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「南で『鉄羽根』と『運命』が再びぶつかり出したそうだぞ」
「大丈夫なのか、『鉄羽根』は」
与えられた私室の扉の外で、声高に話す者がいる。
アリオは臥せっていたベッドからゆっくりと体を起こした。
侍女はうるさく言うので追い出してしまった。『氷の双宮』への避難が始まっている、すぐさまお向かい下さいませ、と何度も何度もしつこいぐらいに言い募ったので、それほど怖いなら出て行っておしまいと叩き出したのだ。
ミダス公の屋敷には多くの侍女が残っていたし、主人亡き後もセシ公が手配を怠らず、人の気配は日増しになくなっていくが、それほど不自由は感じない。何より、アシャの側に、あのレアナとか言う辺境の礼儀知らずの小娘が侍り続けているのに、どうしてアリオがさっさと身を引くことができよう。
確かにアシャは長く病床にあり、いささか窶れた気配もあるが、それでも衣装を改めれば、その美しさは全く衰えていなかった。むしろ儚げで妖しげな気配も加わり、アリオの胸に強く焼け付くような思いを与えるほどだ。今は『氷の双宮』で敵味方を区別すると言う厳しい任務についているが、それだからこそ憩いと癒しを求めに、いずれはきっとアリオの元にくるはずなのだ。そうでなければならないし、そうであるべきだ。なぜなら、アリオは『西の姫君』、ラズーンにあってもその人ありと褒め称えられ続けた美貌なのだから。
「雨が降ってきている」
「恵みの雨となると良いが」
扉の外の無礼な会話は続いている。
「ジーフォ公もついに前線に出られたらしい」
「四大公が欠けていくばかりではないか」
ジーフォ公が欠ける?
アリオは思わず薄く微笑んだ。
アリオを欲し、アリオを束縛し、アリオの人生を歪めてしまう、あの男が。
アシャがいなければ、多少の拠り所とはなったろうが、アシャがいるならば話は別だ。レアナに我が物顔に振舞われるのも、アリオがあの無骨な男のものだなどと認識されているからだ。
「いっそ、散って仕舞えば良いのに」
あの男は戦いが好きなのだ。血の臭いを喜び、剣を振り回して武功を立てれば女が寄ってくると思い込んでいる馬鹿者だ。ましてや、アリオを手に入れるために、武功などは意味がないと何度言ってやってもわからない。戦果を挙げる度に、今度はどこのならず者を抑えた、どのように競り合って勝ち、どのように賞賛されたと話をしてくる。
そう言えば、一度雨の中での戦いの難しさを話していた。けぶる視界、体温を奪う氷雨、足元はぬかるみ、剣の切れ味も鈍り、馬は疲れ切り、声は通らない。士気を高め、戦術を練り、体力を温存しながら戦い続けることの厳しさ難しさ、だが、それを凌いだ時の達成感は何物にも代え難いのだ、と。
私よりも、と尋ねたものだ。いつもは聞き流すだけなのに。
私を手に入れることよりも、喜ばしいものですか。
ジーフォ公は明かりに向けていた顔を、ゆっくりと振り向けた。底光りするような瞳だったと覚えている。背筋が寒くなるような強い視線だったとも。戒められると思った。押し倒され、奪われるとも。
けれども、その瞳をジーフォ公は伏せた。
そなたは手に入らなくて良い、と静かに応じた。
ただそこに居てくれたことが、勝利の証なのだと。
窓の方を見やった。
先ほどまでは晴れていた。明るい日差しが差し込み、アリオの判断全てを正しいと後押ししてくれているように感じた。
だが今は?
日差しが陰り、薄雲が空を覆い、冷たい風が吹き下ろしている。
ジーフォ公が欠ける。
侍女は追い出した。
アシャにはレアナが侍り、統合府ラズーンからは人が消えていく。
この先は、どこに繋がっているのだろうか?
