入部と入籍と南川先生
教室へと戻る。カバンなどは持っていたが、南川先生に用事があった。
その用事とは補習ではなく、天文部についてのことだった。
とはいえ、放課後になってからかなりの時間が過ぎてしまっている。もう先生はいないだろう。そういえば、放送は流れなかったな……。そんなことを考えながら歩いて向かうと、暗くなった廊下に二年D組の教室だけが点灯しているのを見つけた。
まさか。
嫌な予感に自然と足が速くなる。その勢いのまま教室の扉を開くと、教壇に南川先生が一人ポツンと立っていた。
「先生……」
「烏丸……くん?」
顔を上げる南川先生。その瞳は驚きで揺らいでいた。
「もう来ないのかと思った」
「いや、何で待ってるんですか」
驚いたのはこちらだ。信じられない気持ちで問いかけると、南川先生はフッと笑う。
「だって、約束したじゃない」
「僕はすっぽかしたんですよ? ここに残っていない時点で帰ってよかったのに」
「私は烏丸くんが戻ってくるって信じてたから」
「なにを根拠に……。それならそれで、放送してくださいよ」
「昨日、何度も放送したら怒られちゃって」
「だからって……」
言葉が見つからない。この人はアホなのだろうか。
「僕が戻ってこなかったらどうするつもりだったんですか?」
「……わからない。でも、戻ってきてくれたじゃない」
「僕は」
戻ってきたのはたまたまだ。それは、入宮から天文部の顧問が南川先生だと聞かされたからだ。もし違う教師なら、ここには戻ってこなかった。
「烏丸くん」
南川先生が、ポツリと呟くように言った。
「私は知ってるよ。あなたが理由もなく約束を破るような生徒じゃないって。この一年間、私は見てきたから」
「……先生」
南川先生は二年D組の担任教師である。だが、実は去年一年生の時も僕の担任だったのだ。
「烏丸くんは最初から目立ってたよね。いつも一人で、誰とも話さなくて」
先生……それは浮いてるの間違いじゃ。
「何か皆で作業するときは、烏丸くんが一番真面目に取り組んでいたよね」
周りの奴等は友達と喋ってましたからね……。
「授業では、男の子は皆私をからかおうとするのに、君だけは静かに聞いてくれてた」
先生……それはあなたが男子生徒の間で人気だからです。それに僕は関わりたくなかっただけなんですが……。
「それに……君だけなんだよね。英語の小テストで、全問正解してくれる生徒は」
「えっ」
それは初耳だった。
「私の小テストって、最後に洋画や洋楽の問題が出るでしょ? それに連続で正解し続けてるの、君だけなんだよ?」
「……そうなんですか」
南川先生は英語の教師だ。その授業は独特で、毎回洋画や洋楽の話を取り入れている。そして、その映画の台詞や曲のタイトルなどを、前の授業の最後の確認テストで予習として出しているのである。もちろん、その問題の点数は成績に影響していない。つまり、答えられなくても良い問題なのだ。大切なのは問題を出すこと。それが、次の授業の予告になっているからだった。
「結構マニアックな問題もあったんだけどな」
「僕の父が好きなんですよ。だから小さいときに何度も見せられたり、聞かされたりしてました。僕が好きなわけじゃありません」
「それでもあんなに覚えてるものなの?」
「さぁ……それに、先生の出す問題って、全部有名なものばかりじゃないですか」
「逆だよ烏丸くん。有名な作品だから、海を渡って日本でも放映されたり流されたりしてるの」
「だったら、皆正解しそうなものですけどね」
「うん。正解はしてる。でも、全問正解は君だけだ」
「あんまり嬉しくないですね。成績とは関係ないですし」
「私は嬉しいな。だって、この学校にはたくさんの生徒がいるのに、私と全く同じものを見たり聞いたりしてるのは君だけだ。それって、凄いことじゃない?」
「凄いのは父親ですね。僕は……」
「烏丸くん」
その声は、緩んでいた糸をピンと張ったかのような緊張感があった。
「私は君のことを言っているの。確かに君のお父さんは凄い人だけど、君も十分に凄いよ」
「僕は父に言われたことを、そのままやってきただけです。何も凄くなんかない。僕が凄いのだとしたら、それは父が今までその凄さを僕にプログラムしてきたからです。僕は、自分で得たものなんて何一つありません」
「プログラム……か。まるで自分のことを機械みたいに言うんだね」
