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黄耳寄書

 三国時代が終わり、司馬氏が天下を統一したしんの世のことである。

かの呉の陸遜りくそんの孫である陸機りくきしんに仕える身となっていた。

故郷の江南を離れ遠く洛陽に出仕すると、陸機の頭に浮かぶのは残してきた家族のことばかり。

郵便などという洗練された制度のない時代のことである。

陸機は家族と音信不通になっていたのだ。


「こう離れていてはのう。誰ぞ私のために家族へ手紙を届けてくれるものはいないだろうか」


そう呟くと足元から元気のいい、ワン、という声が聞こえた。

それは江南から連れてきた愛犬の黄耳こうじの声だった。


「ははは、お前が届けてくれるとでもいうのか」


黄耳は黒い目で陸機をじっと見つめ、もう一度鳴いた。


「賢い犬だとは思っていたが……お前は私の話がわかるのだな」


陸機は手紙をしたためると、それを竹の筒に入れて黄耳の首に括り付けた。

黄耳は江南の方角を見据え、一鳴きするや駆け出した。


 黄耳は昼夜を問わず飛ぶように走ったが、時に空腹に耐えかねて民家の前にうずくまることもあった。

家の子供が黄耳を見つける。


「おとう、なんか犬コロが家の前で腹ぁ鳴らしとるよ」


子の父親が出てきて検分すると首の竹簡には文字が書いてある。


「なになに“主人の手紙を届けるために奔走している孝行者の犬です。どうか一飯をお恵みくださり、便宜を図ってくださいますようお願い申し上げます。 陸機 拝”。こりゃあ、おどろいたの」


子の父親が残飯を恵んでやると、黄耳は頭をちょこんと下げて、尻尾を振り、一鳴きして走り出した。

やがて大河にさしかかり、黄耳は船の渡し場に駆けていった。

黄耳は渡し守の老人に向かって一鳴きすると、後ろ脚で立って、首の竹筒を見せつけるようにした。


「なんだあ、犬っころ。おめえ、この舟にのりてぇのか」


黄耳はまた元気に一鳴きする。


 黄耳はある大きな屋敷の門の前でくるくると周り、何度も鳴く。

門を開けて、中年の女が出てきた。


「なんだい、あら、お前は黄耳じゃあないか。洛陽からここまで来たのかね」


女は陸機の妻であった。

家中の者は黄耳の首の竹筒に気づくと、大層驚き、また喜んだ。

陸機の妻は黄耳の労を労って豪勢な食事を用意させたが、黄耳は口をつけようともしない。

ただ、陸機の妻が持つ竹筒を見つめているのである。


「ああ、返事を書いてくれと言いたいのかい。もちろん書くから、安心してお食べなさい」


陸機の妻が筆を取ると、ようやく黄耳は食事をとった。

そして、陸機の妻が首の竹筒に手紙をくくりつけると、今度は洛陽の方角を見つめて一鳴きし、走り出した。

黄耳はやがて洛陽にある陸機の宅にたどり着いた。

陸機もまた黄耳の労を労い、豪勢な食事をふるまった。

陸機の驚いたのは黄耳が立派に任を果たしたことだけでなく、その速さについてもである。

洛陽から江南までは五十日かかると言われていたが、黄耳が出発して戻ってくるまでに半月しか経っていないのだ。

感服した陸機は、家族との書簡のやり取りを常に黄耳に任せるようになった。


 そんな事が何年も続き、やがて黄耳は老いてきた。

すっかり老け込んで身体の毛がぼさぼさし、脚も萎えてきた。

しょぼくれた黄耳を見て、陸機は手に取った竹筒をおろした。


「お前は今までよくやった。もうよしておこう」


黄耳は悲しげな目で竹筒を見つめると、オオーウ、と吠えた。


「まだ行ける。そう言いたいのか」


陸機は不安を感じながらも、黄耳の首に竹筒を括り付けた。

黄耳はまた江南の方角を見つめ、一鳴きすると走り出した。

その足取りは往年の頼もしさを感じさせる、しっかりとしたものであった。

黄耳は江南にある陸機の屋敷にたどり着き、そして手紙を受け取った。

食事を残した黄耳を見て、陸機の妻も心配になった。


「黄耳や、お前も歳なのだから、無理をするでないよ」


黄耳はまた、悲しげに吠えて、洛陽に向けて走り出した。

大河を超え、江南の地に脚を踏み入れる。

薄暗い湿原に、ぬっと黒い影が現れた。

長い打ち棒を持った、ずんぐりとした男である。

男はにやりと笑い、棒を構えた。

暗闇に男の黄色い歯が不気味に輝いていた。


「犬畜生、おらのために銭になれ」


男は野犬を打ち殺して肉屋に売り飛ばす犬殺しであった。

振り下ろされる打ち棒を一度は交わす黄耳だったが、二度三度と繰り返される内に、ついに打ち棒が黄耳の背を打った。

倒れた黄耳の身体を犬殺しは執拗に打ち、やがて黄耳は動かなくなった。


「おや、首についてるのはなんだあ。金目のものか」


倒れ伏す黄耳の首の竹筒に犬殺しが手をかけると、黄耳はカッと目を見開き、犬殺しの指に噛み付いた。

悲鳴を上げる犬殺しの隙をついて、黄耳は再び走り出した。

洛陽にある陸機の邸宅にたどり着いた時、黄耳は皮が破れ血を流して、既に虫の息であった。


「ああ、黄耳、黄耳。あの時お前を行かせるべきではなかった。すまない。私を許してくれ」


陸機が黄耳を抱き上げると、黄耳は涙でぐしゃぐしゃになった陸機の顔をぺろりと舐め、そして生き絶えた。

陸機は皇帝にいとまを願い出て、故郷の江南の地に黄耳を葬った。

その地は現在、黄耳塚こうじづかと呼ばれている。


中国において家族に手紙を送ることを黄耳寄書こうじきしょと呼ぶのには、このような由来があるのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章がとても読みやすかったです。 黄耳の感情が見えるような気がしました。 [一言] 陸抗の子で、陸遜の孫である陸機のことは知っていましたが、このお話は初見でした。 それにしても、洛陽と…
[良い点] 秋の公式企画から拝読させていただきました。 泣ける、とても良いお話でした。 優しい黄耳は言葉として残ったのですね。
[良い点] 陸遜の孫にこんなエピソードがあったんですね。 黄耳の忠節と誇りに感動しました。 [一言] 少し異なる話ですが、昔の見たアニメ『まんが日本昔話』の『犬の碑の話』を思い出しました。 そちらの…
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