4-1 葛藤 のち 深淵
「……どこにいる!?」
びた、と背をコンクリートの壁に張り付かせながら正面口周辺まで急行したのは保安要員の二名である。
小さく鋭く声を発した彼の手には軍用のライフルが握られている。
日本国内で公僕でもない人間が銃火器を所有しているということ自体、著しい治安に対する挑戦行為といえる。が、実は問題はそこではない。
その銃火器はどう見てもイリーガルなコピー品ではなさそうだということだ。
例えばレジェンド・オブ・クレオパトラのシージャックの際に使われたのは、そういった類の東アジア・極東ロシア産のコピーが主であった。金額的、数的にそろえるにはそのような選択肢しか選べないという制限があるにせよ、信頼度にはやはり雲泥の差がある。
結果としてコピー品の出所の"生産地証明"という区分まで出ているわけで。
そんな中で民間レベルでのコピーではなく、軍用の制式版の揃いのライフルを装備している。それは潤沢な資金を持っているだけでは準備できないものだ。特に日本国内まで持ち込むということになれば。
コネとカネ。しかもかなり力のあるコネとカネがいる。
まかり間違っても暴力団やらマフィアというような、表を堂々と歩けない勢力からは供給が難しい装備なのだ。
「ゲート付近には誰もいない。……? なんだ、あれは?」
緊急用の警報が鳴り仕切る中で入口のゲートを恐る恐る覗き込んだ二人は、各々別の場所から状況を確認している。先にちらと覗き込んだ男の位置からは死角となって見えなかったが、それをカバーする位置に陣取るもう一人には、"不自然なそれ"が見えている。
「人、か?」
このざあざあと降りしきる雨の中、先ほどまで異様な風体のピエロが立っていた場所に何かが倒れている。
そしてそれは薄暗い照明の中でもぞもぞと動いているのだ。機械的な動きではなく、何かから逃れようという身じろぎに見える。
こういった状況下であれば歩哨の一人でも門の前に張り付かせるべきなのであろうが、港湾地区の廃棄された工場の跡地の門に、アジア系とは違うタイプの顔つきの男がうろついていると考えてほしい。
おそらく港湾の管理部門へあの廃工場は今どうなっているか、と周囲の操業中の企業から確認の電話が入ることになる。やっている内容が内容だけに目立つことは避けたい彼らには、カメラでの遠隔モニタと、門から離れた場所から遠目に監視するくらいしかできなかったのだ。
そして、その遠目に監視していたはずの者が一向に見当たらない。
「……ダメか。ここまで徹底して潰しにくるとは。……やろうと思ったことをそのまま突き返されているな」
手元の通信機のダイアルをぐりぐりといじくるが、聞こえてくるのは砂嵐の音。時折、何か音声が聞こえてくるような気がしてチャンネルを合わせていても次第に砂嵐に変わっていく。
恐らくデジタル式の変調を利用した通信阻害が仕向けられている。向こうはその変調に合わせた通信体制を確立し、こちらはその周波帯を被せられて、全通信が断絶状態に陥っている。
これは、かなり不利どころか完全なワンサイドゲームになる可能性すらある状況だった。
ちぃ、と舌打ちして通信機のボリュームを絞る。
ほとんどないとは思うが通信の回復の可能性もある。完全にオフにするわけにはいかない。
ただ、えんえんと流れるざりざりという砂嵐は、その音と同じように彼らのストレス値を削っていく。
「……くそ、マジか。アレ、多分ですけどヒューイの奴です!」
「だろうよ! ……だからといってあんな見え見えの罠に飛び込むわけにもいかんだろうに!」
ライフルの照準についた望遠で転がるそれを確認した男が、苦々しげに吐き捨てる。
連絡のつかない監視員をしていた男。監視員から哀れな羊と化したヒューイ君は口に猿轡をされて冷たい雨の中転がされていた。
そして何よりも恐ろしいのはヒューイ君がじたばたとしているのは縛られているからではなかった。
「あ、あのピエロッ! どういう神経してやがる!? か、関節ごとねじまがっているんじゃないか!?」
