童話のような恋をして
貴方がしあわせになりますように
春を彷彿とさせる麗かな陽射しが悩ましげに頭を抱え込むハディを磨き上げられた格子窓から降り注ぐ。寒い冬が終わりを告げようとしている青空に咲き始めた桜の花びらとまだ眠りから目覚めない蕾が色を着け時折通行人が季節の変わり目なのだと感傷に浸っている。開くことのない窓の向こうからは小さな子供がキャーキャー笑う声や友と楽しげに語らう若者、何が気に食わないのか犬の吠える声が響き室内の静けさを余計強く感じさせた。
「うーん」
もう何度目かも分からない部屋の主は唸っては顔を上げて音のする窓辺を見やってはまた頭を抱え思い立ったように席を立っては広い部屋内を彷徨き毎日執事によって取り替えられる美しい花を眺める。
「はぁ」
これももう何度目かも分からないため息をこぼしてはいつもうるさいくらいに幸福が逃げるだのさらに気が落ちてしまうだの言っては己を励ますために花の話や最近街にできた喫茶店、知人のギルドに新たに加わった東洋人の冒険者、若者の間で流行っているスイーツを語る執事が今日は今はいない。
彼のたわいもない話のそれらはハディが纏っていた重たい雰囲気を払拭させるには十分で彼の口から出てくる言葉たちは具現化するときっと綿菓子のようにふわふわした甘いものなのだろうと適当な相槌を打ち時々興味のある話に口を挟みながら想像する。
そんな綿菓子を毎日のように摂取しているハディはもう虫歯になって冷たいものも熱いものも硬いものも嚥下するすることができなくなっているかもしれない。胃はどうなっただろうか、味覚は?不十分な栄養では蓄えられなかった力の源はそれを与え続けてきた彼が責任を持って世話することでなんとか賄われている。
このままでは将来彼に暇を与えてやらなければならなくなった時、自分は途方に暮れてしまう。「自立」と言う言葉はハディがジークに出会った時からポッキリと折れてしまっている目標であり今最もどうすればいいのか分からない悩みの種であった。
初めてジークと出会ったのはハディが5つの頃でジークが12の頃、祖父の屋敷だった、ジークは祖父が新しく住み込みで雇った庭師の息子だった。母を幼い頃に亡くしていたジークは家事が壊滅的にできなかった父の代わりにそこらの主婦並みに家事が行えたためよくメイドたちに交ざって屋敷掃除の仕事をしていた。そんなあくる日彼が任された部屋にハディがいたのだ。
祖父の屋敷は迷路のように入り組んでおり全てが似た景色、さらには祖父の趣味が多分に取り入れられた東洋のからくり屋敷だった。たしか祖父が久々に遊びに来た孫を喜ばせようと屋敷を使って宝探しを計画してくれていたんだ。宝はビー玉、ハディは日の光を透かして見るビー玉が一等好きだった。からくり屋敷というダンジョン攻略と宝にとトレジャーハンターにでもなった気持ちで意気揚々と勇んだハディは呆気なく迷子になった。あいにくの雨模様で重苦しい空に高揚は一気に消沈し、先が暗く長い廊下からはおどろおどろしい得体のしれない何かが出てきそうで踏み出せなくなってしまった。かろうじて見つけられた3つのビー玉は握りしめすぎて緩くなってしまっていた。部屋の隅にしゃがみ込んでビー玉を見ても己の掌の色しか映さないそれはちっとも美しく見えずぎりぎりで保っていた涙がついにこぼれ落ちた。
一度決壊したダムを止めることは難しくしゃくりあげるように泣き出したハディをジークが
見つけた。
「どうしたの?どこか痛い?ああほら、そんなに強く擦ったらもっと痛くなるよ?」
「う〜ひっく、うぅっ」
泣き止まないハディの両手を真綿で包むようにやんわりと包み込んだジークは覗き込むようにハディの瞳に映り込んだ。といっても涙でぼやけきった視界ではジークの顔はしっかりと視認できなかったが。それでも優しげな声色にひどく安堵したのはよく覚えている。
「びーだま」
舌足らずにそれだけ言えば泣いたことでさらに高くなった体温によってますます熱を帯び若干湿ったビー玉がハディの手の中で鈍い音を立てた。
「うん、とっても綺麗だね」
なぜか納得したように頷いて熱いビー玉を一つ取ったジークはそれを目元に持っていきそれを通して薄暗い部屋を見渡した。
「?」
「こうやるとね、世界がヘンテコに見えるんだ」
