57話
【違法施設】
現場では、隊長の部下である帝国軍の兵士が撮影を続けていたので、ミンタが指示を飛ばす。
「現地の軍人さんは、急いで違法施設から離れて下さいな。一応、あなたたちの座標は把握しているけど、違法施設に近いと魔法場汚染に曝される恐れが非常に高まるのよ」
兵士たちも一応は魔法関連の講習を受けているので、魔法場汚染について理解できているようだ。素直にミンタの指示に従って、違法施設を包囲している部隊が後退していく。
氾濫地なので地面が泥沼なのだが、魔法具を使用しているのだろう、泥沼の上を滑るように移動している。森や林も大した規模ではないので、視界も良好だ。
撮影班を含む全ての部隊が、違法施設から大よそ2キロほど距離をとったことを確認したミンタが、作戦の開始を宣言した。撮影班のカメラも違法施設から2キロほど距離をとったのだが、光学ズーム機能がついているので、学校のカフェのスクリーン上に映っている違法施設の大きさは変わらない。若干、空気や水蒸気による映像の揺らぎが生じている程度だ。
現地では真っ先に、撮影カメラのレンズから紙製の〔式神〕が6体飛び出てきた。地面に着地して待機状態になり、その場で足踏みをしている。大きさは30センチ弱というところか。素材はカフェの紙ナプキンのようだ。
すぐにラヤンの声がレンズからして、現地の撮影班の兵士たちに説明を始める。
「この〔式神〕たちは、負傷者の〔治療〕用で自律行動型です。あなたたちの部隊を〔防御障壁〕で守る役割もします」
その通りに、〔式神〕群が両手を広げ、撮影部隊の兵士たち3人を丸ごと包み込む〔防御障壁〕を展開した。ほとんど透明の〔防御障壁〕なので、特に視界が悪くなるようなことにはなっていない。
ラヤンが式神を通じて〔防御障壁〕の状態を確認し、ミンタに報告する。
「ミンタ。〔防御障壁〕展開を完了した。じゃあ、好きにやってちょうだい」
音声は現場の撮影班にも共有されているので、よく聞こえる。すぐにミンタの自信満々な声が届いた。
「了解。じゃあ、レブン君。攻撃を許可します」
「一応、カウントダウンしておくよ、撮影班の兵隊さん。爆風や閃光などは起きないけど、念のために地面に伏せておいて下さい。それでは、作戦開始まで3、2……今」
レブンの冷静な声がカウントダウンを開始して、魔法が発動された。
カメラのレンズからは光線や炎などが吹き出すこともなく、衝撃も全く感じられない。拍子抜けしている撮影班である。しかし、それもすぐに驚愕の表情に変わった。
2キロ先のドーム型の鏡張りの壁に、直径10メートル以上もある大穴が突然開いた。
レブンがアンコウ型のシャドウを送りつけて、ペルの闇の精霊魔法を放ったのだったが、全く〔察知〕できていないようだ。壁に大穴が突然開いたという『結果』だけが見えている。
大穴の奥には、1階建ての石造りの小屋が建っているのが分かる。その中では数名の竜族と狼族の男が突撃銃で武装していて、腰を抜かして地面を這いまわっている様子まで見えた。内偵情報の通りだ。魚族の初老の男も1人いて、マグロ頭に戻って気絶している。
「おお……」と思わず腰を上げて立ち上がりかけた撮影班や、他の班に、レブンが警告する。
「すいません。まだ伏せていて下さい。これから、ムンキン君が光の精霊魔法を放ちます。目を閉じて、地面に顔をつけておくことを勧めます」
慌てて、地面に伏せ直す兵士たちである。同時にムンキンの自信に満ち溢れた声がレンズから発せられた。
「じゃあ、いくぜ。秒読みはしないぞ」
撮影カメラのレンズがまぶしい光を放った。
同時に、大穴の中にある石造りの建物が光り輝き、その輪郭があっという間にぼやけて消えた。光が建物に当たって反射したのか、ドーム型の壁も蜂の巣状に穴だらけになって、一緒に輪郭がぼやけていく。
現場は氾濫地なので、森の中のように木々が密生しているのではなく、背の高い草が塊になって生えているだけだ。その草の塊も所々、光を浴びて〔消滅〕していく。しかし、爆発音も地響きも全くしない。
数秒後。ムンキンの声が再びカメラのレンズからして、顔を上げ目を開ける撮影班である。
「おお……」
感嘆の低い声が、撮影班や他の班の兵士たちの口から漏れた。
違法施設は、完全にドーム状の壁ごと〔消滅〕していた。中に潜んでいた10名余りの人影が地面に倒れて痙攣しているのが見える。この違法施設は、泥沼の中のちょっとした低い丘の上に設けられていたようだ。
