9.敗走
山崎。
戦は、すでに終わっていた。
煙が立ちこめる戦場。
倒れた兵。
折れた槍。
血の匂い。
そこを、一騎の武者が駆け抜ける。
明智光秀
敗者となった男。
だが、その背はまだ崩れていなかった。
⸻
山道。
馬の息が荒い。
鎧は泥と血で重くなっている。
背後からはまだ喧騒が聞こえる。
追手。
光秀は振り返らない。
ただ前へ進む。
(負けた)
その事実だけは、はっきりと受け入れていた。
(なぜだ)
理由は分かっている。
速すぎた。
強すぎた。
そして、誤算。
「信忠……」
小さく呟く。
織田信忠、あの男が生きていた。
それがすべてを狂わせた。
織田の正統。
それがある限り、味方は増えない。
孤立。
最初から決まっていたようなものだった。
⸻
やがて森に入る。
木々が視界を遮る。
音が吸われる。
静寂。
光秀はようやく馬を緩めた。
その時、後ろから声。
「殿!」
振り向くと、数騎の家臣が追いついていた。
その中に斎藤利三がいる。
利三は息を整えながら言った。
「ご無事で……」
光秀は頷く。
「他は」
利三が首を振る。
「散り散りにございます」
短い沈黙。
光秀は言った。
「坂本へ向かう」
坂本城
琵琶湖のほとり。
最後の拠点。
だが、利三は躊躇した。
「殿……間に合いますまい」
現実だった。
秀吉の追撃は速い。
そしてもう一つ。
「信忠の軍も接近」
光秀の目が細くなる。
挟撃。
逃げ切れるかどうかすら怪しい。
それでも光秀は言う。
「行く」
その声は揺るがなかった。
⸻
さらに進む。
森を抜ける。
小さな村が見えてくる。
人影がある。
農民たち。
こちらを見ている。
ざわめき。
「……あれは」
「明智の……」
声が広がる。
光秀は気づいた。
(知れている)
自分が何をしたか。
本能寺の変、天下人を討った男。
その名はすでに広がっている。
農民の一人が叫ぶ。
「裏切り者だ!!」
空気が一変する。
敵意、恐怖、憎しみ。
利三が叫ぶ。
「殿、ここは――」
だがその瞬間。
石が飛んできた。
ゴッ!!
光秀の兜に当たる。
さらに次。
「殺せ!!」
竹槍を持った農民たちが走り出す。
利三が剣を抜く。
「下がれ!!」
だが数が多い。
統制はないが、勢いがある。
光秀は一瞬だけ動かなかった。
(これが……天下か)
民に支持されぬ天下。
それは、すでに終わっている。
だが次の瞬間、彼は手綱を引いた。
「突破する」
冷静な声。
数騎で突っ込む。
農民たちは散る。
何人かが斬られる。
悲鳴、混乱。
その隙に抜ける。
⸻
村を抜けた後。
静寂が戻る。
だが空気は重かった。
利三が低く言う。
「殿……」
光秀は答えない。
ただ前を見る。
その目には、もはや迷いはなかった。
(終わりは近い)
それだけは分かる。
⸻
その頃――
別の道。
尾張から進軍する軍勢。
旗には織田木瓜。
その先頭に立つのは織田信忠。
「急げ」
短い命令。
家臣が応じる。
「はっ!」
伝令が駆け込む。
「明智光秀、敗走中!」
信忠の目が鋭くなる。
「どこへ向かう」
「坂本方面!」
信忠は即答した。
「追う」
その声に迷いはない。
「この戦、終わらせる」
馬が加速する。
距離は、縮まっている。
⸻
再び光秀。
山道。
夕暮れが近づく。
影が長くなる。
その時、利三が言った。
「殿」
光秀が見る。
「この先、分かれ道にございます」
坂本へ行く道。
そして、山中へ逃れる道。
光秀は馬を止めた。
風が吹く。
木々が揺れる。
ここで選ぶ。
運命を。
光秀は目を閉じた。
脳裏に浮かぶ。
信長の顔、炎。
そして、信忠。
やがて目を開く。
「……行くぞ」
その一言。
どちらへかは、まだ語られない。




