81話
【儀式魔法】
空間が一瞬歪んで、すぐに元に戻った。
魔法陣が描かれている床面ギリギリの空間だけが切り取られて、〔テレポート〕していた。先程までは鍾乳石と水晶の破片が散乱する大きな洞窟内だったのだが、今は土壁で覆われた狭い空間になっている。
ノーム先生〔分身〕が再度大地の精霊を使って測量をして、すぐに結果を口頭で知らせた。
「うむ。無事に所定の座標へ転移できたぞ。死者の世界のテシュブ先生の旧居城があった座標の、地下20メートルの土中だ。予定通りだな」
死霊術場と闇の精霊場、それに恐らくは闇魔法場の強度と濃度が一気に跳ね上がったのを、レブンが感覚的に実感した。この感覚は確かに、死者の世界のサムカの城へ行った際に感じた感覚に近い。
レブンが簡易杖をポケットにしまって、別の〔結界ビン〕を開け、中から強化したばかりの杖を取り出した。一応、先生方とハグ人形に説明する。
「ミンタさんとペルさんが協力して試作してくれた強化杖です。今日、これまで使用した魔法の使用履歴や、雑多な関連〔ログ〕は全て簡易杖に記録されていて、この杖にはありません。余計な〔干渉〕を心配せずに、テシュブ先生の〔復活〕魔法に集中できるはずです」
レブンが明るい深緑色の瞳をペルとミンタに向けた。ペルは薄墨色の瞳で、ミンタは明るい栗色の瞳でドヤ顔で微笑んで応える。
「うん、大丈夫だと思う、レブン君」
「このミンタ様の作品なのよ。全力で使いなさい」
ノーム先生〔分身〕も、地上のエルフ先生〔分身〕と画面を通じて一言二言話し合った後で、微笑んで促した。
「通常ならば、勝手に改造した杖の使用は認められないんだけどね。まあ、私たちが監督するということにしておくとするか。存分に使ってみなさい、レブン君」
許可が下りて、ほっとした表情になっているレブンである。早速、明るい深緑色の瞳をキラキラさせながら、杖にアンデッド〔復活〕魔法の術式を流し込んでいく。
「では、開始します。早くしないと、魔法陣に供えられた血液の玉が、熱で変質してしまいそうだ」
実際は、気温や床温度は50度ほどなのでタンパク質が熱で変質して凝固することはないはずだが、酵素では失活する物が出てきやすくなる。潜在魔力の依代の役割面から見ても、血液の変質はよろしくない。
同時にハグ人形が口を挟んで、この場にいる全員に注意を促す。
「安全に術式が起動するとは思うが、念のために、この場をいったん離れた方が良かろう。そうだな、この魔法陣から5メートル以上の距離をとれば充分だろう」
了解する生徒たちと受講生、それにノーム先生〔分身〕だ。受講生に対してはミンタとムンキンが、それぞれ1人ずつ自身の〔防御障壁〕の中に招き入れる。
それを確認したレブンが杖を頭上に掲げた。杖の先が青色光を放ち始める。
「秒読みを開始します。時刻同期、完了。30秒後に術式が起動するので、ハグ先生の指示通りに退避して距離を保ってください。では秒読みを、開始」
レブンの杖の先がキラキラと輝いて、驚くほどスムーズに術式が初期起動した。本格起動までのカウントダウンが開始される。
全員の手元に一斉にカウントダウン表示が生じ、それを合図にして全員が土中へ潜り込んでいく。ハグ人形だけは残っているが。レブンは最後に避難することになり、魔法陣の変化を目で確認した。
魔法陣のウィザード語が分子振動のような動きを始めて、互いに文章が結合していく。血液と毛の玉の供物からは潜在魔力が全て抽出されて、魔法陣のウィザード語の術式の中に吸い込まれていく。
残りカスとなった血と毛の玉は「ベチャッ」と崩れて魔法陣の上に飛び散り、毛混じりの染み跡となった。サムカ灰にも血液の雫が数滴ほどついたようだが、特に問題はない様子だ。
魔法陣に表示されていたウィザード語は、〔暗号化〕されたものだ。これらが供物からの魔力支援を受けて〔復号化〕していく。乾燥ワカメが水で戻って大きくなっていくような印象だ。術式が加速度的に文字数を増やしていき、それらがさらに連鎖して新たな文字列を生み出していく。
ただしこれも一応は既存の物理化学反応に準じている。時間結晶の解凍による情報量の復元だ。そのため、この行為では因果律崩壊は起きていない。
「おお……」と感心して見守っているレブンに、灰サムカが〔念話〕で撤退を促す。緊張の欠片もないような、のんびりとした口調だが。
(撤退しなさい。そろそろ時間だ)
「おっと、そうでした」
我に返ったレブンが、慌ただしく土中へ潜り込んで姿を消した。大地の精霊魔法を使った〔隠遁〕魔法である。微妙に空間の位相をずらして、土中を泳ぐように移動することができる。ノームが得意とする魔法の1つだ。
密度の高い岩石や土砂といえども原子や分子の集合体なので、実は隙間だらけなのである。生徒たちの体も同じように隙間だらけだ。もちろん、そのままでは各種の力場の干渉で通り抜けることはできないのだが、大地の精霊の力を借りることで、その干渉をごまかす。疑似的にゴースト化すると言えば良いだろうか。
ハグ人形が愉快そうに口をパクパクさせて、サムカ灰に語りかけてきた。
「ワシはできるが、サムカちんには難しい魔法だな。先生の面目が危ういな」
体を有するアンデッドは大地の精霊とは対立関係にあるので、このような土中遊泳の魔法は使えない。通常は、体を持たないシャドウを使って代行させる。サムカ灰からは『反応なし』だった。
カウントダウンが『ゼロ』になる瞬間。全てのウィザード文字が時間結晶から解凍されて、復号化され、本来の術式である『貴族の文字』に変わった。ただ、本当に一瞬の間だったので、魔法場汚染は最小限度に抑えることができているようだ。
サムカ灰が青白く燃え始め、まばゆく光りはじめる。
といっても光の精霊場ではなく、鬼火の一種なので死霊術場の光だ。その光が急速に強くなって、土壁に囲まれた空間を満たした。その光が今度は反転して、全て灰の中に吸収されていく。そして数秒もせずに真っ暗になった。
「あ。見えなくなった。照明の光まで消してしまったのね。どう? サムカ先生。〔復活〕できたのかしら?」
エルフ先生〔分身〕がジャディと一緒に、同じ一つの〔空中ディスプレー〕画面を見つめながらサムカに問いかけた。画面は真っ暗で何も見えない。各種センサーも全て破壊されてしまったようで、温度センサーからの信号も途絶してしまっていた。
ジャディが、背中の翼を慌ただしくバタバタさせて、画面にしがみつく。魔法の画面なので実体がないため、ジャディの腕が画面を何度も素通りしているが。
「と、殿おおおおおっ! 無事なら返事してくれッス」
「……うむ。無事だぞ。だが……やはり子供のままだな」
サムカの落ち着いた声が、真っ黒画面の向こうから届いた。〔念話〕ではないので、肉体を取り戻したのは確定だ。ほっとするエルフ先生〔分身〕と、大喜びのジャディである。ジャディはあっという間に飛び立って、上空を嬉しそうに旋回し始めた。
土中に避難していた生徒と受講生、それにノーム先生〔分身〕も安堵したようだ。彼らも土中にいて隠遁状態なので、センサーや映像では姿を確認できない。元気な声だけが真っ黒画面を通じて一斉に届いてくる。
「杖の魔法回路は、設計通りに機能したわね。さすが私」
「さすがミンタちゃん」
ミンタとペルの会話を聞いて、レブンがつぶやく。