やってごらんと言われるがままに残ったビー玉を使ってジークをまねれば彼の言わんとしていることが理解できた。床から天井に向かってまっすぐに刺さった壁や柱はビー玉の中で弧を描くように曲がり中の鮮やかな色が薄暗い部屋をその色に変えた。広く大きくな部屋は目の玉ほどの小さな世界に様変わりしその不思議な世界は大好きな童話の国のような景色になった。二人して暫く鍵穴の向こうを覗き込むように夢中になってビー玉を眺めた。
「なるほどぉお宝探しか〜」
すっかり泣き止んだハディがことのあらましを伝えればジークは頭を撫でながらビー玉を3つ見つけたことを褒めた。
「お宝は全部でいくつあるの?」
「7つ」
「あと4つだね、よし!僕もそのお宝探し、仲間に入れてくれないかい?」
「…ビー玉欲しいの?」
「うーん、ビー玉は好きだけどそれより君と冒険したくなったからかな」
「なんで?」
「冒険には仲間が必須だと思わないかい?それに、可愛い女の子を一人になんてできないしね」
ジーク星でも飛ばしそうな見事なウィンクをかましながら真っ白なお気に入りのワンピースを纏ったハディを抱き上げた。
その後2つビー玉を見つけたがもう残り2つのビー玉は見つからなかった。負けん気の強いハディは悔しくてまた泣いたが今度はジークではなくハディを溺愛してやまない祖父が乾ききった髭を擦り付けるようにして頬擦りし、やむなく泣き止んだ。次の日には両親の仕事が急に舞い込みジークに会うことも名を聞くこともできないまま慌ただしく祖父の屋敷を後にすることとなった。
泣いている女の子に優しくしてくれる男の子、もうそれだけで恋に落ちるには十分な要素だったのだ。他人から見ればただの吊橋効果だろうと言われるかもしれない、しかしそんなの構うことない、恋に落ちてしまったのだからしょうがない。
二度目に出会ったのはハディが9つの頃でジークが16の頃、彼がハディの暮らす屋敷に執事見習いとしてやってきた時だ。既に執事としての才を開花させていたジークはもとより使用人を多く雇っていなかった我が家では即戦力だった。しかし今のようにハディ専属の執事ではなくむしろハディは彼からの世話をひどく拒んだ。
理由は単純、ジークはハディとの出会いを覚えていなかった、そのことにハディは臍を曲げたのだ。初めて出会ったあの時から4年が経っていた。恋する乙女にとって美しい思い出とは年月を重ねれば重ねるほどさらに美しく輝かしいものに成長する。あの頃出会ったジークはさながら白馬の王子様、運命の再会を果たした二人は恋に落ちやがて幸せに暮らしましたとさめでたしめでたし。二人の愛の力で敵に立ち向かったりと困難は一つとして乗り越えていないがそんなラブストーリーがあってもいいだろう?
「初めまして、ハディ坊ちゃん。本日より執事見習いとして仕えさせていただくファゼルト・ジークと申します」
しかしそんな淡い期待はジークが自己紹介をした瞬間地に叩き落とされた。
男児のように短い髪型に化粧気のない素顔、服装は洒落気のない無地のワイシャツにサスペンダーパンツ、靴下は肌に纏わりつく感触が苦手で屋敷内ではほとんんどが裸足、口調も随分男勝りになってしまっていたハディに彼が言ってくれたようにあの頃の白いワンピース姿の女の子の面影はすっかり形を潜めてしまっていた。
ハディの思い出メモリーに何より色濃く記されている彼とのたった一度の出会いはジークには気にも留める必要もない出来事だったのだと思い知ったと同時に今の自分を見ても気づかなくて当然かと納得した。
男として生きると決めてしまっていたハディがあの頃のように可愛らしく着飾ることなど最早屈辱にしかならない。ジークと愛を育む未来は訪れないのだろうと部屋の本棚に入れていた恋愛小説類を全て処分した。身に着ける事も無く引き出しにずっと仕舞い込まれていた多くもないアクセサリーはどうしても捨てるのが惜しくて鍵付きの宝石箱にあの頃のビー玉と一緒に入れて隠した。そうやって女に近しい物を誰も見ないような所まで徹底して無くした。メイドには思春期を拗らせ始めた男の子を演じて極力世話を遠慮し、それでも今の今まで世話になりっぱなしだったことで何一つ己の身の周りがこなせないハディに間もなくジークが執事として付けられることになった。この間、ジークは本気でハディが男だと信じ込んでいたらしい。誰も教えなかったのもどうかと思うが己の男装がそれほど完成度の高いものだとわかったことに複雑ながらも確かな手応えを感じだ。
