一話
「……どうしよう……」
満月が照らす光の下、本来人間であれば眠りにつくであろうこの時間帯に森では迷っている少女がいた。何があったのだろうか?兎に角、帰ろうと思っていても帰れないようだった。
人間、特に年が十を満たない少女となるとかなり不味いと言えるこの乗客。
提灯などの明かりも持ち合わせていないので周りの様子も解らず、人間程度の嗅覚では森からの脱出に役立たない。おまけに何処から人食い妖怪が出て来るのか検討すらつかない。嫌というほどそれを寺小屋で教わった少女は重々理解していた。
「う………うぅぅ……」
故に奥から溢れ出る恐怖と不安が雫となって目尻にたまる。声を上げて助けを呼びたかったが、疲れがたまってまともに大声を上げれないらしい。それに大声によって妖怪に気付かれたくもなかった。結局、彼女は黙って助けを待つ、或いは日が昇るまで耐えるしか無かったのだ。
「………………………」
冷たい風が素肌に突き刺さり、体は芯まで凍りつく。体が震えているのは寒さのせいだけではない。必死に歯を食いしばり、声を殺す。普通の少女なら我慢できずに泣き出してしまう状況。故にこの少女も例外ではなく、ほろりほろりと水滴が頬を蔦る。
(いやだ……いやだよぉ………!)
どうやら嫌な未来を思い浮かべてしまったらしい。涙は更に流れ出て、地面にぽたりと落ちる。自身が食われる未来か。はたまた餓死してしまう未来か。いずれにしても、少女にとっては残酷過ぎる未来である。
いずれ爆発してしまうのかとリズムが乱れる心臓の音が耳ではなく内部から響き、全身で感じた。
───どうして、あんな誘いに乗ってしまったのか。
───自分は運動が苦手だという事は誰よりも理解していたのに。
───断れば皆に余計な心配をかけずにすんだのに。
少女の心の中は後悔でいっぱいであった。たとえどれだけ後悔しても状況は変わらない事を理解していても、そうするしかなかった。今更何かをしたところでどうもならない。でも、時間が経てば状況は良くなる。それが少女の希望であった。故に少女は願う。
(早く時間が経ってほしい……。夢なら早く覚めて……!!)
木に横たわり、少女は休む事にした。着物と髪が湿った土で汚れてしまったが、それを気にする余裕が少女には無かった。
◆◆◆
あれからどのくらい時間が経ったのか。時計を持たぬ少女はまだ二十分しか経っていない事実を知らない。楽しい時間はあっという間なのに嫌な時間はまさしく永遠そのものである。
そんな少女の心の支えは、今も尚聞こえる虫とふくろうのやさしい鳴き声であった。いつも当たり前のように聞いていたが、今回ばかりは状況が違っていた。
──大丈夫だよ
──きっと助かるよ
少女にとっては虫さんとふくろうさんがそう励ましてくれているようにも聞こえたのだろう。もし、これが聞こえなければ、今頃寂しさで押し潰されていただろう。次第に緊張はほぐれ、客観的に状況を見ることが出来た。
「はぁ…………」
ふと、ため息が漏れる。
しかし今の状況で自分にはどうすることも出来ないことを改めて理解する。人間の目で夜の森を歩き回るには月の光だけでは足りない。
「ふ………あぁぁ」
緊張がほぐれた故なのか、欠伸も思わず出てしまった。このままどう動いたところで危険な目に遭う。かといってこのまま寝てしまっては近くに妖怪が出てきたときに危険を回避できない。
「う………うぅぅん……」
無意識に瞳を閉じてしまう。瞼が重く感じる。視界がぼやけてよく見えない。普通であればこの少女はとっくに深い眠りについている頃なのだ。うっかり気を抜いてしまえば即熟睡してしまう。
少女は自信の頬をつまみ、何とか眠気を取り除こうとした。座るのをやめて立ち上がったりもした。
(………はぁ、いたいなぁ……)
だが、ずっと歩きっぱなしだった少女ふくらはぎはパンパンに張っており、指で押したり揉んでなければ締め付けられるような痛みを感じる。
当然歩くこともままならない。
このまま寝てしまった方がいいのか。はっきり言って少女は寝てしまいたかった。これほど動いた日は今までなかった。疲れも限界を超えてる。立ち上がる力もあまり残っていなかった。
もういいだろうと瞼の重みに逆らわずに、そのまま力を抜いてゆっくりと眠りにつこうとした。
さくり
刹那、雑草を踏みつける音が微かに聞こえた。今まで聞こえなかったのに。
少女の眠気は突風の如く去り、無意識に体を縮める。
(なんで…!?)
