた。


「あなたなら、行けるでしょう」


 困るのである。


 そういうふうに、さも当然のように言われると、こちらも当然のように行かねばならなくなるではないか。無論、吾輩ははじめから行くつもりであった。あったのだが、そこへきて行けるでしょうと重ねられると、ただの決意が少々立派な使命に育ってしまう。これはたいそう困る。しかし悪い気はしない。


 吾輩は鼻を鳴らした。

 いかにも、任せておけ、という鳴らし方であったと思う。


 こうして吾輩は、山を下りることにした。


 言っておくが、これは無鉄砲ではない。計画的前進である。目的地は隣の山。その途中に人里があろうが、川があろうが、気にする必要はない。見えているのは先だけである。途中のものに心を乱されるようでは、家族を背負う者とは言えぬ。


 出立の朝、子らはまだ眠たそうな顔をしていた。

 伴侶だけが起きて、吾輩を見送った。


「気をつけてね」


 気をつける、というのは曖昧でよろしくない。どこに、どれほど、どう気をつけるのか。そういう細部は、出立の場には似つかわしくない。もっとこう、堂々と背を押すような言葉がほしいところである。だが、そのあとに続いたひとことは、なかなかよかった。


「でも、きっと大丈夫だよね」


 困るのである。


 きっと大丈夫。

 実に根拠の薄い言葉である。だが、根拠が薄いくせに力だけはある。言われた側が、その気になってしまう程度には。


 吾輩は胸を張った。

 張ったところで胸の厚みが急に増すわけではないが、気分の問題である。ともかく、たいそう頼もしい後ろ姿になっていたはずだ。少なくとも吾輩の認識ではそうである。


 山を下りる道は、思ったより急であった。

 いや、急なのは知っていた。知っていたが、木の根は滑るし、石は転がるし、朝露はやけに足元を惑わせる。これは山が悪い。吾輩ではない。


 一度、小枝を踏み抜いて派手な音を立てた。

 実に遺憾である。静かに、しかし威厳を保って進むつもりであったのに、ばきり、である。ばきりでは締まらぬ。


 だが、そこで立ち止まってはいけない。

 立ち止まれば、今のばきりを反省する時間が生まれる。反省はときに歩みを鈍らせる。今の吾輩には不要である。


 やがて木々の気配が薄くなり、土の匂いに別のものが混じりはじめた。

 人里である。


 人里というところは、どうにも落ち着かぬ。

 妙に四角い。妙に整っている。獣が通るために作られていないものばかりで、いちいち趣味が悪い。地面は硬いし、草は短いし、風までよそよそしい。


 だが、吾輩は脇目を振らなかった。

 畑らしきものも見えた。何やら青々したものが並んでいた。だが吾輩の興味はそこにはない。目的は隣の山である。腹を満たすために道を外れるようでは、かえって矜持が傷つく。吾輩は家族のために進んでいるのであって、つまみ食いのために下りてきたのではない。


