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彼女の母 ~妻が年収10億の男にNTRされたけど、どーでもいいっす~

作者: 昨夜名月
掲載日:2026/05/31

 離婚届。

 その用紙の左上にはそんな文字が書かれている。

 うん、間違いなく離婚届だ。初めて見た。

 妻の筆記事項には咲綾さあやが記入済みだ。相変わらず汚い字で。


 さて、どうしたもんかな。

 正直、ショックは欠片かけらもないんだけど。

 今の生活が終わってしまうのは、とても困る。


 ダイニングテーブルの上に広げられた離婚届をながめながら、今後について考えているとすぐ隣で息をむ音が聞こえた。

 いつの間にか咲良さくらさんが立っていた。


 いつも以上に顔には血の気がなく、弱々しい。

 彼女の美貌と相まって、この世のものならざる存在のようだ。起きて間もないはずなのに白いシャツと黒いスカートと身支度も整えている。


「幸太さん、それは……」

 震えた声でサクラさんが言った。


「離婚届ですね。寝る前には無かったし、夜のうちに置いていったみたいですね」


 サクラさんは体を支えるようにテーブルに手をつき、離婚届を見つめる。細い体が小刻みに震えていた。


 俺が込み上げてくる衝動を抑え込んでいると、サクラさんの目が離婚届の隣の便箋びんせんに移った。

 荒々しいサーヤの筆跡で記された置手紙。


「こ、こちらの手紙は?」


「離婚したい理由が書かれています。年収10億の30歳社長と真実の愛が芽生えたので別れたいみたいです。実は俺には恋愛感情など感じたことはなく、真面目で誠実で大切にしてくれそうだから今まで一緒にいたけど、物足りなかった、とかなんとか」


 サーヤにしてはしっかりした文章だったので生成AIに書いてもらったのかも。


 サクラさんが置手紙を手に取る。見る見る、表情が変わっていく。サクラさんにしてはレアな怒りの形相。それは壮絶なほど美しく、つい見惚れてしまった。


 やがて彼女が置手紙を置いた。手がひどく震えていたせいでバサバサと音をたてながら。


「……なんて馬鹿なの」

 つぶやく。


「年収10億じゃあ、仕方ないですね」


 大企業とはいえ社会人になりたての俺の年収とは比べるべくもない。


 サクラさんが顔を上げた。どんな顔をしていいか分からない、というように引きつった微笑みが浮かんでいた。


「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉と同時に目尻から涙がこぼれる。

「本当に、本当に、ごめんなさい。馬鹿な娘で、幸太さんに迷惑ばかりかけてきたのに。こ、こんな仕打ちを」


 涙声で謝罪を続ける義母を安心させるため、俺は微笑んだ。


「俺なら大丈夫です」


 口には出さずに俺は続ける。


 だって、俺が昔から愛してるのはあなたなんだから……。






 岡上咲綾おかがみさあやと付き合い始めたのは高校入学して、2ヵ月。6月の最初の週だったと思う。

 かなり強引に誘われて、つい関係を持ってしまった。

 学校内でもトップクラスに可愛い子だったから、ラッキーといえばラッキーなんだろうけどね。

 ただ、当時の俺は、恋愛にかなりかなり懐疑的というか、自分に懐疑的だったというか。中学時代に付き合ってた彼女から別れ際、「コータって、私のこと、ホントに好きだったの?」と言われたのが、尾を引いていたんだ。


 もちろん、中学時代なんてヤリたい盛りだったし。性欲の権化。まあまあ可愛い子に告白されたらオッケーして、そのままもう関係も深まって、てな感じで。

 でも、俺なりに彼女のことは大切に思っていたし、態度にも言葉にも出していたと思うんだけど。それが全否定された感じ。お前、結局、ヤリたいだけだろ、って言われたような気分だった。


 だから、サーヤからグイグイ来ても、その気にはなれなかった。しばらく、彼女とかいらないし、なんて跳ねのけてたんだけど。

 その日、みんなでカラオケしてたら、いつの間にか2人きりになってて。

 まずい、と思った時には抱き着かれて。


「コータ、好き、マジで」

 耳元でささやかれて。


 サーヤは男の劣情をあおるのが上手うまい。可愛いくてオッパイも大きい子に耳元で好き、なんて言われたら、だいたいの男はガーってなっちゃうんじゃない?

 いつの間にかキスしてて。サーヤのキスがまたすごくて。

 この子、メチャクチャ慣れてない、そう思いながらも、その場で最後までいってしまった。

 ほとんど脱がないままにそこまでできちゃうんだから、サーヤは本当に慣れていたんだろう。


 サーヤは1回の行為を盾にとって彼女面するようなところはなかった。それだけ自分に自信があったんだ。確かに、1度、越えてしまった一線は、2度目からは実にたやすく越えてしまうわけで。

 校内でも最後までとはいかずとも、結構なところまでする関係になり。いつの間にか付き合っていることになった。

 高校生も中学生と同じくらいヤリたい盛りなのだ。


「ねっ、うち来ない? こっからなら30分くらいだよ」


「えっ、でもさ」


 相手の家に行くというのは、そこそこハードル高いよな。


「ゆっくり、デキるよ」

 耳元で言われ。


 ドキドキしながらサーヤの家へ向かった。

 性欲過多。意志薄弱。


 まあ、だけど、これが俺の人生の転換点だったんだ。


 サーヤの家、岡上家おかがみけは高級住宅街の一戸建て。古いけれどかなり立派な家だった。漫画とかで見るいかにも大金持ちって感じじゃないけど。塀で囲われた庭付き一戸建て。シャッターのあるガレージ付き。2階建ての少しレトロな家屋。

 

「古い家で恥ずかしいんだよね」


「ひょっとしてメチャクチャ金持ち?」


「じゃないってば。母親の実家なんだよね。うちの親、シンママでさ。高校生の時に私を産んで、結婚もしないで、そのまま実家暮らし。子育てお爺ちゃんとお婆ちゃんにやらせてさ。もう、ホント、それでも親かよって、感じ」