「先生は知ってるでしょう。僕の父は有名な技術会社の社長です。二十代で会社を立ち上げて、ずっと仕事一筋でやってきた。それがどれだけ凄いことなのか僕にはまだ理解できていませんが、お陰で僕は何一つの不自由なく生きてきました。やりたいことは全部やらせてもらった。いろんなことを教わった。だから、僕は大抵のことは出来るし、自信だってある。でも、それも全て父が偉大だからなんですよ」
父の会社名は、テレビでもよく目にすることが出来た。「ご覧のスポンサーの提供でお送りします」と、可愛い声と共に、父の会社名が表示されるのである。
僕は、そんな会社のトップである社長を父に持つ。
「お父さんが偉大過ぎるが故の劣等感?」
「そうかもしれないですね。でも、少しだけ違います。僕は父を妬んでいるわけじゃない。何故なら、僕は父そのものだからです。そこに優劣なんかありません。でも、だからこそ僕はそれを拒絶します。倫理的に言えば、アイデンティティの確立って奴じゃないですか? 普通、それは他者に対して思うことなんでしょうが、僕は父のお陰で他者とは圧倒的に違う。他の奴等には負ける気がしない。でも、このままじゃあ父には勝てない。だから、僕は僕の力だけで父を越えられる何かを持たなきゃいけないんです」
「……なんだか複雑だね。お父さんとは、よく話をしたのかな?」
「話なんか必要ありませんよ。僕は父のことを理解しているし、父も僕のことを理解している。だから、僕が一人でこの学校に進学すると言ったとき、反対しなかった。むしろ不敵に笑ってさえいました」
その時の光景を思い出す。「やってみなさい」、父はそう言った。そしてその後にこうも言ったのである。
――もし、三年間で何も得られなければ、その時は私の言う大学に行ってもらう、と。
その余裕のある顔は、まるで、僕が何も得られないとでも言いたげ。僕のことを一番に理解しているからこそ出てきたのであろう言葉。
だからこそ、僕はそんな父と決別し、自分で選んだこの学校へと入った。そして、僕は僕であることをこの一年間通し続けた。だが、その結果はとても残念なことにアイデンティティの確立ではなく、ボッチという地位を確立しただけ。むしろ、ボッチこそが僕だと断言できるまである。
肩書き、実力、父から与えられ、今までなに食わぬ顔で外側に塗り固めていたものを取れば、僕は影の薄いただの人でしかなかったのだ。それでも尚、それらは僕の端々から姿を見せる。
入宮が言っていた喧嘩をした人物、それは紛れもなく僕だった。
だが、その『実力』も父のお陰。幼い頃から、父が僕に武道を習わせていたお陰なのだ。
そんな僕の悔しさを察したのか、南川先生はゆっくりと語った。
「私が英語の教師になるキッカケは、親と上手く行ってなかったからなの。親から逃げ出したくて、学生の時に海外留学したのがキッカケ」
「僕にしてみれば、南川先生が羨ましいです。そして、素直に凄いと思います」
「そんなっ! 凄いだなんて……やだ」
南川先生は、体をクネクネと動かしながら照れたポーズをとる。なんなのだろうかこの気持ちは。まるで、とても残念なものを見ているかのような……。
「もうっ、今この教室に誰もいなくて、放課後だからって、急に大胆になるのは止めてよ」
先生は顔を赤らめながら、そんなことを嬉しそうに呟く。
大胆……。確かに、少しだけ話しすぎたのかもしれない。そんなこと、今まで誰にも言ったことはなかった。別に理解してもらおうなどとは考えてはいない。ただ、それが僕の主張であることは伝えねばと思った。そんな思いが、暗い教室の雰囲気も相まって、大胆にさせてしまってのだろうか。
僕は、その熱を冷ますために軽く深呼吸をした。
そしたら、ふと南川先生に用事があったことを思い出す。そういえば、天文部の『入部届け』を出さなければならないのだった。
僕が教室に戻ってきたのは、その為だった。
「そういえば、先生に受け取ってもらわないといけないものがありました」
言いながら、先ほど入宮に貰った入部届けの紙をカバンから探す。
「わっ、私に? えーへへへ、なんだろ」
年齢を考えるとかなりキツメの照れ笑いを浮かべる南川先生。
「……これを」
そうして取り出した入部届けの紙。今気づいたが、そこには顧問の名前と印鑑を押す箇所がある。
「先生、今印鑑って持ってますか?」
「なっ!? 私の印鑑!? かっ、烏丸くんは、私の印鑑をどうするつもり!?」
目に見えて動揺する南川先生。……急にどうしたのだろうか。
「いや……天文部に入るので」
「結婚日には要るので!? なっ、ななな。私と烏丸くんは教師と生徒なのよ? そんなっ、急に言われても」
……何を言っているのだろうか。というか、結婚ってなんだ。聞き違いにも程があるだろ。この人、本当に英語の教室だろうか。
