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青色の僕に、君が赤をくれた

作者: 山崎ヒカル
掲載日:2025/12/07

 誰の気配もない朝の学校で、美術室だけがゆっくりと目を覚ましていた。静寂に溶けるように、ひとりの少年がキャンバスに向かい、筆を走らせている。


 けれど、彼の周囲には絵の具ひとつ置かれていない。握られているのは筆だけだ。

 彼は、感情をそのまま色に変換する特殊な体質を持っていた。


 窓から差し込んだ朝日が、薄い光の膜となって絵の表面を撫でていく。だが、キャンバスに広がるのは寒色ばかりだった。日の赤と重なっても、赤は生まれない。


 彼は赤が嫌いなのではない。ただ、出せないだけだ。


 美大受験を目前に控え、表現の幅を広げたいという焦りが胸にある。けれど暖色が出ないことは、単なる「好き嫌い」の問題ではない。

 絵の具を使えばいい――そんな簡単な話では、彼の中ではなかった。


 特殊体質だからこそ自分の絵は価値を持つ。逆に言えば、体質を奪われたら自分の絵には意味がない。

 実際、彼は絵そのものが特別上手いわけではない。特別でいられる“理由”が彼を支えているだけだ。


 外が急に賑やかになり、通学時間になったことを知らせる。普段は開くことのない美術室の扉が、軋む音を立てて開いた。


「……あ、鈴木くん? こんな朝早くに、何してるの?」


 現れたのは、同じクラスの少女の新瀬凛。学校でも一際目立つ美少女として知られる存在だが、彼とはほとんど話したことがなかった。


「噂で聞いてたけど、本当に特殊体質なんだね。絵の具、使わないんだ」


「まあ……うん」


「すごく綺麗な絵。上手なんだね」


「上手じゃないよ。特殊体質だから誤魔化せてるだけ。俺にこれがなかったら……何の価値もない」


 言った途端、教室の空気が急に細くなったような気がした。

 彼女はしばらく言葉を探すように彼を見つめ、それから何も言わず窓辺へ歩いていく。


「私はね、好きだよ」


 振り返った彼女は、朝日の中で柔らかく笑っていた。


 その顔には、嫉妬も羨望も混じっていない。

 「上手い」と言われるたびに彼が見てきた、濁った色とはまったく違う。


 だからこそ、その言葉は真実だと分かった。


 頬が熱くなり、思わずキャンバスに顔を伏せる。


 そして気づく。

 キャンバスの片隅に、淡く滲む赤があることを。


 彼は、その“赤”に引き寄せられた。

 甘い声に導かれながら、その正体も分からぬまま足を踏み入れる。


 涙を流していたキャンバスが、赤を思い出す。

 ただ泣いていたはずのそれが、久しぶりに“あの頃”のように笑った。


「そのままだと、顔が汚れたままだよ?」


 筆先で触れるような柔らかい声だった。

「え……あ、うん。ごめん」


 彼女はスカートのポケットに手を入れ、花の刺繍が施されたハンカチを取り出す。

 その白い布で、彼の頬についた絵の具をそっと拭った。


 花畑の匂いが彼の鼻腔をやわらかく満たす。

 両頬に触れた彼女の指先があたたかくて、胸の奥が激しく叫ぶ。

 赤面した彼は視線を逸らすが、そっともう一度だけ彼女を見る。


 口角を上げた彼女は、黒曜の満月を押し上げるように笑っていた。


「綺麗になったよ。予鈴が鳴ったから、教室行こう?」


「あ、ありがとう」


 彼は急いでイーゼルを片付けようとする。

 だが焦りすぎて要領を得ず、持ち上げたイーゼルを爪先に落としてしまった。


「大丈夫?! 保健室行く?」


 まるで本の中の台詞のように、彼女の声だけがスポットライトを浴びる。

 彼はその舞台に立つには不釣り合いで、異世界の客人のようだった。


「大丈夫……ごめん、心配かけて」


 イーゼルを壁に立てかけ、彼女と並んで廊下を歩く。