緊張、恐怖、不安。大きな波が再び襲う。あまりにも突然の出来事で彼女の心臓は大きく揺れる。
さくり……さくり
音は決して遠くない。音が鳴る度に地面が揺れているかのような錯覚を覚えた。運がいいのか悪いのか、音が聞こえたのは後ろの方角であった。
逃げるにも確認しようにも、緊張で体を動かす事が出来ない。
(いやだ…………いやだやだやだやだ……!!)
気のせいか、音が大きくなっていく。出尽くしたと思われた水分が再び目からこぼれ落ちる。見つからないように小さくまた小さく縮こまろうとする。
さくり…さくり…さくり…
そんな彼女の努力も虚しく、非情にも音は近づく。体の震えが止まらない。
(…………もう聞こえない。全然、聞こえない)
もう音は鳴りやんでいた。音が小さくなるのを少女は感じなかった。つまりそれに見つかってしまった。根拠はない。
そこに何かがいるのを、少女は本能で感じていた。
(あぁ、あはは)
少女は生きることを諦めた。助からない事は確実であると少女は悟った。
(どうせなら……いたくしないでほしいな……)
人間ならまだしも、妖怪ならそんな望みは叶う筈もない。見つかったなら最後、喰われるのが落ち。存在していないようで存在しているたった一つのルール。
誰かに看取られる事無く、土に埋められる事無く、卑しく下衆な妖怪の腹の中で自身は消えていく。そこに存在するのは永遠の苦しみだけ。
一種の生命体では無く只の餌として、人間ではなく骨と肉として弄ばれる。
そんな事実を、少女は受け入れなければならなかった。
「あら?この子は……?」
(え?)
その声に、聞き覚えがあった。
疲れきった体を暖かく包み込んでくれる、シルクのように柔らかい優しい声。
緊張と恐怖が、安堵に変わる。
振り返って、声の主を確認する。
「貴女は……?」
(あ、あああ……!)
そこにいたのは、月の光に照らされて輝く透明感のある銀色の髪。サファイアを彷彿させる青い瞳。青と白のメイド服を身に纏う。
少女の体に手を伸ばし、少女の事を心配そうに見ていた、紅い悪魔の館の主に仕える。
────十六夜咲夜であった。
「ちょっと……大丈夫?」
緊張が解かれ、身体中の力が抜けて動けなくなってしまった少女。咲夜は少女の安全を確認する。
(よかった……よかったよぉ……!)
少女は知っていた。このメイドがどのような人物であるか。人里でよく買い物をしているお姉さん。銀色の髪が凄く綺麗で目立つから覚えやすかった。
「ううう………」
寺子屋にも時々訪れていて、子供達ともよく戯れている。優しくて美人だから皆の人気者なのだ。
咲夜もまたこの少女を知っていた。寺子屋で子供達と戯れている中、運動が苦手なので唯一本を読んでいた少女。
「うあああ………!」
笑う事がない暗い女の子。何度も会話をしているので見知っていて誘ったものの彼女が公園に来ることは無かった。
「ううわああああ……!!」
少女は震えていた。嬉しさで思わず、目の前のメイドさんに力強く抱きついてしまっていた。
少女は泣いていた。悲しいのではなく、ようやくこの苦しい時間が終わる故に。
「…………………」
事情を知らぬ咲夜は困惑したものの、そのまま抱きしめ返した。そして泣き止むまでここで留まっていても問題はないと判断した咲夜であった。
槍のような風が、少し心地よく感じた。
◆◆◆
泣き止んだ少女を一刻も早く家まで届けようと咲夜はおんぶで少女を運び、森から出る最短距離を歩いていた。背中から少女の心臓の鼓動が伝わる。ゆっくりとしたリズムで響いているので少女が落ち着いたようだった。
「それで?どうして貴女はここにいたの?」
「そ、それは……」
何か特別な事情がなければ、こんな森の奥で夜遅くに横たわっているはずがないと咲夜でなくても疑問を感じる。
少女は怒られると思ったのか質問に答えるのを躊躇った。だが黙っていても仕方がないので少女は話すことにした。
「も、森に探検しようって誘われて……それで……みんなとはぐれちゃって……それで…………その……」
「それで迷っちゃったのね……」
誘ったのは恐らく元気でこの少女と仲良くなろうとした男の子にちがいない。きっと初めて誘われたのが嬉しかったのだろうと咲夜は微笑みをこぼす。運動が苦手であることを忘れてつい一緒に行ってしまったに違いない。
元々外で遊ぶ機会もなくて、遊び慣れている皆の動きについてこれなかったのだろう。そのままはぐれてしまったに違いない。
(他の子供は大丈夫なのかしら……?)
