物語の長短
物語として成立する、すなわち書き手のメッセージを伝えることが可能な、最短の物語は何であろうか。一字、一音、一個の物体、一つの思念は、物語として成立するであろうか。
例えば、”あ”(あるいは阿、亜)という一字は物語であるかと問えば、全く違うとは断じられないものの、相当の困難がある。何かに驚いた表現かも知れないし、忘れていたことをふと思い出した表現かも知れない。何にせよ、この一字のみから何かを読み取ることは、非常に困難である。
音楽の場合、たった一音であっても、伝わる印象というものはある。しかし、やはり一音のみで何かを伝えようとすることには困難がある。
一方で、彫刻や絵画といった芸術作品は、一個の物体で物語(作品)が完結していると言える(連作があるにせよ)。ただし彫刻や絵画は、何千回、何万回もの彫刻刀の刻みや、筆の描画による集大成である。この様にして作られた作品を、一個(単一の要素)とみなすのは、さすがに無理があるだろう。
いずれにせよ、媒体の差によって差はあるものの、たった一つの要素だけでは、その情報量の少なさゆえに物語の成立は難しい。書き手が伝えたい複雑なメッセージを正確に伝えるには、ある程度の長さは必要である。
では逆に、長い物語の方はどうであろうか。
時間、空間および物質は有限であって無限ではない。最大で、最長で、そしておそらく最良で、最も美しく、完成された最高傑作の物語(作品?)は、この宇宙そのものだろう。
主体的な観点から見ると、あなたや私といった一個人にとっての最長の物語は、自分の人生そのものである。
以上二つは、一般的に物語や作品と言われる、書物や芸術作品に比べると例外的である。
それ以外の、ある人や集団が作る芸術作品としての物語についてはどうだろうか。
例えば、どのくらい長い書物を書けるかといえば、その人やその集団の時間と労力と資源が許す限り、いくらでも長くすることはできる。分かりやすい例は、ある国の歴史(書)や長編小説で、書こうと思えば、それこそ何万巻でも書くことはできるだろう。
しかし、現実的な物語として成立し、流通可能な作品として成立するためには、ある程度の短さであることや、省略、編集も必要である。
仮に、2,000年の歴史書を発行するとしても、記述する分野を限った上でページも限って作られた書物でなければ、現実的ではなくなってしまう。市場で流通し、売買され、個人としての読者の家で保管され、読まれることを考えれば、百科事典は何百冊にも及ぶものもあるだろうが、それくらいが限界であろう。
図書館や博物館などでは、個人とはまた違った状況があるとしても、収蔵など、自ずと限界はある。
適切な長さ・規模の作品というもの、これも、読み手の目的と同様、読み手次第というところだろう。