「い、いや。折れてるんじゃない。関節ごと外されているだけだ!! ……だ、だが。なんでそんなことを思いつくんだよ!?」
事実を客観的に口にしただけで背筋を冷たい汗が流れ落ちて行く。
恐ろしい、いや悍ましいことにわざわざ縛り付けたり怪我を負わせて動けなくしているのではなく、関節を外してそれ以外は真っ当な状態で転がされている。
何故距離が離れた場所からそんなことがわかるのかといえば、ヒューイ君は上半身を綺麗にはぎとられ、下半身はボクサーパンツ一枚になっているからである。
体の関節の状態まで綺麗にわかるようにわざわざ身ぐるみを剥いでいったようだ。
ただし、コンクリートの地面に身じろぎして擦りつけられた皮膚は痛々しく傷ついていた。
剥ぎ取られた衣服の代わりにというわけではないだろうが、頭がすっぽりとゴミ袋で覆われている。
ザ・囚われ人という格好の彼が冷たい雨に打たれているのに、保安要員の二人が助けに向かえないのには訳がある。
「周辺の遮蔽物ゼロ、高所から撃ちぬくために、生餌を撒いたってことだろうが! 間違いない! スナイパーがいる!!」
ぎり、と奥歯が軋む。
高所から撃ちおろすことが容易で、動けないようにした敵兵を適切な場所に"置く"。それを敵側に見させたうえで、救援を"強いる"。そしてその救援を"狙い撃つ"。生餌は捕虜で漁場は安全地帯から狙える広場、そして釣竿としてスナイパー。
敵側の仲間意識が高ければ高いほど入れ食い状態になる。仮に断腸の思いで切り捨てればそれは相手に精神的な動揺を誘う隙になるだろう。
やることは単純で、それでいてリスクは少なく、人的ないしは精神的なダメージを"確実"に与えることができる。
人道的配慮や倫理観なぞクソくらえと投げ捨てるのであれば、上策も上策。
ただし、それを実行する人間の強靭なメンタリティが必須という一番の問題があるが。
……タァァァンッ!!!
…………ぱっ……!!
甲高い狙撃音が雨の中でも聞こえた。市内の外れにある港湾地区だといえ、サイレンサーを外しての狙撃。
その一発は生餌役を押し付けられたヒューイ君のむき出しの太ももに直撃する。
大きくそして派手に大輪の華のような鮮血の飛沫が散る。
びたんっ、びたんっ!!
陸に打ち上げられたサバのように、大きくヒューイ君が背筋力だけで濡れたコンクリートの上を跳ねる。
ドンッ!!
「クソ、クソ、クソッ!! 何が「騎士」だってんだ!! 地獄に落ちろ、○○○○共めッ!!」
わざわざサイレンサーを外して銃声を出しているのは"撃たれているよ? どうするの?"と知らしめるためだ。
ヒューイ君を裸に剥いたのは、"ほら、こんなに血が出ているよ? どうするの?"と大きく噴き上げる血をまざまざと見せつけるためだ。
それがわかっているから男は隠れている壁を力任せに殴りつける。
誘われている。誘い込もうとしているのだ。
わかっている。
この正しい回答は、ヒューイを見捨ててでも高所からの狙撃手を排除する、ということは。
この戦法を長く地道にへこたれることなく繰り返すことで敵部隊を完全に殲滅することすらできるのだ。
助けに向かった者をさらに狙撃し、それを活きのいい新たな餌とする。そしてそれを助けに向かう者をさらに、と続けていくわけだ。
結果として見捨てねば損害が出るのだから、そこを割り切らねばならない。それは全ての人間がわかっており、それを実行しようとするのだ。
だから、そこで人の心を揺さぶるダメ押しが必要となる。
……タァァァンッ!!!
……びたんっ、びたんっ!!
目をそこへと向けてはならない。
再度の銃声と、小さく何かがばたつく音が聞こえた気がする。
「ち、畜生ォ……ッ!」
歯ぎしりした口から泡混じりの唾を吐きだす。
若干の酸味を感じるのは文字通り"反吐が出る"ほどのストレスからの胃酸と、噛みしめた唇から口に広がっていく血の味か。
「ど、どうにかならないのか!」
「無理に、無理に決まっているだろう!?」
目元を真っ赤に腫らしながら、問いかけてきたもう一人に叫ぶ。
……タァァァンッ!!!
……びたんっ、びたんっ!!