ジークの近くに居たかった。諦めるはずだった恋心は汚い執着にすり替わりあれから間もなく3年経とうとしている。その間、何も知らなかったハディの彼への美しいイメージはぶち壊されることになった。美女を口説くジークを間近で見る羽目になるとは、女として見られることが金輪際ないとしても彼の側にいられるならと思っていたがこれは酷く応えた。初めて彼が女性を口説いた瞬間を見てしまった時は卒倒するくらいの衝撃を受け熱を出したほどだ。これには流石に自分で自分に呆れたが、普段以上にハディを気遣ってくれるジークが優しくて初めて出会った王子のような彼を彷彿とさせた。どうしようもなく離れがたく縋るようにジークにしがみ付く自分が夢に出ては彼に嫌われるからやめろと叫び出したくなる。目が覚め滲んだ視界に映るジークを認めて安心してしまう。
昨夜誘拐時にジークが口説いた美女は然るべき場所にて罪を償うらしい。しかし彼女が出所してきたら?ジークの前にまた現れたら?最初こそ悪事に手を染めていたが心優しく誠実な男に運命の出会いを果たして更生し結ばれて幸せに暮らす。これもまためでたしめでたしなハッピーエンド、ハディには向けられることのない彼の幸せそうな慈愛に満ちた微笑みをなんの疑いもなく甘受するまだ見ぬ女に醜いほどの嫉妬心が茹だるようにふつふつと湧き上がる。
「ふぅ」
先月でジークは19になった。貴族社会ではもうとっくに婚儀を済ませている年齢だ。ジークはもちろん平民なのでそんな風習もしきたりもないが彼ももう本当に恋らしい恋をして彼女とやらをこさえて将来を語らい合うくらいはしていてもおかしくない。最近ではジークが女性を口説く=まだそういった心に決めたお相手がいないのだとこっそり確認して安心してしまっている自分がいる。これも良ろしくない、どの道叶わぬ恋のくせにいざその時が訪れたら自分は正気を保っていられる自信がない。
来週ハディは12歳を迎える。この年齢はとても重要な謂わば人生におけるターニングポイントとなると言えよう。その歳を迎えた時、ハディはやらねばならないことがある。
まず一つ目、許嫁が来週の誕生日を以って正式に婚約者になる。親が勝手に決めた伴侶を自発的に伴侶と認めるだけでほとんど変わらないようなものだが当事者にしてみれば大ごとだ、好いてもいない相手とこれから永久に添い遂げる覚悟を齢12歳にして腹を括らねばならないのだ。もちろん許嫁の時から好きあっているなら何も問題はない、しかしハディはジークに恋してしまった、婚約者と将来を誓い合う間際にして尚ジークへの恋心を捨てきれずにいる。
そんなジークへの拗らせた想いをいい加減どうにかして断ち切らなければならない、でなければ婚約者に不義理であるし何よりハディ自身この想いを抱え続けることに疲れてきた。
次に二つ目、ジークに想い人を作らせる。これはジークからすれば非常に大きなお世話でありハディの勝手な都合によるものだがジークにも将来を約束する相手ができれば誰彼構わず告白をして回るようなこともなくなりハディもこの恋をちょっと難しいだろうが終わらせられる。
しかしこれは長期戦になるだろう、ジークはこれまでハディの知る限りでも数多の女性に愛を囁いてきた。しかしどれも実を結んだためしはない。半分以上が犯罪者だったということもあるが心変わりが光速バリに早いのもまたこの男の特徴であり、昨日告白した女のことを翌日には忘れているのだ。清楚系に告白したと思えばギャル系に、獣人に走ったと思えばムキムキのボディビルダーに。ジーク限定で美化フィルターがかかっているハディから見ても彼はクズに見えた。
好みの女性が定かでないことも正直困りものだがポジティブに考えれば守備範囲が広いということ、選択肢が広がる分彼に相応しい女性と結ばれて欲しい。そんな彼の幸せな姿をたとえ隣に居られなくとも願えるくらいには気持ちの整理もついた。
未だにじくじくと痛む恋心はどうしようもない、なんたって7年想い続けてきたのだ。あっさりと捨てられるほど軽い気持ちではないが今後彼の恋の道を支える者として少しずつでも薄められたらいい、もっと歳をとればいつかそんなこともあったなと思えるくらいに。