 そう言うサーヤはひどく不快そうだった。仲の悪さを隠すつもりもない。


 ちなみに当時のサーヤは髪は巻き毛の金髪。瞳には紺色のカラコンを入れていて。メイクもバッチリ。着崩した制服。もうギャルって感じ。素材がいいからモデルみたいだった。


「働きもしないで家でゴロゴロしてんの」


「えっ、じゃあ、家にいるの?」


 玄関のドアを開けたタイミングでそんなことを言われても。


「大丈夫。どーせ、奥で寝てるから」


 てっきり親は不在だと思っていたから、かなり気後れした。

 でも、サーヤは家に入っちゃうし。俺も後に続くしかなく。


 スリッパも履かずに廊下をさっさと歩いていくサーヤを追いかけようと、靴を脱ぎ、それをそろえたところで、近くのドアが開いた。


「あっ、いらっしゃい」

 静かな、か細く消えてしまいそうな声だった。


 顔を上げた俺の視界に入ったのは女神そのもの。

 つややかな長い黒髪。白すぎるほど白い肌。繊細過ぎるほど繊細な顔立ち。触れれば折れてしまいそうな細い手足。

 まあ、こんな描写は俺の後付けで。

 その時は、ただただ、衝撃を受けた。そう、身内で何かが爆発したみたいに。視界から入り込んだものが心臓を激しく動かし。熱い血液を勢いよく全身に巡らせる。


「ちょっと、なにやってんのよ」

 サーヤが怒鳴りながら廊下を戻ってくる。

「また彼氏、寝取る気」


「挨拶するだけよ。初めまして、咲綾の母、岡上咲良おかがみさくらです」

 彼女が微笑む。


 ワーと叫びだして逃げ出したくなった。それくらい俺はサクラさんの微笑みに圧倒されてしまった。体中赤くなり、全身から変な汗が流れ出す。


「いいから部屋にこもってろよ、ババア」

 サーヤがサクラさんを彼女が出てきた部屋おそらくリビングに押し戻す。


「お茶、持ってくわね」


「いらねえよ、バーカ」


 サクラさんが視界から消えても。サーヤに手を引かれて彼女の部屋へ入っても。サーヤがキスしてきても。

 俺の心臓は狂ったように暴れ続けたままだった。


 その日から、俺はサクラさんのことばかり考えるようになった。ふいに彼女のどこか陰のある顔が、透き通るような微笑みが、脳裏に浮かんで離れなくなる。

 高校生の時にサーヤを産んだというから年齢は32~34歳だろう。サーヤは家でゴロゴロしているといっていたが、ひょっとしたらなにか持病があるのかもしれない。

 いつも、家で一人でいるのだろうか?

 なにをして過ごしているのだろう?


「あの女、マジで、インランだから。昔、彼氏、とられそうになったことあってさ。コータも気を付けてね」


 などとサーヤはことあるごとにサクラさんの悪口を吹き込んできたが、そんなものはまるで効果がなかった。

 俺はサクラさんのことを少しでも知るためにサーヤの話を興味津々と聞く。彼女に悟られないようにサクラさんの話へ誘導したりもした。


 様々な情報をつなぎ合わせたところ、サクラさんは子供の頃から病弱ですぐに倒れていたらしい。ただ、長期的に入院したことはほとんどないらしく、だいたいが貧血だったようだ。


「ホント、迷惑ばっかかけんの。もう、さっさと死ねばいいのに」

 

 にも関わらず十代の頃にはアイドルグループに所属していたこともあるとか。確かにあの美貌なら簡単にスカウトされただろう。


「あいつの部屋にヘタクソなCDあってさ。もう、笑うわ。今でも、家で一人で歌っての。引くよね」


 サクラさんの歌? 聞きたい。すごく聞きたい。


「その頃からヤリまくってたんだよ。でっ、私がデキちゃって辞めたわけ。最悪だよね。父親もわかんないんだから」


 サクラさんがいろんな男と?

 その様を想像してしまった俺は胸が締め付けられような息苦しさを覚え。頭に浮かんだ映像を必死で振り払った。


 サーヤは頻繁ひんぱんに俺を家へと誘うようになった。

 もちろん、俺は一も、二もなくその誘いに乗る。サクラさんに会いたかったから。

 彼女に会えるのは3回に1回くらいで。それもほんの一言挨拶をするくらいだったが。それでも彼女に会えた日は興奮で夜もなかなか寝付けなくなった(それをしずめるための行為は必須)。

 サクラさんに会うためにサーヤの家に行く(もちろんサーヤとはしっかり行為もする)。我ながら最低だが、どうしようもなかった。


 2学期になった頃にはサーヤが俺を家に誘う頻度ひんどは激減した。友人たちと遊ぶことの方が楽しくなったのかもしれない。

 その友人たちの中には男もいて、ときどきサーヤと彼らの距離感がひどく近いように見えた。

 実際、サーヤが彼らと浮気しているという話を耳に入れてくれる女子もいたし。


「お前の彼女、3年の先輩と浮気してるぜ」

 そんなことを友人から言われたこともある。


 俺はそういった場合、彼氏としてきっぱりと否定してきた。

「ただの噂だろ?」

「2人で歩いてたからって浮気とは限らないだろ?」

 まあ、そんな感じで。


 内心はというと、本当に心の底から興味がなかった。

 乱れた服装で男と2人で空き教室から出てきたところを偶然見たこともあるが、もう、まったく心が乱れなかったね。


 俺が気にしていたのは、ただ岡上家に行く機会が減って、サクラさんに会えなくなったことだけ。

 恋人として失格なのはお互い様だったわけだ。


 サーヤの俺への扱いは時間が経つごとに雑になっていった。

 久しぶりに家に誘ってきたかと思えば、「先に行ってて」とレイン(超有名SNS)が入っていて。岡上家で待っていたら、結局、サーヤはいつまで経っても帰ってこない、なんてこともたびたびあった。


 もちろん、俺は気にしなかった。

 岡上家へ行ける口実さえ用意してくれるだけで十分。いや、むしろ、その方が何倍も嬉しかった。


 なにしろ俺一人で訪問をすると、必ずサクラさんが出迎えてくれるんだから。


「いらっしゃい。咲綾はまだ帰ってきていないんですよ」

 言って、サーヤの部屋へ案内してくれる。


 サクラさんはいつでも清潔感のある服装をしていて。薄っすらと甘い匂いを漂わせている。それは香水のような強い匂いじゃなく、シャンプーか何かの匂いと彼女の体臭が混ざった匂い。

 その残りがを嗅ぐたびに頭がクラクラとした。


「良かったら召し上がってください」

 そう言ってクッキーやケーキと紅茶を運んできてくれもする。

 