まただ。
何が起きているのか言う必要すらない。
見る必要すらない。
ヒューイは、自分たちの手の届かない所から"嬲り殺し"にされる。
「ああ、神様ッ! ヒューイに、ヒューイにご慈悲をっ!」
小さく鋭く祈ることしかできない。もう一人だとてどうにもできないことは分かっているのだ。
あの状況のヒューイを助けるならば,完全武装に狙撃に耐えられる遮蔽板を装備した部隊が必要だ。若しくは狩場を突っ切ることの出来る装甲車両か。
当然のことだがどちらも今の彼らにはない。
有ったとしても今は撤収の為の時間稼ぎを主とした動きになっている。どんな方法を思いついたとしてもまず、ヒューイを見捨てることが真っ先に選択されるだろう。
そのことも相手は分かっている。
だからこそ、いやらしい。
いちばん人の奥底にあるやぁらかくて、ぬくぅくて、そしてぼぉぅと光るところ。
そこをピンポイントで射抜いてきたわけだ。
がさっ……。
ガチャッ!!
憤慨しつつも退くにも退けず、かといって先に進むには圧倒的に装備が足りない。
そんな彼らの耳に、目隠しに植えられた低木樹を何かが掻き分けてくる音が聞こえた。
緊張感の中、二人同時にそちらへと銃口を向ける。
発砲をためらったのは、その音にひかれた"誰か"に気付かれるのではないかという恐怖心と、状況が非常に流動的になってきたからでもある。
この状況では戦闘を避けて、完全にケツをまくってトンズラという形になるかもしれない。遅滞行動を行なっての撤退など無意味なほどの戦力とカチあう可能性が、スナイパーの投入確認で出てきたからでもある。
件の「光速の騎士」だけでなく、統率された集団戦力がそこに加わった以上、迎撃・籠城は馬鹿の考える愚策となった。
「! あれは!?」
「手を、手を貸してくれっ!!」
二人の作業着姿の男たちが、保安要員の視認できる目隠しの植込みに身を伏せるようにして転がり込んできた。
一人は気を失っているようで、体に力が入っていない。もう一人が体を引き起こして、植込みの傍の壁まで引きずるようにして身を隠す。
二人とも泥の中を這うように逃げてきたようだ。
服は泥水をしこたま吸い込み、ぐしょぐしょになっている。
気絶している方の男は、ヒューイ君と同じく監視役をしていた男だ。本来はつばの深い帽子と、肩から無線機を吊るしているはずなのだがそれは無くなっている。気絶している大の大人一人を抱えて来るには邪魔となったからだろう。
この土砂降りの雨の中でも目覚めることもなく、だらしなく開いた口からだらだらと泥混じりの唾を地面へと垂らしている。
もう一人は壁に背をつけて倒れ込むようにして大きく肩で息をしていた。
「そ、そこから動くなッ!! 狙われているぞッ!!」
タァァァンッ!!!
びしぃぃっ!!
「ひぃぃッ!!?」
保安部員が叫んだ瞬間に、彼ら二人と逃げ出してきた二人の間。
目隠しになる樹木が途切れた約十メートルの壁があるのだが、銃弾がそこにめり込んでいる。
今の大声でスナイパーに位置を感づかれたのだろうか。
………ぃぃぃぃぃぃ……
雨音の中、保安員の耳に小さく何か機械音が聞こえる。
一方がその方向に目をやるとこの雨の音で聞こえなかったのだろう。暗闇で見えなかったのだろう。
小さくLEDの光が本体部から漏れ出ている黒塗りのドローンが雨の中、空を飛翔している。
たたんっ!!
ガシャッ……!!
「くそ、そこまでの物を!?」
位置がばれている以上、音を出さない意味はない。
数発まとめて弾丸を叩きこむと、ドローンは暗闇の中に消えていく。
その後の音からすれば直撃、落下ということだ。
「そ、そっちへ行くぞっ!」
「だ、駄目だ!!」
パニックを起こした作業着の男が、気絶したもう一人を抱えあげる。
ヒューイを嬲り殺しにするために繰り返される銃声、そして明らかに自分たちを探していたドローンの存在、さらに姿を見せないこの場にいるはずのあの"クソピエロ"。
ギリギリで保っていた精神が決壊するには十分すぎたのだ。
「あああああっ!!」
「馬鹿野郎っ!!」
パニックで飛び出した男が、もう一人を抱え上げながら十メートルの距離を、一気に駆け抜ける。
一歩、二歩、三歩。
ちょうど半分、五メートルを過ぎたあたりだろうか。
タァァァンッ!!!