最後に三つ目、これが今最も実行に移しやすく最も難しいこと、上二つを成功させるにも手っ取り早くジーク離れをしなければならない。邂逅からたった3年されど3年、ずっと想い続けたジークを些か無理やりだったがそばに置き目一杯甘えてきた自覚はある。依存するには十分すぎる時間だ。ハディから暇を出してやれば簡単に終わる関係を自分可愛さに解消できずにいる。散々彼の幸せを願うと豪語しておきながら浅ましくもまだそばに居たいと居て欲しいと思わずにはいられない。
「はぁ」
遣いに出してこの場にいないことをいいことにジークのことを考えてはため息をつく。ため息のレパートリーももう底をついてハディの幸せは今日一日で一体どれだけ逃げてしまったのだろう。ジークの入れた紅茶に彼の焼いたスコーンが食べたい。朝から遣いに出してしまったため今日のアフタヌーンティーをまだいただけていない。気を使ったメイドが用意しようかと進言してくれたが悩んだ末断ってしまった。
「うぅ〜ん」
「ハーディー!!」
「!?」
ハディの部屋に入れる唯一の扉をノックも無しに蹴破らんばかりの勢いで押し開け侵入してきたのはフリルをふんだんにあしらった可愛らしいドレスを揺らした美少女だった。
「シーマ!いつも部屋に入る前にノックしろと言ってるだろう!」
「えーだってハーディーったらノックしても部屋に入れてくれないで客間に通そうとするじゃない。生涯のパートナーを客間に案内するなんてそっけなーい!」
「客人は客間に通すのが礼節だろ」
「俺婚約者ーー!」
さっきまでが静かすぎたせいで余計うるさく感じる彼女、否見た目は彼女中身は彼シーマことアレクサンドラ・シーマ。ハディの許嫁でありまもなく婚約者になる人物である。シーマの家系は末端ではあるらしいが王族の血を引いており正直浅い歴史しか持たない成り上がり貴族のようなハディの家との接点などあるはずもないのだがかつてまだ少なかった冒険者の祖父に恩があったらしく会社設立当時から資金援助やらなんやらと家族ぐるみで懇意にしてもらっている。シーマとハディの許嫁を言い渡したのはそんな祖父たちだ。
男装するハディと対照に女装するシーマ、異色なカップルに両親は反対するかと思えば愛があればそんなこと障害になり得ないとむしろお似合いだと笑い飛ばした。一方のシーマの両親は思うところがあるようだったがシーマの説得と今でも現役バリバリのお祖母様が話を推したらしく許嫁関係は継続されもうゴールイン直前だ。
「シーマ様!やはりこちらにいらっしゃたのですね、サリヘラ様が探していらっしゃいましたよ」
開け放たれた扉の向こうには先ほど遣いから帰ってきたらしいジークが薄手のコートを羽織ったまま立っていた。
「おっとサリヘラが呼んでるなら行ってあげなきゃだね、ありがとジーク」
「いえ、サリヘラ様はいつものお部屋にお通ししておりますゆえ」
「りょーかい、じゃあまた来週ねハーディー」
そう言ってシーマはハディの頭に一度キスを落とし揺れるドレスと緩く結えられたブロンドヘアを翻して颯爽と去っていった。
もう16になるのに男と思えないほどの美貌とスタイルを兼ね備えた彼はどこからどう見ても美少女なのに仕草は流石はえりすぐの貴紳が通う男子校の主席入学者なだけはあると言える、そんじょそこらの女ならイチコロだ。最もあの身なりではイケメンの皮を被ったキザな少女なのだが。
「はぁー本当に騒がしいやつだな」
「シーマ様は相変わらず溌溂としてらっしゃいますね」
長くもない髪を器用に編み込ませられた自身の髪を解こうとすれば上手くいかず結局ぐちゃぐちゃにほつれさせて面倒になったハディは一度渋い顔をして木を取り直すように背筋を伸ばした。ヘンテコな髪型のせいで威厳もへったくれもない。
「来週のパーティーではまともにしてくれればそれでいい、それより頼んだものは?」
「はい、丁度今朝出来上がったそうです。とても美しい出来ですよ、無理を言ってアクアマリンを入れていただいてよかったですね」そう言って絹の風呂敷に包まれた木製の小箱をハディに手渡したジークは流れるように崩れたハディの髪を整えた。
「ん、どうしてもこの色を入れたかったんだ。シーマはいつも派手なものを身につけようとするからな。たまには僕に合わせさせてもいいだろ」
