ダブルピース
沙樹と何度目かの黄色い太陽に朝チュンを迎え、沙樹の家で遊んでいない部屋がなくなったある日のことだった。
すっかり自分の体に描かれたフェルトペンの書き込みを消すのが上手くなった豚之介は、事件の捜査もしていた。
洗脳アプリを配信していた企業はその後、会社にわざと損害を与えた背任と会社の金を懐に入れた横領の容疑で役員の一人が逮捕された。背任も横領も件数が多く、アプリのことは報道されなかった。
一見すると暗礁に乗り上げたように思えたが、表立った被害もなく平穏な日々が過ぎて行く。豚之介もすっかり安心して沙樹といちゃつく生活を送っていた。
豚之介は週の半分ほどを沙樹の家で過ごす。半同棲状態と言えるだろう。一番変わったのはこの点だろう。
学校生活もまた同じだった。五十嵐は光の速さで豚之介と沙樹の関係を言いふらし、二人の仲を知らないものはすでに学園にはいなかった。
最初こそ、周囲は沙樹が脅迫されているのではないかと疑い大騒ぎした。
見た目の悪い中年男と若い女性の組み合わせだ。豚之介は周囲の反応をあきらめている。つるし上げも覚悟した。なぜなら沙樹は美人過ぎるのである。
それは整った顔立ちのことではない。情欲を喚起する艶やかさである。
本当なら年齢相応の雌に興味がある若い雄ライオンたちですら、沙樹には情欲をそそられた。
若い雄ライオン、男子たちは豚之介に嫉妬した。嫉妬のあまりあることないことを言いふらしまくった。
だが沙樹が必死になって否定してくれたため、いつの間にか騒ぎは沈静した。
最近ではやっかみ半分で豚之介だけが、からかわれているといった状態である。ただし、男子の目は厳しいが。
そんなある日のことだった。
その日は沙樹の家からではなく、豚之介のアパートからの出勤だった。
豚之介は駅から歩き学校の門につく。門の所には若い男がいた。用務員の坂崎不惑だ。ファックではない。
「おはようございます」
豚之介は挨拶をする。
教師の中には用務員を格下と思い込む輩もいるが、豚之介にとっては別の課にいる社員という認識である。
だが坂崎は無言で会釈し、どこかに行ってしまった。
坂崎はあまり人が得意ではなさそうだ。
坂崎は豚之介にとって理事長と並ぶ有力な容疑者の一人だった。
決して職務を差別しているわけではない。名前でも差別はしてない。だが、符号的に容疑者ではないかとマークしていた。
だが警察も文科省もシロであると認定した。
理事長の阿屏我王堕震平和の方があやしいとのことだ。
豚之介は堕震平和という名前を差別しているわけではない。
でも名前があやしいのは動かない事実だろう。
でも名前を根拠にしているのは豚之介だけである。
なぜ誰も気が付かないのだろうか? 豚之介は不思議でしかたない。
阿屏我王堕震平和(40歳)は阿屏我王コンツェルン総帥「阿屏我王根徒羅玲」の三男である。
阿屏我王コンツェルンは、銀行、土木、造船や重工業などありとあらゆる分野を網羅する企業グループである。
堕震平和自身もいくつかの企業の代表を務めながら、阿屏我王学園の理事長職を兼務している。
警察も身辺を洗っているが、なにも出てこないようだ。
洗脳アプリを配信していた会社も阿屏我王コンツェルンの子会社の一つである。だが、末端のさらに末端の会社で起こった横領事件である。持ち株会社にまで波及することはない。
あとは壁に仕掛けた盗聴器に期待するしかない。
かくして豚之介は日常に戻った。
仕事は楽ではないものの給料は悪くない。文科省からも振り込みがある。プライベートも沙樹がいるので順調。
友人の方もなぜか頻繁に沙樹と一緒に川中の家に招かれる。
川中の家で酒を飲み、鹿島や川島の娘である真希と一緒に食事をする。
やたらコミュニケーション能力の高い川中がばか話をし、楽しく飲む。
そう、やたらと生活が充実していたのだった。特に不満はなかった。
ストレスもなく、坂崎の無礼な態度も気にならない程度の心の余裕もあった。
坂崎に無視された豚之介は職員室に向かう。悪くない一日のはじまりだった。
職員室に入ると自分の机にスマートフォンが置いてあった。
豚之介は困った顔をしてスマートフォンを机の隅に置く。
誰かが置き忘れたのなら勝手に取るだろう。
正直言って、手に取る気も起きなかった。
最近のスマートフォンは指紋認証がついている。ただ手に入れただけでは中身を確認することもできない。それに中身を見たりしたら、なにを言われるかわからない。
ゆえにしばらく放置したら事務室に忘れ物として提出することになっている。
豚之介がスマートフォンを無視して連絡事項を確認していると、電話が鳴り出す。
着信音は初期設定。生徒のものではなさそうだ。
「困りましたね」
とつぶやくと豚之介はスマートフォンを手に取る。
画面に表示された名前は「青い鯨」。
豚之介は表情も変えずに電話に出る。
「はいはい。携帯を落とした方ですか?」
豚之介はわざととぼける。
「今なら殺し合いにならないぞ」という警告でもある。相手に伝われば、だが。
するとボイスチェンジャー越しの声が聞こえてきた。
「お前の首に賞金をかけた」
「私なんかを殺すのに大金つぎ込むくらいなら、慈善団体に寄付してくださいよ」
「……ふざけているのか? 数千人がお前を狙っているんだぞ」
「はいはい。この程度の脅しで怯んでちゃぁ、教師なんてやってられませんよ。面倒なんでまとめてかかってきてね」
豚之介はまるで相手にしなかった。
こんな低レベルの挑発に反応するのだから、電話の相手は若い。おそらく十代だろう。
学園の生徒かもしれない。
五十嵐と同じくアプリで仕事を頼まれたのだろう。
「てめえ、後悔するなよ! 絶対にぶっ殺してやるからな!」
「がんばってね」
電話が切れた。
画面を見るとアプリが起動していた。
その画面には赤い×印が書かれた豚之介の写真と「1000万円」の文字が表示されていた。
「私の首に1000万円の価値はないと思うんですけどね。世の中には暇な人もいるもんですね」
ぼやきながら豚之介は自分の携帯を取り出し、画面を撮影する。
写真を川中と沙樹に送信して副業は終わり。
何事もなかったかのように仕事を始める。
そこに沙樹が走ってやってきた。
「豚之介先生!」
「沙樹先生。どうされました?」
焦った沙樹はピコピコと手を振り回す。
沙樹が取り乱すという珍しい光景に職員室にいた教師たちの視線が集まる。
「豚之介先生! 脅迫電話がかかってきたって……」
「ええ。これが証拠です」
ビニール袋に入れたスマートフォンを沙樹に渡す。
電話の主はあまり頭が良さそうではなかった。指紋がついていることだろう。
「いますぐ警察に」
「いたずらですよ。気にしない気にしない」
豚之介は沙樹の肩を押して外に連れ出す。
「豚之介さん!」
廊下に出ると沙樹が怒り出す。
心配してもらえて豚之介はなんだか嬉しくなる。
「沙樹さん、川中さんに連絡してください。私がおとりになります」
豚之介はにこにこしていた。
いつものように豚のような顔はなにを考えているかわからなかった。
「豚之介さん……」
「大丈夫ですよ。そこそこ戦えますので」
それは強者のものではない気弱な発言に聞こえた。
だが豚之介の口角はわずかに上がっていた。