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キツネのブドウ

作者: 宵千 紅夜

 外は春のように暖かい陽射しが注いでいるというのに、南向きの窓が無い美術準備室はどこかひんやりとしている。めでたく進学する大学も決まり、卒業を控えた小塚は部室に置きっぱなしにしていた物の処分を兼ねて美術準備室を訪ねて来ていた。年中低い室温と絵の具の匂いが相俟って、どこか物憂げなこの部屋は嫌いではない。壁にしつらえられた棚に、割と無造作に入っている油絵をちょっとだけ出して眺めてからしまうという無駄なことを繰り返していたら美術部顧問の千葉がガラリと扉を開けて入ってきた。

「小塚か。描いたもので、とっておきたいものがあったら早めに持って帰れよ? 木枠もそんなに余裕があるわけじゃない」

 どうせ学生の部活動だ、一年としないうちにキャンバスが剥がされ、また別の学生がキャンバスを張りなおして絵を描くのだ。

「別にいいです。家にあっても邪魔になるし」

 眺めていた絵の中に自分が描いたものを見つけ、小塚は絵を戻して棚に背を向けた。絵を描くのは好きだった。中学の頃から部活で油絵を描いていたし、それなりに賞も取っていた。人よりも上手い絵を描く自信を持つくらいの技術はあるつもりだ。

「先生。去年の美術展、なんで俺のじゃなかったんですか?」

 こちらに背を向け、窓際の作業台で木材を削る千葉になんとなく声を掛けてみた。

 毎年秋に行われる市民美術展がある。市の美術館に書道、陶芸、絵画の別もなく展示されるだけの美術展で、それに出品されたからといって何があるわけでもないが、小塚の絵は一枚もそれに選ばれなかった。もとより部員全員の絵が出品されたわけではないし、出品されなかったからといって別に恨みなんて少しもありはしない。

 ただ、出品された絵を見ても、自分の絵のほうが構図もテーマも優れているように思えてしまい、なぜ千葉がその絵を選んだのかがわからなかった。

「お前卒業後はどこになったんだ?」

 顔を上げた千葉は小塚の方を見て面倒そうに訊ねた。いつもどこか面倒そうにしているこの教師は、答える気が無いのかてんで話がかみ合わないことがある。しかし、別に食い下がるような話題でもない。小塚はため息をつきつつ、準備室の中ほどにある机の寄せ集めの一つに腰を下ろした。

「札大ですけど」

「そうか、よかったな」

 笑いかけるでもなくまた元のように木材を削る作業に戻った千葉の言葉は、祝福と言うよりは間違った選択肢を選ばなくて良かったなとでも言うような口ぶりだ。

「小塚……。ねたむなよ?」

「は? 誰をですか」

「宮沢さ」

 返ってきた名前は意外なものだった。それは小塚が選ばれなかった美術展に出品されていた同級生の名前だ。美術部とは比較的個人の作業ばかりになるのだが、別に部員同士の仲が悪いわけでもなく、むしろみんなと上手くやってきたと思う。もうじき来る卒業式でだって、互いに別れを惜しむ気持ちが残るくらいには仲良くやってきた。不安に思われる要素なんて無いはずだ。

 思い当たるとすれば、その美術展のことだろう。たまたま自分が選ばれず、宮沢の作品が選ばれたから逆恨みでもすると思っているのだろうか。

「別に、なんとも思ってませんよ」

 何を言っているのかと小塚は笑ってしまう。よりによって宮沢の名前を出されるなんて思ってもいなかった。

 宮沢は小塚と同じように中学の頃から美術部に入っていて、油彩水彩を問わずとにかく絵を描くことが好きだと言っていた。しかし、その腕前はといえば可もなく不可もなくといったところで、やりたい気持ちだけはあるが、技術が身についていない高校生美術部員によくいるタイプの人間だった。

「あいつは美大に行くそうだ」

 ガリガリと木を削る音だけが美術準備室の冷えた空気に響く。

「……それが?」

 千葉の意図がわからずに、小塚は眉を寄せて首を捻った。絵を描くのが好きだと言っていたから、美大に進学しても不思議は無い。その先を考えなければ、という条件付だが。

 美術を学ぶ学校にいったところで、そのまま芸術分野で生計を立てられるかと訊かれれば、ほとんどの場合首を横に振るだろう。どれだけすごい才能を持っていたとしても、その中の一つまみほどしか夢のとおりの仕事に就くことはできない。

 そんな道を選んだ宮沢の気が知れない。自分より下手な相手を哀れにそこ思え、ねたむなんて感情はあるはずも無かった。中途半端な才能でがむしゃらに走っても、どこにも行けるわけが無い。