僕はより正確に伝えるため、先生のいる教壇へと近づく。それに合わせて先生は後ずさった。だが、後ろの黒板に阻止されてそれ以上は下がれない。
「だっ、ダメよ烏丸くん。今が誰もいない放課後の教室だからって、既成事実をつくろうだなんて! そして私は、その紙にだけは絶対署名しないわ!」
「……別に嫌ならゴム印でも良いんですけど」
「ごっ、ゴムIN!? 今時はそんな言葉を使うの? 和製英語も大概にしなさい!」
「……は?」
意味が分からず呆然としてしまう。南川先生は、入部届けの紙を一体何だと思っているのか。
「先生――」
「それ以上近づかないで! 分かってる、分かってるわ。今の烏丸くんじゃ、指輪なんて高価なもの買えないものね。だから、そんな暴挙に出ようとしているんでしょ? でもダメよ。こういうことはちゃんとしないと、後が大変になるの」
指輪? 何故だか、南川先生がとてつもない勘違いをしているような気がした。こういったことは早めに訂正しておくに限る。
「先生、僕は結婚なんて考えてませんよ」
「じゃ、じゃあ駆け落ち?」
「いや、駆け落ちもしませんけど……」
「なら、私をどうするつもり? こんな、誰も居ない放課後の教室で!」
「先生……さっきからやたらと放課後の教室を強調してますけど、変なDVDの見過ぎじゃないですか」
「変って何よ! 別に、私はそんなDVDばかり見てるわかじゃないわ。その……ロッカールームとかプールサイドとか、放送室とかも見てるわよ!」
真っ赤になりながら叫ぶ南川先生。僕はその姿を見ていられなくなってきた。
拗らせすぎだろ……というか、放送室って何だよ。聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。
「そのっ、烏丸くんもそういうの見てるんでしょ!」
「いや、何を言ってるんですか……見てませんよ」
「嘘よ! だいたい、あなたたちがいけないのよ? そんな物を学校に持ってくるから……没収する度に意識しちゃって……」
「先生、もう止めてください。……僕が悪かったです」
誰だよ、そんなマニアックな物を南川先生に没収された奴は。
「先生、良いですか? よく聞いてください。先生は、天文部の顧問をやってますよね?」
「……えぇ」
「僕は天文部に入るので入部届けを出します。ここに署名とハンコをもらっても良いですか?」
「あ……あぁ……なっ、なんだそういうこと? やだ、私てっきり……」
ようやく誤解が解けそうだ。
「じゃあ、教室じゃなく屋上で星を見ながらってってことね?」
「欲求不満か!」
我慢していたが、思わず全力で突っ込んでしまった。
「とにかく、これお願いしますよ」
もはや何を言っても無駄だろうと判断し、入部届けを無理やり押し付けて先生から離れる。
「烏丸くん!」
その声は、もはや教師としての威厳を失っていた。
「その……さっきのは内緒にしてね」
「言えるわけないでしょ」
こんなことが他の男子生徒に知られれば、南川先生の身に危険が及びかねない。彼女の名誉のためにも、このことは絶対に秘密にせねば。
……にしても。
本当に天文部に入って良かったのか。入宮が僕を天文部に入れたのは戦闘要員だ。だが、僕は喧嘩などする気はない。それでも、彼女は僕が入部しないという意見に対して否定を示した。
逃げるな。そう言った入宮の言葉が甦る。
僕は決して逃げているわけじゃない。戦いかたを考えるべきだと思ったのだ。力づくというのは今の世の中を考えれば良い策とは言えない。メリットよりも、デメリットの方が圧倒的に多い愚作だと言える。そもそも、体の出来上がってしまっている先輩たち相手に力で勝てるとは到底思えない。入宮は小学生まで柔道を習っていたと言ったが、それが喧嘩において役に立つはずがない。そして、最も重要なこと、喧嘩に勝ったとしてもそれが良い結果に結び付くとは限らないということだ。
入宮の言う、相手の土俵で戦わないという意見には賛同できる。だが、土俵の外からいくら反則をしようと、それが不正である以上認められることはないのだ。
なぜ、彼女は現実味のない提案を施行しようとしているのか。そして、本当に勝つ気でいるのか。そこのところは分からない。
ただ、それら全てが上手くいく未来を僕は想像することが出来ないでいた。まぁ、彼女が上司だというのなら、部下である僕は言われたままを出来る範囲でやるしかない。
それでも。
入宮のやろうとしている事に疑問を持たずにはいられないのである。
作者の成長の為、忌憚のない意見をもらえると有難いです。