ぱっ……!!
スローモーションのようにして、男二人が地面へと崩れ落ちて行く。
駆け抜けた男の足から、爆ぜるように鮮血の華が咲いた。
「……ッッ!! カバーッッ!!!」
「畜生っ!! オオオオオオッ!!!!」
一瞬の躊躇いを振り払う雄々しい雄たけび。
怒声を上げながら、負傷者を救うため二人は飛び出す。
ここまでのヒューイへの狙撃、壁を撃った一発、そして作業着の男の足を撃ち抜いた一発。
そこから類推される大まかな位置目掛け、手に持ったライフルを乱射する。
もう一人は一直線に負傷者二名の元へと駆け寄り、気絶した者の襟を掴み、撃たれた一人に肩を貸す。
「馬鹿野郎がッ!!」
「す、すまんっ! すまんっ!!」
負傷者に怒声を浴びせながら、襟を掴んだ手をこれでもかと振るう。ほんの少しだけ。距離にして五十センチも動かなかったがそれで十分。
その距離の先にはライフルの弾倉を空にする勢いで乱射するもう一人がいる。
「退くぞッ!!」
「解ってる!!」
保安員の二人は片手に大人を、もう片側はライフルを狙撃手のいるだろう位置にあてずっぽうの射撃をしながら引き揚げていく。
タァァァンッ!!!
引き上げる彼らの足元に銃弾が襲う。
地面をえぐり、泥が跳ねあがる。
だが、それは地面を傷つけるだけで、人を傷つけることはなかった。
「OKだっ!!」
「OKです!!」
四人の男は体を投げ出すようにして、容易には狙えない壁の向こうへと身を転がす。
保安要員の二人は双方の無事を確認しつつ、狙撃されない位置まで逃げてきた二人を回収できたことに喜び混じりの声を上げた。
足を撃たれた男は、抱き着いたまま離れようとはしない。
「? どうした。足の他にどこか撃たれたのか?」
不安に駆られ、揺さぶって男の様子を確認する。
すると男は身じろぎして体の位置を変えて、より強く力を入れて抱き着いてくる。
よほど怖かったのだろうか。
「おい、おい。まずは急いでその怪我の治療をしないと……」
『この二人で最後ですか?』
……?
何だ、今の台詞は?
なぜ、コイツはこのタイミングで"日本語で"こんなことを言ったのか?
「? ……!? お前っ!?」
帽子で顔は隠れていた。
暗闇で顔はぼんやりとしか見えない。
雨の滴が目に入って、正確に顔は見えていなかった。
ゴリッ……!!
固く、硬質な何かが自分の顎に押し付けられた。
身じろぎをしようにも、抱き着かれた時にこの男はわざわざ"位置を変えて"自分に抱き着いてきたのだ。
ライフルを取り回せるスペースは潰されている。
抱き着かれてゼロ距離にされた無防備な体勢になっている。
そういうことだ。
この、いましっかりと見たこの作業着姿の男の顔。日本人の、アジア系の顔ではない。白人ではあるが、自分の知る限りこんな男は知らない。
こんな男、自分が知っている監視役には"見たことがない"。
「動くな、という状況だということは、どんなボンクラでも解るな?」
さっきまでのおびえた様子を微塵も感じさせずに冷たく言い放つのと同時にきち、と金属音が鳴る。
動かせない顔のなかで目だけは動かせる。
見える限りでいえば掌に収まるほどの小さな小さな口径の拳銃。
距離があれば、当たり所が悪くなければ、致命傷にはならないだろうそれ。だが、ゼロ距離であれば、射角があごの下から脳天へと向けられている状況ならば。
ばたばたばたっ!!
自分の傍で慌ただしく何かが暴れている音がする。
距離でいえば二メートルも離れていない位置で。
ばたんばたんばた……。
音が消える。
『……そいつでラスト。これで外にいる奴らはもういない。"後は中の連中を片すだけだ"』
聞こえたのは日本語。さっきの問いも日本語。
この抱き着いた男は後ろにいる"誰か"に訊ねたのだ。
先程まで自分たちがいたこの場所に、ずっといたその"誰か"に。
「突入部隊、ゴー、だ」
小さく作業着の男が呟く。
数瞬の後。
どどどぉぉぉぉん!!!
