第20章 氷の記憶
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第20章「氷の記憶」をお届けします。
五行衆が最後の一人、深雪は、夜凪を「兄様」と呼びました。失われたはずの妹を前に、戦うことのできない夜凪。仲間たちの声も届かない中、彼はこの残酷すぎる宿命にどう向き合うのか。
東海道を巡る死闘の旅、その哀しい結末です。
「……夜凪兄様」
深雪のその一言が、夜凪の時間を凍てつかせていた。
頭を抱え、膝をついたまま、彼は動けないでいる。
脳裏を駆け巡るのは、忘却の彼方にあったはずの、温かい記憶の断片。
陽だまりの中で無邪気に笑う、幼い少女の姿。
自分を「兄様」と呼び、どこへ行くにも後ろをついてきた、小さな影。
そうだ、あの日、一族が滅ぼされた日、この子も確かに、あの屋敷にいたはずだ。
「夜凪さん、しっかりして!」
「夜凪殿! 敵の術ですぞ! 惑わされてはなりませぬ!」
桔梗と快然の悲痛な声が、吹雪の向こうから聞こえる。
だが、その声すら、今の夜凪の心には届かない。
目の前の少女は、敵だ。
五行衆最後の一人。
だが、同時に、彼女は。
「……思い出しましたか、兄様」
深雪が、哀しげに微笑む。
だが、その瞳の奥には、彼女自身のものとは思えぬ、冷たい光が宿っていた。
「ずっと、お会いしたかった。あの日、兄様だけが生き残ったと聞いてから……ずっと」
彼女が一歩踏み出すと、周囲の雪が呼応するように渦を巻き、鋭い氷の刃となって夜凪へと殺到した。
「危ない!」
桔梗が、夜凪を突き飛ばすようにしてその場から引き離す。
氷刃は、先ほどまで夜凪がいた場所の地面に深々と突き刺さり、周囲を白く凍てつかせた。
「……なぜ、邪魔をするの?」
深雪の純粋な問いが、逆に不気味さを際立たせる。
「兄様は、私のもの。誰にも渡さない」
その瞳は、もはや正常ではなかった。
闇御門の術によって、その心は歪められ、かつての記憶は、歪んだ執着へと変質させられているのだ。
彼女は、夜凪を殺すことで、永遠に自分のものにしようとしている。
あまりにも哀しく、そして残酷な真実だった。
「くっ……! 人の心まで弄ぶとは、外道めが!」
快然が、怒りに燃えて錫杖を構える。
「このなまくら、拙僧が叩き斬ってくれるわ!」
「待って、快然さん!」
桔梗が、彼を制止する。
「彼女……本当は、戦いたくないのかもしれない……!」
桔梗の言う通りだった。
深雪の放つ攻撃は、確かに苛烈で、殺意に満ちている。
だが、その太刀筋は、ほんのわずかに、夜凪の急所を外し続けていた。
それは、彼女の心の奥底に残った、最後の抵抗なのかもしれない。
その事実に気づいた時、夜凪の心は決まった。
(……そうか。お前も、ずっと苦しかったんだな)
絶望的な動揺が、静かな怒りへと変わっていく。
だが、その怒りは、目の前の少女に向けられたものではない。
彼女の心を弄び、哀しい傀儡へと変え果てさせた、闇御門そのものに対する、底なしの憎悪だった。
殺すのではない。
斬るのでもない。
ただ、救うのだ。
この哀れな魂を、呪われた宿命から、解き放つのだ。
「……二人とも、手を出すな」
夜凪が、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
あるのは、救えなかった命への深い悲しみと、それでも前に進むという、鋼の決意。
彼は、取り落としていた孤月を拾い上げると、真っ直ぐに深雪を見据えた。
「深雪」
「……!」
「もう、終わりにしよう」
その言葉に、深雪の身体がびくりと震える。
「……いや。終わりじゃない。ここから、始まるの。兄様と、私だけの、永遠の世界が」
彼女の周囲に、巨大な氷の龍が形を成していく。
あれを受ければ、ひとたまりもないだろう。
だが、夜凪は動かなかった。
彼は、静かに息を吸い込むと、孤月を天に掲げた。
その唇から紡がれるのは、破壊の言霊ではない。
ただ、一つの魂を救うためだけの、祈りにも似た、言の葉。
「――思い出せ」
それは、命令ではなかった。
彼の魂からの、切なる願いだった。
夜凪から放たれた優しい光が、吹雪を貫き、深雪の身体をそっと包み込む。
氷の龍が、その光に触れた瞬間、音もなく霧散した。
そして。
「……あ……」
深雪の瞳から、冷たい光が消え、かつての、温かい光が戻ってきた。
彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
洗脳が解けたのだ。
だが、それは同時に、闇御門の術によって無理やり生かされていた彼女の命が、終わりを迎えることを意味していた。
「……ごめんなさい……兄、様……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
深雪の身体が、足元からゆっくりと光の粒となって崩れていく。
夜凪は、何も言わずに、その光景をただ見つめていた。
彼女は、最後に、泣きそうな、それでいて少しだけ嬉しそうな、穏やかな笑みを浮かべた。
そして、すべての光が雪に溶けるように消え去り、後には静寂だけが残された。
季節外れの雪が、ぴたりと止む。
夏の太陽が、再び湖畔を照らし始めた。
まるで、何もかもが夢だったかのように。
夜凪は、その場にゆっくりと膝をつくと、声もなく、ただ慟哭した。
救えなかった命。
踏みにじられた心。
そのすべてが、彼の背負うべき新たな宿命となった。
東海道を巡る死闘の旅は、一つの哀しい結末と共に、今、幕を閉じた。
だが、夜凪の戦いは、まだ終わらない。
この哀しみと怒りを、そして決意を胸に、彼は再び立ち上がる。
すべての元凶が待つ、呪われた都、京を目指して。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて、「東海道死闘編」は、閉幕となります。
夜凪は、妹・深雪の魂を救うという、あまりにも哀しい決着を選びました。救えなかった命と踏みにじられた心を背負い、彼の復讐の炎は、より深く、静かな怒りへと変わります。
仲間との絆を胸に、彼は再び立ち上がりました。
すべての元凶が待つ、呪われた都、京へ――。物語は、ついに最終決戦の地へと向かいます。第三部も、ご期待ください!
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