3-2 足蹴 のち 配膳
「もう俺仕事行くぞ?いい加減起きろよ」
「うぃ……」
ふわぁ、と欠伸をした猛がもぞもぞと毛布の中でうごめいている。
時刻は朝の7時30分。
早番の茂はそろそろ家を出ないとバイトに間に合わない。
一方の猛は二日酔い覚ましのしじみ汁と白飯をかっ食らうと、歯を磨いて二度寝に突入したのだ。
洗い物やら洗濯物を干したりやら日々の作業をこなすのにそのまま起きている茂は、その反応に少しむっとし、足の先でその毛布のミノムシを突く。
「なんだよぉ……。寝かせてよ、もう少しだけぇ……」
「いや、お前も9時集合で火嶋教授のフィールドワークなんじゃないのか?いい加減出かける用意しろよ」
もぞもぞとミノムシを脱出した猛の手にはトッカンがある。
グラビアページが開かれている様子からすると、そこを開いたまま寝落ちしてしまったのだろう。
「んー。そうか、シャワー借りていい?」
「良いけど、俺は本当にもう出るから。スペアキーは渡したの使って鍵だけはしっかり頼むぞ」
「うん……」
「あと、夜はどうする?外で食べてくる感じか?」
「んー?」
寝ぼけながら考え込む。
「多分、帰ってから食べる。外で飯食って生放送に遅れたら最悪だし」
「最優先はそれなのかよ。ま、いいさ。何か適当に作るけど文句言うなよ?」
「あ、魚料理が良い。昨日、鶏肉だったし」
「善処する。じゃあ、遅れるなよ?」
「わかった、わかった」
スペアキー2本のうち1本を掴んで家を飛び出す。
少しばかり駆け足でバス停まで移動する。
バス賃の出費は痛いが、それ以上にマスメディアや素人動画投稿者に目を付けられるのが怖い。
「……忙しいね。そんな真剣にバイトしなくても」
ふわぁ、と再度の欠伸。
流石に今度寝入ると間違いなく寝坊してしまう。
目覚ましにシャワーでも浴びて、それからフィールドワークの準備をしようと毛布から抜け出す。
ぴりりり!ぴりりり!
「ん?電話?」
風呂の扉に手をかけたところでスマホが着信を告げている。
「あれ、教授じゃん?何かあったのかな」
着信の相手先が早苗であることを確認し、猛はスマホを通話状態にするのだった。
「ご注文のアイスコーヒーとフレッシュオレンジジュース、グリーンサラダにハニートーストが2つです。小鉢のアイスはお好きなタイミングでトーストに載せて、もしくはそのままで召し上がってください。フレッシュジュースは軽く掻き混ぜてからお飲みください。あとはグリーンサラダはドレッシングがかかっていませんので、テーブルのお好きな物をかけてからどうぞ。取り皿は2枚置いておきますね。」
「ありがとう」
「何かあれば、呼び出しボタンでお呼び下さい。では、ごゆっくり」
テーブルの隅に伝票を裏返して値段が見えないようにして置いておく。
60代の老夫婦の配膳を終え、帰り際にコーヒーカップが置かれたテーブルに向かう。
座っていた男が会計に向かっていることを確認し、カップとソーサーを回収する。
行き違いで布巾を持ってきたバイトの後輩にテーブルを拭くように指示して、キッチンへと回収したカップを持っていく。
「ああ、疲れた……」
「ご苦労さん。昨日からお客さん多いんだよ。「光速の騎士」のプチバブルのせいでね」
「ああ、道理で」
制服の白いシャツの襟を少しだけくつろげる。
朝のバイトはホールスタッフ2名と、キッチンに2名で動いている。
いつもよりも若干多い客をいつも通りの人員で対応していったのだが、手が回らない所が出そうになった。
何とかレジ対応の店長も手伝うことで店を回したが、道理で結構ハードだったわけだ。
今は朝イチのシフトメンバーに朝から昼にかけてのメンバーが重複する時間になり、少しだけ人員配置が手厚くなっている。
ようやく一息つけるかと思えるくらいになってきたのだ。
「お客さんに迷惑かからないようにできて良かった……」
「本当にね……」
はぁ、と2人で安堵の溜息を吐く。
ホールを見るといつもは見かけない男がコーヒーを飲んでいた。
テーブルの上には何かの資料が置かれているのが遠目からでも見える。
引き伸ばされた写真はどう見ても「光速の騎士」の大写しだ。
つまり彼は記者とかライターとかそういう職種の人物なのだろう。
「カメラ持ってる人も多いし、普通の人でもデジカメ持ってる人もみたよ。取材前にうちに軽く食事に来てるんだろう。待ち合わせにも便利な位置だってのも有るんだろうけど。忙しい最中にインタビューされそうになったよ」
「迷惑な話ですね」
「いや、しっかりお金を払ってくれるんならそれはお客さんだよ。まあ、少し忙しくて対応できません、っていったら引き下がってくれたしね。むしろ経営者としてはこのいきなりの繁盛具合は喜ばしい限りなんだけど、いつまでこのプチバブルが続くかを見極めるのが難しくてね」
「食材廃棄、あんまり出したくないですもんね。でも足りないとクレームにつながっちゃうし……」
「食材が過発注になると利潤が飛んじゃうからなぁ。予想外のお客さんって本当に難しいよね。いっそ「光速の騎士」、毎日でも現れてくれないかなぁ。そうすりゃ発注も最大でずっと行けるのに」
「それは、ないでしょうけど」
絶対にない。
もう、絶対にここで「光速の騎士」なんぞにはならないのだ。
茂はこのまま、ゆっくりと、何事もなかったかのようにして、森のカマドも通常営業へと移行していけるよう、強く決意を新たにした。
「杉山さん、なんかお客さんが呼んでますよー」
「へ、俺?」
「杉山君を?」
スタッフブースで話し込んでいた伊藤と茂にバイトの後輩が話しかけてくる。
「そう、いま入店した人たちなんですけど、注文に行ったら杉山さん呼んでって」
「知り合いかな?」
「いい感じな美人さんと、学生っぽいのが3人で来てるんです。窓側の6番テーブルに案内して水だけは出してあるんで、あとはお願いします」
「?まあ、呼ばれてるんでちょっと行ってきます」
「美人さんか。ちょっと僕も覗こうかな」
「店長、下心がすぎませんか、それって」
笑いながらスタッフブースを出る茂。
注文用のPDAを手に取ると、制服の腰掛けエプロンのポケットに放り込み、言われた6番テーブルに向かう。
「あれ猛じゃないか。あと、昨日ぶりですね、教授。いらっしゃいませ?」
「ふふ、そういう格好もお似合いですよ。茂さん」
テーブルには猛と恐らくその友人であるゼミ生たち。
彼らが軽く会釈してくる。
そして彼らを率いる様にしてシルバーフレームのメガネを指でくいと上げ、グラスに口を付けている早苗が座っていた。
よく考えたら、初めてのバイトシーンだ!