13.糸
夜明け前の空気は、冷えている。
京の街はまだ完全には目覚めていない。
だが、眠ってもいない。
どこかで戸が開き、どこかで水が流れ、どこかで人が声を潜めている。
そのすべてが、薄く繋がっているような気配があった。
その中心にいるのが、村井貞勝だった。
⸻
貞勝は、庭に面した縁側に座していた。
膝の上に置いた手は動かない。
だが、耳だけが働いている。
足音。
砂利を踏む、わずかな音。
一度、止まる。
もう一度。
ためらいがある。
貞勝は振り向かない。
「入れ」
短く言う。
障子が、音を立てぬように開く。
入ってきたのは、名もない足軽だった。
だが、その顔には汗が浮いている。
冷えているはずの朝に。
「申し上げます」
声が少しだけ上ずる。
貞勝は視線を向けない。
言葉だけを受け取る姿勢。
「昨夜、妙な者が……寺へ出入りしております」
一拍。
「どの寺だ」
「西の外れ……人の少ない寺にございます」
貞勝の指が、ほんのわずかに動く。
「名は」
足軽が口ごもる。
一瞬、言うべきか迷う。
その間を、貞勝は聞いている。
「……名は、分かりませぬ」
嘘ではない。
だが、何かを隠している。
貞勝はゆっくりと顔を上げた。
初めて視線が合う。
足軽の喉が鳴る。
「だが」
逃げ場を失ったように、言葉が続く。
「供の者が、明智と……」
言い切る前に、空気が変わった。
風が止まったような錯覚。
「誰に聞いた」
貞勝の声は、変わらない。
だが温度が下がる。
「町人にございます」
「名は」
「……」
答えられない。
いや、答えない。
貞勝はそれ以上追わなかった。
必要がない。
もう十分だった。
「下がれ」
足軽はほとんど逃げるように去る。
障子が閉まる。
音が消える。
その時、奥から足音がした。
ゆっくり。
間を測るような歩き方。
現れたのは細川藤孝。
「動きましたな」
貞勝は頷かない。
否定もしない。
「寺の名は」
「……まだ」
藤孝は縁側に腰を下ろす。
庭を見たまま。
「噂は」
「流れております」
貞勝が答える。
「だが、流されてもおります」
藤孝の目が、わずかに細くなる。
「……誰かが、導いている」
結論だった。
その言葉が落ちた瞬間。
二人の間に、ひとつの可能性が浮かぶ。
誰が。
なぜ。
どこへ。
だが、それを口に出す者はいない。
まだ早い。
⸻
同じ頃。
尾張、清洲城。
信忠は、一枚の紙を見ていた。
何も書かれていない。
白紙。
だが、その前に長く座している。
背後に控えるのは丹羽長秀。
完全に気配を消している。
「京」
信忠が呟く。
それだけで長秀は理解する。
「動きがございます」
声を落とす。
「噂が、形を持ち始めました」
信忠は紙から目を離さない。
「形か」
短く。
「寺に、人が集まっております」
一語ずつ。
「名は伏せられておりますが」
一拍。
「明智の名が出たと」
信忠の指が、紙の端に触れる。
ほんのわずかに。
「……遅い」
ぽつりと。
長秀は反応しない。
それが何を意味するか、分かっているからだ。
すでに動いている,
「長秀」
「は」
「餌を撒け」
一瞬。
わずかな沈黙。
だが長秀はすぐに理解する。
「……おびき出しますか」
「違う」
信忠は首を振らない。
だが、否定は明確だった。
「選ばせる」
その言葉の意味。
光秀側に動かせる。
⸻
同じ刻。
西国へ向かう道。
羽柴秀吉は馬を止めていた。
視線は遠く。
動かない。
隣にいるのは黒田官兵衛。
「京が騒ぎ始めたか」
秀吉が言う。
官兵衛はすぐには答えない。
一拍。
「騒がせております」
言い直す。
秀吉の口元がわずかに歪む。
「信忠か……あるいは」
官兵衛はそこで止める。
続きを言わない。
秀吉は理解する。
「光秀か」
風が吹く。
砂がわずかに舞う。
「どちらでもよい」
秀吉は言う。
「動けばよい」
その一言に、すべてが集約されている。
⸻
夜。
再び京。
廃寺。
灯りが一つ。
戸は閉じられている。
中に、人影。
その前に座る男。
顔は見えない。
だが、その声は静かだった。
明智光秀
「……遅い」
信忠と同じ言葉。
だが意味は違う。
「まだ、集まらぬか」
その時。
戸の外で、音がする。
足音。
止まる。
そして、戸が叩かれる。
一度。
もう一度と。
光秀の指が、膝の上で止まる。
「入れ」
低く。
戸が開く。
入ってきた人物を見た瞬間。
光秀の目が、わずかに細くなる。
その人物は、深く頭を下げた。
顔はまだ見えない。
だが、その声は、はっきりとした。
「お待ちしておりました」
その一言で。
すべてが繋がる。
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見えなかった“糸”が、初めて形を持つ。
信忠が張った網。
秀吉が狙う隙。
光秀が求める再起。
そのすべてが、一本の線で結ばれ始める。