 俺が待ちぼうけの果て、結局、サーヤが帰ってこなかった日。サクラさんは心底、申し訳なさそうに謝った。

 俺がサーヤと部屋で何をするかなんてわかっているだろうに、誠心誠意謝るサクラさんの健気けなげさが愛おしくて、本気で抱きしめそうになった。

 寸前で、理性を総動員して防いだけど。


「大丈夫です。気にしてないですから」

 ワガママですからね、彼女、と口には出さず、微笑む。


 見つめ合い、サクラさんの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。

 本当にごめんね、ワガママな娘で、そう彼女も目で答えているように思えた。


 その日から、サーヤ不在の岡上家に上がると、サクラさんはリビングに通してくれるようになった。


「サーヤが帰ってくるまで、一緒に、お茶しませんか?」

 初めて、そんな風に誘われた時、本当に天にも昇る心地だった。


 あまりにも嬉しすぎて。すぐに声が出なかった。


「あっ、無理にとは。咲綾も今日はすぐ帰ってくるかもしれませんし」


 サクラさんはすぐそう言ったが、俺は子供みたいにブンブンと首を横に振った。


「い、いえ、お茶しましょう。実はメチャクチャ喉乾いてて。お茶飲みたいって思ってたんです。超、お茶したいです」


 サクラさんがクスっと笑った。それから口元を押さえて、大笑いするのをこらえる。


 か、可愛い。

 一回り以上年上だけど、心底、そう思った。


 サクラさんとの2人きりのお茶会は1ヵ月に1回程度だった。そもそも、サーヤが岡上家へ俺を誘うことが少なくなっていたし、サーヤと一緒に岡上家に行く日もあったからね。


 それでも、ときどき訪れる幸せな一時ひとときがどれほど俺を夢中にさせたことか。

 サクラさんの笑顔が見たくて、とっておきの笑い話を仕入れては披露した。サクラさんのことが知りたくて、けれど失礼にならないように質問した。

 次のお茶会に向けて笑い話を仕入れて。質問内容と質問の仕方を熟考して、精査して。


 だから俺にしてみればサーヤが浮気しようと、デートをすっぽかそうと、2人で話している時に男友達たちがウェーイと乱入してきて空気のように扱われても、本当に大したことじゃなかったんだ。

 ホント、どーでも良かったね。


 サクラさんは時々、ひどく調子が悪そうだった。

 ただでさえ白皙はくせきの面が、さらに血の気がなくなっていて。今にも倒れてしまいそう、という場面を何度も見た。

 立ち上がろうとして、立ち上がれない姿や、突然、壁に手をついて体を支える姿。


 俺が駆け寄って、体を支えようとするたびに、彼女は、「大丈夫です」と微笑んで。

 それがひどく切なかった。


 サクラさんと大きく距離が縮まったのは高校2年の秋のことだ。


 定期的にサーヤの中で俺のブームがあるらしく、その期間はやたらと俺に構ってくるんだが。

 当時も、しばらく、そんなブームが続いていたので、本当に久しぶりに俺一人だけでサーヤの家に行ったんだ。


 サクラさんとのお茶会にワクワクしながら門のところでインターフォンを押す。

 いつもなら、すぐに返事が返ってくるんだけど、しばらく応答がなかった。もう一度、インターフォンを押そうとした時に、ようやく、「はい」とサクラさんの声。


「こんにちは。内野です。サーヤさんにお宅で待っているよう言われまして」

 もはや言い慣れた文言。


「すぐに行きますね」とサクラさん。

 

 岡上家の門扉もんぴは古めかしい鉄柵で錠だけを新しいものに替えている。無理やり開けようとすれば警備会社に連絡がいくシステムらしい。

 まあ、乗り越えようと思えば、よじ登れる高さだけど。


 中々、サクラさんは出てこなかった。だけど、彼女が出てくるのを待っているのは全く苦じゃない。

 あれを話そう、とか、あれを聞いてみよう、なんて考えていた。


 玄関ドアから現れたサクラさんは遠目にも具合が悪そうだった。歩き方も恐る恐るといった感じで、今にも倒れそうだ。


「だ、大丈夫ですか? お体の調子、悪いんですか?」

 鉄柵越しに声をかける。


「はい、ここのところ風邪気味で」

 コホコホと咳をしながら、サクラさんが開錠する。

 

「すみません。先に電話でおうかがいすれば良かった」


 俺が来てしまったから迎えに出なくてはならなかったんだ。強い自責の念が起こる。


「い、いえ、そんなこと。咲良から呼ばれたんでしょう」


「そうですけど」


 今にも倒れそうなサクラさんの隣をハラハラしながら歩く。

 いざとなったら支える心づもりで。


 玄関。スリッパを用意しようとしたサクラさんが体をかかがめた瞬間、フラリとその体が傾いた。俺は靴のまま飛びつくように彼女の体を抱きしめ、支える。

 熱い。絶対に発熱している。


「……す、すみません。……だ、大丈夫ですから」

 息切れしながら、そんなことを言う。


「大丈夫じゃないです。ベッドに行きましょう」


「で、でも、本当に……あっ」


 サクラさんを抱き上げる。お姫様抱っこ。

 1年以上恋焦がれていた女性に触れたが高揚感よりも危機感の方が大きかった。それほどサクラさんは普段から危ういところがあったんだ。


 それにしても軽い。ちゃんと食べているんだろうか。


「コータさん……」


「寝室はこっちですか」


「あっ、はい」


 サクラさんの部屋。本当なら入った瞬間、緊張と興奮で頭が真っ白になっただろう。だけど、そんな場合じゃない。

 ベッドにサクラさんを寝かせる。


「すみません、ご迷惑をかけて」

 かすれて、消えそうな声。


「迷惑なんて。ちゃんと水分はとっていますか?」


「えーと、……その、さっきまで寝ていて」

 声が尻つぼみになったのは恥じらいのためか。


 確かに寝間着らしきものが床に脱ぎ捨てたままになっているし、メイクもしていないようだ。つくづく悪いことをした。


「コンビニで買ってきますね」


「あっ、キッチンにミネラルウォーターがあるので、それをいただければ……」


「でも、他にも入用なものがあるでしょうし」


「大丈夫ですから」


 逆に気を使わせてしまうか。それに勝手に鍵を借りるのも良くない。


「では、すみませんが、キッチンを拝借します」


 大急ぎでキッチンへ行き、買い置きのミネラルウォーターとグラスを持って戻る。

 サクラさんは先ほどよりもグッタリとしていた。赤い顔で目を閉じて。玉の汗が浮かんでいた。


「サクラさん、水、持ってきました。体、起こせますか?」


 サクラさんが薄っすら目を開けて、小さくうなずく。

 上体を起こそうとするサクラさんを介助。彼女の唇にグラスのふちをあてがう。コク、コクッとサクラさん喉を鳴らして水を飲んだ。


「……ありがとうございます」


 再び横になるサクラさん。


「私のことは気にしないでください。咲綾の部屋へ行っていて」


「気にしますよ」

 つい、大きな声を出してしまった。

 俺に遠慮なんかして欲しくない。頼って欲しい。そんな勝手な想いのせいだ。


 サクラさんのうるんだ瞳をジッと見つめる。

 あなたが大切です。あなたを愛しています。だから、頼ってください。

 そんな気持ちを込めて。

 言葉には出せないし、出すつもりもないけど。

 