 答えを待つようにじっと千葉を見据えるが、彼は手元の木材を削ることに集中しているようだ。カリカリと、小さいナイフで表面におうとつをつけてゆく。

 手を止めた千葉は、自らの目の高さまで木材を掲げてふっと木屑を吹いて、形を確かめるように眺めた。

「お前、将来の夢はなんだ?」

 また唐突な質問に、小塚は落書きノートと化している部員の日誌をパラパラと眺めていた手を止めて明後日の方向を眺めながら考えた。

「まあ、えーと。公務員とかですかね。楽そうだし」

 今の時代、楽な仕事など無いのかもしれないが、やはりまだまだ公務員が楽そうだという見方は拭えない。とくにやりたい仕事も見つからない今の小塚には、聞こえ的にもちょうどいい選択肢だった。千葉は「お前らしいな」といって、また木材を削り始める。

「俺も教師になったのは、まあ似たような理由だったよ」

 そんなことを教師から聞かされたくは無いのだが、部活の顧問だったこともあり、千葉の性格はなんとなくわかっているから納得できてしまう。千葉はいつもどこか面倒そうで歯切れのいい物言いをする男ではないが、今日はそれが一段と酷いような気がする。けれども、特にそれ以上話す事も見当たらなかった小塚は、ぐるりと美術準備室をもう一度見回り、部員の共同ロッカーの中身をあらため、自分の物をいくつか取り出して鞄にしまった。

 ふと時計を見るともう四時をまわっていた。日が長くなってきたせいか、そんなに時間が経っているとは思わなかった。適当に千葉に挨拶をして、美術準備室を出ようと扉に手をかけたとき、千葉はコトリと木材を机に置いた。

「宮沢にも将来の夢を聞いたことがあるんだが、あいつはこう答えたよ」

 その言葉に振り向いた小塚は、千葉の削った木材をなんとなく眺めた。木材はもう木材では無く、荒削りにだがブドウになっている。白い木のブドウ。

 それからしばらく沈黙が続いたが、千葉はそれ以上何かを言うつもりが無いのか、紙やすりでブドウを磨き始めたので小塚も何も言わないで美術準備室を後にした。

 春の声が聞こえ始めたとはいえ、まだまだ雪の残る道をザクザクと踏みしめ冷たい風に肩を竦めた。

『僕は、ずっと絵を描き続けていたいです』

 それが宮沢の夢だという。

 それは夢ではなく希望だろうと、小塚は心の中で吐き捨てるように笑った。




 広い本屋の中でどこからとも無くかかる音楽や、人の行きかう音が急に耳に戻ってきたような気がして、小塚は顔を上げた。冷え切った手には一冊の本が握られていて、表紙をもう一度眺めてからそっと陳列棚に戻した。

 表紙の折り返し部分にかかれているカバーイラストの画家の名前が、本屋を出てからも小塚の胸に深く突き刺さって消えることは無かった。

 思い出せば、自分は宣言したとおり夢をかなえて公務員になっていた。くたびれるほど忙しくも、愚痴を言うほど暇でもない毎日を、一日一日と数えるように過ごしている。

『ねたむなよ?』

 高校の終わりに、部活の顧問から言われた言葉が頭によみがえる。何年も経って、ようやっと小塚はその言葉の意味に追いついた気がした。

 高校最後の美術展で、自分の作品が選ばれなかったことはショックだった。自分よりも下手だと思っていた人の絵が出品されることが不思議で仕方が無かった。けれども、きっと今の小塚が見れば、自分も宮沢の絵を推すだろう。自分には物事に込めるべき『中身』が無かったのだ。言い換えれば『熱意』のようなものだろう。面倒そうに生徒に指導をしていたあの顧問にも、それを見抜かれていた。

 学生の頃は何を見て何を考えたフリをしていたのか、まわりよりも少し自分が特別であるように錯覚して、心のどこかで同級生と自分を比べて生きていた。絵だってそうだ。小手先の技術や構図が少し上手くできるからといって、どこかで他の部員を見下していた。

 自分はいつも賢い正解を選んで生きている気になって、特別なものを選ぶ事をせず、結局欲しくも無い『とりあえず』という無難な選択肢ばかりを選んでいたのだ。だからそんな選択をせずに、『これが好きだ』とはっきりと言って突き進む人間を見ては、愚かだと鼻で笑っていたのだ。自分でも気が付かないところで、うらやましいと思いつつ。

 ――先生。俺には、ねたむ資格すらありませんよ。

 今から人生を投げ打って、何かに打ち込むほどの勇気など持ち合わせてはいない。

 夢は叶った。けれど、その先には何もなかった。自分の本当の夢とは何だったのだろうかと、小塚は帰り道を歩きながら自問するが冷たい風はただ吹き抜けてゆくだけだった。

 

 

   〔了〕

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