すぐにラヤンの式神6体が急行して〔治療〕を開始する。
30秒ほどしてから、ミンタの声がレンズから聞こえてきた。
「作戦の効果調査を完了。対象違法施設は地下部分を含めて完全に消滅。テロ構成員の身柄の拘束をするよう、隊長さんにお願いします。全身麻痺の状態ですが一応、反撃には注意して下さい。では、指揮権を軍の隊長さんに戻しますね」
ミンタたちに一言礼を述べた隊長が、ディスプレー越しに部下たちに様々な指示を下していく。
それを横で見ながら、ミンタがカフェ中央の〔空中ディスプレー〕画面を見上げた。まだ昼の定時ニュースを流している。ニュースの内容は、各災害地の復興状況の現状報告をひとまず終えたところだった。
そして次のニュースとして、帝国北方の寒波被害を報じた。数メートルの積雪に埋まる村落が出ているようだ。それには目を向けずに、画面隅の時刻表示を確認する。
「よし。午後の授業には、何とか間に合いそうね。じゃあ、私たち生徒は教室へ向かいましょうか」
……が。ラヤンとムンキンの動きが何となく鈍い。険しい表情で、文字通り塵と化した違法施設跡の画像を見ている。
逮捕された違法施設内の種族名がリスト表示されていた。その数は20人にも達するようだ。
「……竜族が、けっこういるなあ」
ムンキンが濃藍色のジト目を閉じ、額に険を作ってつぶやく。ラヤンも同じような表情で、重々しく同意する。
「……そうね。犯行歴がある『竜族独立派』のテロ実行犯ばかりね。皆、竜族や狐族を問わずに、何人もテロ行為で殺害している犯罪者よ。この情報では平均して3名は殺しているわね。……救助する必要はなかったかも」
ノーム先生がラヤンとムンキンに優しい視線を向けながら、カウンターのアンドロイドに合図してメニューを持ってこさせた。
「生きたまま逮捕したのは、良かったよ。〔ステルス障壁〕や〔反射壁〕なんかは魔法使いの協力がなければ、魔法適性の乏しい竜族だけでは運用できない。彼らを逮捕できたことで、背後関係が分かるかもしれないよ。まあ、そうそう甘い展開にはならないだろうけどね」
エルフ先生も同意しながら補足指摘する。
「少なくともこれで、この地域のテロ組織を含めた不審な違法施設は一掃できました。学校警備の警察や軍も、本来の警備に専念できるようになるでしょう。では、午後の授業に行ってきなさい」
ノーム先生とエルフ先生の話に、とりあえず納得する竜族の2人である。他の生徒たちもムンキンとラヤンを慰めている。
一方で、相当に驚愕の表情をしているのは校長だった。白毛交じりの尻尾が斜め45度の角度でピンと立って毛皮が逆立っている。
「お、驚きました……帝国軍が手を焼いていた違法施設の破壊が、こんなに簡単に終わるなんて。さすが、魔法ですね」
生徒たちは既に、ぞろぞろとカフェを出て行って姿が見えなくなっていたせいもあるのだろう。校長という立場を思わず忘れてしまったような興奮と口調になっている。
エルフ先生が少し困惑気味ながらも微笑んでいる。彼女もこれから午後の授業があるので、席を立っている。
ノーム先生やマライタ先生、ティンギ先生は、空き時間なのだろう。のんびりと寛いでいる。これから酒でも飲むつもりのようで、早くも歌い始めている。
そんな小人3人衆に軽蔑の視線を投げかけたエルフ先生が、校長に視線を戻した。
「そうですね、シーカ校長。今回は皆、魔力を完全回復した後でしたし。それに良く晴れた日中ですから、光の精霊場も豊富にありました。法力サーバーもかなり回復しましたしね」
そう言ってから、軽く腕組みをする。
「ただ……ペルさんとレブン君の魔力が、予想以上に安定していたことには、私も驚きました。法術と光の精霊魔法の〔干渉〕を受けているはずなんですが、それでもあの魔力でしたからね」
そして、サムカ熊を見た。
「サムカ熊先生。もしかして、魔力供給をしたのですか?」
サムカ熊が即座に否定して首と熊手を振る。エスプレッソがないので少々、手持無沙汰のようだ。
「いや。私は何もしていないよ。ペルさんとレブン君は日頃から他の魔法と『併せて』、闇の精霊魔法や死霊術を使うように練習している。だから、〔干渉〕を抑えるコツも自ずと習得しているのだろうな」
サムカ熊がエルフ先生に視線を向ける。
「ミンタさんやムンキン君も、彼らなりに闇の精霊魔法や死霊術に接している。ここでも経験が蓄積されている。そのおかげだろう。私のようなアンデッドには到底できない芸当だよ」
