B面「しあわせの正体」④
浩史がそんなことを考えていた頃、寧は寝室で夢の続きを見ていた。
成犬となったポテが、寧に背を向けて歩き始める。
「待って、ポテやん。どこ行くの?」
「お別れや」
「え?」
「もうわしの役目は終わったはずや。このまま天国に戻らせてもらいまっさ。ほな、さいなら」
「嫌。待って」
寧が追いかけようとすると、ポテが牙を剥いた。
「ついてくな!」
「ど、どうしたの?何を怒ってるの?」
「あんたがとんでもないアホねーちゃんやからや」
「…」
「幸せを怖がったらあかん。もっと貪欲でええんや。わしが犬チュール食べる時みたいに」
「…でも私…幸せなんて…わからない」
「それ、本気で言うてんのか?」
ポテが寧の頭をポカリと叩いたところで、目が覚めた。
(ポテやんに、叱られた)
叩かれたおでこをなでていると、キッチンから物音が聞こえてきた。
(おかあさん?)
部屋着に着替えて行ってみると、浩史がお好み焼きの生地を作っていた。
(え?どうして、ヒロやんが?)
寧に気づいた浩史は「ごめん。台所借りてる…あ」と言ってから、慌てて手話に切り替えた。
「(手話)きみのおかあさんにバッタリ会って、鍵を借りました」
鍵を貸すなんて、おかあさんに気に入られたってことね。少しだけ寧はホッとした。
ふたり分のお好み焼きが、こたつの上に載っている。浩史がおたふくソースを手に取る。
(お好み焼きにはやっぱり、このソースが一番!)と手話で伝えたあと
「『おたふく』って手話ではどう表現すれば、ううむ」と、言葉に出して考え込み始めた。
「(手話)声は聞こえてるから、普通に喋っていいよ。無理しないで」
「いや、別に無理してるわけでは…」
「(手話)いつもの他愛のない話をして。関西弁で」
「…うん」
しばらくふたりは無言で、豚玉お好み焼きを食べた。
浩史は、さっきお母さんから聞いた話を思い出す。
―あの子が美大を受験する直前に病気が発症したの。今度は、犬の方にね。犬の死因の半分は、人間と同じ“癌”なのよ。しかも発見しにくいの。お腹に腫れものが見つかったときには、もう手遅れだったわ。美大受験の直前だったから、私と夫はあの子に『ポテは風邪をひいてるから、しばらく入院させる』と嘘をついてね。受験を終えたあの子が東京から帰ってから、動物病院に連れて行った。でもその時には、ポテはもう犬用のお棺に入れられていたの。あの子は言葉にならない唸り声で号泣した。あとで聞いたら『ごめんね、ポテ。私だけいい大学入って、幸せになろうとして、ごめんね』って謝ったそうよ。もしかするとあの子、そのときのことがトラウマになって、幸せというものに罪悪感を感じているのかもしれないわね―。
その話を聞いて浩史が思いを寄せたのは、愛犬の方の気持ちだった。
(そんなんあかんよ。そんな風に思われたら…ポテが、かわいそうや!)