「最後まで、この目で見たかったんだけどなあ。まあ安全上、仕方がないか。術式がきちんと走ったようで良かった」
最後に、ノーム先生〔分身〕が生徒たちに聞く。
「それじゃあ我々は、このまま地上へ〔テレポート〕するかね? いつまでも土中に潜っていると、大地の精霊場の魔法汚染を、今度は君たちが受けてしまうぞ」
ノーム先生〔分身〕の忠告に答える形で、ハグ人形の声が真っ暗画面の中からする。
「そうだな。オマエさん方は、至急地上へ出た方が良かろうな。真上の座標で落ち合うとするか」
少しして、ノーム先生〔分身〕が戸惑った声をあげた。
「ん? ちょっと待ってくれ。真上に何か建物があるな。生命の精霊場も多数ある。放牧業者か何かかな。〔テレポート〕魔術刻印がないから、このまま土中を泳いで地上へ出るとしよう。一応、盗賊団のアジトという恐れもあるから、〔防御障壁〕と自動迎撃の魔法各種を起動させておきなさい」
生徒たちが素直に返事をして、地上へ向けて浮上していく。その気配を闇の中で感じながら、ハグ人形が愉快そうな口調でサムカに聞いた。
「……で、調子はどうかね? 子供のままでの〔復活〕になるのは前もってワシが説明したから、あまり驚いていないようだな。残念だわい。口が少々滑って、余計な情報まで与えてしまったか」
闇の中で、やや呆れた声色の返事がサムカから返ってきた。やはり、それなりに落胆している口調だ。
「〔復活〕に使われた魔法場が少なかったせいか、さらに子供の体型になっているような気がするがね。魔力も更に落ちているな。まあ、〔召喚〕を終えて死者の世界へ戻れば、元通りになるだろう」
そして、気を取り直したのか、口調がやや明るくなった。
「私の場合は、灰になったとしても、所定の時間が経過すれば自動的に〔復活〕して元に戻るのだが……まあ、生徒向けのアンデッド〔復活〕魔法の教材役としては、これで良かったかな?」
ハグ人形も笑いを含んだ声になって同意する。
「まあな。結果としては、貴族級のアンデッドであっても、このウィザード魔法で翻訳した〔復活〕魔法で何とかできることが分かった。普通のゾンビやスケルトンに対してなら、余裕でできるだろ。死者の世界のオーク相手に、魔法道具にして売ろうかね」
サムカもその案には賛成のようだ。暗闇のなかでうなずいた気配がする。
「良い考えだな。オークもアンデッドを使役しているが、やはり損耗が問題になっておるのだよ。〔修復〕に失敗して灰になってしまっても、これなら元に戻すことができるだろう」
そして、サムカの視線が上を向くのをハグ人形が〔察知〕した。
「ああ、そうか。サムカちんは大地の精霊魔法が苦手だったな。土中を泳いで地上へ出るのは無理か。ワシが引っ張ってやろうか?」
サムカが穏便に拒否する。
「いや、それは遠慮しておこう。今の私の魔力では、ハグ人形から漏れる闇魔法場であっても〔浸食〕される恐れがある。執務室の3体のゾンビと同じような状況だからな。地上へ出るまでに〔風化〕して粉になってしまっては、生徒たちに申し訳が立たないさ。体を霧状にして、シャドウ状態になろう。それで、ゆっくりと地上へ向かうことにするよ。ハグは先に行ってくれ」
ハグ人形も「なるほど」と同意した。人形自体には魔力はないが、人形から発せられる魔法は別だ。
「分かった。では、後で地上で会おう。子供サムカちゃん」
【地上】
地上では、生徒と受講生、それにノーム先生〔分身〕がキョトンとした顔をしていた。
死者の世界のサムカの旧城があった座標には、この獣人世界では石造りで堅牢な2階建ての砦があった。どう見ても、放牧民や会社の倉庫や宿泊施設ではない。
地上へ出た場所は、ちょうど砦の外壁の内側だった。砦の本館の中庭に相当する場所だ。まさに『ど真ん中』に出てしまっている。
「盗賊でもないわね、これ。どこかの軍の要塞じゃないの?」
ミンタがジト目になりながら、砦のあちこちに視線を向けている。中庭なので、右も左も正面も砦の施設だらけだ。ちなみに、ここは水がない地域なので中庭といっても芝生などで緑化はされておらず、ただの砂地である。
ノーム先生〔分身〕が、銀色の口ヒゲを片手でいじりながら小首をかしげる。とりあえず、後方に見える外壁に視線を向けた。距離は10メートルというところか。砦の外へ通じる扉や門などは、残念ながら外壁面には見当たらない。
「大地の精霊魔法での測量調査では、ただの掘っ立て小屋だと思ったんだが……幻術か何かで〔偽装〕されているようだね。確かに、盗賊程度ではここまでの工作はできないだろうな。どこの軍だろうか」
遠くの蜃気楼に揺れている丘陵地にいるエルフ先生〔分身〕とジャディに、この情報を伝えることにするノーム先生〔分身〕だ。外壁の高さが10メートルほどもあるので中庭からでは丘陵地は見えないのだが、彼には正確な位置が分かるようだ。
同時に砦で警報が鳴り響いた。正面の館や周辺施設から大勢の武装した連中が出てきて、秩序だった動きで配置についていく。騒ぎ声や大きな物音も立てていない。明らかに訓練されている者の動きだ。連中との距離は、10メートルもない。
ミンタとムンキンが受講生2人に、そばにいるように念を入れてから、〔防御障壁〕の調整を行う。
「とりあえずは、ステルス強化しておくわね。赤外線での探知もできないようにしておくかな」
ムンキンも同様の〔防御障壁〕をすぐに展開する。
「何度も訓練を重ねたような動きをしてるな。やはり軍だろうな。このあたりに王国ってあったっけ」
レブンが闇の精霊魔法の〔防御障壁〕を展開しながら、簡単に地図を調べてみる。
「うーん……ないなあ。軍が動いていれば、資材搬入なんかで車両の通行跡が残るものだけど……それがない」
ペルもレブンと同じく闇の精霊魔法による〔防御障壁〕を展開した。さすがに、この2人の〔防御障壁〕はステルス性能がかなり高い。姿も気配も消えて、辛うじて生命の精霊場と声だけが聞こえる。
ミンタとムンキン、それにノーム先生〔分身〕の〔ステルス障壁〕は、そこまでの隠遁性は持ち合わせていないので、うっすらと姿が見えている。
「ミンタちゃん……この生命の精霊場って、もしかしてオークかな」
ペルの指摘に、ミンタも険しい声色になった。顔や姿はうっすらとしか見えないので、表情や仕草までは分からない。
「……だよね。それと、数名のセマンもいるわね」
砦の内外に、ドワーフ製の小型無人探査機が飛び交い始めた。大きさはセミくらいしかない。その無人探査機が飛んでくるが、そこは獣人族だ、造作もなくヒョイとかわしている。
その程度では発見される恐れはないので、会話を続けるミンタとペルだ。もちろん、〔空間指定の指向性会話〕魔法を使用している。ここで〔念話〕を使うと魔法場が発生するので、それを〔逆探知〕されて位置を特定されてしまう恐れがあるためだ。
ペルはゴーストを2体作り出して、ミンタは紫外線域の光の精霊を2体呼び出して、スピーカーにしている。
ムンキンはミンタの精霊を共有化、レブンはペルのゴーストを共有化して会話に参加できるようにした。ノーム先生〔分身〕は、風の精霊を2体呼び出してスピーカーにしている。
レブンが数体のゴーストを作り出して、砦の内外に放った。情報収集と精神操作の下準備である。すぐに映像が届いた。
完全武装したオーク兵の小隊がいくつか、砦の要所に貼りついて警戒を始めている。こちらには全く気がついていない。レブンたちとの距離は、数メートルほどしかないのだが。
