2-1 勤務 のち 休息 そして
「お待たせいたしました。まず先に、ベーコンエッグサンドとアメリカンコーヒーのセットのお客様。……そしてこちらが、パンケーキと抹茶ラテセットです。添えてある白い小瓶がメープルシロップ、黒い小瓶がレンゲの蜂蜜です。小皿のバターとご一緒にお好みでどうぞご利用ください。パンケーキの皿、非常に熱くなっております。その点、お気をつけてお召し上がりください」
「ありがとうございます」
「ああ、お冷。空になっていますが、お持ちしましょうか?」
テーブルに座る三十代の夫婦と思われる二人組のテーブルに注文を運び、空になったグラスに気づいて声を掛ける。
手前に座る夫が、少し考えるそぶりをして軽く頷くと、店員である茂に言う。
「頂いていいですか?」
「では、すぐにお持ちします。伝票、こちらに置いておきますね」
薄く笑みをいやらしくない程度に浮かべ、軽く頭を下げて茂がテーブルから離れる。
一番近くにあるピッチャーの場所を思い出しながら、気持ち程度早歩きでそこまで移動しようとした。
「ああ、私が行くわ。あっちの逆サイド、食事終わりそうだからレジお願い」
「ん、そうか。じゃあ頼む」
歩き出した茂を呼び止め、マユミがスチール製の汗の浮いたピッチャーを持って水を待つ夫婦のもとへと歩いていく。
入れ替わりに茂は席の間を通り抜けながら、少し乱れている椅子を綺麗に整えつつレジ方向へと向かう。
「あのー……」
「はい、今参ります」
マユミの予想通り席を立ってレジに向かっていた男子大学生のグループが、近づいてくる茂を見て声を掛けてきた。
今度は薄くではなく、わかる程度の笑みを浮かべて差し出された伝票を受け取り、流れるようにしてレジに入る。
「……では、お会計ですが、皆さんご一緒でよろしいですか?」
「あ、大丈夫です。俺、まとめて払います」
「わかりました。では合計二千七百五十五円です」
合計金額を伝えられて、先頭の男が札を三枚と小銭をジャラジャラとカウンターの会計皿に置いた。
「……三千三百五円お預かりします。では、お釣りが五百五十円と、レシートです」
「ごちそうさまっしたー」
出された釣銭を受け取って、そのままそれをポケットに突っ込むと、軽い挨拶と共に店を出ていく。
からんからんと、ドアベルを鳴らし、出ていくその大学生のグループに声を掛ける。
「ありがとうございましたー」
大学生たちが店を出たのを確認し、茂は一度裏手に回り、カートと布巾を持ってテーブルに向かうと、残っている食器類を下げていく。
すべてテーブルからカートに乗っけたタイミングで後ろに気配を感じて、振り返る。
「もらっていくわよ」
「おう、頼む」
マユミが茂の返事を受けて食器満載のカートをがらごろとキッチンへと運んでいく。
それを見ながら、茂はテーブルを丹念に布巾で拭いていく。
トーストからこぼれたパンくずや、サラダのドレッシングなどが小さく残るテーブルをゆっくり且つしっかり拭いていく。
こういう仕事をしたことがある人はわかると思うが、手早くささっと拭き取るよりも、ゆっくりしっかり拭うようにした方が結果的に早く終わる。
表面的に手早く片付けると、テーブルが乾いた後でうっすら前の食事をした人の痕跡が見えてしまうことがあるからだ。
その場合に再度テーブルを拭くかどうかは、個々や店舗の判断に任せるが、茂としては金を払ってきてくれる客には心地よい食事時間を提供してしかるべきだと思う。
そういう考えから、仮に手早く行う必要があったとしても、力を入れて拭うように拭いていくことにしている。
どんな人間でも汚いテーブルで飯は食いたくないのが道理である。
「……ふぅ、少しお客さんもはけてきたか」
布巾を軽く畳んでそのままホールから離脱する。
現在時刻は十時半を少し過ぎている。朝のモーニングの時間帯はそろそろ終わり、これからはコーヒー一杯でゆったりとした時間を楽しむ層が増えてくる頃だ。
つまり、昼のランチタイムが始まるまでは少しの間、凪の時間帯になる。
このタイミングで早番と昼のバイトシフトの入れ替えのタイミングに入るわけだ。
その引き継ぎの人員もホールに入っており、ひとまず茂の朝からのバイトは一段落ついたといえるだろう。
「お疲れー。……結構、お客さん来てたみたいだねぇ。大変だったんだろう?」
「あれ? 店長、戻ってきたんですか? 出張で今日一日は不在って話だったんじゃ?」
スタッフスペースに戻ると、スタッフ用のテーブルセットに座っている伊藤の姿を見つける。
普段着姿の彼が、コーヒーを片手に寛いでいる。