 むろん、少しはよい匂いもした。

 したが、それだけである。

 鼻が利くからこそ分かるのだ。あれこれに気を取られていては、最初の志が濁る。吾輩はそういう猪ではない。


 遠くで犬が吠えた。

 まことに無礼である。まだ何もしていない相手へ向かって、あれほど自信たっぷりに吠えられる神経が分からぬ。吾輩は堂々と歩いているだけだというのに。


 さらに進むと、道の向こうで人が二人、何やらこちらを見て固まった。


「うわっ」


「でかい」


 でかい、とは失敬な。

 せめて雄々しいとか、威風堂々とか、もう少しましな言いようがあるだろう。第一、驚くほどのことではない。吾輩が吾輩としてそこにいる。それだけである。


 もっとも、ここで腹を立てて進路を乱してはつまらぬ。

 目的は隣の山。人の感想にいちいち付き合ってやる義理はない。吾輩は鼻息ひとつで小さく威厳を示すにとどめ、そのまま通り過ぎた。


 背後で、

「まっすぐ行ったぞ」

 という声がした。


 その通りである。

 まっすぐ行くに決まっている。


 むしろ、まっすぐ行けぬ理由がどこにあるのか。途中に何があろうと、目指す先が変わらぬなら、歩みも変える必要はない。そうした一貫性こそ、吾輩の矜持である。


 やがて川に出た。


 思っていたより広い。

 思っていたより冷たそうである。

 そして思っていたより、向こう岸が遠い。


 ここで吾輩は、少しだけ考えた。

 少しだけ、である。

 引き返すかなどという軟弱なことではない。どう渡れば最も華麗かを考えたのである。


 家族のために山を越える猪が、川べりでうろうろしていては格好がつかぬ。かといって、やみくもに飛びこめば流れに笑われる。ここは落ち着いて、水の筋を見きわめ、いかにも予定通りであるという顔で渡るべきだ。


 吾輩が川面を見つめていると、対岸の石の上で一羽の鳥が鳴いた。

 たいへん腹立たしい鳴き方であった。まるで、まだいるのか、とでも言いたげである。


 困るのである。


 そういう、さりげなくこちらの意地をつつくような気配には弱い。吾輩は別に、鳥に急かされたから渡るのではない。ないのだが、なんとなく即座に渡らねばならぬ気になるではないか。


 吾輩は鼻を鳴らし、水へ入った。


 冷たい。


 実に冷たい。

 冷たいが、いちいちそういう顔をしていては見苦しい。吾輩は水を切った。切ったつもりであった。しかし実際には、切るというより、押されつつ進んだ感もなくはない。川というものは、思ったよりこちらの都合を聞かぬ。


 半ばで足を取られ、少しよろけた。

 誰も見ていないことを祈りたいところである。

 だが、祈る暇があるなら進んだほうがよい。吾輩は体を立て直し、いかにも最初からそのつもりでしたという顔で水をかいた。


 やがて鼻先が石に触れた。

 対岸である。


 吾輩は水から上がった。

 その瞬間だけは、少し胸を張ってもよかったと思う。実際、なかなかのものであった。足元は濡れ、毛並みもいささか乱れていたが、そんなものは本質ではない。渡ったという事実こそが重要なのだ。


 そこから先は、もう山の匂いがした。


 草の匂い。

 土の匂い。

 風の匂い。

 そして、たしかに実りの気配があった。


 吾輩は足を速めた。

 疲れがなかったわけではない。山を下り、人里を抜け、川を渡ったのである。むしろ大いに疲れていて当然であろう。だが、ここで足を緩めるのは違う。豊かさが近いのなら、なおさら早く辿り着かねばならぬ。


 斜面を上りきった先に、木の実の落ちる音がした。


 ひとつ。

 ふたつ。

 それから、土を探ればまだまだ出るという確信。


 なるほど。

 隣は豊かであった。


 吾輩はそこでようやく、深く息を吐いた。

 無論、安堵でへたりこんだわけではない。景色を検分するために、ややゆったりと立ち止まっただけである。だが、もしその場に伴侶がいたなら、たぶん少し笑ったであろう。あなた、ずいぶん必死だったね、と。


 必死ではない。

 断じてない。

 吾輩はただ、家族がひもじい思いをしているのを許せなかっただけである。


 とはいえ、思い返せば少々、いやかなり、無様なところもあった気はする。山道では枝を踏み抜き、人里ではでかいと言われ、川ではよろけた。もしこれら一部始終を誰かに見られていたなら、吾輩の威厳も多少は傷ついたかもしれぬ。


 だが、それでよい。


 道中がどれだけ不格好でも、進むべき方へ進んだことに変わりはない。

 笑われようが、驚かれようが、足を滑らせようが、止まらずにここまで来た。

 それで十分である。


 吾輩は鼻先で土を返した。

 豊かな匂いが立つ。

 これなら持ち帰れる。これなら家族が腹を満たせる。


 まことに結構。


 どれだけ無様を晒そうと、吾輩は吾輩の矜持を貫くのだ。家族のひもじさの前で、立ち止まってなどいられない。これは吾輩にとって、とても大事なことである。

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