レブンがセマン顔のままで首を少しひねる。
「うーん……どう見てもオーク兵だね。ってことは、死者の世界からやって来たってことかな。セマンがいるから、彼らの手引きでやって来たとか」
レブンが放ったゴーストからの映像には、砦の周囲の環境も映っていた。ペルが思わず唸っている。
「うわ……改めて見ると、テシュブ先生の領地とは全然違う風景なのね。砂漠だあ……」
人家や小屋が何1つ見当たらない砂漠と化した荒れ地が、地平線まで延々と続いている。砂塵が濃く浮遊しているせいで、地平線は赤くぼやけて見えにくい。丘陵地の方向だけは砂塵が比較的少ないおかげで視界が利くが、こちらでは蜃気楼が発生しているので、見えにくいのは同様だ。
ノーム先生〔分身〕が、生徒たちに真面目な声で指示を出す。
「では、オーク兵やセマンたちに気づかれないように、ゆっくりと退却しよう。カカクトゥア先生がいる丘陵地に向かって行こう」
生徒たちが〔空間指定型の指向性会話〕魔法で、ノーム先生〔分身〕の指示に了解をして従う。警官と軍人の受講生たちもそれに従うことにしたようだ。上司に暗号文で情報を送りながら、ノーム先生〔分身〕にくっついて一緒に歩調を合わせて退却を始めた。
石造りの要塞だが、警備はゴーレムや、備えつけの警戒センサー、それにセミ型の小型探査機に任せているようだ。
ほんの数メートル先には、完全武装したオーク兵が何名も配置について魔法兵器を構えている。その彼らも、いまだレブンたちの存在に気がついていない。彼ら兵士の手元に表示されている小さな〔空中ディスプレー〕画面も、ゴーストを介した映像でレブンたちに盗み見られている。
あちらこちらに仕掛けられている、赤外線レーザーの侵入者感知システムも、〔防御障壁〕に守られた先生と生徒には全く反応していなかった。
ムンキンが少し呆れた表情で、レブンにつぶやく。
「なあ、こいつら、ウィザード語でやり取りしてるのかよ。僕たちに筒抜けじゃないか」
レブンも呆れた表情で、素直に同意している。
「……だよね。砦の中だからって、安心しているのかな。建物の中の兵も同じだよね」
施設の内部にも、相当数の生命の精霊場の反応がある。オーク兵やセマンたちが所定の位置について警戒をしているのだろう。
ノーム先生〔分身〕が〔防御障壁〕の調整を続けて最適化しながら、自身の銀色の口ヒゲを片手でひねる。
「ふむ。砦の連中は、防護服や魔法兵器で完全武装しているようだな。ドワーフ製ということまでは分かるが、それ以上の詳細情報は無理か。魔法兵器の形式から、〔レーザー光線〕と自動追尾方式の〔マジックミサイル〕の複合かな。実弾ではなさそうだ。我々のように、ステルス装備を厳重にした小隊はいないようだね。ではこのまま、ゆっくりと気配を消しながら要塞を出るぞ」
そして、要塞を取り囲む外壁に視線を向けて、その成分分析を行う。すぐに結果が表示された。再び銀色の口ヒゲの先を片手でいじって微笑む。
「外壁の〔成分分析〕をしたが、普通の耐熱強化セラミックだな。罠はかけられていないし、魔法も自己〔修復〕関連の基礎的な術式だけか。これなら、大地の精霊魔法を使ってすり抜けられるはずだ。情報を送るよ」
ノーム先生〔分身〕が生徒たち全員に観測情報を送って〔共有〕する。同時に、要塞の中で鳴り響いていた警報音が止んだ。
セミ型の小型探査機の群れも、施設の中へ戻っていく。外を走り回って警戒していた土製のゴーレム隊も速度を巡行時のものに減速して、半数ほどが施設内へ戻り始めた。
しかし、ミンタの警戒はまだ解かれていない。鼻先と口元の細いヒゲ群が小刻みに動いている。両耳も油断なく四方を探っているようだ。
「施設内部のオーク兵には、まだ動きはないわね。臨戦態勢のままだわ」
ムンキンも光の精霊魔法と生命の精霊魔法を使って、ミンタと同じ結論に達している。さすがに柿色の尻尾を地面に叩きつけたりはしていないが、尻尾の先が神経質な動きでクイクイと動いている。
「探査用の赤外光と超音波の波長も、次々に変えながらそこらじゅうに放っているからな。だけど、その程度では僕たちの〔防御障壁〕を検知することはできないぜ」
そのまま中庭を歩いて退却を続けて、要塞をぐるりと取り囲む分厚い外壁にとりついた。確かにセラミック製だ。
ノーム先生〔分身〕が、ライフル杖を取り出して先を外壁に「コツン」と当てる。すると、何かの術式が放たれて、外壁に染み込んでいった。
「ステルス型の〔テレポート〕魔術刻印だよ。100個ほど放った。この外壁の中に隠れながら、均等に自動で配置される。既に、施設内のオーク兵やセマン全員を自動追尾で位置特定している。この施設の内部地図と、配電ケーブル網に、無線通信への侵入路も完成しているけど、まあこれは不要かな」
そして、〔防御障壁〕のせいで姿が見えない生徒たちに、視線を投げる。
「我々が安全な距離まで退避したら、攻撃許可を申請するよ。タカパ帝国の領土外の施設だから、許可されるかどうかは分からないけどね」
その時、エルフ先生〔分身〕の顔が手元の〔空中ディスプレー〕画面に表示された。後ろにはジャディが旋風をいくつも身にまとって、上空を旋回しているのが見える。2人も〔防御障壁〕の中なので、砦のオーク兵には〔察知〕されていないようだ。
「ラワット先生。作戦許可は得ていますよ。近隣諸国のタカパ帝国諜報部支部からも、「根回し終了」という知らせが届きました。施設ごと破壊しても問題ありません。オーク兵やセマンについてですが、彼らを捕虜にすることは外交上面倒なので、殲滅するようにということです」
思わずノーム先生〔分身〕がため息をついた。外壁に100個の〔テレポート〕魔術刻印が均等に配置されたことを確認して、杖を壁から離す。
「『1人も残さず殺せ』ということですかね。それを生徒たちに行わせる事は、教育上良くないでしょうな。僕が1人で行うことにするよ」
ムンキンが早速反論してきた。姿はほとんど見えず声だけだが。
「ラワット先生。僕たちはもう既に、何度か殺人の経験を積んでいます。精神の精霊魔法や法術で〔治療〕できますので、気にする必要はないと思いますが」
ミンタとレブン、それにペルもムンキンの意見に同調する。
しかし、ノーム先生〔分身〕は首を振って否定するばかりである。
「いやいやいや……そういう経験を積むことは、教育指導要綱には一行も書かれていないよ。精神〔治療〕も万能じゃないんだ。副作用が出る恐れはあるし、何よりも、君たちの家族や親戚が悲しい思いをすることになる。校長の慰霊行脚も増えるから、学校の運営にも少なからず悪影響が出るんだよ」
あまりの正論に、ぐうの音も出せない生徒たちである。
エルフ先生〔分身〕も押し黙ってしまった。ジャディだけは上空をグルグル旋回しながら、ぶつぶつ文句を言っているようだが。
そんな良い話の後に、ハグ人形がケラケラ笑いながら土中から飛び出てきた。雰囲気ぶち壊しである。しかも、シレッと〔空間指定型の指向性会話〕魔法を盗聴していたようだ。違和感なく会話に混ざり込んできた。
「まあ、そういう事は悪役のアンデッドに任せろ。いくら警官とは言え、ノームやエルフは生きておる。精神的な傷を負うことは避けられまい」
今度はノーム先生〔分身〕が、何か唸って黙り込んでしまった。画面上のエルフ先生〔分身〕も渋い顔をして黙っている。
