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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第1章

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10/15

10. 終わらぬ戦

山崎の戦いの、翌日。

空は重かった。

雨が降るでもなく、ただ低く垂れ込めている。

戦の匂いが、まだ残っていた。



羽柴秀吉の本陣。


陣幕の中、秀吉は座していた。

その前に、泥にまみれた伝令が膝をつく。

「申し上げます!」

「明智光秀、討死!」

空気が止まる。

周囲の武将たちが顔を上げる。

秀吉は動かない。


「……どこでだ」

「落ち延びる途中、農民に襲われ……」

その先は言わなかった。

だが十分だった。

沈黙。

やがて秀吉は、小さく息を吐く。


「そうか」

短い言葉。

だが、それで戦は終わった。

形式上は。

横にいた黒田官兵衛が静かに言う。


「これにて、大義は整いましたな」

秀吉はうっすらと笑った。

「明智討伐の功、天下に示せる」

だが、その目は笑っていない。

(早すぎる)

心の奥で、何かが引っかかっていた。



その頃、山崎へ向かう軍勢があった。

旗印は織田木瓜。

その中央、本陣。

床几に座るのは、織田信忠。

彼は鎧を脱いでいた。

だが刀は側にある。

周囲には重臣たち。

地図が広げられている。

伝令が駆け込む。


「報告!」

「明智光秀、討死!」

ざわめき。

だが信忠は動かない。

「……どこで」

静かな声。

「落ち延びる途中、農民に――」

信忠は目を閉じた。

一瞬だけ。

(終わったか)

そう思った。

だが、すぐに目を開く。


「秀吉は」

「すでに山崎を制圧」

つまり、功は秀吉のもの。

信忠はゆっくり頷いた。

「よい」

短い言葉。

だがその裏では、別の思考が動いていた。

(早い)

(あまりにも整いすぎている)



数刻後、山崎。


二つの軍が対峙する。

一方は勝者。

一方は正統。

静かな緊張。

やがて、秀吉が歩み出る。

その前に進むのは、ただ一人。

同じように、信忠も本陣から出る。

互いに護衛を下げる。

二人の距離が縮まる。

止まる、一礼。

秀吉が先に口を開いた。


「このたびは……」

深く頭を下げる。

「無念にござりまする」

信忠は静かに見ていた。

その仕草、その声。

すべてを。


「……見事であった」

信忠が言う。

「光秀を討った功、第一なり」

秀吉は顔を上げる。

その目がわずかに光る。

「ありがたきお言葉」

空気が張り詰める。

周囲の者たちは、息すら潜めている。

これは戦ではない。

だが、それ以上の戦だった。

信忠が言う。


「諸軍をまとめよ」

「織田の名のもとに」

一瞬の間。

秀吉は即座に答えた。


「ははっ」

だがその間を、信忠は見逃さなかった。



その夜、信忠の陣。


灯りは少ない。

静かな空間。

そこに一人の男が入る。

忍び。


「殿」

低い声。

信忠は顔を上げる。


「申せ」

忍びは膝をついたまま言う。

「光秀討死の件――」

一瞬、言葉を選ぶ。

「不審にございます」

空気が変わる。


「何がだ」

「遺骸が確認されておりませぬ」

沈黙。

信忠の目が鋭くなる。


「続けよ」

「農民の話も曖昧、場所も一定せず」

「……」

「意図的に流された情報の可能性」

完全な静寂。

信忠はゆっくり立ち上がった。

数歩歩く。

(もし生きているなら)

それはつまり、戦は終わっていない

信忠は振り返る。


「探れ」

短い命令。

「必ず見つけ出せ」

「はっ」

忍びは消えるように去った。



その頃、山中。


雨が降り始めていた。

木々の間。

焚き火の火が、小さく揺れている。

その前に、一人の男が座っていた。

血に濡れた鎧。

折れた矢。

だが、生きている。

ゆっくりと顔を上げる。

その目は、まだ死んでいなかった。


明智光秀


「……まだだ」

小さく呟く。

誰もいない闇の中で。

「終わってはおらぬ」

雨が火を弱める。

煙が立ち上る。

その姿は、闇に溶けていく。

だが確かにそこにいた。

敗者ではない。

まだ盤上に残る一手として。



同じ空の下。

正統を持つ者 、実を握る者 、影に潜む者 。


戦は終わった。

そう誰もが思った。

だが実際には、ここから始まる。


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