黄耳寄書
三国時代が終わり、司馬氏が天下を統一した晋の世のことである。
かの呉の陸遜の孫である陸機も晋に仕える身となっていた。
故郷の江南を離れ遠く洛陽に出仕すると、陸機の頭に浮かぶのは残してきた家族のことばかり。
郵便などという洗練された制度のない時代のことである。
陸機は家族と音信不通になっていたのだ。
「こう離れていてはのう。誰ぞ私のために家族へ手紙を届けてくれるものはいないだろうか」
そう呟くと足元から元気のいい、ワン、という声が聞こえた。
それは江南から連れてきた愛犬の黄耳の声だった。
「ははは、お前が届けてくれるとでもいうのか」
黄耳は黒い目で陸機をじっと見つめ、もう一度鳴いた。
「賢い犬だとは思っていたが……お前は私の話がわかるのだな」
陸機は手紙をしたためると、それを竹の筒に入れて黄耳の首に括り付けた。
黄耳は江南の方角を見据え、一鳴きするや駆け出した。
◇
黄耳は昼夜を問わず飛ぶように走ったが、時に空腹に耐えかねて民家の前にうずくまることもあった。
家の子供が黄耳を見つける。
「おとう、なんか犬コロが家の前で腹ぁ鳴らしとるよ」
子の父親が出てきて検分すると首の竹簡には文字が書いてある。
「なになに“主人の手紙を届けるために奔走している孝行者の犬です。どうか一飯をお恵みくださり、便宜を図ってくださいますようお願い申し上げます。 陸機 拝”。こりゃあ、おどろいたの」
子の父親が残飯を恵んでやると、黄耳は頭をちょこんと下げて、尻尾を振り、一鳴きして走り出した。
やがて大河にさしかかり、黄耳は船の渡し場に駆けていった。
黄耳は渡し守の老人に向かって一鳴きすると、後ろ脚で立って、首の竹筒を見せつけるようにした。
「なんだあ、犬っころ。おめえ、この舟にのりてぇのか」
黄耳はまた元気に一鳴きする。
◇
黄耳はある大きな屋敷の門の前でくるくると周り、何度も鳴く。
門を開けて、中年の女が出てきた。
「なんだい、あら、お前は黄耳じゃあないか。洛陽からここまで来たのかね」
女は陸機の妻であった。
家中の者は黄耳の首の竹筒に気づくと、大層驚き、また喜んだ。
陸機の妻は黄耳の労を労って豪勢な食事を用意させたが、黄耳は口をつけようともしない。
ただ、陸機の妻が持つ竹筒を見つめているのである。
「ああ、返事を書いてくれと言いたいのかい。もちろん書くから、安心してお食べなさい」
陸機の妻が筆を取ると、ようやく黄耳は食事をとった。
そして、陸機の妻が首の竹筒に手紙をくくりつけると、今度は洛陽の方角を見つめて一鳴きし、走り出した。
黄耳はやがて洛陽にある陸機の宅にたどり着いた。
陸機もまた黄耳の労を労い、豪勢な食事をふるまった。
陸機の驚いたのは黄耳が立派に任を果たしたことだけでなく、その速さについてもである。
洛陽から江南までは五十日かかると言われていたが、黄耳が出発して戻ってくるまでに半月しか経っていないのだ。
感服した陸機は、家族との書簡のやり取りを常に黄耳に任せるようになった。
◇
そんな事が何年も続き、やがて黄耳は老いてきた。
すっかり老け込んで身体の毛がぼさぼさし、脚も萎えてきた。
しょぼくれた黄耳を見て、陸機は手に取った竹筒をおろした。
「お前は今までよくやった。もうよしておこう」
黄耳は悲しげな目で竹筒を見つめると、オオーウ、と吠えた。
「まだ行ける。そう言いたいのか」
陸機は不安を感じながらも、黄耳の首に竹筒を括り付けた。
黄耳はまた江南の方角を見つめ、一鳴きすると走り出した。
その足取りは往年の頼もしさを感じさせる、しっかりとしたものであった。
黄耳は江南にある陸機の屋敷にたどり着き、そして手紙を受け取った。
食事を残した黄耳を見て、陸機の妻も心配になった。
「黄耳や、お前も歳なのだから、無理をするでないよ」
黄耳はまた、悲しげに吠えて、洛陽に向けて走り出した。
大河を超え、江南の地に脚を踏み入れる。
薄暗い湿原に、ぬっと黒い影が現れた。
長い打ち棒を持った、ずんぐりとした男である。
男はにやりと笑い、棒を構えた。
暗闇に男の黄色い歯が不気味に輝いていた。
「犬畜生、おらのために銭になれ」
男は野犬を打ち殺して肉屋に売り飛ばす犬殺しであった。
振り下ろされる打ち棒を一度は交わす黄耳だったが、二度三度と繰り返される内に、ついに打ち棒が黄耳の背を打った。
倒れた黄耳の身体を犬殺しは執拗に打ち、やがて黄耳は動かなくなった。
「おや、首についてるのはなんだあ。金目のものか」
倒れ伏す黄耳の首の竹筒に犬殺しが手をかけると、黄耳はカッと目を見開き、犬殺しの指に噛み付いた。
悲鳴を上げる犬殺しの隙をついて、黄耳は再び走り出した。
洛陽にある陸機の邸宅にたどり着いた時、黄耳は皮が破れ血を流して、既に虫の息であった。
「ああ、黄耳、黄耳。あの時お前を行かせるべきではなかった。すまない。私を許してくれ」
陸機が黄耳を抱き上げると、黄耳は涙でぐしゃぐしゃになった陸機の顔をぺろりと舐め、そして生き絶えた。
陸機は皇帝に暇を願い出て、故郷の江南の地に黄耳を葬った。
その地は現在、黄耳塚と呼ばれている。
中国において家族に手紙を送ることを黄耳寄書と呼ぶのには、このような由来があるのだった。