2呼吸ほどの間をあけて、ノーム先生〔分身〕がうなずいた。
「……左様ですな。精神〔診断〕を受けることになるのは、確実だからね。簡易検査で済めば良いけど、何か異常が見つかれば、本国へ一時帰国しないといけなくなる。授業が遅れる恐れはあるかな」
そして、要塞の中の生命情報を流し読みしてから、言葉を継いだ。オーク軍は警戒を徐々に緩めてきているようだ。
「セマンがいることから見て、オーク兵は『現地製造のクローン』だと思う。本人は死者の世界にいて、意識だけをクローンに〔憑依〕しているはずだ。いわば使い捨ての生きている人形で、クローンを殺してもオーク本人の意識が死者の世界へ強制的に戻るだけなんだけどね。まあ、それでもクローンは生命活動をしているから、殺すことには違いはないな」
それについては、ハグ人形はモゴモゴと口淀んだだけだった。エルフ先生〔分身〕がその素振りを画面越しに見て、何か察した。かなり険しい表情になってノーム先生〔分身〕に告げる。
「ラワット先生。ここはハグさんに一任しましょう。速やかに生徒たちを引率して、ここまで退却して下さい」
ちょっとほっとした表情になるノーム先生〔分身〕。ハグ人形に顔を向けた。
「了解。では、後始末をよろしく頼むよ。ハグ先生」
ハグ人形はまたもや何か平泳ぎ的な動きでノーム先生〔分身〕の鼻先をフラフラ〔浮遊〕していたが、そのヘロヘロな動きのまま返事をしてきた。緊張感の欠片もない言動だ。
「ほい。任された。さっさと引率して避難せい」
しかし、生徒たちはまだ不満そうである。顔は〔ステルス障壁〕を厳重にしているので見えないのだが、声だけでも感情がダダ漏れである。
最初に不満を漏らしたのは、やはりムンキンであった。竜族特有の、戦闘時に発する低音域が強い声になっている。
「この要塞のオーク兵の数は、せいぜい100だろ。セマンなんかは数人だ。魔法が使えないような、こんな少数の敵、俺たちだけで簡単に潰せるぜ。どうして、逃げるなんて弱腰にならなきゃいけないんだよ」
ミンタも同じような意見のようだ。やや尖った声色でムンキンに賛同してくる。
「そうね。私も5000人もの魚族やクラーケン族の海賊相手に、広域〔殲滅〕魔法を使ったわよ。その後の精神〔診断〕でも異常なかったんだけど」
レブンも珍しく不満そうな声で、ノーム先生〔分身〕とハグ人形に不満を述べる。
「僕が使役するシャドウを使えば、すぐに殲滅できると思います。攻撃をシャドウの判断に任せるように自動化しておけば、それで問題ないのではないでしょうか」
ペルだけは、弱々しい声色だ。
「……いくらハグ先生やテシュブ先生がアンデッドだからといっても、私たちと同じく心を持っています。傷つくのは同じはずですよ」
ようやくサムカが地上へ到着した。姿は見えず、影のような〔霧〕のような状態だ。地面の数か所から湯気のように何本か噴き上がってきている。
(すまないね。『私の全体』が地上へ到着するまで、まだもう少し時間がかかる。ハグを介して今は〔念話〕でしか話せない。〔復活〕は無事に完了したから安心してくれ。本体が全て地上へ出たら〔実体化〕するよ)
サムカ霧の〔念話〕に喜ぶ3人の教え子たち。ジャディは感極まって地上に落ちてしまった。ペルとレブンも喜びの声を上げて、サムカ霧に〔念話〕を送る。
(テシュブ先生、〔復活〕おめでとうございます。よかったあ~)
(ああ、そうか。大地の精霊場が強いので、疑似的な風属性の霧状になって地上へ向かったのですね。〔復活〕おめでとうございます、テシュブ先生)
ミンタとムンキンも、形式的な祝辞を送った。それらに一通り感謝を述べてから、サムカ霧が生徒たちに諭す。
(今までの殺人は、全て防衛のためだ。それを忘れてはいけないぞ。今回は違う。現状では、このオーク軍と君たちは交戦していない。これは、君たちによる『先制攻撃』になる。これは自己の正当化がかなり難しい行為だ。精神にかかる負荷も大きい)
淡々とした口調だったのだが、次第に憂慮していると分かる口調になってくる。
(何よりも、無抵抗の敵を一方的に攻撃する行為を重ねると、殺人に対する恐れがなくなりやすいのだ。言い換えると、殺人衝動が抑えきれなくなる。君たちは学生で軍人でも警官でもない。彼らであれば、上司の命令に従ったという免罪符があるが、君たちにはそれがない)
1本、また1本と地面から影のような湯気が噴き上がっていくにつれて、サムカ霧の〔念話〕もはっきりと伝わるようになってきた。半比例するように、要塞の中の警戒度が通常状態に戻っていく。オーク兵やセマンも通常業務に戻り始めたようだ。
まだそれでも不満そうな生徒たちなので、サムカ霧がもう一言加えた。
(君たちが、もし殺人狂になってしまったら、私としては『成敗』せざるを得なくなる。ハグや校長とケンカをしてでもな。それは、今までの授業が『全て無駄』だったという意味でもある。できれば、そういう事にはなりたくないものだと思うよ)
声色が突然、冷徹な貴族のそれに変わったので、思わず押し黙る生徒たちだ。ジャディも黙ってしまった。
軍と警察からの受講生2人が、かなり遠慮しながらも意見を述べる。彼らは魔法具を使って会話を聞いていたのだが、性能はあまり良くない。声がアナログレコードのようになっている。
「テシュブ先生の仰る通りだと思います。警官の私としては、国民がこのような暴力行為をすることは見過ごせません。作戦命令といっても、それは生徒に対してではなく、警察からの出向の先生方に対してのものですし」
「軍としても、これは拠点制圧の訓練を積んだ専門部隊による強襲作戦に相当するものです。一介の学生には不向きだと思いますよ」
ノーム先生〔分身〕が固い笑みを浮かべながら、銀色のあごヒゲを撫でる。
「僕も同意見だな。そういう事は、警官や軍人になってからだよ。じゃあ、さっさと避難するとしようかね」
少なからずショックを受けているのか、黙ったままノーム先生〔分身〕の後ろについて撤退していく生徒たちだ。一方、サムカ霧に一礼してついていく受講生である。
すでに外壁のそばにいたので、そのままセラミック製の壁の中へ潜り込んで消えていった。それを見送るサムカ霧とハグ人形。
サムカ霧が次第に影状の〔霧〕の量を増やしていきながら、ハグ人形に指摘を入れた。
(ハグ。嘘を言っては良くないぞ。施設内のオーク兵やセマンどもは『本人』だ。現地製造のクローンではないだろ)
ハグ人形が空中で背泳ぎをして、外壁に頭をぶつけてクルリと宙返りしてターンし、壁を足で蹴ってサムカ霧の濃い部分へ〔浮遊〕してくる。
「『嘘も方便』という奴だよ。ワシらアンデッドの悪評が広がる事態は避けたいのでな。召喚ナイフの販売上、よろしくない。『クローン人形退治』ということにしておけば、それほど角が立たない。何かと都合がよいだろうさ」
そして、外壁の外を透視して淡黄色の瞳を細めた。先生と生徒たちが、無事にエルフ先生〔分身〕とジャディに合流したことを確認する。
外壁の外に出てから、高速〔飛行〕の魔術を使ったのだろう。砂塵がかなり舞っているので、飛行の航跡が丸分かりになっている。当然ながら、再び警報が要塞の中に鳴り響いた。
そんな様子を、のほほんとした態度で眺めながら、ハグ人形がサムカ霧に顔を向ける。
