7.山崎前夜
山城国、山崎。
桂川と宇治川に挟まれた狭地。
湿った風が吹き、草が低く揺れている。
その一帯に、無数の陣幕が並んでいた。
明智光秀の軍。
静まり返っている。
だが、その静けさは安らぎではない。
嵐の前の沈黙だった。
⸻
本陣
光秀は一人、地図の前に立っていた。
燭台の火が揺れる。
影が壁に伸びる。
その表情は冷静だった。
だが、わずかに疲れが見える。
家臣の斎藤利三が入ってくる。
「殿」
光秀は顔を上げない。
「申せ」
「羽柴軍、摂津に入りました」
沈黙。
利三が続ける。
「進軍、極めて速し」
光秀が小さく息を吐く。
「……さすがは」
その名を口にする。
「羽柴秀吉」
一瞬の間。
そしてもう一つ。
利三の声が、わずかに低くなる。
「さらに」
光秀の目が動く。
「信忠、生存」
空気が止まる。
燭台の火が、かすかに揺れた。
光秀はゆっくり顔を上げた。
「……確かか」
「は」
短い返答。
だが、その重さは十分だった。
光秀は何も言わない。
ただ地図を見つめている。
(生きていたか)
胸の奥で何かが軋む。
本能寺で信長を討つ。
それがすべての始まりだった。
そして、織田家は崩れる。
そのはずだった。
だが、信忠がいる。
それはつまり。
織田家はまだ「正統」を持っている
光秀は呟く。
「……崩れぬか」
利三が言う。
「尾張にて軍を集めているとのこと」
光秀は目を閉じる。
頭の中で盤面が組み替わる。
秀吉、信忠。
そして自分。
三つ巴。
いや――
(いや)
(これは)
光秀は目を開いた。
「二つだ」
利三が眉を動かす。
「二つ、でございますか」
「秀吉と……信忠」
光秀は言う。
「どちらも敵だ」
その言葉に、利三は息を呑んだ。
つまり、挟まれる。
「殿……」
「時間がございませぬ」
利三の言葉は現実だった。
秀吉は迫る。
信忠も動く。
挟撃されれば終わる。
光秀は歩き出す。
地図の前から離れ、外へ出る。
夜の陣。
兵たちが焚き火を囲んでいる。
誰もが不安そうだった。
当然だ。
彼らは今、天下人を討った軍である。
勝てば英雄。
負ければ逆賊。
その境界にいる。
光秀はそれを見ていた。
(これが……天下か)
誰もが恐れ、誰もが望むもの。
その頂に、今、自分が立とうとしている。
だが、一つの疑問がよぎる。
(本当に、これでよかったのか)
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
その考えが浮かぶ。
だがすぐに消す。
(今さらだ)
光秀は振り返る。
「利三」
「は」
「布陣を確認する」
⸻
山崎の地形。
天王山を背にし、平野が広がる。
ここを制した者が戦を制する。
光秀は指を走らせる。
「主力はここ」
「鉄砲隊を前に」
「側面は川で守る」
利三が頷く。
「守りを固めますか」
光秀は言う。
「秀吉は速い、だが疲れている」
長距離行軍の直後。
兵は消耗しているはず。
「迎え撃てば勝てる」
理屈は通っていた。
だが、利三は静かに言う。
「殿」
光秀が見る。
「兵の士気が……」
その言葉は最後まで言われなかった。
だが、意味は明白だった。
兵は不安だ。
裏切り者の軍。
未来が見えない。
光秀はしばらく黙った。
やがて言う。
「明日、決める」
短い言葉。
だが、それしかない。
長引けば終わる。
信忠が来る前に、秀吉を討つしかない。
その時、遠くで太鼓が鳴った。
ドン……
ドン……
利三が顔を上げる。
「……来た」
光秀も見る。
闇の向こう。
無数の松明。
波のようにうねる光。
羽柴秀吉の軍。
すでに目の前まで来ていた。
常識外れの速さ。
光秀は静かに言った。
「早すぎる」
だが次の瞬間。
その顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
「面白い」
恐れではない。
覚悟だった。
「天下は」
光秀は呟く。
「一夜で決まるか」
風が吹く。
旗がはためく。
すべてが静かに動いている。
明日。
ここで、歴史が決まる。