「ミーティングの為の出張って言っても隣の県だしね。朝一の早番には戻れないって思ったから杉山君には連絡したけど、ミーティング自体は昨日ほとんど終わったし、今日は諸連絡がメインですぐに片付いたから。高速使えばまあこれくらいの時間になるさ」
「そんな大急ぎで帰ってこなくても良かったんじゃ」
「でも、向こうでやることも特にないしさ。お土産買ったから皆に渡すの間に合うかなぁって思ってね」
椅子に座った茂の前に、ずいと紙箱に入った所謂“お土産”の包装がされた菓子が出される。
茂は包装されたそれを一つ摘む。
「わざわざすんません。……他のみなさんは食べたんですか?」
伊藤に感謝の言を掛けながら、まわりの様子を確認する。
早番の同僚たちは軽く笑いながら頷く。
「ふーん……。じゃあ、いただきますー」
「あ!」
伊藤が躊躇いもなく包装を破って口にそれを放り込んだ茂に、声をあげる。
その様子に、疑問符を浮かべる茂。
ばり、ぼりと口の中に放り込んだクッキー生地が割れる音がする。そのまま表面にまぶされたザラメ糖の甘さと生地自体の甘さを感じながら、“あ、これ好きな部類の”と思った瞬間である。
中に仕込んでいただろうペースト状の餡が舌に触れる。
瞬間、突如として現れる、舌に感じる味。いや、むしろそれは痛みであった。
「辛ッッらぁぁぁ!!?」
叫ぶと同時に休憩用として置かれているウォーターサーバーに駆け寄ると、紙コップになみなみと水を注ぎ口へと持って行くと、舌全体を水で洗うようにして二杯続けてがぶ飲みをした。
「……いやぁ、一般向けに販売してあるし、大丈夫かと思ったんだけどなぁ」
「何がっすか!? いや、これどういう罰ゲーム!?」
都合三杯目の水を注いでちびちびと舌を潤す。
ドン引くほどの辛さの伊藤の土産物。よくよく見ると包装の色味が若干違う。茂の手にしたそれはベースが真っ赤なパッケージ。
横の列は順にオレンジ、黄色、淡い緑、水色となっている。
「珍しいものを見つけてさー。いや、新作っぽくってたまらず買っちゃったんだよ。ほら、定番のだとつまんないじゃないか」
「……そういう冒険はまず自分ひとりでやってみて下さいよ」
紙箱を包んでいたと思しき包装紙を見つけると、茂はそれを手に取った。
ぺら、と和紙の質感を持つそれには“五色の鮮やかな味をあなたに~五鮮餅~”と書かれている。恐らく五つの鮮烈な味の煎餅という意味なのだろう。
「赤は外れかー。いや、説明する前に食べちゃったからさ。……説明してから差し出したほうが良かったね」
「……ひりひりしてますけど、舌」
甘さで油断していた舌に、激辛という苛烈なカウンターパンチ。
そのギャップに体がやられてしまう。そのカプサイシン的な何かでうっすらと額に汗まで浮かんでくる始末だ。
そういえば、と思い出す。
このぽっちゃり伊藤、土産を選ぶ際にはかなりのギャンブル的発想をする男であると。
「一応水色ミント、緑が抹茶、黄色がレモン。オレンジはオレンジで、赤はハバネロを練りこんである、らしい。他の色を食べた人は、すごくおいしかったらしいんだけど」
「……ロシアンルーレットっすね。製造業者、アホなんですか?」
「いや、たぶん大真面目だと思うよ。……きっと他と違うインパクトを出したかったんだろう」
「結果、俺の口ン中、大惨事ですけど」
「そういう所で口コミを狙ってみたんじゃないかな、たぶん」
うむ、と頷く伊藤。
予定外のダメージをうけた茂はそれからしばらく、水と温かなほうじ茶で舌を癒したのであった。
「じゃあ、おつかれさまでーす。明日もよろしくお願いします!」
従業員用の出入り口から「森のカマド」を退勤する男。
私服姿の杉山茂である。
手を振って同じく出てきた少女、マユミ・ガルシアとそれを待っていたエレーナの二人と別れる。
車で重役出勤のようにしてマユミが店の裏手から出て行くと、素の表情に戻った茂はそれと逆方向に向かい歩く。
てくてくと約十メートルも歩いたところだ。
交差点の信号待ちで立ち止まった茂は、ポケットからスマホを取り出して画面を見始める。
普通の男性がただ信号待ちで時間を潰しているだけのその光景。
何一つおかしな事などない、その光景。
『ターゲット移動開始を確認。自宅方面、または駅に向かっているものと思われる』
『……当初予定通り、作戦を開始する。各員、これより先、一切の油断無きよう。……視線、歩み、不自然な行動、全てにだ』
『了解』
日本のどこにでもある交差点。
そこに立つ、普段着の男。
それを遠くから見つめるいくつもの瞳は、強い光を放っていた。