「さて、と。では、この要塞を消すとするかね。サムカちん本体も、全部地上へ出ただろ?」
サムカ霧が《ズオッ》と体積を増して、要塞の中庭の隅に集合した。ハグ人形がフワフワと〔浮遊〕している場所でもある。魔力が高まっているのか、〔念話〕ではなく普通の会話音声になっていた。霧のような影が話しているようにしか見えないが。
「うむ。さすがに時間がかかった。ここは、私が魔法を行使するよ。ハグがすると、やり過ぎて魔法場汚染が起きてしまうだろ」
ハグ人形が呆れたような声を出した。空中でクラゲみたいな恰好をしている。
「分かっておらぬようだな、サムカちん。オマエさんの領地へ度々オーク兵が侵入してきたのは、この施設ができていたせいだぞ。空間の亀裂を使って、死者の世界と同じ座標に転移していたんだが。その方が、より確実に転移できるからな。言わば、この施設がサムカちんの領土侵入のための入口なんだがね」
サムカ霧が不満そうな声色になって抗議する。
「いや。いくら私でも、その程度の仕掛けは分かるぞ。ここを更地にする代わりに魔法場汚染をしてしまったら、『化け狐』どもが集まって居ついてしまう……あれ?」
ハグ人形が口をパクパクさせて、両手で口元を引っ張ってニヤリと笑う表情を見せつけた。
「そういう事だ。『化け狐』どもの巣になれば、さすがにもう拠点を設けることはできぬだろ。ん? サムカちん」
「なるほど……」と唸っているサムカ霧。ハグ人形が軽く腕組みをして少し思案する。
「……だが、ワシがわざわざ魔法を使うまでもないのは、確かにその通りだな。因果律崩壊まで起こしてしまう恐れもあるか。では、ワシが適当に魔力支援をしてやるから、サムカちんがやってみるかね」
サムカ霧が同意した。ただの霧状の影で人の形も何もとっていないので、〔霧〕の一部が不自然な動きをしただけだったが。
「分かった。やってみよう」
サムカ霧の体積が急激に膨張して、広大な石造りの2階建て要塞をすっぽりと包み込んでいく。あっという間に要塞の中が暗く陰り、気温が数度ほど急落した。警報音も、水中で聞くようなひどくこもった鈍い音に変わっていく。
空中を飛んでいたセミ型の小型無人機が、次々に動作不良を起こして墜落し始めた。地上を駆け回っていた武装アンドロイドやゴーレム部隊も、同じように機能を停止して地面に崩れ落ちる。そしてどれもバラバラに分解してしまった。
闇に包まれていく要塞の中で、ハグ人形がフワフワ〔浮遊〕しながらサムカ霧に問いかけた。
「セマンが逃げていくぞ。ワシが仕留めてやろうか?」
「いや、すでに〔ロックオン〕してあるよ。セマン世界へ戻っても、〔呪い〕が自動追尾で追いかける。〔バンパイア化の呪い〕だが、まあ、セマン世界には良い薬になるだろう」
サムカ霧の返事を聞いたハグ人形が、愉快そうに笑う。
「なんだ、サムカちん。かなり根に持っておったのか。それじゃあ、任せよう」
セマンが全員逃亡して姿を消した後、残されたオーク兵がパニック状態に陥っている。その様子が、要塞の中庭からでも容易に見て取れた。サムカの領地へ破れかぶれに転移しようと、ドワーフ製の世界間ワープ機械を起動させたようだ。
「残念だったな。もう手遅れだ、オーク軍よ」
サムカ霧が一言、オーク兵全員に告げた。それだけで、全てのオーク兵が昏倒して動かなくなってしまった。
貴族がよく使う闇魔法の1つ、〔死の宣告〕である。〔ロックオン〕した敵全てに対して、〔エネルギードレイン〕をかける魔法だ。この場合は、敵の生気を『全て』強制的に吸い上げてしまう。
ワープ機械も闇魔法場を浴びて動作不良を起こし、停止してしまった。さらに、〔風化〕が始まって塵になっていく。それは昏倒しているオーク兵や、バラバラになっているゴーレムやアンドロイドにも起きていた。
石造りの要塞や敷地、中庭や外壁までもが、粉を吹くように〔風化〕していく。オーク兵も装備ごと〔風化〕してミイラ状態になり、そのまま粉になってしまった。
サムカ霧が独り言のようにつぶやく。
「ふむ……今の魔力では、時間がかかるようだな。だが、ハグの魔力支援もあるし、何とかなるだろう」
ハグ人形だけはこの大崩壊と〔風化〕に巻き込まれずに、平然と〔浮遊〕し続けている。〔防御障壁〕を展開しているようで、粉まみれにもなっていない。
「今のサムカちんの魔力は『騎士見習い』程度だからな。まあ、こんな程度だろ。ペル譲が死ぬ気で全力でやれば、このくらいは出せるかな。その後、魔力バランスを完全に崩して、『化け狐』になってしまうだろうがね」
ハグ人形もサムカ霧に合わせるように、気楽な口調だ。
そうこうするうちに、要塞が敷地ごと完全に塵になって消滅してしまった。砂塵を含んだ乾いた風に混じって、どこかへ飛んで飛散していく。残ったのは、岩盤と砂だけだ。つい先ほどまで、中庭に生えていた雑草の一株すらも残っていない。石の欠片も。
サムカ霧が集合して〔実体化〕し始めた。今はまだ黒い影が立体化したような印象だが、急速に人の形になっている。
「……やはり、子供の大きさだな」
サムカ影が改めてガッカリした様子で自身の大きさを確認する。確かに、灰にされる前の子供サムカのサイズと同じだ。
ハグ人形がサムカ影の周囲をクルクル回りながら、嬉しそうな声を上げている。
「まあそうなるわな。〔召喚〕終了後に元の姿に戻してやるよ」
そして、地面に顔を向けた。
「くくく……結構な魔法場汚染だな。こりゃあ、500年間は汚染されたままだぞ。まさしく『死の大地』ってやつだな」
サムカ影が子供サイズの立体影にまとまってきた。体重も発生してきたようで、足が地面にしっかりとついている。
「死霊術場を特に強くして、岩盤に染み込ませてある。お。早速嗅ぎつけて集まってきたか」
砂塵が舞う赤茶けた空には、数匹の『化け狐』が早くも姿を現していた。今は上空を旋回して様子を伺っている。地平線の彼方からは、さらに巨大で強力な『化け狐』が向かってくる気配が、ひしひしと伝わってきた。目論見通り、この場所は『化け狐』の巣になりそうだ。
実体化を完了した子供サムカに、ハグ人形が呆れた声をかけた。
「服くらい再生リストに入れておけよな、サムカちん。真っ裸じゃ、エルフ先生〔分身〕に撃たれるぞ」
【オーク墓地のサムカの館】
結局、その数分後に〔召喚〕時間が終了になった。おかげでエルフ先生〔分身〕に撃たれることもなく、無事に死者の世界へ帰還を果たしたサムカであった。
帰還場所はオーク墓地の一角で、すぐにハグ本人が現れてサムカを大人サイズに戻してくれた。さすがに衣服までは無理で、結局、素っ裸のままで墓地に佇む羽目に陥ったのであったが。執事のエッケコと騎士シチイガが、揃って頭を抱えたのは言うまでもないだろう。
その後。オーク兵や工作員、それにセマンの姿や気配が、サムカの領地から消えたことを確認したサムカであった。執事が自治都市から取り寄せた、間に合わせの衣服を着る。そして早速、領地の巡回を行いながら満足そうな笑みを浮かべている。
隣の騎士シチイガも、素直に驚いている。彼の愛馬との呼吸がいつもよりも少しずれているようで時折、騎士シチイガの愛馬が歩みを詰まらせてしまっている。
「我が主……敵オーク兵どもや、セマンの盗賊どもは、異世界からの〔テレポート〕魔術で侵入していたのですね。これで領地や領民にも平穏が訪れるでしょう」
