10. 終わらぬ戦
山崎の戦いの、翌日。
空は重かった。
雨が降るでもなく、ただ低く垂れ込めている。
戦の匂いが、まだ残っていた。
⸻
羽柴秀吉の本陣。
陣幕の中、秀吉は座していた。
その前に、泥にまみれた伝令が膝をつく。
「申し上げます!」
「明智光秀、討死!」
空気が止まる。
周囲の武将たちが顔を上げる。
秀吉は動かない。
「……どこでだ」
「落ち延びる途中、農民に襲われ……」
その先は言わなかった。
だが十分だった。
沈黙。
やがて秀吉は、小さく息を吐く。
「そうか」
短い言葉。
だが、それで戦は終わった。
形式上は。
横にいた黒田官兵衛が静かに言う。
「これにて、大義は整いましたな」
秀吉はうっすらと笑った。
「明智討伐の功、天下に示せる」
だが、その目は笑っていない。
(早すぎる)
心の奥で、何かが引っかかっていた。
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その頃、山崎へ向かう軍勢があった。
旗印は織田木瓜。
その中央、本陣。
床几に座るのは、織田信忠。
彼は鎧を脱いでいた。
だが刀は側にある。
周囲には重臣たち。
地図が広げられている。
伝令が駆け込む。
「報告!」
「明智光秀、討死!」
ざわめき。
だが信忠は動かない。
「……どこで」
静かな声。
「落ち延びる途中、農民に――」
信忠は目を閉じた。
一瞬だけ。
(終わったか)
そう思った。
だが、すぐに目を開く。
「秀吉は」
「すでに山崎を制圧」
つまり、功は秀吉のもの。
信忠はゆっくり頷いた。
「よい」
短い言葉。
だがその裏では、別の思考が動いていた。
(早い)
(あまりにも整いすぎている)
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数刻後、山崎。
二つの軍が対峙する。
一方は勝者。
一方は正統。
静かな緊張。
やがて、秀吉が歩み出る。
その前に進むのは、ただ一人。
同じように、信忠も本陣から出る。
互いに護衛を下げる。
二人の距離が縮まる。
止まる、一礼。
秀吉が先に口を開いた。
「このたびは……」
深く頭を下げる。
「無念にござりまする」
信忠は静かに見ていた。
その仕草、その声。
すべてを。
「……見事であった」
信忠が言う。
「光秀を討った功、第一なり」
秀吉は顔を上げる。
その目がわずかに光る。
「ありがたきお言葉」
空気が張り詰める。
周囲の者たちは、息すら潜めている。
これは戦ではない。
だが、それ以上の戦だった。
信忠が言う。
「諸軍をまとめよ」
「織田の名のもとに」
一瞬の間。
秀吉は即座に答えた。
「ははっ」
だがその間を、信忠は見逃さなかった。
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その夜、信忠の陣。
灯りは少ない。
静かな空間。
そこに一人の男が入る。
忍び。
「殿」
低い声。
信忠は顔を上げる。
「申せ」
忍びは膝をついたまま言う。
「光秀討死の件――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「不審にございます」
空気が変わる。
「何がだ」
「遺骸が確認されておりませぬ」
沈黙。
信忠の目が鋭くなる。
「続けよ」
「農民の話も曖昧、場所も一定せず」
「……」
「意図的に流された情報の可能性」
完全な静寂。
信忠はゆっくり立ち上がった。
数歩歩く。
(もし生きているなら)
それはつまり、戦は終わっていない
信忠は振り返る。
「探れ」
短い命令。
「必ず見つけ出せ」
「はっ」
忍びは消えるように去った。
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その頃、山中。
雨が降り始めていた。
木々の間。
焚き火の火が、小さく揺れている。
その前に、一人の男が座っていた。
血に濡れた鎧。
折れた矢。
だが、生きている。
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、まだ死んでいなかった。
明智光秀
「……まだだ」
小さく呟く。
誰もいない闇の中で。
「終わってはおらぬ」
雨が火を弱める。
煙が立ち上る。
その姿は、闇に溶けていく。
だが確かにそこにいた。
敗者ではない。
まだ盤上に残る一手として。
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同じ空の下。
正統を持つ者 、実を握る者 、影に潜む者 。
戦は終わった。
そう誰もが思った。
だが実際には、ここから始まる。