 長い時間見つめ合っていた気がする。

 やがて、サクラさんは目を閉じて、すぐに寝息をたて始めた。


 中学時代、インフルエンザにかかった時に母親がしてくれたことを思い出す。額に貼る冷感シートのようなものがないだろうか? やはり、ドラッグストアにでも行ってくるか?


 いろいろ考えた末に駅前のドラッグストアに買い出しに行った。鍵を拝借することに罪悪感はあったが、他にどうしようもない。

 戻ってからは、ずっと眠るサクラさんのそばについていた。

 サーヤのことはまったく頭になく、ただただ、サクラさんが心配だった。


 結局、その日、サーヤは帰ってこなかった。

 夜、8時過ぎにサクラさんは目を覚ました。俺の顔を見ると、ひどく狼狽した様子で。


「す、すみません。私、寝てしまって。い、今、何時ですか」


「8時を回ったところです。水、飲みましょうか。体、起こしますよ」

 サクラさんの返事も待たずに、彼女の上体を持ち上げて起こす。


「あ、あの、コータさん」

 上ずった声。少し元気になったようだ。熱も少し下がった気がする。


「水、飲んでください」


「は、はい」


 サクラさんは素直に水を飲んだ。それから、ふう、と息を吐く。

「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」


「良かった」


「あ、あの、もう、コータさんは帰った方が。お父様も心配していますよ」


「父には連絡してあります。今日は帰らないかもしれないって」


「えっ、ええっ」


「体温、測ってみましょうか?」

 買ってきた体温計を差し出す。


「あの、コータさん……」


「お願いですから、今だけは頼ってください」

 真っすぐにサクラさんを見つめる。サクラさんが視線を落とす。


「でも……」


「もし、サーヤさんが帰ってきたら、部屋で寝てしまったと言いますよ」


 玄関で物音がしたら廊下に出て2階から降りてきた風をよそおう。幸い、玄関からは階段も寝室のドアも死角になっている。

 ただ、サーヤは帰ってこない気がした。

 今までの傾向からすると、俺ブームの時は必ず新しい男と熱愛中で、それを気取られないように俺に構う時間を増やすのだ。事実、学校近くでサーヤがスポーツカーに乗りこむところを目撃したという情報もきているし。

 その男のところにそのまま泊まる可能性が高いと考えていた。金曜日だったし。


 まあ、前述したとおり、その日はサーヤは帰ってこなかったわけで。俺はサーヤのベッドで寝かせてもらった。

 翌日にはサクラさんも回復しており、恐縮しまくる彼女に、「気にしないでください」と何度も何度も言うことになった。


「あの、レイン交換しませんか? また、こんなことがあるかもしれないし」

 帰りがけに勇気を振り絞って切り出した。

「咲綾さんのことで相談に乗ってもらうこともあるかもしれないし」

 大義名分を振りかざす。


 サクラさんは素直に応じてくれた。なんだか恥ずかしそうな彼女がすごく初々しくて、可憐だった。


 その件があってからサーヤに家に誘われた時は、サクラさんにレインするようになった。

 別にサクラさんとどうこうなりたかったわけじゃない。

 本当に。

 いや、もちろん、そういう欲求がなかったわけじゃないけど。いや、すごい欲求はあったし。なんなら結婚して一生側にいたいと思ったけど。


 それが不可能なことは分かってた。

 いくらサーヤからぞんざいに扱われても。サクラさんは母親であろうとしていたから。

 例え、サーヤと別れても、俺が社会人になっても、サクラさんは決して俺の想いを受け入れることはないだろう。

 サクラさんの中で俺がいられる場所は、娘の恋人という立ち位置だけなんだ。


 それでも。

 サクラさんとの絆はか細いけれども確かにできた気がした。

 お茶会の時には本当に楽しそうな笑顔を見れたし。サーヤに連れられて来宅した時も、見つめ合って微笑みをかわし合うこともあった。

 修学旅行の前の晩には、楽しんできてくださいね、とレインをくれたし。俺はそのお返しに、旅行中、写真を送った。


 受験勉強の時には何度もエールをくれた。試験当日は短いながらも電話をくれてはげましてくれた。


 卒業式の日は話すことはできなかったし、距離を置いて微笑み合うくらいしかできなかったが、レインで俺への祝辞をくれた。


 高校卒業後、俺は大学進学。サーヤは服飾デザインの専門学校に進学。2人とも都内だったこともあり、恋人関係は依然、継続した。

 専門学生になったサーヤは今までに拍車をかけて遊び歩くようになった。サクラさんの話ではほとんど家に帰ってこないらしい。


 俺と会う頻度はさらに減り、彼女の家に誘われることもほとんど無くなった。

 もちろん、俺が文句を言う筋合いはないのだろうが、恨み言を言いたい気分はあった。

 サクラさん会えないじゃないか。

 

 サーヤは半年ほどで専門学校を中退。その後、アルバイトをしてはやめて、ということを繰り返していた。


 ちょうど、その頃、俺の父親が再婚。俺は一人暮らしをするようになり、サーヤは1ヵ月に1度くらいの頻度で俺の部屋を訪れるようになった。

 だいたいは酔っぱらった状態で呼び出され、連れ帰らされるというパターン。本当に都合良く使われていた。


 サクラさんと会えない日々が続いたからとて、俺の彼女への想いは少しも弱まることはなく。大学で女友達から誘われても、飲み会でタイプの子から誘惑されても、まったく気持ちが揺らがなかった。


「もう、ほんと、そんな彼女別れなよ」

 なんて、何度も言われたよ。


 当時はとにかくサクラさんにレインを送る口実ばかり考えていた。サーヤのことで相談に乗ってくれ、なんてのが適切かもしれないけど、サクラさんに嘘はつきたくなかった。

 猛暑に、暑中見舞いめいたレインを送ったり。

 正月に年賀状めいたレインを送ったり。

 そんなことが精いっぱいだったんだ。


 俺はそのフラストレーションをぶつけるように勉強した。

 まあ、それなりに遊びもしたけどね。

 

