油島豚之介40歳。恋人できました。
週明け、出勤した豚之介が学校の前に来ると川中がタバコを吹かしていた。
「おはようございます。ちょっとお時間よろしいですか?」
断る間もなく川中は話を始める。
「鹿島さんですがねえ、うちで引き取ることになりました。あ、組織でって意味じゃなくて私の家の方です」
「10代の女の子じゃたいへんでしょ? 大丈夫なんですか?」
豚之介は性欲が無になる催眠術をかけるか迷った。川中を信用しているが、なにかあったらたいへんだ。危険性があるなら排除しておきたい。
すると川中は口の端を持ち上げる。
「とんでもないこと考えている顔ですが……うちには中二の娘がいます。先生が考えているようなことがあったら、口をきいてもらえなくなりますって」
中二、父親が汚いものに見える年代だ。
中学生の娘と同居してるなら大丈夫かもしれない。
それに川中は、なんだかんだといって信用できる。
「それを聞いて安心しました。……それで学校にはどんなご用件で?」
鹿島のことだけなら電話で充分だ。ところが川中は学園にわざわざ来たのだ。おそらく学園に用事があるのだろう。
「遠縁という設定の私が保護者になったって言いに来たんですよ。鹿島さんの父親は、ほら、逮捕されちゃいましたので」
鹿島の父親はその夜のうちに逮捕された。
容疑は天野組の人身売買の共犯である。
お決まりのお薬なども押収され、実刑は免れないと川中に説明されている。
自分の娘を売るだけじゃ足りず、自ら強姦しようとした親だ。鹿島の前から消えてしまった方がいい。
そう言う意味でも川中の家なら安心だ。父親が取り返しに来ても川中なら返り討ちにするだろう。
「先生も口裏合わせをお願いします。できれば催眠術で援護してくださいね」
「承知致しました」
そう言うと川中はタバコを取り出す。相変わらず昭和を生きた年寄りが吸ってそうな安タバコだ。
「それじゃあ、約束の時間まで20分くらいありますんで。私はここで休憩してます」
そう言うと川中はタバコタイムに突入した。
豚之介は「では失礼します」とだけ言って職員室へ向かう。
朝の朝礼で鹿島の話が出た。教頭が「余計な事を言わないように」と教員に釘を刺した。
それ以外はいつも通りの日常だった。豚之介はどこか不安を抱えていた。
豚之介は沙樹と話し会う前に理事長室……の隣の物置になっている部屋へ行く。
理事長室側の壁にあるロッカーをどかし、川中に渡された装置をつける。
コンクリートマイク。壁越しに音を聞く装置である。さすがに催眠教師が存在する世界だ。音を圧縮してサーバーに送信してくれる機能付きなのに高性能で薄型である。スマートフォンより薄い。
本来なら誰かを脅迫するエログッズだろう。だが豚之介には関係ない。容赦なく仕掛ける。
これで警察と文科省に音声が送信されるはずだ。
豚之介はロッカーを元に戻す。こういう汚れ仕事は沙樹には似合わない。
その汚れ仕事をやっているのにむしろ豚之介は安堵した。
「ぶーちゃん、なにやってるの?」
豚之介はびくっとする。後ろから声がした。声が高い。若い女の子の声だ。
振り返ると制服を着崩し髪を染めた女子がいた。
これがギャルというやつかと豚之介は思った。エロ漫画ほどはエロくない。
「……えっと」
「1年の五十嵐ですけど。ぶーちゃん、生徒の顔も憶えてないの?」
「実は記憶喪失でして」
正直に言ってみる。すると五十嵐はケタケタ笑う。
「なにそのヘタな言い訳~。ぶーちゃん、カメラしかけたの?」
「普段施錠されている部屋にカメラ仕掛けてなにが楽しんですか? 泥棒よけの装置ですよ」
「そっかー」
五十嵐はかくも簡単に豚之介の嘘を信じてしまった。
あまり頭はよくないのかもしれない。このままなら催眠措置をしなくてもいいだろう。
「五十嵐さんはなんでこの部屋に来たんですか? 普段は施錠されているのに」
「うんと、それは……」
子どもっぽい口調で五十嵐は口ごもる。なにか様子がおかしい。
「とりあえず備品をいじられないようにドアを閉めますよ」
豚之介は部屋のドアが閉め、パチンと指を弾く。
「理由を言え」
「う、うん、それは」
心理的防御。あくまで抵抗する。よほど言うのが嫌なようだ。
やはりなにか裏があったようだ。
豚之介はさらに指を弾く。
「言え」
「あ、あのね、このアプリで指示されたの……」
完全に子どもの口調になった五十嵐がスマートフォンを差し出す。
渡されたスマートフォンの画面を画面をのぞき込むと、「指令:空き教室に行け」と書かれた文章と地図が表示されていた。
豚之介はすぐに片手で自分のスマートフォンを操作して沙樹に電話する。
「は、はい。半藤です」
「沙樹さん、文科省の仕事です。理事長室横の倉庫に来て下さい。アプリを見つけました。川中さんにも連絡お願いします。通常業務を装って部屋に来て下さい」
「え、はい、わかりました」
電話が終わると豚之介は深呼吸をした。ここからの質問が重要になる。豚之介はそれを理解していた。
「五十嵐。そのアプリはなんだ?」
「バイト……クエストをクリアするとお金をもらえる」