 揺れる長髪がゆっくりと道を示しているようだった。

 会話はない。ただ、その沈黙は不思議と居心地が悪くない。


 窓から射す光が彼女の髪を照らし、星の散った夜空のように輝かせる。

 自分の絵にはほとんど興味を示さない彼が、その絵画のような光景から目を離せなかった。


 教室の前に着き、彼女が扉に手をかける。

 夢の終わりを告げる、現実世界への入口が開こうとしていた。


 ──もっと、廊下が長ければいいのに。

 そう思った瞬間、彼女はふと動きを止め、彼を振り返った。

 美しい横顔から、脳を溶かすような声が零れる。


「楽しかったね。また、話そう?」


 黒髪が軽やかに靡き、彼女は別の世界へ戻っていく。

 額縁で切り取られていた世界が崩れ、現実の空気が一気に流れ込む。


 開いたままのドアをくぐり、彼は教室に入る。

 席に鞄を置き、淡々と次の授業の準備をした。


 そのとき、背後から椅子が乱暴に叩かれる。

 反射的に振り向くと、片目をひくつかせた男——窪田伸八が立っていた。

 二人しかいない美術部の男子で、鈴木とは自然と距離が縮まった相手である。


「お前、新瀬と登校してたけど、どういうこと?」


「ち、違うよ。たまたまタイミングが重なっただけで」


「だよな? 冴えないお前と新瀬が釣り合うわけねーし」


 窪田の表情には、歪んだ笑いが描かれている。

 堰を破った濁流が快楽に酔い、深い傷口へと無遠慮に流れ込む。


「てか次の授業なんだっけ? お前知ってる?」


「数学だよ」


「うっわ、アイツの授業かよ。マジでだりぃ」


 吐き捨てるように言い、鈴木の椅子を蹴って席に戻っていった。


 本鈴が鳴り、退屈な時間が始まる。

 ほとんどの生徒が話半分で授業を流す中、鈴木は一字一句をノートに刻んでいた。


 この学校は県内トップの進学校。

 彼は特別推薦――“特別な才能を持つ者だけが受けられる入試”で入学した。


 学力ではなく才能で入った以上、油断すればすぐ赤点だ。

 追試で留年こそ免れるが、問題は“美術部で結果を残せないこと”。

 全国レベルの部活で彼は確かに通用してきたからこそ、まだここにいる。


 ハイレベルな授業に頭を焼かれながら、彼はノートを取る手を止めない。

 終鈴が鳴ると、彼は背もたれに体を預け、深く息を吸った。

 緊張を含んだ空気がゆっくりと抜けていく。


 瞼を上げると、そこには彼を覗き込む新瀬の姿があった。


「次、移動教室だよ。一緒に行かない?」


 首を少し傾け、上目遣いで彼を見る。

 再び“異世界”の扉が、彼の中でゆっくり開いた。


「えっと……僕なんかで良ければ」


「鈴木くんがいいんだよ」


 その言葉で心臓が跳ねる。

 青い檻に閉じこめられていた心が、天井にぶつかって痛むほどに。


 彼女はそっと彼の服を引っ張り、「行こう?」と消え入りそうな声で言った。

 赤く染まった頬、震える唇。

 その控えめな仕草を、クラス中が珍しいものを見るように注目している。


 特に、ただ一人だけ“温度のない視線”を向けている生徒がいた。

 容姿端麗で人気の男子、榊原亮平。


 ——その瞳は、完璧な彫刻の表面に塗られた白い絵の具のように静かで、深さを欠いていた。


 鈴木と新瀬が前を通るとき、榊原は表情をひとつ動かさない。

 ただ絵画の欠けを観察する画家のように、二人を横目で追った。


「早くしないと遅れる」


「ご、ごめん」


 鈴木は急いで化学の教科書を掴み、彼女の後を追う。

 榊原の視線は、最後までガラスのように何も無かった。


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― 新着の感想 ―
凄く想像力を掻き立てるストーリーで楽しかったです。
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