(備忘録1)物語を書き、読むために必要となる時間に関する考察
物語の長短の章に関し、時間ということについて、蛇足ながらここで補足しておきたい。
自分の人生という物語は、1秒ごとに途切れることなく紡がれ続ける。現在の自分は、生まれてから今日までの過去の自分の集大成である。
では、自分の人生という物語の全部を読むための時間は、いかほど必要になるのであろうか。
なお、読むとは、読み、理解し、結果として人生の目的、何のために生まれて来たのか、ということを見出す、の意味である。
すぐに気づく点として、死ぬその瞬間までは人生の全部とはいえない、という点がある。
死ぬ瞬間の境界線をどう捉えるかは難しいが、おそらくは、自分の人生の全部は、自分が生きている間には自分には分からないのであろう。
もし、自分より先に生まれ、自分よりも長生きする者がいるとすれば、その者は自分の人生の全部を知る可能性がある。しかしその者にしろ、四六時中、自分と一緒にいる訳ではないし(いつも自分と一緒にいる者は自分自身である)、その者と自分は同一の存在ではないのだから、自分の全てを理解できる訳ではない。従って、自分の人生の全部を理解できる可能性があるのは、自分自身だけということになる。
だが前述のとおり、死の瞬間の境界線の観点から、それもできない可能性がある。そうなると、自分の人生の全てを読むということは、誰であっても不可能、ということになる。
さてこれは、正しい結論であろうか。何かを見落としてはいないだろうか。ここで少し、見る角度を変えよう。
あなたや私はまだ死んでいないが(もしかすると、そうでない方もおられるかも知れないが)、死の瞬間という問題を度外視するならば、現在までの人生という有限の期間であれば、これを読む方法はあるのではと期待される。
例えば、生後4週間の新生児の人生は、4週間だけに着目すれば可能ではないか、という訳である。
この場合、生まれて1日目は、次に2日目は…と、時系列的に過去を振り返る方法を使う訳である。4週間かけて、生まれてからずっと録画された映像があるならば、これを視聴すればよいだろう。
ところがこの方法では、過去を振り返っている間にも時は経過してしまうので、読み終わった次の瞬間には、またもや最初から読み直しが必要、という繰り返しとなってしまう。4週間かけて録画映像を見終わったとき、その子供は生後8週間に達しているのである。
同様に、2,000年の歴史を持つ国の歴史書を書くためには、2,000年以上が必要であり、書かれた歴史書を読むためにも、最低でも2,000年が必要である。
もちろん、人の一生はそんなに長くはない。また、自己の人生という物語の一部(睡眠、食事、生活のために働くことなど以外)を一時中断して、自己の人生でないもの(この例ではある国の歴史書)を読むのであるから、読むためにはもっと時間が必要ということになる。
結論としては、この方法では結局、人生は、その全部でも一部も、現在までの人生という限定された期間ですら、全く読むことはできない、となる。
これはある意味で、人生に絶望が突き付けられた形と言えるのだが、私はまだ、何かを見落としてはいないだろうか。
もっと他の方法はないのだろうか。
国の歴史と同様、自分の人生も毎秒、更新される。
常に更新される物語の全部を読むためには、どうすればよいだろうか。
考えてみれば、その方法は、実は割と簡単である。
毎秒書かれる物語をそのまま読む、これが一つの方法であろう。この読み方であれば、死の瞬間までを読むのであるから、自分の人生の一部だろうと全部だろうと読むことができる訳である。
最新の自己存在を読むということは、毎秒、最新の自分(という存在)を読み、かつ全体をも読むことが要求される。
例えるならば、生長する植物の先端だけを見ればよいのではなく、植物全体(生きた時間の全部)を見ることが要求される。
おそらくこれが、人生を読む唯一の方法であろうが、原理は分かるが、ではさて、実際にどうするのかと云われると、はなはだ返答に困るところではある。現在という瞬間だけでなく、時間全体を見ることができるのか、という挑戦状である。
とりあえず、挑戦状は受け取って置くこととしよう。