 大学3年時、思いもよらない幸運が舞い込んだ。

 父の影響か、俺自身ピアノは弾けないのに、ピアノの演奏を聞くのは好きだった。

 ちょうど俺が好きなピアニストが来日し、コンサートを行うことが決まり、サーヤを誘った。


「オッケー。なんかピアノのコンサートとか久しぶりかも」


 高校時代に父にチケットを貰い、サーヤを誘って行ったことがある。口では、良かったね、すごかったね、と言ってはいたが、彼女が終始退屈そうだったことから、以降、誘うことはなかった。

 久しぶりにサーヤを誘ったのは、たまにはデートしておいた方がいいか、という思いがあったからだ。3ヶ月ほど、まともなデートをしていなかった。今までゆっくりと開いていた距離が、いよいよ大きく開いていくという予感があったから。


「今回はドタキャンはやめてくれよ」

 念を押した。


 サーヤが演奏を聞かないのは勝手だが空席を作りたくない。

 

「もう、大丈夫だってば。コータとデート、超楽しみなんだから」


 サーヤのこんな言葉を今まで何回聞いたことか。そして、そのうち、何回ドタキャンやすっぽかしを食らったことか。

 サーヤは俺のことをどれだけ雑に扱ってもキープできる男とでも思っていたんだろうな。


 そして、当日。

 サーヤは待ち合わせ場所に来なかった。

 だけど、俺からしてみれば最高のプレゼントを贈ってくれた。

 待ち合わせの駅前にはサクラさんが立っていたんだから。


 白いワンピースにグレーのジャケットを羽織り、襟には黒いリボンタイ。はかなげな雰囲気の美女。

 一目見た瞬間に俺は金縛りになり、頭が真っ白になった。

 サクラさんが立ち尽くす俺を見つけ、微笑んで小さく手を振る。


 記憶が跳んで気がついたときには俺は彼女の側に立っていた。

 