騎士シチイガの言葉に、サムカが微妙な表情でうなずく。彼の愛馬も、ちょっと足を詰まらせているようだ。
「厳密には〔テレポート〕魔術ではなく、『ワープ』というそうだぞ。私もよく分からぬが。まあ、全くの偶然で発見しただけだがね。思い起こせば、我が領地への敵オーク兵やセマン賊どもの侵入は、私が〔召喚〕されるようになってから急激に増えた印象だった。そういう事だったのだな。あのドラゴンの嫌がらせだろう」
そして愛馬を進めて、すくすくと育っている畑に目を向けた。冬野菜や小麦が順調に育っている。これといって病害の発生は見られないようだ。農作業をしているオークがサムカ主従に平伏していくのを、鷹揚にうなずいて応えていく。
実際に農作業を行っているのは、オークが使役しているゾンビや、スケルトンといったアンデッドだ。そのため、オークたちは野良着でありながらもピクニックをしているような印象である。
サムカが馬を止めると、それはそれでオークが駆け寄ってくることになるので、そのまま馬を進めていく。
「敵のオーク兵は、どうやら本人が直接ワープしているようだ。私の〔召喚〕と同じだな。セマンやドワーフのように、情報だけをワープさせて体を現地製造すれば良いのだろうが、そこは資金不足なのだろう。〔召喚〕とは異なるから片道旅行でもあるな」
資金不足という単語にピクリと反応している騎士シチイガだ。サムカが彼の反応を見て、口調を和らげる。
「ハグの調べでは、私が〔呪い〕をかけたセマン族も、無事に〔バンパイア化〕して死んだそうだ。セマンの世界で、40名ほど巻き添えになって〔バンパイア化〕して死んだと聞いた。しばらくの間は、警戒して我が領地へ遊びに来ることはないだろう」
サムカの話を素直に聞いていた騎士シチイガだったが、一言だけ言いたいことがある様子だ。
「それは、ようございました、我が主。ですが、1つだけ申し上げねばならぬことがございます。不届き者がこれで全て死んだとは思えません。私めをセマン世界なりオーク独立王国なりへ、『討伐』に向かうことをお許しください。さすれば、このシチイガ・テシュブ、騎士の名にかけて国ごと滅ぼして参ります」
サムカが苦笑しながら制止した。オークの服装のせいで、どこからどう見ても、ただの田舎の青年団の団員にしか見えない。しかも、オークの筋肉質な体型向けの衣服なので、サムカには横幅が大きすぎている。
「そんなことをすれば大事になって、世界間移動が自由にできなくなる。ハグが落胆するぞ。私としても、今までの召喚ナイフの販売促進の時間を無駄にしたくはない。抗議文書を後で送りつけるから、それで我慢してくれ」
【校長室】
その頃。獣人世界の学校では、半壊したままの教員宿舎の一角に設けられている校長室にエルフ先生とノーム先生がいた。校長に呼び出しを食らっている。
授業中なので生徒たちは皆、教室や運動場に集まっている。校長室の中からでも、森の上空を吹く冬の風音がよく聞こえる。
校長が難しい表情をしたままで、2人の先生に視線を向けた。彼の隣には数枚の小さな〔空中ディスプレー〕が浮かんでいて、それぞれに教育研究省の偉い人や、エルフ警察の偉い人、それにノーム警察の偉い人の顔が映っている。彼らも苦虫を噛み潰したような表情だ。
かなりの無言のプレッシャーを2人の先生にかけつつ、校長が重たい口を開く。
「……報告書の虚偽記載と、意図的な記述漏れがあったという、情報部の調査結果が出ています。テシュブ先生とその生徒たちを過剰に擁護するような記述も散見されているという評価です」
校長が軽く目を閉じて、小さくため息をつく。
「私も含めて教育研究省の上層部による独自調査では『特に有害ではない』という結論に至ったのですが、エルフ世界とノーム世界の警察組織の評価では『問題あり』となってしまいました。それぞれの組織の上層部で会議を開いたのですが、結論としては、先生方をいったん母国へ戻すことになりました。これは『決定事項』ですので、異論は受け付けられません。すぐに帰国の準備を始めて下さい」
うつむいたままで命令に従うエルフ先生とノーム先生であった。
その代わりに校長室のドアが開いて、廊下からミンタとムンキンを中心とした生徒たち60名ほどが、一斉に室内へなだれ込んできた。
真っ先にムンキンが柿色の金属光沢を放つ硬くて細かいウロコを大きく膨らませて、尻尾で床を《バンバン》叩きながら校長に抗議する。濃藍色の瞳が怒りに染まっている。
「冗談じゃないぞっ! 帰国なんかさせるもんかっ。カカクトゥア先生とラワット先生は俺たちに必要なんだぞ」
次いで、ノーム先生の専門クラスの級長である狐族のビジ・ニクマティ3年生が、黒茶色の瞳を珍しく怒りに染め上げながら抗議してきた。
「その通り! 私たちには必要な先生ですっ。ここで強制帰国になってしまうと、私たちは留年決定ですよ!」
ミンタも怒りで全身のフワフワ毛皮の先を逆立てている。金色の毛が交じる尻尾も見事に逆立って、竹ホウキみたいになっている。彼女の明るい栗色の瞳も、今は怒りの色に染まっていた。頭の金色の縞も心なしか発光し始めている。巻き毛も大量に発生していた。
「タカパ帝国の教育研究省が『問題ない』と判断したのよ。帰国させる意味なんてないでしょっ」
他のエルフ先生とノーム先生の専門クラス生徒たちも、一斉に抗議を始めた。それを画面越しに見ているエルフ警察とノーム警察の偉い人が、微妙な顔になっている。
その様子を横目で確認しつつ、校長が両手を上げて生徒たちを鎮める。
「教育研究省の判断は、『これ以上授業が遅れると、留年する生徒が多く出る』恐れがあるという政治的なものですよ。我々の独自調査を単純に評価すれば『強制帰国処分』です」
校長の隣の画面の中に映っている教育研究省の偉い人は、意図的なのか表情を『固定』したままだ。
ますます肩身が狭くなっているエルフ先生とノーム先生である。ノーム先生に至っては大きな三角帽子を胸の前で抱えて、帽子のつばをいじっている。
ショックを受けているのはミンタたちも同じようで、大声を上げて抗議していたのがピタリと止まってしまった。静かになった校長室で、校長が冷静な口調のまま話を続ける。
「……ですが、我々にはカカクトゥア先生とラワット先生は必要です。ですので先方と交渉をした結果、『数日間の帰国』ということに処分が落ち着きました。その間は、ゴーレムによる授業になります。テシュブ先生の熊人形と同じようなものですね」
ミンタがまだ毛皮を派手に逆立てながら、慎重な口調で校長に確認する。
「……それは、つまり『永久追放』ではないのですね? 校長先生」
校長がようやくここで微笑んでうなずいた。上毛や、口元に鼻先のヒゲ群の動きも弾力を帯びる。
「そうです。これまでの軍や警察、それに教育研究省への貢献は、非常に高く評価されていますからね。ですが、かなり『異例の措置』であることには変わりはありません。ですので、あなたたち生徒も『復帰の請願書』を書いて、私に提出してくれると助かります」
ここで、ノーム警察の偉い人が口を開いた。見た目の年齢はノーム先生と同じような印象だが、ノームは見た目が初老であるのが標準なので当てにならない。ノーム先生と同じように、銀色の口ヒゲの先を軽く片手でいじっている。
「我々ノームの警察は、他の異世界へも警官を派遣しているのでね。その手前、処分無しでは済まされないのだよ。『書類上』では、かなりの厳罰になるだろうな」
