序文
そもそも「人は何のために生きるのか」とは、果たして答えられる命題なのか分かりません。少なくとも「働くためにだけ生まれてきた」という考え方は、おそらく極論すぎるでしょう。
まず、働くこと、この切り口から考えてみたいと思います。
ユダヤ教やキリスト教では、日曜日は安息日であり7日に1日が休日です。教会には行くようです。
かつての日本は、江戸時代の職人は月に3日、明治時代の役人は1と6の付く日が休みなど、いろいろだったようです。私が小学生の頃、もちろん日曜日は休みでしたが、土曜日は半日でした。給食もなし。
やがて職業人も学生も、土曜日が休みという週が2週に1回となり、段階的に完全週休二日制となったわけです。
それによって社会的に何か、例えば国民総生産や子供の知能が致命的に低下した、といったようなことが起きたとは聞いておりませんので、おそらくはその分、技術革新や教育の進化によって、学習や生産効率が上がったということなのでしょう。
では今、機械やコンピューターが人間の仕事を代っていくとします。機械などがどんどん高度化し、進化していきます。人間は段々と、働かなくても済むようになります。週休3日、4日と進んでいきます。
そして遂にある日、
「もう人間は働かなくていいです、というか、むしろ働かないでください、生産性が低下するので」
と、ロボットかアンドロイドに宣告される日がきます。
さあその時、人間は何のために生きるのでしょうか。
「遊ぶため」でしょうか。
これはもしかすると、真実かも知れません。特に、個人にとって、それは究極的な目的かも知れません。
その一方で、人間は社会的生物でもあります。
「他人のために働く(社会奉仕)」ことがもし皆無であれば、そもそも、人間社会は成立しないでしょう。
これがなければ、家庭からして成立せず、社会は単なる個人の集合体ということになり、早晩、人類は滅亡することになります。遊びどころの話ではありません。
前置きが大分長くなり、脇道に逸れましたが、本題に入りましょう。
私個人の私生活について申し上げるならば、仕事は、幸か不幸か、労働力を期待されているようですので、今しばらくは働く必要があり、若手の育成などが重要な任務となっております。
他方、個人としての活動、つまり趣味の活動については、これまでは飽きっぽい、あるいは無秩序とでもいうほどに、いろいろな分野に手を出しておりました。その一つに、芸術の鑑賞があります。芸術と言っても、特に何かの分野に拘っているわけではなく、大宇宙や大自然そのもの、天体や生物から始まって、万国のあらゆる分野に、絵画、彫刻、工作物、音楽、歌、芸能、技術、伝統にと、この世の文化に名作名著は数多く、どんなものでも興味を惹かれるところです。
しかしながら、昨今の著名な芸術家等が幾人も鬼籍に入ったと聞くにつけ、疾うの昔に人生の折り返し地点を過ぎた我が身を思えばとても他人事ではなく、ではさて、残された時間をどう使うのか、と思いをはせることが増えました。世の全ての芸術、それら全てを見聞きしたいとは、叶わぬ願いでしょう。
まさに今、この文章を書いているとおり、特に物語というものについては、書くにつけ読むにつけ、自分の中で一旦、整理が必要と痛感しているところです。
果たして、備忘録として、あるいは読み物として、使い物になるかは分かりませんが、筆を進めてみたいと思います。