6.疾風
播磨国。
夜の山道。
松明の列が、まるで蛇のようにうねっていた。
数万の軍勢。
足音、鎧の音ら荒い息。
すべてが一方向へ向かっている。
京。
その先頭にいる男、羽柴秀吉
秀吉は馬上で黙っていた。
普段のような愛想笑いはない。
その顔は、異様なほど静かだった。
横を進むのは軍師、黒田官兵衛
官兵衛が口を開く。
「……確かでございます」
秀吉は視線を動かさない。
「何がだ」
「明智光秀、謀反」
短い沈黙。
風の音だけが通り過ぎる。
やがて秀吉は言った。
「信長様は」
官兵衛は答えない。
だが、それで十分だった。
秀吉は目を閉じる。
脳裏に浮かぶ。
あの男の姿。
織田信長
怒号、笑い、圧倒的な存在。
(……終わったか)
そう思った瞬間。
拳がわずかに震えた。
だが次の瞬間には止まる。
秀吉は目を開いた。
「光秀はどこだ」
「京を制圧中」
「兵数は」
「一万三千」
秀吉は頷く。
「討てるな」
即答だった。
しかし官兵衛は続ける。
「ただし」
秀吉が目を細める。
「……何だ」
「もう一つ、報がございます」
官兵衛の声がわずかに低くなる。
「信忠様、ご生存」
その言葉。
空気が止まった。
馬の足音だけが響く。
秀吉は何も言わない。
ただ前を見ている。
だが、その目の奥で何かが動いた。
「……どこだ」
低い声。
「尾張へ脱出。清洲に入られた模様」
沈黙。
長い沈黙。
やがて秀吉は小さく息を吐いた。
「……そうか」
その声は、どこか笑っていた。
だが目は笑っていない。
(生きておったか、あの若殿が)
秀吉の頭の中で、すべてが組み替えられる。
もし信忠が死んでいれば。
織田家は分裂する。
その混乱を収めた者が天下を取る。
――それは自分だった。
だが、信忠が生きている。
それはつまり、正統な後継者が存在する。
秀吉は呟いた。
「厄介じゃな」
官兵衛が静かに言う。
「いかがなさいますか」
秀吉は答えない。
代わりに問い返す。
「官兵衛」
「は」
「おぬしならどうする」
官兵衛は少しだけ考えた。
そして言う。
「二つにございます」
「申せ」
「一つ、信忠様を主と仰ぎ、明智討伐の大義を得る」
秀吉は頷く。
「もう一つは」
官兵衛の目が細くなる。
「信忠様を“利用する”」
沈黙。
意味は明白だった。
正統性を掲げながら、実権を握る。
あるいは、必要とあれば排除する。
秀吉はふっと笑った。
「怖いことを言うのう」
だが否定はしない。
むしろ楽しんでいるようだった。
「天下とは、そういうものにございます」
官兵衛は淡々と答える。
秀吉は前を見た。
夜明けが近い。
東の空が白み始めている。
「急げ」
秀吉が言う。
「三日で京へ入る」
家臣が驚く。
「三日……!?」
常識では不可能な行軍。
だが秀吉は言い切る。
「間に合わねば意味がない」
その声には、確信があった。
これが後に中国大返しと呼ばれる。
秀吉はさらに言う。
「光秀は討つ」
短い言葉。
だがそれで十分だった。
そして、小さく付け加える。
「信忠様には……」
一瞬、言葉を切る。
その表情は読めない。
「お会いせねばならぬな」
その一言。
だがその中に、忠義も野心もすべてが混ざっていた。
官兵衛はそれを見ていた。
(この御方は……)
(すでに天下を見ている)
夜が明ける。
光が差す。
その先にあるのは、山崎。
戦場。
そして。
誰が天下を取るかを決める一戦。




