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油島豚之介

 一時警察に拘束されるが、すぐに豚之介たちは解放される。

 外は雨が降っていた。豚之介と沙樹が外に出ると組事務所近くに停めたはずの自動車と川中がいた。


「油島先生。吸いますか?」


 そう言うと川中はタバコを取り出す。


「いえ、吸わないもので。どうぞ吸ってください」


 豚之介はタバコを飲む習慣はない。その代わりに甘味の中毒である。

 スーツの中にベストを着込んだ川中は傘を差しながら器用にタバコに火をつける。

 競馬場のおっさんや悪ぶった文豪がわざと吸っているような安タバコ。

 川中もまた豚之介と同じように時流に流されるのが嫌いなタイプなのだろう。

 川中が静かに言う。


「油島先生。さっそくやってくれましたね」


「なにか問題でも?」


 沙樹は豚之介の態度に心から驚いた。

 これだけの騒ぎだというのに、問題ないと言いきったのだ。


「ふふふ、言うと思いましたよ。死者と怪我人の数を聞きたいですか?」


「だから、たとえ皆殺しにしたとしてなにか問題でも? 銃を人に向けたんですよ。死んで当然でしょ。それに彼らは死んで当然のクズかと」


 少女を集団でどうにかしようという集団は死ぬべきだ。


「で、しょうね。あなたならそう言うでしょうね。鹿島さんはこちらで保護しておきます。生活の方もちゃんとします(、、、、、、、)のでご安心ください」


「父親の方は?」


「先生に殺されちゃたまりません。逮捕しておきます。どうにか10年は刑務所にいるようにしますんで。くれぐれも裁判所に乗り込んで判事に催眠術をかけるとかはやめてくださいよ」