ただ森で探検だなんて、子供でなくても危険な行為である事に変わりない。
(頻繁にやってるのかしら)
もしもそうならば、今度寺子屋に寄ったら注意をしようと咲夜は決めた。森は危険だと。夕方に妖怪は活動しないものの、迷ってそのまま夜になってしまえば大変なことになると。
「さ、咲夜さん………」
「ん?」
「……最初に見つけてくれて有り難う……もし咲夜さんじゃなかったら……私…どうなってたんだろう……」
きっと喰われている。だが少なくとも今は違う。こうして確かに生きてはいる。だがその表情は笑顔でない
ふと咲夜は慧音との会話を思い出した。
この少女にはお母さんがいない。少女が五才の時に亡くなってしまったのだ。だから、家に帰る時はいつも妹紅が見送っていたのだ。
そしてもう一つ。妻が亡くなってしまったショックのせいなのか父親は酒に依存してしまって、働いていないらしい。
時々、少女は怪我を負って寺子屋に来たこともあるのだという。誰が怪我を負わせたのか。少女は転んだからと言っていたが、転んだ程度では痣は出来ない。
(私と、似ている。でも)
この少女は咲夜の子供時代と似ていた。違うとすれば。
(この親子はまだ幸せになれる)
少女は暗い顔をしていた。まだ森は抜けてない。妖怪に襲われる可能性はまだ残っているからなのだろうか。
「大丈夫」
「…わ!?」
咲夜は少女を背中から下ろす。少女の身長に合わせて咲夜は膝を曲げる。
「博麗の巫女さんみたいに強くないけど此処等の妖怪なんて私の敵じゃない。私と一緒なら抜けられる」
「ほ、ほんとに?」
「ええ本当よ」
咲夜はにこりと笑った。その笑顔は少女にとっては最早反則技に近い。そんなものを向けられたならたとえどんな漆黒も真白に変えてしまう。
「え、えへへ……」
それに反応するかのように少女も笑った。先程の暗い表情よりもずっと輝いていた。
「…………」
だが、咲夜は疑問を感じた。森自体は広いし奥の方に少女はいたが、探そうと思えばすぐに見つけることが出来た筈。ましてこんな夜遅くまで見つけられないだなんてあり得ない。となると捜索自体が行われなかったとなる。何故捜索が行われていなかったのか。
普通の人間が捜索するのは危険だが、それなりに実力を持ち合わせている者は出来るのだ。娘が帰って来なかったのに父親は捜索を依頼していなかったのだろうか……?
