物語の書き方、物語はなぜ面白いのか
まずは簡単な方から。
物語の書き方、と大々的に銘打ったが、ほとんど書くことはない。
書きたいように書けばよい、である。ただし、書きたいように書いた物語が他人に高く評価されるかどうかは、保証の限りではない。
高く評価される物語を書くには、といえば、これもほとんど書くことはない。なぜなら、幸いなことに偉大な諸先輩方が「文章読本」を執筆されているからだ。谷崎潤一郎氏でも、三島由紀夫氏でも、井上ひさし氏でも、自分の好きな先輩方の著書を読んでいただけばよい。また、他の作者が書いた優れた作品を読む、ということも大切だ。
一点、補足しておきたい。書きたいように書けばよいとは言ったが、あまりに現代国語から外れている、文法がおかしい、誤字・脱字が多すぎるといった文章では、評価される・されない以前に、読者が読めないという事態が発生する。仮に読めても、そういった誤謬に気を取られ、肝心の文章の意図の読み取りが妨げられることにもなる。
他には、作者自身の方向性として、例えば”ら抜き言葉”のような言葉の変化をどう考え、どう扱うかということ、それよりも度々直面することとして、正しい送り仮名や適切な漢字の使い方を調べたいと思うこともあるだろう。
その際に、ぜひお勧めしたいのが、文化庁がネット上で公開している「国語シリーズ」である。読み物としてもどれも一級品であるが、中でもNo.21「公用文の書き方資料集」があれば、大抵の問題は解決するだろう。
そして、これが驚くところだが、この国語シリーズは昭和二十~三十年代作であるが、四捨五入して約百年が経った現代においても、ほとんど修正を必要とせずにそのまま使えるのである。これは、言語あるいは日本語の持つ美しさ、力強さ、文化の継承といったものの顕れということだろう。
さて、では難しい方の話に入ろう。物語はなぜ面白いのか。
いやいや面白い物語は理屈抜きに面白いだろう、何を今更、と諸賢は仰るだろう。確かにそうである。しかし、果たして本当にそうだろうか。
私が気になっているのは、物語とは、原理的に面白くないはずでは、ということだ。
拙著、物語の定義で、物語とはある人や組織等の全部又は一部の記録、とした。例えばこうだ
「私は今朝ご飯と味噌汁を食べ、昼は洗濯し、夜はパソコンを使った」等。
さてこの話は果たして面白いだろうか。物語として見た場合に、である。
現実のこの過去が面白かったかどうかは、体験者であり著者である私は知っている。しかし読者は、事実を推測することしかできない。しかも、ここで話題にしているのは、現実が面白かったかどうかではなく、ましてやドキュメンタリーや記録としての価値でもなく、第三者(読者)が物語として読んだとき面白いと感じるか、である。
原理的には、面白くないはずなのだ。
何故なら人間が書くことができる物語は、著者の能力、知識、経験、費やした労力に対する成果の範囲を超えられない、つまり、著者の限界内にある。あるいは稀には、奇跡的にその限界をちょっとは越えた作品があるのかも知れない。真偽の程は知らないが、黙示録というのは神の啓示をうけてイエスの使徒ヨハネが書いたものらしい。
しかし、仮にそのような物語があったとしても、物語は文字と言語という制約から逃れることはできない。絵画等の芸術作品であれば文字や言語の制約は受けないが、しかし今度は平面、色と明暗、線と面といった別の制約を受けることになるから、絵画もまた、画家の能力等の限界内にある。
有限の範囲に限られている創作物というものは果たして面白いだろうか。限界を越えられない息苦しさが見えるだけではないのだろうか。
究極の物語はこの自然、世界、宇宙そのもの、つまりは神の著作であろう。この物語は、現代の宇宙論では約138億年前のビッグバンから始まったということらしいが、現在も執筆中の物語である。
さてこの物語は面白いだろうか。
もちろん面白いのだが、面白いか面白くないかという範疇をはるかに超えてしまっているのは明白だ。我々がこの著作に対面するとき、そこには美醜、希望と絶望、生と死、そして愛と感謝といった全てに直面せざるを得ない。単純に面白いとか面白くないでは片付けられない。人間がどうこう評価するには、いささか崇高で精緻すぎる。
この宇宙(神の著作)に比べれば、人間が創作するいかなる作品、物語も色褪せて見える。当然(比較すれば)、面白くはない。
だがこれは、私が明らかに比較対象を誤っただろう。今回、考えていたのは、人間が作った限界内にある物語は果たして面白いのか、だ。方向修正、見る角度を変える必要がある。
前のほうで、面白い物語は理屈抜きに面白いのでは、と書いた。では逆に、つまらない物語は理屈抜きにつまらないのか。面白い物語とつまらない物語の中間の物語はあるのか。
それはつまり、面白い・面白くない、とは何か、ということに立ち戻る。
これも拙著から、物語が面白いかどうかは、読み手の目的にかなっているか、言い換えれば、読者が読んで楽しいと思うかに尽きる、とした。
ではここで、面白いか否かは快・不快であると仮定してみる。
そうだとするれば、中間の状態はあまりないだろう。某有名SF作品で、普通は読んでも面白くはない電話帳を興奮して読む、という話があったが、通常一般には、電話帳を読んでも面白いとは感じないだろう。何か、調べたい店や企業があるときには読むだろうが、それは面白いかどうかという話ではなくて、生活や仕事で電話番号を調べる必要に迫られて読んでいる状態だ。確かに、読み手の目的には適っているが、快・不快とは関係がないし、面白い、面白くないの中間の状態という訳でもない。
そうだとすれば、読者にとって物語の面白さとは、何なのか。生活や仕事の必要性に迫られてという話を除くならば、単に快・不快、つまりは最初のとおり、理屈抜きに読者が感じるところと言えそうだが、果たしてそれだけだろうか。
今回はひとつ、著者の希望的な、あるいは理想と思いたい見解を述べたい。
物語の面白さとは、読者の快・不快、読者がその作品に価値を与えるか否かである、というのは現実的な答えといえる。しかしそれだと、作者は一方的に作品を押し付け、読み手市場のトレンドに合ってればよしということになるし、また一方、読者は読者で自らの好みで作品を選択をし、作者の意図に関わらず良否を論じるということになる。
実に現実的な答えだが、一抹の寂しさを感じざるを得ない。著者も他の著者から見れば一読者であるし、読者がいつか作家になりたいと思うこともあるだろう。
そう、足りないのは親交、コミュニケーションではないだろうか、良いも悪いも含めて。
物語の一形態に手紙のやりとりがある(最近でいうとメールとかメッセージとかであろうか)。家族が親族を慮ってやり取りする手紙もあるだろうし、決闘状とか挑戦状とか絶縁状のような物騒な手紙もあるだろう。
小説などの物語の場合は特定の読者、特定の著者という意識は薄れるだろう。そうであるにせよ、温かな親交を伴う物語であれば、それは最高の楽しみではないだろうか。願わくばそうありたい。
しかし、やはり宇宙には適わないなと、水を差すのを忘れない著者である。余計なオチを書かなければいいのに。