「サーヤから突然、連絡があって。代わりにコータさんとコンサートに行くようにって。あの、コータさんに連絡は……」


「あっ、いえ、そ、そうなんですね」


 実に3年ぶりに見るサクラさんはあまりにも美しくて。

 とても、直視できない。口が上手く回らない。言葉が出てこない。


「振り回してしまって、すみません。あ、あの……お久しぶりですね。お元気でしたか?」


「お、お久しぶりです。は、はい、なんとか」


 沈黙。

 あまりにも唐突な再会。恋焦がれた相手が目の前に立っている。やばい、泣きそうだ。


「あの、私、本当にコータさんに同伴しても良いのでしょうか? ご迷惑でしたら……」


「い、いえ、嬉しいです。咲良さんに会えて」

 思わず本心が飛び出した。

「あっ、いえ、そういう意味じゃなくて。いや、きょ、今日はお願いします」

 上ずった声で訳の分からないことを言う。


 会場に着くまでには俺もだいぶ落ち着いてきた。

 いや、少なくとも表面上はね。


 サクラさんは何のコンサートかさえ聞かされていなかったらしく、内容を知ると驚いた。そういえばピアノの演奏が好きなこと、サクラさんには話したことが無かったな。


「ピアノのコンサートなんて初めてです。オーケストラなら一度、両親と一緒に行ったことがあるんですが」

 キラキラと目を輝かせる。


 俺は簡単にピアニストの経歴を話した。海外在住の日本人ピアニストで世代を超えた人気があること。ここ数年は来日しておらず、本当に楽しみにしていたこと。


「ご自身では弾かれないんですか?」


「はい、中学までは習っていたんですが、どうも才能がないらしくて」


「残念です。コータさんの演奏、聞いてみたいのに」


「それなら俺もサクラさんの歌が聞きたいですよ。アイドルだったんですよね」


 へっ、とサクラさんが頓狂とんきょうな声をあげ。それから、面白いくらいに慌てた。


「な、なんで、知ってるんですか? そ、そんな、昔のこと」

 顔を赤くして、手をフルフルと振る。


 可愛すぎる。


「いや、咲綾さんから聞いたことがあって。あと、部屋にもアイドル時代の写真が飾ってあたったし」


 ヒャー、とサクラさんが顔を手でおおう。


 ちなみにあの後、ネットで探して、アイドル時代のサクラさんの写真をゲットした。さすがにCDまでは手に入らなかったが。


「ううっ、隠しとけば良かった……」


「似合ってましたよ。すごく可愛かった」


「もうっ。コータさん、意地悪ですよ」


 幸せだった。

 この数年間で一番、幸せだった。


 やがて会場に到着。サクラさんと隣り合って座る。

 サクラさんの期待に満ちた眼差し。

 俺は網膜に焼き付けようと、彼女の横顔を見つめた。


 ふいにサクラさんが振り向いて。

「楽しみですね」

 言った。


「はい。本当に」


 ピアニストの演奏は思った通り素晴らしくて。

 あまりにも美しい音色で。聞き惚れ、我を失い。

 ふと、気がつくと、俺は隣の細い手を握っていた。


 あっ、うおっ、やばっ。


 焦るが、すぐにサクラさんもギュっと俺の手を握っていることに気付いた。

 きっとピアニストの演奏に俺のように高揚し、夢見心地になっているせいだろうけど。


 好きです。愛してます。


 つないでいる手に言葉にできない気持ちを込める。


 演奏が終わった時、俺は決意した。

 早く一人前になってサーヤと結婚しよう。

 俺の人生はこの人に捧げたい。

 義理の息子として側にいさせてもらおう。


「素晴らしかった……ですね」

 サクラさんは泣いていた。

 左手で目元をぬぐう。


 彼女の右手は依然いぜん、俺の手の中にある。


「はい、本当に」


 それ以上言葉はいらず。ただ、つないだ手から熱を。うるんだ瞳から情を伝えあった。


 会場を出てからも俺はサクラさんの手を離さなかった。

 人込みで離ればなれになったら大変だものな。

 今ならきっと許してくれるさ。


「レストラン、予約してあるんです。ぜんぜん、高級じゃないですけど。ディナーも付き合ってくれますか?」


「……はい」

 サクラさんは風にかき消されてしまいそうな小さな声で返事をした。


 以前、サーヤに連れてこられたイタリアンレストラン。

 大学生には結構な値段だがサーヤに言わせればコスパがいいらしい。まあ、確かに美味しいし、雰囲気もいい。


「素敵なお店ですね」


「料理も美味しいんですよ。あっ、お酒も美味しいです」


「あっ、コータさん、もう飲めますものね」


「はい。飲みまくってます」


「羽目を外しすぎちゃあ、ダメですよ」


「はい。サクラさんはお酒は?」


 サクラさんが困ったように小首をかしげ。

「実は、私、お酒、飲んだことないんです」


 えっ、嘘でしょう、と口に出そうになり、すぐにサクラさんが病弱だったことを思い出す。


「父には少量を時間をかけて飲むくらいなら大丈夫だろう、と言われましたけど。飲酒するような機会もなかったので」


 それを聞き、俺が言う言葉は一つしかないだろう。


「じゃ、じゃあ、良かったら、今日、飲みませんか? あの、ホント、良かったらですけど」

 盛大にどもる。


 サクラさんがクスっと笑って。

「お祝いです。コータさんの成人祝い。だから、お付き合いします」

 

 サクラさんの体のことを考え、一番、アルコール度数の低そうなカクテルを選んだ。念のため、注文する際に確認した。

 俺も同じものを頼み、2人で乾杯する。


「わっ、お酒ってこんな味なんですね」

 サクラさんが驚いた顔でグラスを見る。


「美味しくなかったですか?」


「うーん、紅茶の方が好きです」


「飲めそうですか? 無理なようなら俺、飲みますから」


「大丈夫です。ちょっと驚いただけ。これでもコータさんより16も上なんですからね」

 お姉さんぶった感じがすごく可愛い。


 料理が来るのを待つ間、コンサートの感想なんかを言い合って。俺が薄っぺらい知識でそれっぽいことを解説したら。


「コータさんは本当に頭がいいんですね」

 なんて感心した。


「いや、そんなことはないですよ。好きなことだから覚えちゃっただけで」


 サクラさんは本当にチビチビと酒を飲んだ。

 にも関わらず、アルコールの巡りは早かった。すぐに顔が赤くなる。

 やがて話題は俺の大学生活のことになり。

 そこからサーヤとの付き合いに移っていった。

 サーヤがときどき俺を呼びだしていることを話したら。 


「もうっ。だから、ぜんぜん来てくれなくなったんですか」


「サーヤが呼んでくれませんからね」

 本当に、どれだけ行きたかったろう。


「でも、その方がいいです。若者は今を楽しまないと」

 寂しげに微笑む。


「楽しんでますよ。今、一番、楽しいです。大学の友達と酒飲むより、ずっと、楽しいです」

 少し、声が大きかったか。サクラさんが驚いた顔になった。

「本当ですよ。今夜は最高です」


 俺も酔ったみたいだった。大して飲んでないんだけど。


 サクラさんと見つめ合う。音楽も周囲の客の声も消えた気がした。あとちょっとウェイターが皿を下げに来るのが遅れたら、俺は愛を告白していたかもしれない。


 サクラさんの足取りがおぼつかなかったのでタクシーを呼んでもらった。

 俺の腕にしがみつくようにして歩くサクラさん。ギュっと押しつけられる柔らかい体。酔いも手伝い、俺の理性は決壊寸前にまで追い込まれた。


 タクシーでは無言。サクラさんは俺にしなだれかかり目を閉じている。少し荒い呼吸に心配になり何度か、声をかけた。


「大丈夫です。気分が悪いわけじゃないです」

 小さな声でサクラさん。


「寝てていいですよ。ついたら起こしますから」


 サクラさんが返事の代わりに俺の手に優しく触れた。

 俺はその手を握る。

 やがてサクラさんから寝息が聞こえた。 


「彼女さん、大丈夫ですか?」

 運転手さんが言った。


「ええ、気分は悪くないみたいですから」


「綺麗な人ですね」


「はい。自慢の彼女です」

 まあ、これくらいの嘘はいいだろう。


 岡上家に到着。

 サクラさんは支払いのやり取りで目を覚ましたらしい。


「私が払います」

 そう言い続けるサクラさんに根負けしてタクシー代は出してもらった。


 ただ、酔いはまったく覚めておらず、それどころかさらに深まったようだった。

 危なっかしい足取り。玄関へと向かう途中で転びそうになり、手を引いていた俺にしがみつく。


「だ、大丈夫ですか」

 サクラさんに後ろから抱き着かれ、俺の声は上ずった。


「……待ってたのに」


「えっ」


 サクラさんはそれには答えず。

 俺たちはそのまま夜風に吹かれ続けた。


 それから俺はさらに勉強に打ち込むようになった。

 友人たちに誘われても、だいたいは断った。

 急に付き合いが悪くなった、なんて言われるたよ。

 だけど、サクラさんの、待ってた、という言葉が俺を駆り立てた。


 おかげでゼミの教授の覚えも良く、大学院を勧められたけど、もちろん俺が選んだのは就職だ。

 もう、待たせるもんか。


 第1志望だった有名証券会社に入社。その1年後に俺はサーヤにプロポーズした。


「……ヤバっ、嬉しい」

 感極まって涙を流すサーヤ。

「マジで、幸せにしてね」


 サーヤが現在進行形で浮気をしていることを知っている俺としては感動できるはずもなく、儀式めいたものに思えた。

 プロポーズの後、今後のことを話し合う中で、俺はサーヤに彼女の実家で一緒に暮らそうと持ち掛けた。

 

「なんで? せっかくの新婚生活が台無しじゃん」


「いや、サーヤの家からなら会社にも近いしさ。子供が生まれたらお金もかかるし。ダメかな?」


 サクラさんのことは出さない。サーヤは絶対、感情的になるからな。


「うーん、まあ、いっか。その方が楽だもんね」


 たぶん、サクラさんのことを家政婦にしようとでも考えたんだろうな。


 これでようやく。

 ようやくサクラさんの側にいられる。

 例え、義理の息子としてでも。彼女を支えていける。

 彼女の幸せに貢献できる。


 結婚の挨拶に行った時、サクラさんは長い沈黙の後、「本当にいいんですか?」と真剣な顔で問いかけてきた。


「はあ? なにそれ」

 サーヤの表情が一変。サクラさんをにらむ。


 サクラさんはサーヤに一瞥いちべつもくれず、俺を見つめ続ける。彼女の唇が何度も、開きかける。

 きっと、サーヤの浮気癖を知っているんだろう。結婚しても彼女の行動が改まらないだろうことも分かっているんだろう。


「大丈夫です。もうずっと前から決めていましたから。後悔はしません」

 俺はそう言い切った。


 こうして俺とサーヤは結婚し、俺はサクラさんとは親子となった。義理の絆だけど。俺が望む形じゃないけど。

 それでも俺は彼女の側にいられる。それが全てだ。


 新婚生活は最高だった。

 幸せ過ぎた。

 朝、起きていくと、彼女はすでにキッチンに立っていて。朝食とお弁当の準備をしてくれ。


「おはようございます」

 まぶしい笑顔を向ける。


 2人で朝食(サーヤは朝が遅い)を食べた後は、「いってらっしゃい」と送り出してくれる。


 もちろん、仕事は定時で上がり、寄り道もせずに最速で帰宅。


「おかえりなさい」と出迎えてくれて。


 いそいそと俺のジャケットを脱がせ、かけてくる。

 