(このままでは駄目なのでしょう)
父親は何をしてる。少女の事を何とも思っていないのか。その行動に愛はあるのか。
(やっぱり、私とは違った。でも……)
父親の事が好きであることは同じであった。だって少女達は笑っていたのだから。
「…………………」
咲夜にとって少女の笑顔を見るのは初めての出来事であった。しかし、この少女が父親に会って再び暴力を受けるような事があれば……。笑顔は消えてしまう。
(そうなると……この子は幸せになれない)
考えるよりも、行動が先に出てしまっていた。気が付くと風は止んで、虫やふくろうの鳴き声も止まり、落ちていく緑の葉は空中で留まっていた。目の前の少女の体は動かない。
突然の出来事である。
───咲夜は時を止めたのだ。
「久しぶりね……これを使うのは」
時の静止した世界。今だけこの世界は咲夜のものである。ここでは自分以外の生物は動けず、意識を保つことが出来ず、只の物体と成る。咲夜が触れている物のみがその空間で存在することができる。
そして、咲夜はナイフを取り出した。その仕草に躊躇や迷いは一切含まれてなかった。
「本当は……今やるべきではないのだけど………」
とても良く切れる。鉄の臭いが濃いのは素材のせいだけではない。
月の光に当てられて、ギラリと光る刃の先端は……。
「貴女はもう笑う事はない」
少女の喉に向けられた。
「笑えないなら幸せになることは出来ない」
少女は笑ったままだった。お父さんに会える事を待ち望んでいたのだろう。
「幸せになれないなら」
───生きていたって仕方ない
「だから私が幸せにしてあげる」
咲夜も笑っていた。先程、少女に向けた笑顔と何一つ変わらなかった。
「ああ、なんて可愛らしい笑顔なの……」
ようやく助かって、家に帰れるという希望を抱いたまま、今感じている幸せを永遠に感じることができる………。
「それが……私の役目」
咲夜は少女の首にめがけてナイフを振った。刃は途中で止まることは無かった。太い骨でさえも、ナイフを持った咲夜の前では抵抗しようもなかった。
───そして時は動き出す。
少女は即死であった。力の抜けた死体はそのまま倒れ、木に寄りかかった。切り口からは血が滝のように溢れ出ていた。土の匂いから一転、鉄の匂いが広がる。しかし、頭部が落ちることはなかった。
首の皮一枚繋がっていたのだ。例えではなく本当に。
(久しぶりだったけど、うまくできて良かったわ)
咲夜は少女の首を完全に切断した訳ではなく、首の皮を一部だけ切らずにしたのだ。どうやら、それが咲夜の拘りであった。
「ふふふ、これで貴女は永遠の幸せを手に入れた……」
自分が死んだ事も分からずに、ずっと笑顔のまま。
しかし、これでは幸せなのはこの子だけになってしまう。けれども、仕方ない。今やらなければ、駄目だったのだ。父親がいる限り、この子は幸せには………
「おーい!!」
突然、森の出口の方から、中年の男の声が聞こえた。声の方を見ると、その声には相応しい中年の男がいた。服がボロボロなのがここからでも確認できた。その声に気づいた咲夜はその中年の男の元へ向かった。
「メ、メイドさん!うちの娘は知りませんか!!家に……家に帰ってこないんですよ!」
「貴方は………」
顎に指を当て、少しの間考える。そして思い出した。この中年はあの少女の父親であった。一度だけしか見てなかったが、人里で見かけたときに慧音が教えてくれたのだった。
(なんだ、必死で探していたのね)
この父親の服装を見る限り、どうやらずっと探していたようだった。
「先程、見つけました」
「ほ!本当ですか!?」
「はい、今はあの木に寄りかかって、少し寝ています」
「よ……よかった……!」
父親は安心したのかその場で倒れ込み、涙を流した。
「よかった………本当に良かった………!このまま会えなくなったら………もう俺は……いきねていけない……!!なのに……あいつには酷いことをしてしまって……!!」
この父親は自覚していた。そして、あの少女の事を大切に思っていたのだった。
少し惜しい事をしたか……?と咲夜は思ったが、いずれはやらなければならない事。その機会が早かっただけなのだ。
「泣かないでください。そんなぐしゃぐしゃな顔をしてたら、娘さんが泣いちゃいますよ」
咲夜は父親に優しく語りかけた。言葉の内容は別として。
「ううう……そ……そうですね……。あははは」
父親は袖を顔にくしゃくしゃと乱雑に擦り涙をふいた。鼻と目元が少し赤い。
「ありがとうございます!!この恩をどうやって返せばいいか!」
父親は笑った。いい笑顔とは言えないが、先程の泣き顔よりも断然良かった。いつもの不機嫌そうな顔とは大違い。
どんな人でも笑顔が一番魅力的な表情なのだ。
(そうだ、あの子と一緒にしてあげよう)
きっとあの子も、お父さんが一緒の方がいいに違いない。だってこんなにもいいお父さんだった。良かった。どうやらこれで悔いなく済ますことができると咲夜はご機嫌であった。
「………ふふふ…」
笑顔で一緒にいられる親子の絵は如何なる物より美しい。
「メイドさ───」
(この人にも………永遠の幸せを………)
再び世界は咲夜の物となった。