A面・喋る犬の飼い方~第1話「ポテやん、喋る」
桜の薄桃色が青い空に映えている。春満開の舗道を散歩する、
私の名は綾瀬寧。犬を飼っている。名前はポテ…豆柴とミニチュアダックスの雑種だ。茶色い短毛と長い尻尾が柴犬、短足胴長なのがダックスの血筋だ。目は垂れ気味で口の周りが黒く、なんだかおっさんぽいので私は彼を“ポテやん”と呼んでいる。今日は散歩がてら、ポテやんのゴハンを買うつもり。
「あらあ、ポテちゃん。お散歩でちゅか?」
近所のおばさんにつかまってしまった。おばさんは遠慮なく近づいて、ポテの顔をわしゃわしゃ撫で回す。
「こんなに尻尾振って。ポテちゃんは、おばさんのこと大好きでちゅねえ」
愛の押し売りに、ポテは困惑気味に尻尾を左に振る。誤解されがちだが、犬が尻尾を振るのは嬉しいときばかりではない。右に振れば喜びの表現だが、左に振るのは警戒心や不安感の表れなのだ。されるがままにさせて、愛想笑いを浮かべるポテは、わがペットながら健気だと思う。
「おやつあげたいんだけど、今日は持ってないわあ」
おばさんは飼っているチワワ用のおやつを常備していて、たまにポテにもくれるのだが、今日はリターンのないコストを浪費してしまったようだ。尻尾の動きが止まり、ポテの表情が引きつり始める。
「う…うおあん」
う…嘘やん。私には、そう聞こえた。
「じゃあね。しずくちゃん。ポテ」
去っていくおばさんの後ろ姿を睨みつけて、ポテが吠えた。
「ワワンワ、ウォバン!」
さわんな、おばん!に聞こえる。
(空耳?)
そのときは、一片の疑惑でしかなかった。
「ポテやん。お待たせ~」
紙袋を抱えてペットショップから出た時、雨滴を顔に感じた。柱につないだリードを解くころには小雨がぱらぱら落ちている。
「…あ!」
大事なことを思い出した。と、直後にポテが続けた。
「洗濯物!」
言うやいなや走り出し、私も引っ張られるように追いかけていく。疑惑は確信に変わった。
アパートに戻ってベランダの洗濯物を取り込んでいる間、ポテは素知らぬ顔で毛繕いをしていた。間に合ったことに安堵し油断しているようだ。私はすかさず話しかけた。
「危ないとこだったねえ。ポテやん」
「ほんまや。間一髪ちうやっちゃな…あ!」
やはり、か。
「あんた、喋れるのね?」
「…」
しらばっくれて後ろ足で耳の下を掻いてから、黙って立ち去ろうとする。
「晩御飯だけどさ…」
立ち止まる。
「さっきショップで、国産鶏ハーブを贅沢に使った“犬有頂天”買ったよね…」
袋から買ったばかりの生缶を取り出す。ポテの尻尾が激しく右に振れる。
「でももったいないから、カリカリにしとこうかな?」
尻尾が左に振れる。
「有頂天」
尻尾がブルンブルン右に。
「カリカリ」
だらんと左に。
「ポテやん。尻尾じゃわからないわ。言葉にして言ってくれないと」
私がゴハンを片付けるフリをすると案の定
「ねーちゃーん!」と涙目で私に飛びついて、ペロペロ顔を舐めてきた。
「そないなナマ殺し、殺生でっせえ!」
簡単に、落ちた。
「今日のねーちゃん、はんでーしょんのノリがよろしなあ。ごっつ別嬪さんでっせ…へへ、てなわけで“犬有頂天”あんじょう頼んますう」
よく見ると尻尾は左に振れている。つまり、前半はテキトーなお世辞なのだ。それを隠すかのようにグルングルン廻ったりピョンピョン跳ねて、必死に愛想をふりまいている。
「今まで猫をかぶってたわけね?犬なのに」
今度ポテやんに、猫耳の帽子を買ってあげよう。楽しくなりそうだ。
『喋る犬の飼い方① 喋り始めるまでは、根気よく待ちましょう』