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「く…う…くそっっ」
震えていた足がようやく治ってきて、ユーノはよろよろと立ち上がった。
異臭が酷い。上半身を吹き飛ばされ炎に焼かれた体が、今更のように絡みつくような悪臭でユーノを取り囲む。歯を食いしばり、鼻を押さえて何とかその場から離れたが、もちろんアシャの姿はない。
「止めなくちゃ…」
アシャが何をするつもりなのか、口には出さなかったが、遣り口を見ればはっきりしている。『氷の双宮』へ退避は済んだのだろう。内壁の中に残っているのは基本的には敵だ。殲滅する、それ以外のことは考えていない。けれどひょっとしたら、さっきの少女のように、逃げ遅れたりした者がいるかも知れない。大切なものを護るために残っている者がいるかも知れない。さっきのような火力で周囲を焼き払うなら、救うべき民まで失ってしまう。
でも、どうやって。
「…」
あの炎を防げる手立てなどないだろう。ただ、ユーノは焼かなかった。それが唯一の反撃のきっかけだ。
「…アシャの気持ちを利用するなんて…あんまりだけど」
少しでも仲間だと加減をしてくれる、その隙に付け込むしかない。
手近の使えそうな剣を見繕って、南門の方向を振り返った。さっきの騒乱で『野戦部隊』はまだ待機しているかも知れない。馬も失った今、一人でうろつくには分が悪すぎるし、何よりもブチ切れたアシャとシートス達がぶつかるのも困る。
「索敵しながら南門に戻って、シートス達と合流、が現実的か」
溜息混じりに警戒しながら歩き出すと、脳裏にカザディノの狼狽えた様子が思い浮かんだ。
『……戻れぬ………戻れない……なぜだ……戻れぬ……このままでは……死ぬ……シリオン……戻れると言ったのに……どういうことだ……どういうこと…………戻れ………』
事前の約定では、カザディノの『中身』は移動しただけ、『運命』の体を借りてあの場に居ただけ、体の命が尽きる前に本体に戻れて死なないはずだった。けれど、手違いか何かで戻れなくなり、カザディノはあの体と共に命を失った。
「あ…」
違う、のか?
今まで『運命』に体を乗っ取られた人々の姿が思い浮かぶ。
今までユーノは、『運命』は外側と内側を切り離し、人の中に潜んで体を操るのだと思っていた。けれど、カザディノのことばによれば、中身を『入れ替える』ことができ、しかもその『入れ替え』を戻すことも戻さないこともできる。
「そうか…」
だからアシャは『氷の双宮』に入る人間の選別が必須だとしたのだ。今まで倒してきた『運命』が中身ごと滅びていたのではなく、『運命』の強靭さを持ったまま戦えるようになった『人』だった可能性があり、それは同時に平穏な生活を営む『人』の中に『運命』の中身が生き残っているということを意味している。
アシャは『それ』が『氷の双宮』に残ることを許さなかったということだ。
「徹底して…『運命』を排除した……のか」
唐突に脳裏を透明な筒に入って浮かんでいる幾つもの体が過った。全ての存在を再生し続ける不可思議な装置、人の未来をつなぐ場所、『氷の双宮』。それは本当に『人』だけのものだったのか。
ぐにゃりと不愉快なものが載せられた気がして、思わず首を手で拭い、汗に湿ってはいるが、いつものようにぴんぴんと跳ねる髪に触れ、
「…え?」
瞬きする。
「焦げて…いない……?」
まさか。あれだけの炎、あれだけの熱量、周囲の体が全て炭化するほどの火が、渦中のユーノの髪の毛を焦がしもしていない?
慌てて髪の毛を掴んだ指先の匂いを確かめるが、焦げ臭さは微塵もない。それとも周囲の異臭にユーノの鼻が効かなくなっているのか。
ごう、と激しい音が響いて右斜め前から金色の炎が吹き出し、思わず立ち止まる。相変わらず全身包むような強い熱、けれど一瞬その舌先が舐めたと見えた指先が無事だったのをじっと眺める。勘違いか、それとも。ゆっくり炎が広がる周囲を見つめる。微かな違和感、何かがおかしいと感じたが、その何かがよくわからない。確かに燃えている、家屋が焦げて崩れていく。火の粉を吹き出し壊れる屋根、砕け落ちて地面に落ち、咲いていた可憐な花がぐしゃりとひしゃげる。まだ燃える家の間で、潰れた花の花弁が弱々しく風に弄ばれて揺れている。再びの違和感。なぜ? 何が?
だが、考えがたどり着く前に、その先に広がる光景に視線を奪われた。
「燃えている……? え? …なんで…『氷の双宮』が…?」
かつてアシャが凱旋した時の大通りだろうか、真っ直ぐに伸びる先に鮮やかな金色と朱赤の炎が躍り上がりつつ『氷の双宮』を囲んでいる。夜空を焦がし、誰一人通すことない炎の絶壁、その中にどんな命が生きることも許さぬような。
「そんな……何が…一体…」
イルファやレスファート、レアナの顔を思い浮かべて呆然とした。
アシャの放った炎は『運命』を葬るためではなかったのか。それとも、魔に堕ちて『運命』側に与し、先ほどユーノを助けたのは、気まぐれ或いは数瞬の哀れみの結果だったのか。
答えを得ようと必死に周囲を見回すユーノの視界に、道を横切る一つの影が飛び込んできた。ゆらゆらと頼りなげに、周囲の熱に押され引きずられていくように、危うげに足を運ぶ影は、炎に巻き起こる風に金の髪を舞わせている。時々思い出したように、ふわりふわりと両手を翻らせると、その指先から、腕から、輝く光の筋が炎の中でも煌めきながら飛び散って、周囲の炎をより高く激しく燃え上がらせた。
「アシャ……」
何をしている。
「アシャ……!」
一体、何を、しているんだ。
「アシャーっ!!」
叫びつつそちらへ駆け出した矢先、予想外の方向から、家の間を抜けてきたのか炎が吹き出した。一気に行手を遮り、目の前を金色に染める。
「っっ!」
「危ないっ!」
顔を歪めて身を引いたが間に合わない、覚悟を決めた瞬間、飛び出してきた塊に弾き飛ばされて一緒に道向こうまで転がった。