 豚之介ならやりかねない。それに怒れる豚之介を止められるものは存在しない。

 だが敵の命をなんとも思ってない豚之介だが、多少の遵法意識はある。話し合えばわかってくれると川中は判断した。


「ありがとうございます。では川中さん、半藤先生、私はこれで失礼いたします」


 と、颯爽と去ろうと思った瞬間、豚之介は沙樹に襟をつかまれる。


「待ってください。油島先生。治療はしないんですか?」


 豚之介の頬は流れ弾でザックリと切れていた。沙樹はそのことを指摘したのだ。


「昔から注射が嫌いなんですよ」


「縫わないと傷が残りますよ」


「えー……」


 ヤクザを壊滅させた男は子どものように駄々をこねる。

 沙樹はその姿がおかしくて笑いを漏らした。沙樹は笑いながら豚之介を車に乗せる。


「川中局長、報告書は後日提出いたします。それでは」


 沙樹の軽自動車が去って行く。

 それを見送りながら川中はつぶやいた。


「人殺しも厭わない狂った催眠教師に、性犯罪者を引きつける魔女。割れ鍋に綴じ蓋か。運命ってのは皮肉なもんですね」


 沙樹は豚之介を都内某所に連れて行く。

 住宅街にぽつんと「半藤外科」という看板をつけた民家があった。

 看板は赤い錆びだらけになっていて、壁は蔦に覆われていた。


「裏から入ります。ついて来て下さい」


 中庭には、いつの時代かわからない二槽式洗濯機が放置されていた。

 柵は錆びて穴が空いている。古いまま放置されていた建物のようだ。

 沙樹はドアへ向かうと、シリンダー錠を鍵で開ける。

 セキュリティ的にまずくないかと豚之介は心配になった。

 沙樹と中に入る。電気をつけると、中は平成初期の内装のままだった。


「半藤先生はここに住んでいらっしゃるんですか?」


「ええ、実家ですので。今は一人暮らしですが。油島先生、診療室はそこです」


 豚之介は案内された部屋に入る。

 そこは本当に診療室だった。


「消毒して縫います」


「あの沙樹先生は……?」


「免許は持ってます。海外のですが」


 豚之介は感傷的なシーンにもかかわらず思った。

「女教師にスパイと来て今度は女医かよ……この世界は半藤先生に親でも殺されたんか」と。決して口には出さないが。

 そんなエロ属性を持つ沙樹は豚之介の傷を消毒し、あっという間に縫い上げる。


「痛いって言わないんですね。痛み止め使わないですむんで楽ですけど」


「立ち技の格闘技だと、よくあることですから」


 と、言いながらも豚之介のまぶたに古傷はない。

 油島豚之介の人生の最盛期は大学時代、それも前半だけだった。

 高校生でボクシングをやりはじめ、たまたま有力選手が奇跡のタイミングで次々とプロデビューし、強い選手がいなくなったところに、神がかりな運と生まれ持った体力だけでアマチュアの大会を次々と勝ち進んでしまった。

 その成績はオリンピックも夢ではないと勘違いさせる絶妙な位置であった。今まで無視していた周りは急にチヤホヤし始めた。そこで勘違いをしてしまったのが運の尽き。

 自分がスポーツ漫画の主人公のような天才だと思い練習をサボり、気が付いたらただの人へ。

 高校時代にしのぎを削った選手がプロで活躍する中、どんどん成績を落としていく。

 結局は体が大きいだけで、取り戻すだけのアドバンテージも才能もなかった。もちろんプロの厳しい世界に飛び立つ度胸もない。ただ中途半端に賢かったせいで、自分がプロの世界では通用しないという判断はできていた。

 それは当たり前だった。幼い頃から競技一本で歩んできたエリートとは地力が違っていたのだ。当然のように地力で勝る年下に見おろされる日々が続く。

 無駄に頑丈な体と怪我する前に折れる軟弱な精神のおかげか致命的な怪我をしなかったのも、結果的に残酷だったのかもしれない。やめ時が見つからなかったのだ。

 大学後半で年下の選手がチャンピオンになったのを見て、ようやく現実を理解するが全ては手遅れだった。もう豚之介の消費期限は切れていた。

 結局は、お情けでもらった教職に就いた。それだって氷河期世代では上の上。それなのに過去の栄光にすがり続け腐り果てた。

 過去の栄光を引きずる汚い中年。楽しみは女子の体育を見ることと、男子に威張り散らすこと。それと汚いアパートで食べる風呂上がりの甘味。日曜日の夕方のテレビ番組を見て、また仕事が始まるのかと絶望する。ただのクズで変態……そしてデブ。誰よりも自己と世界の破滅と死を願って生きている。それが偽りのない豚之介40歳の姿だった。


 ……という嘘くさい記憶の持ち主である。

 ツッコミどころ満載。本当にこの経歴ならば大学からのオファーは少ない。落ち目の選手をスカウトが見抜けないとは思えない。学費免除すら危ういレベルだ。

 この経歴なら高校卒業時に夢を追い求めアルバイトをしながらプロになるか。そうでなければ総合やキックボクシングなど、もうちょっと中核選手の年齢が高い競技に変えることを提案されるだろう。

