風邪はうつせば治るんだって
ある大きな山の峠の貧しい村に、春が訪れようとしていました。その村には、農耕風景が今も残り、産業というと、農業か、土木業しかありませんでした。
しかし、そんな村のある少年は、冬の寒さが残るある日、風邪になってしまいました。
頭はだるく、熱もひどいようです。
“お母ちゃんが貰ってあげたいぐらいだわ
と、お母ちゃんがいうので、少年は、
’お母ちゃんが風邪になったら、お仕事できないでしょ
と、いいました。すると、お母ちゃんは、
“優しい子ねぇ
といいました。
お母ちゃんは、村の近くに造設が計画されている、お国の大型ダムの建設場で働いています。女性にはかなりの重労働ですが、女手一つで子供を育てるには、ダム建設で働くしかありません。
お母ちゃんは、少年がお粥を食べ切るのを見届けてから、家を出て行きました。
お母ちゃんが、家を出ていくと、少年は、
風邪をどうにかして早く治せないものかと思いました。
お父さんが、亡くなってから、お母ちゃんがどれほど忙しいのかは、少年も身を沁みて分かっていました。ですので、どうしてもお母ちゃんの心配になりたくなかったのです。
しかし、この村には、病院はおろか診療所すらありませんでした。
ですので、ただの風邪でも、すぐには治りませんし、熱まで出てしまっては、死の危険をも伴うのです。
すると、少年は、友達の言葉を思い出しました。
(風邪は、他人に移せば治るんだぜ)
それは、いけないことであると、少年は充分理解していました。しかし、どうしてもお母ちゃんの不安を取り除きたかったのです。
少年は、考えました。誰に移せばいいのかと。
まず、思いついたのは、お隣の、今枝君です。彼は、最近少年の大切なビードロ玉を割って、少年を泣かせました。
今枝君なら、風邪を移されても文句はいえない、と少年は思いました。
しかし、同時に、少年は思い出しました。
彼は、少年のビードロ玉のお詫びに、カブトの幼虫を獲ろうと危険な冬の山に入り、迷子になって深夜まで山の中で凍えていたのです。それを思うと、彼には、どうしても移そうと思えなくなりました。
次に、思いついたのは、葵さんでした。
葵さんは、聞くところによると英国人の父と日本人のハーフのようで、白い金髪が自慢の少女でした。
彼女は、貧しいこの村には、とても似合わない村の端の屋敷に住んでいる、村の中では飛び抜けたお金持ちでした。
ですから、葵さんなら、風邪を移されても、お医者様に診てもらえるだろう、そう少年は思いました。
しかし、少年は、やはり、彼女には移せない理由がありました。
葵さんは、少年が五つにもならない頃、遊び相手のいない少年と唯一、一緒にいてくれた優しいお人なのでした。
少年は、その後も、この人は、あの人はと、考えあぐねましたが、これといった答えに辿り着く事はできませんでした。
お昼の3時を越えた頃でしょうか。
少年の家の門口が、コンコン、コンコン、と叩かれました。
少年は、力を振り絞って、何とか玄関まで行って、門口を開けました。
すると、そこには、担任の鈴木先生と、今枝君、そして葵さんが、心配そうな顔をして立っていました。
“2人とも、吉木君を心配してお見舞いに来てくれたのですよ
と、鈴木先生はいいました。
それを聞くと、少年は、安心したのと、力尽きたのがあって、その場に倒れ込んでしまいました。
少年が、目を覚ますと、目の前には、葵さんが、少年の顔を覗き込んでいました。
’先生と今枝君は、帰ったのですか?
と、少年が聞くと、
“先生は、吉木君を布団まで運ぶと、後を私達に任せてお帰りになりました。今枝君は、吉木君の為に西口のおばさんに蜂蜜を貰いに行っていますよ。
と、葵さんは答えると、少年のおでこから水しぼりを取って、少年のおでこをお姉さんのように撫でました。
それを聞くと、少年はますます悪い事をしたと、自分の罪悪感に苛まれました。
熱がまだあるからか、葵さんの手は、氷のようだと、少年は思いました。
少しすると、今枝君が蜂蜜の瓶を持って帰ってきました。葵さんは、今枝君からそれを受け取ると、何やら、小さな台所の方に向かいました。
少年は、今枝くんと2人きりになりました。今枝君は、ただ黙って、少年を見守っていました。
少年は、ついにやましいのに耐えられなくなって、心のうちを、自白しました。
それを聞いた今枝君は、いたずらっぽい顔で
“その、風邪は移せば治るって言った友達っていうのは、俺の事だぜ
と、いいました。
それを聞いた少年は、急に体が軽くなるのを感じました。
そして、2人で、笑い合いました。
葵さんは、戻ってくると、干し梅を蜂蜜で煮込んだものを、スプーンですくって、少年の口に運んであげました。
少年は、それを食べると、そのまままた眠ってしまいました。
*
それから、ずいぶんと時は流れ、少年は、立派な大人になりました。
しかし、それでも、この時の事を稀に思い出します。後になって気付いた事ですが、少年に、風邪は移せば治るといったのは、今枝君ではなくて、今枝君のひとつ下の弟でした。
しかし、その事を彼に言っても、
“そうだったけなぁ
と、はぐらかすばかりでした。
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