15.綻び
京の朝は、静かに始まる。
京の空気は冷たく、湿り気を帯びている。
人の気配はある。だが、音はまだ少ない。
その少ない音の中に、わずかに混じる。
足音。
止まる。
また動く。
ためらいを含んだ歩き方。
⸻
屋敷の奥。
村井貞勝はすでに起きていた。
座したまま、動かない。
だが、耳だけが外に向いている。
足音が庭に入る。
砂利が鳴る。
一歩。
止まる。
もう一歩。
また止まる。
「入れ」
短い。
間を置かない。
障子が開く。
入ってきたのは、昨夜と同じ足軽だった。
だが様子が違う。
呼吸が浅い。
視線が定まらない。
「……申せ」
貞勝は見ない。
声だけを受ける。
「昨夜の寺に、再び……」
言葉が途切れる。
喉が鳴る。
「誰が」
被せる。
逃げ道を与えない。
「……同じ者にございます」
ここで、ほんのわずかな間。
迷い。
貞勝の指が動く。
一度だけ。
「違うな」
低い。
足軽の肩が震える。
「……一人、増えておりました」
やっと出る。
「どのような」
「……武家の者に見えました」
曖昧。
だが、それ以上言えない。
「顔は」
「……」
長い沈黙。
貞勝はゆっくりと顔を上げる。
視線が刺さる。
「見たな」
足軽の目が泳ぐ。
答えはもう出ている。
「……は」
消えるような声。
「なぜ、隠す」
「……名を出せぬと」
そこで止まる。
貞勝はそれ以上追わない。
理由は分かっている。
「下がれ」
足軽は逃げるように去る。
静寂。
その静寂の中で、貞勝はゆっくりと息を吐く。
「……見せているな」
誰にともなく。
⸻
同じ頃。
寺。
薄暗い本堂。
光は弱い。
影が濃い。
奥に座るのは、明智光秀。
動かない。
だが、すべてを見ている。
その前に、二人。
一人は昨夜の男。
もう一人。
新たに現れた影。
その新しい影は、深く頭を下げている。
だが、下げ方が違う。
迷いがない。
崩れがない。
光秀は、しばらく何も言わない。
ただ、その“下げ方”を見ている。
「……近いな」
ぽつりと。
顔は見えない。
だが、その一言で十分だった。
影が、わずかに呼吸を変える。
ほんの一瞬。
光秀は見逃さない。
「どこに」
続ける。
影はすぐには答えない。
「……中央にございます」
低い声。
整っている。
光秀の目が、わずかに細くなる。
「よい」
それだけ。
信じたわけではない。
だが、切らない。
その時、外でわずかな物音。
影の一人が、ほんの一瞬だけ視線を動かす。
その動き、自然ではない。
光秀の指が止まる。
「……外か」
誰も答えない。
だが、その沈黙で十分だった。
光秀は立たない。
動かない。
「入れ」
戸が開く。
入ってきたのは、京の町人の姿。
だが、歩き方が違う。
光秀は、その足運びを見ている。
(兵だ)
町人は深く頭を下げる。
「様子を」
短く。
影の一人が答える。
「問題ございませぬ」
その声。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
光秀の目が止まる。
違和感。
だが、まだ確信には届かない。
⸻
同じ刻、尾張。
清洲城
織田信忠は、庭を見ていた。
何もない庭。
動くものはない。
背後。
丹羽長秀
「京より」
短く。
信忠は振り向かない。
「動いたか」
「は」
一拍。
「名は」
「……まだ」
信忠の指が、わずかに動く。
「よい」
それだけ。
「見えた」
長秀は答えない。
だが、理解する。
姿ではなく、輪郭を掴んだ
⸻
同じ頃、街道。
羽柴秀吉は馬を進めていた。
止めない。
だが、思考は止まっている。
隣、黒田官兵衛。
「絡みましたな」
秀吉は笑わない。
「まだ浅い、……もう一手」
秀吉の目が細くなる。
「横から入る」
官兵衛は頷く。
意味は明確だった。
信忠の網を利用する
⸻
再び京。
寺の中。
光秀は、静かに目を閉じる。
(近い)
誰かが。
(だが、まだ見えぬ)
目を開く。
その瞬間、影の一人がわずかに顔を上げた。
灯りが揺れる。
一瞬だけ。
その横顔が、光に触れる。
整った線。
落ち着いた目。
揺れない呼吸。
だが、光秀はまだ、確信していない。
そして、その影は、何も語らない。
ただ静かに、そこにいる。
三つの意志が、同じ一点に寄り始めていた。
まだ触れていない。
だが、確実に近づいている。