エルフの警察の偉い人も、釣られるように口を開いた。こちらは中年の渋い男性だ。やはり見事な金髪で真っ直ぐな長髪である。
「我々エルフの警察も、タカパ帝国との良好な交流実績の蓄積が目的だからね。帝国が見逃してくれるのであれば、我々も厳しくする必要はないということだよ。だが、もちろん対外的には厳罰であることにするがね」
そして、口調をやや和らげた。
「代わりの教師を送ることもできないのだよ。希望者が全くいない。命令で出向させることは、もちろんできるが、今度は精霊魔法契約の問題がある。パリー氏との契約になる。これはかなり面倒な事態になりかねないからね。まだ、そちらの世界の妖精や精霊は、エルフやノームに対して警戒している状態のようであるし」
エルフ先生が思わずジト目になって聞いている。
まあ、確かにトリポカラ王国のエルフ特殊部隊による、森林への無差別攻撃は致命的だった。あれからトリポカラ王国はダンマリを決め込んでしまっている。真相は永久に闇の中なのだろう。
(だけど、大よその見当はついているけどね。でも、そんなことを報告書に書けるわけないでしょ。あくまで推論の域を出ないわけだし)
その他にも、歴史〔改変〕やら、墓所関連の話も報告書には書けない部類のものだ。書いたとしても、歴史〔改変〕が起きたことを知らない者から見れば、到底信じてはもらえない。いたずらに墓所を警戒させて敵対させるだけだ。
エルフ世界やノーム世界の歴史書までもが、自動的に書き換えられるほどの強制力を持つ歴史〔改変〕魔法である。一介の警官にどうこうできるレベルではない。
校長が教育研究省の偉い人と視線を交わして、まとめに入った。口調が再び厳しいものに戻る。
「先ほども言いましたが、これは反論を認めない決定処分です。すぐに、帰国の準備を始めてください。30分後に強制送還の準備が整うと、帝都のゲート担当部署からの連絡が先ほど入りました。寄り道をせずに、真っ直ぐに〔テレポート〕して向かってくださいね。帝都の市場でお土産を買うのも控えてください」
「はい……」と、うなだれて命令に従う2人の先生であった。
校長に背を向けて、そのままミンタたちが詰まっている扉の方へ力なくトボトボと歩いていく。慌てて、ミンタたち60名ほどの生徒たちが道を開けて、ドタバタし始めた。2人の先生を迎え入れて共に歩きながら、ミンタとムンキンが校長に振り返る。まだ厳しい表情のままだ。
「数日間だけなのですよね、校長先生。本当ですよね」
校長が柔和な笑みを浮かべて、ムンキンにうなずく。
「決定事項ですから、本当ですよ」
ほっとしているムンキンとニクマティの横で、今度はミンタが首を少しかしげて校長に質問した。
「……虚偽記載と記述不備って、色々あると思うけど……何が一番悪かったのでしょうか。タカパ帝国軍や警察の機密事項にも触れる場合もあると思うけれど」
校長が横の教育研究省の偉い人と視線を交わしてから、曖昧な笑顔で答えた。白毛交じりの尻尾がゆっくりと床を掃き、口元のヒゲが数本ピコピコと動く。
「独断での行動や、作戦企画書から逸脱した行動、不必要な暴力行為など様々ありますが、それらは全て始末書で済むようにさせました。ですが、森の中での『密造酒製造』だけは、教育研究省としても擁護できませんでした。今回の強制退去処分は、その件の懲罰ですね」
「また酒かあ……」と、一斉にガックリする生徒たちであった。
【しばしのお別れ】
結局、そのまま迅速にエルフ先生とノーム先生の2人は強制帰還となった。
ミンタがエルフ先生に抱きついて涙目になっている。すぐそばではムンキンも濃藍色の瞳を潤ませて突っ立っていた。彼の柿色の見事な光沢を放つウロコが、不自然かつ不規則に膨らんだり委縮したりしている。
ミンタ以外の生徒たちも、エルフ先生に抱きついて別れを惜しんでいる。
ノーム先生の周りでも同じような光景になっている。ニクマティ級長が大粒の涙をポロポロこぼして、ノーム先生の両手を握りしめているのが見える。他の生徒たちも涙で顔がくしゃくしゃだ。
そんな生徒と先生を、落胆した表情で見つめるペルとレブンであった。レブンが残念そうな口調でつぶやく。
「精霊魔法の授業がしばらくの間、停滞しちゃうのは残念だな。僕も魔力バランスが良くなって、体調が良くなってきていたんだけど」
ペルもレブンに同意している。ミンタほど取り乱してはいない様子だ。
「そうだよね。テシュブ先生と並んで、カカクトゥア先生とラワット先生って、私たちの恩人でもあるよね。来週には戻って来るみたいだし、ちょっとの我慢で済むと思うけど……」
ここにはジャディの姿が見当たらないと確認したレブンが、口元を少し緩ませてペルに告げる。
「我らがジャディ君は、お見送りには参加しないようだね。まあ、酷い目によく遭っていたし、気持ちは何となく分かるよ」
ペルも、これまでジャディがエルフ先生に何回撃ち落されたのか数え始めて……途中で諦めた。
「……今頃は、羽を伸ばしているのかな。ジャディ君がこれ以上調子に乗らないように、私たちがしっかりしないといけないよね」
そこへ、ジャディの代わりにリーパットが党員を60人も引き連れて、肩で風を切って歩いてやってきた。いつもの取り巻き狐のパラン・ディラランと、新たな取り巻き狐のチャパイ・ロマを左右に従えている。
黒茶色の瞳をギラリと輝かせて、リーパットが鼻で笑った。
「ふふん。悪行は必ずばれるものだ。我らブルジュアン家は、貴様ら不良教師の永久追放を主張したのだが、悪運の強い奴らだな。まあ、これで貴様らの出世が永久に無くなったことで満足してやる。帰還後は、せいぜい仕事に誠実に励むことだな」
「そーだそーだ」と、60人もの取り巻きたちが一斉に騒ぎ立てる。パランもそのヤジに混じっているが、その口調にはどこか柔らかいものが感じられる。
「貴様らがドラゴン絡みで、リーパットさまを懐柔しようとしても無駄だ。今は本来のリーパットさまに戻っておられるから、容赦など期待するなよ」
新参の取り巻きである狐族のチャパイ・ロマもヤジを飛ばしているが、こちらは普通のありふれたヤジだった。その分、より大声で、身振り手振り尻尾振りもダイナミックだが。
案の定、ムンキンとその仲間がほとんど条件反射のような動きで、リーパットとその仲間に突っかかっていく。ムンキンがリーパットの襟元をつかみ上げて、殺気がこもった紺碧色の瞳で睨みつけた。
「ああ? 何か言ったか、オイ。容赦が何だって?」
喉の奥で悲鳴を上げたリーパットが、その悲鳴を口の中で押し潰す。やや涙目になりつつあるが、それでも気丈に黒茶色の瞳で、ムンキンの視線に対抗した。
「ふ、ふふふん! ブルジュアン家に刃向かうとは、良い度胸だな。貴様の町への公的支援など、我の一言で簡単に潰すことができるのだぞ。町民の就職先や企業誘致も我の一言で……ぐは」
全て言い終わらないうちにリーパットが投げ捨てられて、鈍い音を立てて床に叩きつけられていた。目を衝撃で白黒させているリーパットを、冷ややかな視線で見下ろすムンキン。柿色の金属光沢を放つ尻尾で《バシン》と床を1回だけ叩いた。
「そんな援助なんか、最初からねえぞ。邪魔してばかりの癖に、どの口がほざく。税金だけを容赦なく分捕っていくだけだろうがよ」