ジークから受け取った小箱の中には指輪が入っていた。婚約パーティーで互いに送り合う装飾品で、正式に籍を入れるまでの契約のようなもの、謂わば婚約指輪だ。と言っても身に付けられるアクセサリーならなんだっていいのでパーティー後にピアスに直してもらえるようにした。シーマは正式なアレクサンドラ家の当主になれば王家に属するものとしての証である家紋が刻まれたサムリングが受け継がれる。あの仰々しい指輪のすぐ近くにいくら美しかろうと指輪をつけるのは何世代にも渡って受け継がれてきた歴史に水を差すようで気が引けたのだ。
指輪を箱から取り出し己の左手の薬指に嵌めてみる、シーマに合わせて誂えさせたそれはハディの指にはぶかくて簡単に抜け落ちてしまう、中指、人差し指も駄目、親指に入れてやっと収まり良くなった。細くてしなやかなシーマの指も本当の女のハディからすれば十分男の指なのだと実感する。
「ふふ、なんだかんだシーマ様のことを想ってらっしゃいますよね坊ちゃん」
「まあ悪い奴じゃないしな。忙しいのに遠いところまで行かせてすまなかったな」
「とんでもないです。キジラマ様の作られる品がやはり一番坊ちゃんらしいですからシーマ様も御喜びになられますよ」
「だといいな。あ、そうだジーク来週の旅行先どこ行くかもう決まったのか?」
「いえ、まだですが…」
ハディの問いにジークは歯切れ悪そうに苦笑した。
「だろうな、そう思って何箇所かピックアップしたんだ。と言っても旅行好きの友人から紹介してもらった場所だが、どこも良さそうだぞ。参考までに是非見てみるといい、宿も全部言ってくれれば用意させるから好きに選べ」
「しかし坊ちゃん…」
「たまにはお前も羽を伸ばせ。ほらここなんてどうだ?今の時期はとても珍しい花が咲くらしいんだ、綺麗らしいぞ。それにビーチもあるらしい、室内だが最先端の魔法技術を搭載してるらしくてな南国ビーチの雰囲気を味わえるらしい、南国ビーチって行ったことないからわからないがどんななんだろな。なんでも昼なのにロマンチックな夕暮れや満点の星空を拝めるらしい。」
「坊ちゃん私は…」
「あ、こっちも良さそうだな温泉。滝の上にあるらしくて絶景らしい、高所恐怖症の僕には縁のない場所だな。でもここまでくると案外問題なかったりするのかな」
「私は旅行には行きません」
観光パンフレットをペラペラとめくりながら饒舌に喋っていたハディの口がぴたりと止まった。
「なぜ?」
詰め込まれた情報誌から顔をあげればジークは神妙な面持ちでハディの座る椅子の前に跪いた。この光景は何度見ても胸を締め付けられる、ジークはいつだって正面からハディを見据える、押さえつけられているわけでもないのに彼から目を逸らせない。
「主の晴れの日に従者が遊びほうけるだなんて考えられません」
「僕からのいつも世話になっている感謝の気持ちだ、従者ならそれこそ僕からの心遣い受け取ってくれるだろう?」
「ええ勿論、坊ちゃんからのお心遣い誠に光栄でございます。しかしながら坊ちゃんのお側で仕えることは私が願っていることです、坊ちゃんの幸せを願う者の一人としてどうか貴方様の首途を誰よりも近くで見届けさせて欲しいのです。」
「…僕はあまり見てほしいとは思わないんだけど」
「なぜですか?」
「わかってるだろ、婚礼の儀なんだ正装が当然…それに僕は主役だ、いつもみたいに出来ない」
「そうですね」
そう言って柔らかく微笑むジークはハディの堅く握りしめられた手を大きな手で被せるように包む。
「ドレス着て、化粧して、女のように振る舞う」
「ええ」
「お前には今まで見せたことない姿だ…このまま見て欲しくない」
「坊ちゃん、私は坊ちゃんに仕えると決まったあの日から、ずっとお側に居続けると心に誓っています。その誓いをこれから先違えることはありません」
「…」
「坊ちゃん」
「…絶対に、いいか絶対にだ、僕の姿を見ても笑うなよ」
「仰せのままに」
幼いあの日に繋いでくれた手は大きくなり節くれだった指は普段している手袋で見えることはないが消えきらない傷が幾つもある。知らぬ間に覚えのない人の手になったのに触れれば酷く安心する、いつの間にかその手が慣れ親しんだ心安らぐものに変わり、そしていずれは離れていく。
物語のピリオドに立ち会うことは叶わなくとも彼に幸せ溢れる幕引きを贈ろう。めでたしめでたしと言われるような物語だ。
頬を緩ませたハディは少し眩しそうに目を細めた。
貴方がしあわせだと言えますように