「今、お風呂入れますね。のんびりしていてください」


 入浴後は2人で夕食(サーヤはだいたい出かけている)。

 サクラさんはサーヤが夜遅いことや生活が乱れていることを謝るが、そんなことは本当にどうでも良かった。

 サーヤが今、この瞬間、浮気をしていたところで、なんの痛痒つうようも感じない。

 だって、サクラさんが目の前にいるんだから。


 もちろん、サクラさんと男女の関係に発展したいなんて期待は抱いていない。いや、そうなれたら俺はすべてを投げ出しても構わないけれど。

 サクラさんに娘を裏切るという業を背負わせるわけにはいかないだろう?


「サクラさん」

 俺はお義母とは呼べない。


「はい?」


「俺……」

 何度も愛の言葉を飲み込み、別の他愛のない言葉に置き換えた。


 ただ、こうして側にいられて。

 一緒に生きられて。

 言葉を交わして。

 ときどき、見つめ合って。

 それだけでいいんだ。

 良かったんだ。






「俺なら大丈夫です」


 俺は言葉にできない想いを視線に込める。

 テーブルの上の離婚届なんて存在すら忘れるほどに。

 想いを込めてサクラさんの涙に濡れた瞳を見つめる。

 長く見つめ合った後、先に目を反らしたのはサクラさんだった。

 下を向いて、それからつぶやく。


「……知ってたのに」


「えっ?」

 なにを言われたか分からずに聞き返す。


「私、知ってたんです。あの子が……。あの子が浮気してること。これまでだって、ずっと、コータさんを裏切ってたこと。知ってたのに」

 サクラさんがしゃがみ込み、顔を手でおおう。

 嗚咽おえつまじりに続ける。

「……言い出せなかった。言わないとって、ずっと、ずっと思ってたのに。最後まで。こんなことになるまで」


 無性に腹がった。

 なんでサクラさんが傷つかないといけないんだ。

 サクラさんが負い目に思わないといけないんだよ。

 

「知ってましたよ」

 大声を出した。泣き濡れるサクラさんに届くように。

「俺だって、とっくに気づいてましたよ」


 サクラさんの嗚咽おえつがやむ。


 俺はサクラさんの前に膝をつき、彼女の手を顔から優しくがす。その下の涙でぐしゃぐしゃな顔。


「知ってました。サーヤがどんな娘か。サーヤが浮気していることだって。高校時代から知ってましたよ」


「ど、どうして……。それなら、なんで……。どうして、別れなかったんですか。結婚までして」


 涙できらめくサクラさんの瞳に問い詰められ。

 俺の中でずっと膨らんでいた想いが。


「あなたが好きだから」

 こぼれてしまった。


 クソっ、ずっと、こらえてきたのに。

 今まで、我慢してきたのに。


「…………」


 サクラさんの驚いた顔がゆっくりと、時間をかけて、変わっていく。

 それは、俺の見間違えじゃなければ、戸惑いながらも、嬉しさを、喜びをかみしめるような、そんな表情で。


 ひょっとしたら、そう感じる瞬間も今まで確かにあった。

 ひょっとしたらサクラさんも俺と同じ気持ちなんじゃないかって。

 例えば、日常で目が合って、そのまま見つめ合った後に。

 例えば、毎日、帰宅した時に、おかえりなさい、と向けてくれる笑顔の中に。

 例えば、丁寧に作られたお弁当の味に。

 その度に、気のせいだって。そんなわけはないって言い聞かせてきた。自分をだましてきた。


 彼女に娘を裏切らせたくない? 

 違うね。俺は一歩を踏み出す勇気がなかったんだ。

 ただ、それだけだったんだ。 

 

「も、もう一度、言ってください」

 

「あなたが好きです。あなたに会いたかったからサーヤと別れなかったし。あなたの側にいたかったから結婚したんです」

 声が震える。かすれる。

 自分がどんな顔をしているのか分からない。

「最初に会った時から、ずっとあなただけを」


 我ながら人としてどうかとは思う。

 サーヤにしてみれば、たまったものじゃないだろう。

 好きでもないのに、愛してもいのに、恋人として振る舞い、結婚までしたんだから。

 こんな卑劣な自分を見せたくなくて。サクラさんに受け入れらるとは思えなくて。

 だから、躊躇ためらい続けたんだ。


 サクラさんの顔がはっきりとした泣き笑いに変わる。

 それは本当に輝くような表情で。俺の中のいろんな感情が一瞬で吹き飛んで、気がつけば俺は彼女を抱きしめていた。


「私も……私も、コータさんが好き……です。愛しています」

 サクラさんが耳元でささやいた。

 

