3.京脱出
夜はまだ明けていない。
だが京の町は、すでに眠りから叩き起こされていた。
遠くで鳴り響く太鼓。
あちこちから上がる叫び声。
そして――火。
赤い炎が、空を染めていた。
その中心にあるのは、本能寺。
燃え上がる炎は、まるで夜そのものを焼き尽くすかのようだった。
⸻
二条御所、裏門の前。
馬が静かに並んでいる。
家臣たちは息を潜め、出立の時を待っていた。
その中を歩いてくる影。
鎧をまとった若武者――織田信忠
信忠は立ち止まり、振り返った。
御所の建物を見つめる。
ここは父と共に過ごした場所。
そして今、それを捨てる。
家臣が小声で言う。
「殿、急ぎましょう」
信忠は頷いた。
「出る」
その一言で、全員が馬に乗る。
音を立てぬよう、ゆっくりと門が開かれる。
ギィ……
わずかな隙間。
そこから一騎、また一騎と外へ出る。
夜の京。
静かではなかった。
人々が家から飛び出し、混乱している。
「何が起きたんだ!」
「戦だ!」
「逃げろ!」
火の粉が風に乗って舞う。
その中を、信忠たちは進む。
「東の通りは避けよ」
信忠が言う。
「明智は本能寺を囲んだ以上、そこを起点に広がる」
家臣が応じる。
「では西へ」
信忠は頷く。
「人の少ない道を選べ」
だが、その時だった。
角を曲がった瞬間――
「止まれ!!」
松明の光。
武装した兵が立ちはだかる。
桔梗の紋。
明智光秀の兵だ。
「何者だ!」
家臣が叫ぶ。
「突破する!」
信忠の目が鋭くなる。
「突っ切れ!」
次の瞬間。
馬が一斉に駆け出す。
ドドドドド!!
敵兵が槍を構える。
「止めろ!!」
ガンッ!!
槍と槍がぶつかる音。
火花が散る。
信忠は先頭で突っ込んだ。
敵兵の槍を弾き、間合いに入る。
刹那、相手の喉元を斬り裂く。
血が飛ぶ。
そのまま馬を進める。
「抜けろ!」
家臣たちも続く。
狭い路地、乱戦、悲鳴、金属音。
わずか数十秒の戦いだった。
だが濃密だった。
敵を押し切り、通りを抜ける。
背後で叫び声が上がる。
「待て!!」
「信忠だ!!」
追手が出た。
信忠は振り返らない。
「止まるな」
低く言う。
「京を出るまで走る」
馬はさらに速度を上げた。
⸻
やがて町の外れ。
門が見えてくる。
だがそこにも兵がいた。
「殿……!」
家臣が声を上げる。
「門が閉じられています!」
信忠は一瞬で判断した。
「横へ回れ、小さな抜け道があるはずだ」
京の地理は頭に入っている。
細い路地に入る。
暗い。
人の気配はない。
だが――
「……来るぞ」
後ろから蹄の音。
追手だ。
「急げ!」
馬を走らせる。
やがて土塀の切れ目が見えた。
小さな出口。
「ここだ!」
一騎ずつ抜ける。
その直後――
追手が現れる。
「逃がすな!!」
矢が飛ぶ。
ヒュン!!
一人の家臣が落馬した。
「ぐっ……!」
「行ってください……殿……!」
信忠は歯を食いしばる。
振り返らない。
「進め!!」
涙を飲み込むような声だった。
やがて――
京の外。
田畑が広がる。
夜風が強く吹く。
後ろの喧騒が遠ざかる。
信忠は馬を緩めた。
振り返る。
京の空が赤く染まっている。
炎、本能寺の火だ。
信忠はしばらくそれを見ていた。
誰も何も言わない。
やがて信忠は静かに口を開いた。
「……父上」
その声は風に消えそうだった。
「私は生きる」
拳を握る。
「織田の名を……終わらせぬために」
若き当主の覚悟だった。
その背後で京が燃えている。
そして前には、終わりの見えぬ戦の道が続いていた。