そして、さらに殺気をこめた視線をリーパットに叩きつけた。
「今は邪魔だから、どっかへ消えろ。俺が切れる前にな。せっかくテシュブ先生のおかげで助かった命を、ここで無駄に散らす必要はないだろ」
ムンキンの隣に当然のようにニクマティ級長が並んで、一緒になってリーパットを見下ろした。級長もかなり怒っている表情で、尻尾が竹ホウキ状態になっている。
「そういう事だ。今は切れやすい生徒が多いぞ。覚悟して発言するようにな」
ガタガタ声もなく震えているリーパットに覆いかぶさるように、取り巻き狐のパランが割って入った。両手を大きく広げてリーパットをかばう。すぐに視線で新参取り巻き狐のチャパイに、腰が抜けているリーパットを連れて脱出するように、無言で指示を出す。
「リーパットさまに狼藉を働くのであれば、俺が許さないぞ。刺し違えてでも貴様ら2人を倒す!」
一触即発の空気になったので、ミンタがため息をつきながらムンキンとニクマティの怒り肩に両手を乗せた。
「ここまでにしておきなさい。先生を侮辱されて怒るのは、よく分かるけど、今は『お別れの挨拶』をするべき時間よ」
ペルとレブンが、ムンキンとニクマティ級長に対して〔エネルギードレイン〕魔法を放つ準備をしていることに、ようやくムンキンも気がついた。そのミンタを含めた3人の悲しそうな顔を見て、素直に謝る。
「悪い悪い。ここで暴れても、何一つ良い事なんかないよな」
そして、まだ黒褐色の瞳を怒りで染めているニクマティ級長の肩を引き寄せた。
「級長、気持ちは痛い程分かるよ。しかし今は、それぞれの担任の先生を気持ちよく送り出すのが最優先だ」
ニクマティ級長が両目を閉じて、大きく深呼吸をする。逆立っていたホウキ尻尾が通常状態に戻っていく。
「……そうだね。雑魚相手に本気になりかけた私が悪かった」
ほっとするペルとレブンだ。エルフ先生とノーム先生も、同じような表情でほっとしている。
その隙に、チャパイがリーパットを抱えて退却していった。リーパットはまだ気丈にムンキンに向けて暴言を吐きまくっているが、すでに腹からの声ではなくなっていた。声が完全に裏返っている。
しんがりを務めて、まだムンキンとニクマティの目の前で仁王立ちしているパランに、ムンキンが視線を投げた。まんざらでもない様子だ。
「もったいねえな。その胆力があれば、どこでも通用するだろうに。魔法適性がないのに学生なんかして、それこそ時間と能力の無駄だろ」
しかし、パランの膝がガクガクと派手に震えているのを見て、彼の心情を察するムンキンである。腰が半分抜けていて、逃げたくても逃げることができない様子だ。
そのまま真顔でムンキンが両手を叩いて、大きな音を出した。
<パァン!>
「ぴ」
それが合図にでもなったのか、脱兎のようにパランが四つん這いで逃げていく。
それを今度は見送りもせずに、ムンキンとニクマティ級長が肩をすくめながらエルフ先生とノーム先生に顔を向けた。すっかり平常の顔に戻っている。
「カカクトゥア先生とラワット先生、1日でも早い復帰を。お土産は不要ですよ」
ムンキンに続いて、ニクマティも固い笑みをノーム先生に向ける。
「ラワット先生。早い帰還を。お土産は何か適当なもので構いませんよ」
エルフ先生とノーム先生がまだ生徒たちに抱きつかれたままで、互いに顔を見合わせて頬を緩めた。エルフ先生がムンキンに空色の瞳を向けて細める。
「分かりました。復帰後に小テストを行いますので、そのつもりで」
ノーム先生も銀色の口ヒゲを片手でつまみながら、ニクマティ級長に微笑みかけた。
「僕もそうするか。まあ、他の先生たちは強制帰国に至っていないようだから、しっかり学びなさい。僕らのような先生にはない『要領の良さ』とかね」
【代理の先生】
その日の内に、早速エルフ先生とノーム先生の精霊魔法の授業では、土製のゴーレムが先生役として使用されることになった。
マライタ先生がゴーレムを連れてきて教壇に立たせる。その教師ゴーレムを見て、まんざらでもない笑顔のマライタ先生だ。相変わらずの赤いモジャモジャヒゲとつながっている髪を、手袋をしたままの左手でガシガシかいて、下駄のような白い歯を見せている。
「急な調整作業だったが、どうやら問題なさそうだな。まったく……会議での決定からすぐに執行ってのだけは、止めてもらいたいもんだよ。盗聴していても時間が足りねえ」
「まだ盗聴しているのか……」とジト目になっている生徒たちを全く気にせずに、マライタ先生が大きな背中を愉快そうに揺すりながら教室を出ていった。彼もこれから魔法工学の授業をしなくてはならない。
ちょうど選択授業の時間だったので、エルフ先生とノーム先生の教室にはミンタやムンキンの姿はなかった。代わりにペルとレブンが受講している。
そのペルが教壇に立つ土製のゴーレムを見ながら、隣のレブンにささやいた。
「ねえ、レブン君。行動術式の固定動作しかできない型だよね、あのゴーレム。大丈夫かな」
レブンもセマン顔を険しくして、小さく呻く。
「学校の保安警備システムに従う命令は読み込み済みだろうから、特に問題は起きないとは思うけどね。だけど、ゴーレムじゃ精霊魔法は行使できないし……あまり期待はできないかなあ」
ところが予想に反して、この土製のゴーレム先生は優秀だった。もちろん、教育指導要綱にきちんと沿った内容の手堅い授業だ。教え方も、かなり上手である。そう、エルフ先生よりも……
授業時間の終盤に至って、ペルがレブンに〔念話〕を送った。混乱気味のようで、口元が少し緩んでいる。
(どうしよう……カカクトゥア先生の授業よりも、効率良いんだけど)
レブンも口元をやや魚のそれに戻しながら、〔念話〕で返信した。
(カカクトゥア先生やラワット先生は、たびたび脱線してしまうから。だけど、一方では実習時間も多くとってくれるからね。僕たちにとっては実習時間があった方が、より正しく術式を理解できるんだけど……あまり使えないような魔法の実習も多いんだよね。その時間の効率の悪さが影響しているのかも)
ともかく、これは「ミンタやムンキンにも事前に知らせておいた方が良いだろう」ということで意見が一致する。
間もなくして、授業時間が終了した。ゴーレム先生は機械的に授業の終了を宣言して、そのまま教壇で停止した。
すぐにドワーフ先生が教室内へ駆け入って来て、ゴーレムの稼働ログを調べている。助手として狐族のマスック・ベルディリ級長も同行していた。ペルとレブンに優し気に挨拶をしてから、マライタ先生の手伝いを始める。
「ペルさん。問題なく稼働したようだね。良かったよ」
ペルが少し申し訳なさそうな表情になって、黒い縞が3本走る頭をかいた。黒毛交じりの尻尾も、ぎこちなく床を掃いている。
「予想以上に、優秀なゴーレムですね、ベルディリ先輩。カカクトゥア先生の授業よりも分かりやすかったです。あんまり、こういう事は言ってはいけないのでしょうね、あはは……」
レブンも無言でペルに同意している。
ベルディリ級長が微笑んで、ゴーレム検査用の機器を1つマライタ先生に手渡した。
「そうだね。あまり口外しないでくれると魔法工学の級長としても助かるよ。それじゃあ、君たちは次の授業に向かいなさい」
「はい、失礼します」
ペルとレブンは次は別々の授業なので、〔念話〕でミンタとムンキン、それにニクマティ級長に情報を一斉送信してから、挨拶して別れた。