「青い鯨か……これは厄介な」
青い鯨とはSNS発祥のゲームである。
その内容は参加者に対し、50日間毎日異なる50の課題を達成するよう要求するものだ。
初期は「高いビルを見つける」などの簡単な課題が与えられ、それからだんだんと課題はエスカレートする。
朝の4時に起きたり、手足を傷つけたり、50日後には自殺を要求する。
自殺に手を染めるものなどいないだろうと思われるが実はこのゲーム、全世界で130人以上が自殺している。
豚之介の催眠術や、漫画に出てくる洗脳アプリではない。本物の悪意がこめられた、真の洗脳プログラムなのだ。
おそらく、お金がもらえる遊びという名目で何者かが流行らせたに違いない。
豚之介は五十嵐を尋問する。
「どうしてアプリのことを言えない?」
「恥ずかしい写真を……公開されちゃう……」
よくある手だ。金欲しさに送ったか、それとも友人に裏切られたか。
「親には相談しなかったのか?」
「……知られたら怒られちゃう」
幼い子どものような主張だ。だが小学生のように親が怖いわけではない。おそらく学校や友人に知られたくない。社会の信用を失うのが怖いのだ。
それに五十嵐はお金が欲しかったわけではない。ただつまらない日常に刺激が欲しかっただけなのだろう。
豚之介もその気持ちは理解できる。
「ここに来たのは指令か?」
「うん。誰がなにをしてたか教えろって」
何者かは五十嵐のメッセージを読むつもりだろう。
単に理事長室の隣であるこの部屋を監視しているのか、それとも豚之介を監視しているのかはわからない。
「わかった。『油島豚之介が荷物を置きに来た。掃除を手伝わされた。ふざけんな!』という内容でメッセージを送れ」
豚之介が荷物を運ぶのは珍しいことではない。たまたま来た生徒に用事を押しつけるのもよくあることだ。
まさか体育教師がコンクリートマイクを仕掛けているとは思わないだろう。女子更衣室にカメラを仕掛けるのはありそうだが。
五十嵐はこくんとうなずくと、アプリからメッセージを送る。
メッセージを送ったところで沙樹がやってくる。
「豚之介先生……失礼します」
平静を装って沙樹がやって来た。
「沙樹先生、五十嵐さんと片づけていたらネズミが出ました。駆除業者を手配した方がいいかもしれません」
豚之介はわざと『ネズミ』と言った。ゴキブリは気持ち悪いだけだが、ネズミは違う。人に噛みつくし、コンセントを噛んで火災の原因になる。阿屏我王学園でもネズミが出たら駆除することになっている。偽装するにはちょうどいい。
「そうですか。たしか携帯で撮影したんですね?」
「さあ、五十嵐さん。携帯を沙樹先生に貸して下さい」
「……はい」
沙樹は五十嵐からスマートフォンを渡されると、ノートパソコンを出す。
ケーブルでスマートフォンを接続。なにやらプログラムを走らせる。
「サンドボックスにスマートフォンの中身を丸ごとコピーします」
と、言われても豚之介はあまり詳しくない。
可愛くない顔で豚之介が小首を傾げていると、沙樹が説明する。
「仮想化……要するにスマートフォンの偽物を作ってそこで動かすので、盗聴アプリやウイルスに感染していても問題がないということです」
最近は便利なのだなと豚之介は納得した。
沙樹は五十嵐の転送したファイルを川中に転送する。
「学内ネット経由だと盗聴の恐れがあるので、私物のモバイルルーターで送りました。五十嵐さんの催眠術を解いてもいいですよ」
「五十嵐、ネズミが出てあわてて沙樹先生を呼んだ。わかるな?」
「……うん」
パチンと指を弾き催眠を解く。
すると五十嵐はプリプリと怒る。
「もー! ネズミまで出たじゃん! 沙樹先生まで呼んで大騒ぎするし。ぶーちゃんのバカ!」
「あははは。お恥ずかしい」
すると五十嵐は沙樹を見る。次に豚之介を見る。
「……え、ちょっと待って。なんで? ブーちゃんネズミに焦って沙樹先生呼んだの? え、まさか?」
「お付き合いしてますよ。内緒ですからね」
豚之介が笑顔で言うと、沙樹はぷいっとそっぽを向く。恥ずかしかったらしい。
「その組み合わせ……じわるわ……沙樹ちゃん本気みたいだし」
他人から見て組み合わせが笑えるのはわかっていた。だが、面と向かって口に出されると沙樹に申し訳なく思えてくる。豚之介は観賞用に不向きだ。人に自慢できる彼氏ではない。悲しいことに。
「本気だから内緒ですよ。私がからかわれるのはいいんですが、沙樹先生に迷惑をかけたくありません」
「うんわかった」
絶対にわかってない。催眠術で黙らせようと思った瞬間、沙樹が豚之介の裾をつかむ。
「豚之介先生。私は平気ですから」
「あ、沙樹ちゃん顔真っ赤」
「もー、五十嵐さん!」
五十嵐がからかうと沙樹が追いかける。
彼女の居場所を守りたい。そう豚之介は思った。そのためにもアプリの配信者を捕まえねばならない。
血の雨が降ることになるだろう。だが豚之介はささいな犠牲には興味はなかった。
油島豚之介40歳。嫌いなもの鬱展開。好きなもの泣きゲー展開。人生初めての恋人ができたようである。