 恩師のコネならば、こういう世の中をなめた男に一番最初に提案されるのは、競技者としてつぶしがきいて真人間になることができる警察や自衛隊ではないだろうか。

 モラトリアムを選んだとしても辻褄が合わない。

 記憶にある豚之介はもっと姑息なタイプだ。公務員なら飛びつくだろう。

 今の豚之介は自分の経歴を疑っている。

 それは沙樹に言っておかねばならない。特にここ一年の記憶が欠落していることは。

 多少反省はしているし、これからは真人間で生きようとは思っている。

 せめて友人でもいいから沙樹に相手にされる程度の人間になりたいと豚之介は思うのだ。


「テープ貼って……はい終わり」


 最後に大きな絆創膏を貼って処置は終了した。


「ありがとうございます。半藤先生。でも、なんでお医者さんが保健の先生を?」


「私、高校の途中から海外にいたんです。でも両親が突然亡くなってしまって……」


 こちらもヘビーブローだった。豚之介は口から魂が出そうになる。

 油島豚之介40歳。苦手なものは鬱展開。


「クスッ♪ もうそんなパグみたいな顔をして。油島先生……こういう話に弱いんですね」


 くーん。捨てられパグは鼻を鳴らす。

 ツボに入ったのか、沙樹はクスクスと笑う。豚之介は、もう完全にキャラクターをつかまれてしまったようだ。


「弱くない人がいるんですかね……」


 ハートふるぼっこ。豚之介のハートはすでに壊れそうである。


「それで帰ってきて途方にくれていたところを川中さんに拾っていただいて、ここ数年は養護教諭兼諜報員をやっているというわけです」


 沙樹がほほ笑む。だんだんと態度が軟化してきた。ようやく豚之介を仲間として認めたのだろう。


「先生はいつから催眠術を」


「それが……ですね。実は記憶がないんです。ここ一年の記憶が全く。おそらく他の能力者の仕業じゃないかなあとは思うんですが」


 豚之介の記憶はすっぽり抜けている。

 原因はいろいろ考えられる。

 転生者なのか、実はクローン人間なのか、それとも悪に負けて記憶を奪われたヒーローなのか。

 脳梗塞や糖尿病で脳がやられたのか。もしかすると……悪質なお薬の中毒かもしれない。

 そもそも自分が油島豚之介という確証がない。

 ミーム汚染があれば、人一人の存在の改変すら可能だろう。

 豚之介は沙樹をちゃんと見据えた。


「一連の事件は、もしかすると私の記憶にも関わってくるかもしれません」


 豚之介がぽつりと言った。すると重い沈黙が場を支配した。

 すると沙樹はすくっと立ってどこかに行くと、両手に酒を抱えて戻ってくる。


「油島先生。飲みましょう」


 二人で酒を飲みながら話をする。学校のこと、調査のこと、鹿島のこと。

 本当の用件は違う。特に沙樹は。二人とも大人だった。立場、プライド、世間体、邪魔なものが多い。酒を飲んだ勢いでという言い訳が必要だった。

 二人は昂揚していた。圧倒的な暴力で悪を壊滅し、大人としては許されないわがままを通した。それがまるで麻薬のように気分を昂ぶらせた。

 そのまま二人はシャワーも浴びずにふらふらと和室に入った。

 沙樹は情欲を(たぎ)らせていた。今まで鎖で繋がれていた獣を解き放った。

 ごく自然な風を装ってはじまったそれを断る理由は豚之介にはない。

 二人は獣になった。二人はお互いを貪り喰らい尽くし、寝ることもないまま朝を迎えた。


 豚之介は二階の小さな窓の雨戸を開け黄色い太陽を眺めていた。

 ついテンションが上がってお互いの体中に書いたマジックの落書きに気づく。恥ずかしい言葉が羅列している。

 賢者タイムを迎えて冷静になって考えると、あまり楽しくなかった。こういうのはフィクションだから楽しいのかもしれない。


「眩しいですね」


 沙樹がか細い声で言った。豚之介が振り返ると布団を被ってしまう。その姿に豚之介は心の底から愛おしく思った。

 こうやって沙樹と出会ったのもなにかの縁なのかもしれない。そう豚之介は思った。


 一方、沙樹は動揺していた。やってしまった。冴えない中年、いや人間は見た目ではない。とても優しく、正義感にあふれていて、でも怖い。なぜ教師をやっているかわからないくらい、スリルを与えてくれる男。

 豚之介は沙樹の知っているどの男とも違った。

 しかもどうやら酒を飲んだ勢い。一時の間違いではないらしい。こんなにも多幸感がわき上がっている。

 どうやら自分は本気のようだ。本気でこの冴えない中年に欲情している。

 沙樹は顔を隠すように布団に潜った。

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