青色の僕に、君が赤をくれた
誰の気配もない朝の学校で、美術室だけがゆっくりと目を覚ましていた。静寂に溶けるように、ひとりの少年がキャンバスに向かい、筆を走らせている。
けれど、彼の周囲には絵の具ひとつ置かれていない。握られているのは筆だけだ。
彼は、感情をそのまま色に変換する特殊な体質を持っていた。
窓から差し込んだ朝日が、薄い光の膜となって絵の表面を撫でていく。だが、キャンバスに広がるのは寒色ばかりだった。日の赤と重なっても、赤は生まれない。
彼は赤が嫌いなのではない。ただ、出せないだけだ。
美大受験を目前に控え、表現の幅を広げたいという焦りが胸にある。けれど暖色が出ないことは、単なる「好き嫌い」の問題ではない。
絵の具を使えばいい――そんな簡単な話では、彼の中ではなかった。
特殊体質だからこそ自分の絵は価値を持つ。逆に言えば、体質を奪われたら自分の絵には意味がない。
実際、彼は絵そのものが特別上手いわけではない。特別でいられる“理由”が彼を支えているだけだ。
外が急に賑やかになり、通学時間になったことを知らせる。普段は開くことのない美術室の扉が、軋む音を立てて開いた。
「……あ、鈴木くん? こんな朝早くに、何してるの?」
現れたのは、同じクラスの少女の新瀬凛。学校でも一際目立つ美少女として知られる存在だが、彼とはほとんど話したことがなかった。
「噂で聞いてたけど、本当に特殊体質なんだね。絵の具、使わないんだ」
「まあ……うん」
「すごく綺麗な絵。上手なんだね」
「上手じゃないよ。特殊体質だから誤魔化せてるだけ。俺にこれがなかったら……何の価値もない」
言った途端、教室の空気が急に細くなったような気がした。
彼女はしばらく言葉を探すように彼を見つめ、それから何も言わず窓辺へ歩いていく。
「私はね、好きだよ」
振り返った彼女は、朝日の中で柔らかく笑っていた。
その顔には、嫉妬も羨望も混じっていない。
「上手い」と言われるたびに彼が見てきた、濁った色とはまったく違う。
だからこそ、その言葉は真実だと分かった。
頬が熱くなり、思わずキャンバスに顔を伏せる。
そして気づく。
キャンバスの片隅に、淡く滲む赤があることを。
彼は、その“赤”に引き寄せられた。
甘い声に導かれながら、その正体も分からぬまま足を踏み入れる。
涙を流していたキャンバスが、赤を思い出す。
ただ泣いていたはずのそれが、久しぶりに“あの頃”のように笑った。
「そのままだと、顔が汚れたままだよ?」
筆先で触れるような柔らかい声だった。
「え……あ、うん。ごめん」
彼女はスカートのポケットに手を入れ、花の刺繍が施されたハンカチを取り出す。
その白い布で、彼の頬についた絵の具をそっと拭った。
花畑の匂いが彼の鼻腔をやわらかく満たす。
両頬に触れた彼女の指先があたたかくて、胸の奥が激しく叫ぶ。
赤面した彼は視線を逸らすが、そっともう一度だけ彼女を見る。
口角を上げた彼女は、黒曜の満月を押し上げるように笑っていた。
「綺麗になったよ。予鈴が鳴ったから、教室行こう?」
「あ、ありがとう」
彼は急いでイーゼルを片付けようとする。
だが焦りすぎて要領を得ず、持ち上げたイーゼルを爪先に落としてしまった。
「大丈夫?! 保健室行く?」
まるで本の中の台詞のように、彼女の声だけがスポットライトを浴びる。
彼はその舞台に立つには不釣り合いで、異世界の客人のようだった。
「大丈夫……ごめん、心配かけて」
イーゼルを壁に立てかけ、彼女と並んで廊下を歩く。
揺れる長髪がゆっくりと道を示しているようだった。
会話はない。ただ、その沈黙は不思議と居心地が悪くない。
窓から射す光が彼女の髪を照らし、星の散った夜空のように輝かせる。
自分の絵にはほとんど興味を示さない彼が、その絵画のような光景から目を離せなかった。
教室の前に着き、彼女が扉に手をかける。
夢の終わりを告げる、現実世界への入口が開こうとしていた。
──もっと、廊下が長ければいいのに。
そう思った瞬間、彼女はふと動きを止め、彼を振り返った。
美しい横顔から、脳を溶かすような声が零れる。
「楽しかったね。また、話そう?」
黒髪が軽やかに靡き、彼女は別の世界へ戻っていく。
額縁で切り取られていた世界が崩れ、現実の空気が一気に流れ込む。
開いたままのドアをくぐり、彼は教室に入る。
席に鞄を置き、淡々と次の授業の準備をした。
そのとき、背後から椅子が乱暴に叩かれる。
反射的に振り向くと、片目をひくつかせた男——窪田伸八が立っていた。
二人しかいない美術部の男子で、鈴木とは自然と距離が縮まった相手である。
「お前、新瀬と登校してたけど、どういうこと?」
「ち、違うよ。たまたまタイミングが重なっただけで」
「だよな? 冴えないお前と新瀬が釣り合うわけねーし」
窪田の表情には、歪んだ笑いが描かれている。
堰を破った濁流が快楽に酔い、深い傷口へと無遠慮に流れ込む。
「てか次の授業なんだっけ? お前知ってる?」
「数学だよ」
「うっわ、アイツの授業かよ。マジでだりぃ」
吐き捨てるように言い、鈴木の椅子を蹴って席に戻っていった。
本鈴が鳴り、退屈な時間が始まる。
ほとんどの生徒が話半分で授業を流す中、鈴木は一字一句をノートに刻んでいた。
この学校は県内トップの進学校。
彼は特別推薦――“特別な才能を持つ者だけが受けられる入試”で入学した。
学力ではなく才能で入った以上、油断すればすぐ赤点だ。
追試で留年こそ免れるが、問題は“美術部で結果を残せないこと”。
全国レベルの部活で彼は確かに通用してきたからこそ、まだここにいる。
ハイレベルな授業に頭を焼かれながら、彼はノートを取る手を止めない。
終鈴が鳴ると、彼は背もたれに体を預け、深く息を吸った。
緊張を含んだ空気がゆっくりと抜けていく。
瞼を上げると、そこには彼を覗き込む新瀬の姿があった。
「次、移動教室だよ。一緒に行かない?」
首を少し傾け、上目遣いで彼を見る。
再び“異世界”の扉が、彼の中でゆっくり開いた。
「えっと……僕なんかで良ければ」
「鈴木くんがいいんだよ」
その言葉で心臓が跳ねる。
青い檻に閉じこめられていた心が、天井にぶつかって痛むほどに。
彼女はそっと彼の服を引っ張り、「行こう?」と消え入りそうな声で言った。
赤く染まった頬、震える唇。
その控えめな仕草を、クラス中が珍しいものを見るように注目している。
特に、ただ一人だけ“温度のない視線”を向けている生徒がいた。
容姿端麗で人気の男子、榊原亮平。
——その瞳は、完璧な彫刻の表面に塗られた白い絵の具のように静かで、深さを欠いていた。
鈴木と新瀬が前を通るとき、榊原は表情をひとつ動かさない。
ただ絵画の欠けを観察する画家のように、二人を横目で追った。
「早くしないと遅れる」
「ご、ごめん」
鈴木は急いで化学の教科書を掴み、彼女の後を追う。
榊原の視線は、最後までガラスのように何も無かった。