 理性がはじけた。何年も何年も恋焦がれ続けた女性ひとが同じ気持ちだと言ってくれたんだ。当たり前だろう。


「あっ」


 気がつくと俺はサクラさんの唇を奪っていた。

 なんて、柔らかいんだろう。唇を触れ合わせているだけのキスなのに。体中が悦ぶ。


 唇を離すと、サクラさんはうっとりとした顔をしていて。

 それから、ちょっと厳しい顔をする。いや、きっと本人は厳しい顔のつもりなのだろうが、どうみても緩んでいる。 


「私、オバサンですよ」


「サクラさんはサクラさんですよ。俺にとってはあなたが一番です」


「アラフォーだし。子持ちだし。ヒキコモリだし。世間知らずだし」


「でも大好きですから」


「それに、私、とってもヤキモチ焼きなんでよ。コータさんのこと束縛しますよ。絶対」


「いいですよ。ずっとサクラさんと一緒にいられるし。望むところです」


「あと、結構、エッチです。ときどきコータさんのこと、エッチな目で見てました」


 驚いた。まさかサクラさんにそんな一面があるとは。

 性欲に無縁そうな雰囲気なのに。

 いや、でも、光栄すぎる。


「ひょっとして、今も、そういう気分になっちゃってます?」


 コクリ、とサクラさんはうなずいて、そのまま下を向き続ける。耳まで赤くなっていた。


 たまらなくなって、サクラさんの顎に手を当て上を向かせる。そのまま再びキスをする。

 今度は長い口づけになった。彼女がおずおずと開いた唇の中に舌を侵入させて、彼女の中を味わう。

 あまりにも甘美すぎて、脳味噌が溶けてしまいそうだった。


 唇が離れた。

 まずい、もう、限界。


「あの、愛の告白をしておいて、すぐ求めてしまうのは浅ましいでしょうか?」


 今度は俺がおずおずとなる。

 サクラさん的に抵抗があるようなら、なんとか残った理性の欠片を総動員して。しばらく、ビジネスホテルにでも泊まることにして。


 サクラさんは恥ずかしそうに微笑んで。

「……大丈夫です。私の想いも結構、長いですから」


 今度はサクラさんから口づけしてきた。

 また長い長いキス。許可をいただいても中々、彼女の体に手が伸びない。キスが気持ち良すぎたっていうのもあるけど。

 それ以上、俺にとってのサクラさんがあまりにも不可侵すぎて。


 サクラさんが先に俺の体に触れてきた。俺の胸板を服の上から確かめるように触り。腕を撫でる。ちょっとくすぐったい。


「ずっと触れかったんです。素敵だなって、いつも思ってた。……大好き」


 俺はたまらずサクラさんを押し倒してしまった。

 そこで、はっ、と気づく。こんなところじゃあ、痛いに決まってる。サクラさんの繊細な体が床とこすれてしまう。


「サクラさん、首につかまってください」


「えっ」


 目をパチクリして、それから俺の言った通り、首に手をまわす。


「ひゃっ」


 サクラさんを抱き上げた。お姫様抱っこ。相変わらず軽いな。


「コ、コータさん」


「昔、こんなことありましたね」


 サクラさんが俺の胸に顔をつけて、はい、と消えそうな声で言った。

「あの時から……」


「はい?」

 意味がわからず問うたものの、サクラさんから答えは返ってこなかった。


 サクラさんの部屋で。

 俺たちは愛を確かめ合った。


 ことにいたる前にサクラさんが。

「私、あまり経験が無くて。たぶん、コータさんが考えてるより、ずっと下手だと思います。でも、頑張りますから、コータさんのいいように……してください」

 なんて真っ赤になりながら言ったのがとても健気で、可愛かった。


 本当にサクラさんは慣れていなかったようで。できるだけ丁寧に、ゆっくりと行ったけど。痛い思いをさせてしまったみたいだ。


「次はもっと上手くしますから。絶対」

 そんな風に気負うサクラさんがまた可愛かった。


 さて、それからだが。

 俺は会社に体調不良で休む旨を連絡し、シャワーを浴びると区役所へと向かった。もちろん、離婚届を出すために。

 一緒に結婚届も貰ってきたいところだったが、それはサクラさんと相談した方がいいかと自重。


 無事、サーヤとの離婚が成立。

 特に晴れ晴れした気持ちにはならなかったし、もちろんさびしいなんて欠片も思わなかった。無だね、無。

 岡上家への帰路、これからのことを考えた。

 もちろん、サクラさんとの生活についてね。






「だからね、あなたもこれからは一人の大人として、しっかりと生きなさい。たぶん、これが最後になるから。元気でね」

 サクラさんがようやく電話を切った。


 スマホをじっと見つめている。


「サーヤ、なんて言ってました?」


「コータはどこだ、って聞くから、離婚届を出して、そのままいなくなったと伝えました。絶句してましたよ。自分で用意しておいて、本当に馬鹿な娘」


「年収10億とはうまくいかなかったんでしょうか?」


「あっさりと捨てられたみたいです。というより、相手は本当に一時の遊び気分だったようで」


「まあ、相手はより取り見取りでしょうしね」


 サーヤは確かに若くてビジュアルもいいが上には上がいるわけだしな。なによりサーヤには中身が無さすぎる。


「コータさんがすぐに離婚届を出すなんて思っていなかったみたいです。どうせ、ごねるだろうってタカをくくっていたみたい」


「サーヤからしたら俺が一途に見えたんでしょうね」


「それはそうですよ。私だって、そう思っていたんですからね。その……咲綾がうらやましかったです。すごく。娘に嫉妬するなんてひどい親だって自己嫌悪して」

 ちょっと拗ねたような顔。


 そんなサクラさんが愛おしくて。

 俺は彼女を抱きしめた。


「俺はずっとずっとサクラさん一筋ですよ」


「その割には咲綾とたくさんしてましたよね」


 うっ、それを持ち出されるとつらい。

 確かに、サクラさんが下階にいるにも関わらず、サーヤとすることはしていたわけだが。


 サクラさんがクスっと笑う。

「冗談です。でも、これからたくさん愛してくださいね」


「もちろん」


 そうして俺は口づけをする。

 かたららではサクラさんの電話がブブブっと震え続けている。サーヤからの電話だろう。

 サクラさんが手を伸ばして電源を切る。


 どうせ、明日には解約されるはずだ。

 もちろん俺の電話もとっくに番号を変えている。

 会社も辞めたし、父親には絶対にサーヤに連絡先を教えるなと念を押してある。

 俺たちはもう岡上家に帰るつもりはない。

 サーヤが俺たちの居場所を突き止めることは不可能だろう。


 遠くからは波の音が聞こえる。窓から入り込む異国の風。

 

 サクラさんが俺の首に腕を回す。

「ベッドまで運んでください」


 俺はサクラさんを抱き上げるとキングサイズのベッドに向かった。


 事情を話すと父は餞別代りに大金を贈ってくれた。

 おかげで海外でのんびりとできる。

 当分、日本に帰るつもりはない。長い長い新婚旅行だ。

 俺たちを邪魔する者はもう誰もいない。


「コータさん」


「はい」


「実は私、結構、お金持っています」


「なんですか。いきなり」


 耳元でサクラさんが金額をささやいた。

 その金額は、冗談だろ、と言いたくなるような額で。


「このままずっと新婚旅行しませんか?」


「いいですね。でも、まずは……」


 俺はサクラさんをベッドに優しく下ろした。


                                       FIN       

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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