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ゆっくりと空が雲に覆われていく。
「嫌な雲行きになってきたな」
落ち着かぬふうで首を上げ下げする平原竜の首を叩きながら呟いたユカルは空を見上げ、溜め息をつきながらシートスのいる天幕に入った。
「南はどうだった?」
ユカルを見たシートスが、黄色の虹彩を光らせる。
「まだ動いていません」
「あの小競り合いの後、対峙したままということか」
ユカルは頷いた。
「どうも動きが読めんな」
野戦部隊が待機するわずか外側、スォーガ南方あたりで『運命』と『鉄羽根』がぶつかったという連絡が届いてから、既に二日たっている。
『運命』軍を今回率いるのは、クェトロムトの王シーラと、遠方カザドのカザディノ両名、軍自体は各々の軍を合わせた構成のようだ。
「国を放ってユーノを追撃にかかるとはな。カザディノという男もしつこい」
「セレドに居た頃からの恨みが重なっているんでしょう」
ユカルは一口水を飲んで、思い悩む口調になった。
正直なところ、じれったい。できることなら、今すぐにでもユーノの側へ飛んで行って、その片腕としてでも働きたい。
だがラズーンにはセシ公が居てアシャが居る。ユカルごときの出る幕はない。
「『運命』本隊の気配がないのが嫌な感じだな」
「隊長」
「ん?」
「アシャは……本当に大丈夫、なんでしょうか」
シートスは鋭い目をユカルに向けた。水を呑んだ姿勢のまま、ユカルは続けた。
「アシャは…『魔』になっていないんでしょうか」
まっすぐ正面を見据えたまま、シートスの方は振り向かない。
「あれほどの男が…『魔』になったとしたら…」
そしてユーノがそれに気づかなかったら。
続くことばを呑み込んで、ユカルは黙りこくった。
「…簡単なことだ」
シートスはうっすらと笑った。父親じみた声音で、
「俺達は滅び、ラズーンは崩れる。それだけのことだ」
「そんな……そんなことが許されるんでしょうか」
ユカルはきっとした顔で振り返る。額帯の下から睨みつけるのを、シートスは目を細めて見返す。
「世を乱す悪が勝って……『魔物』が勝って、正義が負けるなんて。俺達が負けるなんて。そんなこと…俺達じゃ…」
ふっとことばを切り、唇を引き締めて続ける。
「俺達じゃ、何も出来ないっていうんでしょうか」
ことばの裏に澱んだ気持ちを,勿論シートスはわかっている。
俺達は、おれは、ユーノの力になれないというのでしょうか。
ユカルは心の奥で、そう尋ねている。
「物事…特に戦には、正義も悪もないのだ、ユカル」
シートスはゆっくりと応えた。
「戦が起これば命が消える。起こらずに済むなら戦なんてない方がいい。だが…」
どこか遠くを見る眼になったシートスに、ユカルは苛立つ。
「起こってしまった戦にいいも悪いもない。そこにあるのは、していいことと悪いことがあるだけ、個人の胸の中にあるだけだ。だから、出来るか出来ないかということもあまり意味がない。出来ても悪いこともあるし、出来なくてもいいこともある」
シートスは再びユカルに目を据えた。
「ユカル。今、お前がしようとしていること、考えていることは、していいことか、それとも悪いことか」
ユカルはぎくりと体を震わせる。
「お前が守ろうとしている大切なものの前で、胸を張って伝えられることか、報告して恥じないことか」
俯いてしまったユカルにシートスは苦笑した。
「『魔』が勝つということは、してはまずいことをできるからしてしまうってことだ。ユカル、お前の中にも『魔』は居るぞ」
ユカルは再び黙ってしまった。身内に寒々とした暗がりを感じるのは気のせいだろうか。
「降ってきたか…」
シートスの呟きに重なるように、天幕に雨音が響き始めた。