周り中の全員を叩き起こすかのような轟音と共に、閉じられていた正面ゲートに大型のトラックが突っ込んできた。
門扉を吹き飛ばし、それを皮切りに次々と車両が突入してくる。
「さて、では質問に答えてもらおうか?」
「……な、何で!? 撃たれたはず! お前は、撃たれたはずだろ!?」
混乱で頭が回らないのか、聞かねばならないことの優先順位すらぐちゃぐちゃになっているのだろう。
そんな今はどうでもいいことを聞いてきた男に、にたと作業着の男は笑う。
「エレーナ、お前のサインが欲しいらしい。壁一面に頼む」
タァァァンッ!!!
銃声と共に壁一面に真っ赤な放射状の円が描かれる。
それは降りしきる雨と共に壁から流れ落ちてうっすらと色落ちしていく。
「ぺ、ペイント弾?」
「まあそんなものだ。中身は豚や鴨の血だがね」
ジビエ料理の中には野禽類の血を使ったソースなどもある。ドイツの血のソーセージもあるし、中国料理の猪紅なども有名な血を使った料理だ。
用立てようとすれば金と流通ルートさえあれば簡単ではある。
「我々はあくまで「光速の騎士」のサポートだ。当然、可能な限り人死になどは避けたいとは"思っては"いる」
会話の中に解りやすい強調部を作り話しかける。
「そこで気絶している"二人"はもちろん、広場で裸の彼も無事だ。まあ弾速までは制御していないから、骨が折れている可能性はある」
こんこん、と血に濡れた足を空いた手でたたくと乾いた硬質な音がする。恐らくはプロテクターのようなものだ。
動き回る男の足のそのプロテクター部だけを射抜いたと考えれば、エレーナの腕はかなりのものだ。
最後に足元に一発撃ち込んだのも、あれはわざと外すことで、安全地帯へともんどりうって転がり込むような状況を作り出すためだったのだろう。
あごの小口径を外さず、保安要員が肩にかけていたライフル銃を作業着の男がそっと外す。
抵抗らしい抵抗もなく、それは作業着の男の手に渡った。
じゃり……。
どさっ……。
自分の後ろで濡れた地面をブーツが踏む。そして何か大きなモノが倒れた音がする。
その音に、ビクン、と体が跳ねる。
「"できれば"君も生きていてほしいと我々は思っている。さて、そのうえで聞く。……この内部の情報をどこまで吐く気があるか、だ」
すっ……。
誰かが、保安要員の後ろでしゃがみこんだ。
それを確認すると、作業着の男は顎に突き付けていた銃を外した。
何も言わず、それをしまい奪い取ったライフルの状態を確認し出す。
完全な拘束がされていない敵が目の前にいるというのにだ。
だが、保安要員はそのままの姿勢で動けない。
銃を奪おうとも、その場から逃げようともしない。いや、"したくない"。
ぽん。
肩を叩かれる。置かれた手は黒い籠手で包まれていた。
動けない。一切の動きをオフに、彼は彫像のように止まる。そんな彼の様に業を煮やしたのだろう。肩に置いた手を回し、肩組をしてきたのだ。
後ろにいた"ソレ"は。
ぐい、と掴まれた彼は敵であるはずの作業着の男に視線で訴える。
たすけて、と。
作業着の男は薄く口元に笑みを浮かべると濡れた髪を掻き上げ、男へと向けていた視線を突入してきたトラックのほうへと向ける。さらにその視線を無視して、あえて一歩下がった。
その一歩が保安要員の男には、まるで海を隔てた対岸ほどの距離に感じる。
「あア、ハジメまシて。……通じテまスカ?」
そんな彼に片言の英語で話しかけてきた"何か"。
自分の顔の横にその話しかけてきた"何か"がある。
ぎぎ、と眼球だけをそちらへと向けた。
動かした視線の先、三十センチ先に「光速の騎士」の真っ黒な兜が自分を覗き込んでいた。
深淵を覗き込むものは、といった過去の偉人は誰だっただろうか。
今、間違いなく言えるのは、その彼よりも深く静かに自分は深淵を覗いているだろうという事だった。