「…っ」
アリオはベッドを滑り降りた。扉に近づき、一気に引き開ける。
驚いたように身を引く二人の兵士が居た。見たことがない気もしたが、そもそも下級兵士の顔など覚えていない。誰であろうと良い、質問を聞く耳と答える口があるなら。
「今の話を聞かせなさい」
「…え」
「南で『鉄羽根』と『運命』とやらがぶつかり出したのですか」
「あ、あの」
「私はアリオ・ラシェットです」
「ああ、ジーフォ公の」
なんと忌々しい称号か。
「ええ、そうです。しかし、ご安心下さい」
若い兵士が笑った。
「ジーフォ公は百戦錬磨、『鉄羽根』のテッツェは無限の策を繰り出せます。『運命』がどれほど攻め寄ろうとも、ラズーンの門は通しますまい」
それでは困る、と胸の中で囁く声がした。
ジーフォ公が見事に『運命』を防ぎ切っては、『太皇』の覚えもめでたく、アリオがジーフォ公に嫁ぐことを誰もが喜ばしいと言うだろう。しかし、ジーフォ公が南の戦地で果てれば、アリオは愛する婚約者を失った哀れな女性、庇護が必要なのは自明の理、アシャとて無視するわけにはいかなくなるはずだ。
「…それでも心配なのです」
アリオは訴えた。
「無事なお姿を一目見たい、そう願ってしまうのは無謀でしょうか」
「…それは…」
ちらりともう片方の兵士が若い兵士を見やる。
「お気持ちはお察しします、しかし戦場へ姫が出向かれるのは無理なことです」
「遠くからでも、無理でしょうか」
アリオは両手を組んで強請る。
「あそこにおられると、見るだけでも……それだけでも夜の眠りが得られそうで」
「……ご心配、なのですね」
若い兵士が目を細めた。何かを考え込むような顔になり、
「……ひどく遠くになりますが」
「構いません」
「雨が降っております」
「濡れるのも覚悟です」
この先の自分の未来が、少しでも明るくなるのなら、多少の汚れは我慢するしかないだろう。
「…では、我らと共にいらっしゃいますか」
若い兵士は頷いた。一瞬瞳が妙に揺らいだようにも見えたが、幻だったのだろう、すぐにまっすぐアリオを見つめてくれた、熱心に真摯に。
「実は我々はジーフォ公に合流する隊に属するものです」
こちらへ、と導かれるままにアリオは歩き出した。
「南の戦いを少しでも支えようと、セシ公に命じられて、これから出ようしているのですが、遊軍として極秘に動くことになっております」
「あなたは運が良かった」
もう一人が感慨深げに呟いた。
「お一人では戦地に向かうのは無理だったでしょうから」
「ええ、ええ、本当に」
アリオは出来るだけ、艶やかに微笑んで見せる。
「幸運でした、お二方のお話を聞けて」
「中にいらっしゃるとは思わなかったのですよ」
「扉も閉まっておりましたし」
「侍女の姿も外にはなく」
「てっきり空き部屋とばかり思っておりましたので」
交互に語る二人の兵士に導かれて、アリオは進む、今まで歩いたことのない回廊を、薄暗く明かりが灯されていない理由を、密かに旅立つための準備と疑いもせずに。人の気配が全くしないのを、すでに使われていない部屋部屋があるためだとも考えずに。
そうして、なぜ、遊軍を密かに差し向けるような状況だったのに、この二人だけがアリオの部屋の前で、たまたま、南の戦況の話を声高に語っていたのかも不思議に思わずに。
「さあ、ご覧下さい」
「あなたをお守りして進む部隊ですよ」
薄暗い廊下を抜けた扉の向こうに、数十人の集団が居た。雨が降り始める中、それぞれに重い旅装を身につけて、長旅をしてきたようにも思える姿、フードを深くかぶっているのは、雨も予想していたせいか。
誰とも視線が合わない。
不意にアリオは立ち止まった。
「どうされました?」
若い兵士が訝る。
「何かご不安でも?」
もう片方の兵士が覗き込む。
「いえ、あの」
このまま進んではいけないのではないか。
初めてアリオは疑った。
「余りにも、多くの方が、おられたので」
「それはそうでしょう」
くすりと若い兵士が笑みを漏らした。黒い髪を掻き上げる。瞬きした瞳が、一瞬うす赤く光った気がした。
「あの、私、準備、そう、準備が必要なものを忘れました」
「大丈夫ですよ。すぐに戻れますから」
「戻れる?」
「当たり前ではないですか。『西の姫君』を戦地へお連れするのに、それほど長くお留めするはずもない、戦場は危険ですから」
若い兵士は笑う、人懐こく、明るく穏やかに。
「さあ、お手を」
差し出された掌を、アリオは凝視した。
いけない。
この手をとってはいけない。
拳を握って身を翻そうとした矢先、
「先ほどレアナ姫にもお声掛け頂きました」
若い兵士は歌うように話した。
「我らの任務を労って下さいました、白く綺麗な指先を頂き、力づけられました」
「私も」
アリオはきっと振り返った。
「あなた達を鼓舞できますわ」
「ええ、もちろん」
若い兵士が頷く。
「アリオ様の指は、我らを見事にまとめあげ、導かれることでしょう」
おい、みんな、と若い兵士は声を張り上げる。
「アリオ様が来て下さったぞ。我らに勝利を下さるために!」
数十人がゆっくり振り返り、静かに拝跪の礼を取る。
「どうぞ、アリオ様」
差し出された手にアリオは指先を預けた。
ひやりと冷たい、人の温もりのない掌を、アリオは雨のせいだと言い聞かせる。
垂れ込めた雲は大粒の雨を振り落とし始めた、頬を伝う哀れみの涙のように。