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「…静かだ」
冷ややかな床を踏みながら、セシ公は呟く。
『太皇』を探すとは言い訳で、ただ一人になりたかったのかも知れない。
「ラズーンが滅ぶ…?」
謎を暴きたいとは思っていた。真実を知りたいと願っていた。全ての手立てを操ってもなお、閉ざされた扉の向こうに何があるのか確かめたいと、ずっとずっと考えていた。政情の惑乱、世界に広がる不安を巧みに利用して、誰より早く、誰より深く、隠されたものに近づこうとした。
「…違う…」
セシ公は立ち止まる。
「そんな策を、アシャは選ばない…」
周囲を見回す。
『氷の双宮』への籠城。
それが示すただ一つの答えは。
「既にラズーンは勝利した、と言うことだ」
なぜだ?
周囲を敵に取り囲まれ、自らを炎で閉ざし、兵を削られ、民を失い、生きる術さえ限られているようにしか見えないこの状況なのに。
ごくりと干上がった喉に無理やり唾を呑み込む。眩みかけた視界を瞬いて取り戻す。頭の中心が鈍く痺れている。覚えがある感覚だ、ただ一つの真実に近づきつつあると言う確信。
「…『氷の双宮』に籠城できた時点で、ラズーンの勝利は確定した……?」
だからこそ、アシャは『金羽根』を回収し、できる限りの民衆を収容した『氷の双宮』から離れた。周囲に残った敵を殲滅するためだと想像はつく。
大胆な策を弄するが、無謀な策は組まない、それがアシャと言う男のやり方だ。
しかも、その中にセシ公を戦場から離して取り込んだのは、戦後処理を考えてのことだろう。『金羽根』を手足に、セシ公さえ残れば、『全てが終わった後』でもラズーンは息を吹き返せると考えてだ。
「っ…」
ふいに脳裏を過ぎった光景に、思わず背後を振り向く。
「選んだ…」
この場所からは門近くの広場は見えない。けれど、集められた民衆は、リヒャルティらが動いて、数日間、或いは数週間、ひょっとすると数ヶ月にわたる籠城を予想して、できる限り疲弊なく過ごせるように各々住居を定めているはずだ。その民衆からは、アシャ自らが選別して『運命』が排除されている。
「…『運命』を……排除することが重要だった、のか…?」
もちろん、自らのうちに敵を引き込むなど愚策の極みだ、だが、『金羽根』がそれほど損耗なく取り込まれているから、数人の『運命』など問題にはならないはずだ。
けれど、アシャは、僅かな損失さえ許さなかった。
徹底的に『運命』を減らし、『人』の数を確保することを優先した、とも言える。
「……」
ぞわりと全身に震えが走った。
「……『人』が一定数残れば、勝利だった、と言うことか……?」
それはどういう意味なのか。
「…セシ公」
「っっ」
のろのろともう一度『氷の双宮』の奥へ視線を向けて、セシ公は動きを止めた。
「『太皇』…」
白い衣を身に纏い、白い髭を垂らした穏やかな老人の風貌は、こんな有様だっただろうか。セシ公の動きを読んでいたかのように、行手を遮るように立ち塞がっている姿は、これほど大きく得体の知れない気配だっただろうか。
身なりも整えず、不安定に息を弾ませている自身を、いつもならば不敬と感じ準備不足を危ぶんだだろうが、壁の向こうに立ち上る、この世ならぬ炎の光景は、セシ公の良識を砕いていた。口は勝手に問いかける。
「お尋ねしたいことがある」
「…今、この時に?」
「今、この時でなければ」
もう一度痛む喉に唾を呑み込んだ。
「あなたは答えて下さるのか」
『太皇』は微笑んだ。慈愛に満ちた柔らかな笑み、まるで子どもが食ってかかるのを見守るような。
常々感じていた違和感が一気に胸に競り上がった。
四大公に任じられてから『太皇』の姿は変わらない。外へ出ることさえないのに、四大公が知るより先に、ラズーンで起こる様々な事象について知っている。自らの後継者を選びながら一向に教育を施さない。『運命』の暗躍を知りながら駆逐する手を打たない。第一正統後継者のアシャの放浪を許し第二正統後継者のギヌアを放逐し、なのに次の後継者を地方の姫でしかないユーノに定める。『泉の狩人』への圧倒的影響力を知りながら率いらない。世界の動乱に自ら立たず、四大公に指示もせず、視察官のみが命によって動き、様々な人間をラズーンへ連れ帰るが、なぜ必要なのか、何をしているのかわからぬままに、ある者は留め置かれ、ある者は帰国し、そしてある者は『氷の双宮』から戻ることもない。通常の政とは違う、何かの約束に従って行われている特殊な儀式。
四大公は中央にいるはずなのに、いつも真実から遠ざけられている、この感覚。
「教えてほしい」
問いは唇から迸った。
「私達は、一体何をしていたのか」
ラズーンの保持に最後の一兵まで果てよと言うなら納得もする。深慮遠大な策の元に、四大公が動かされたと言うなら諦めもする。
「あなたはずっと情報を集めていたが、それを何に使っていたのか。最後の策が籠城であるならば、なぜ兵達は…」
脳裏を満たす矢の突き立った友の背中。
「あんな場所で果てなくてはならなかったのか。籠城ならば、なぜ、このラズーンそのもので籠城してはいけなかったのか」
普段の自分なら、決して口にしない叫びが突いた。
「籠城すれば勝利できるなら、なぜ、カートは死ななくてはならなかった!」
響き渡る罵声に、はっと我に返る。
沈黙が渡る。
『太皇』の微笑みが、ゆっくりと消えた。
「……この動乱は、試金石だ」
「…試金石……?」
「この世界を、『人』と『運命』、どちらが継ぐのが相応しいか、と言う試金石」
「…何…を……?」
興奮して溢れた汗が、冷たい空気に晒されて、じわじわと渇き熱を奪う。
初めての問いがセシ公の胸に浮かんだ。
この目の前の老人は、本当に『人』なのか?
「ラズーン四大公の一人、セシ公よ」
真実に向き合う覚悟はできたか?
老人は目を細める。
頷いてはいけない。
これは『人』が踏み入ってはいけない場所だ。
入ったが最後、『人』であることを手放し、誤って繋げられた宙道のように、温もりと光のある場所に二度と戻れなくなる。
リヒャルティの笑顔が脳裏を掠めた。
失うつもりか、あの信頼を?
静かに息を吐く。体の芯が冷え冷えとする。俯いて自分が立っている場所が、ひどく磨かれた、まるで金属の一枚板のように見えるほど滑らかな床であることにようやく気づいた。
知っている限り、このような素材は、石でも木でも見たことがない。
「…そうか」
もう戻れない場所にいるのか。
「…付いてきなさい。『ハテノトショカン』に案内しよう」
付いてくると微塵も疑わない足取りで、『太皇』は向きを変えて奥へ歩き出す。
セシ公は顔を上げた。がたがた震えている足を踏み出しながら、静かに問う。
「『ハテノトショカン』とは何……いえ、どちらですか」
今なら何を尋ねても答えが得られるだろう。その先に命がないものに、返答を渋る理由はない。
「…記録の保管庫……とでも……ああ、最果てにある書庫、と言うような意味じゃよ」
かつて聞いた『太皇』の口調のままに、老人は優しくことばを返した。