「なるほど……」と納得するエルフ先生とノーム先生。校長や隊長も、半分程度は理解できているようだ。一方のドワーフとセマンは、我関せずで歌いながら酒盛りを始めている。
サムカ熊がエルフ先生に視線を向けた。
「そのサムカ熊先生というのは……私本人との区別のためかね?」
エルフ先生がニッコリと微笑む。
「ええ。そうですよ。姿が人型とは別ですからね、呼び名も変えた方が都合よいでしょ」
サムカ熊が腕組みをしながらも素直に同意した。
「……そうだな。ではこの呼び名も登録しておくとしよう」
「ひええ……」と目を点にしている校長とノーム先生であった。
隊長が現地からの報告を受けて、先生たちに安堵の表情を向けた。呼称登録には興味がなかったようだ。
「無事にテロ構成員の全員を逮捕しました。これで我々の任務は終了です。後は、警察に引き継ぎますよ。しかし我々は、情報部の調査内容に不安を抱いておりまして……敵は魔法使いや、あなた方のようなエルフやノームではないかと、実のところ戦々恐々としていました」
思わず、キョトンとするサムカ熊。一方のエルフ先生とノーム先生は実例をつい最近経験しているので、コメントを控えている。
隊長が校長と視線を交わしてから、サムカ熊に話を続けた。
「情報部の内偵部隊は時々、意図的に虚偽情報を流すものでして……魔法戦闘になると、我々では勝てませんからね。今回は我々の部隊を全滅させて、その記録映像を使ってエルフやノーム政府、それに魔法世界の団体と外交交渉をするのではないかと、勘ぐっていました。今回は杞憂で済んで良かったですよ」
(ふむ……)と何事か思うところがあるようなサムカ熊である。新たなエスプレッソを受け取って、その湯気をかいでから校長に顔を向けた。ついでに、授業をしに向かっていたエルフ先生も呼び止める。
「テロ対策だが……この学校の生徒たちに対しては、それほど問題はあるまい。自動〔蘇生〕法術などもほとんどの生徒が習得しているようだしな」
小さく咳払いをする。
「提案なのだが、シーカ校長。近隣の住民向けに、テロ対策の基礎的な訓練を行ってはどうかね? 彼らは生徒と違い、一度死んだらそれっきりだ。無論、一般の獣人族は魔法を使えないから『避難訓練』に近いものになるだろうが」
校長と隊長が顔を見合わせた。かなり真面目に受け取ったようである。すぐに校長がサムカ熊に真剣な目でうなずく。
「そうですね。早速、教育研究省の上層部へ提案してみます」
エルフ先生も立ち止まってサムカ熊に微笑んだ。
「良い提案だと思いますよ。私も協力します」
校長がほっとした表情になる。そして再び、かなり深刻そうな表情になってエルフ先生に告げた。今まで相当に言いにくいことだったようだ。
「カカクトゥア先生。先程、生徒14名の退学が決定してしまいました。政治的な理由だそうですが、本当のところはよく分かりません。難民キャンプや保護者の元へ送られることになります。授業開始までに、退学者を除外した、全校生徒の名簿を作り直して送りますね」
エルフ先生も何となく予想はしていた様子だ。両耳の先がかなり垂れ下がる。
「……そうですか。残念です。いつの日か、また復学できると良いですね。では、授業がありますので私はこれで」
表情を硬くしたまま、そのまま教室へ向かっていった。サムカ熊も残念そうにうなだれている。
「そうか……私の授業には影響は出ないが、それでも悲しいものだな」
【一般向けの講習会】
この一連の事件続きのせいか、何と3日後の放課後に一般向けの対テロ講習会が開かれることになってしまった。
もちろん、関係各所への校長の熱心な働きかけがあったおかげなのだが、それにしても早い。関心が高まっていたのだろう。
夕方の運動場には、近隣の村や農場から自警団を中心にした男衆、150名ほどが集まっていた。ほとんど全員が狐族だ。
さらに、学校の駐在警察官と警備隊詰所の軍人たちも来ている。ただ、人数は数名に留まっていた。学校を含む地域が安全になったので、他の地域に向けて、多くの警官や軍人が応援で派遣されているせいだ。
これに、森に棲む原獣人族の代表が数名。猿や猫やトカゲが直立したような姿で、一張羅なのだろうか、折り目がきちんとついている払い下げの軍服を着ている。
獣人族と異なり、手の形は人間にかなり近いため『魔法の手袋』はしていない。足元は他の獣人と同じく裸足であるが。
飛族は来ていなかった。まだエルフ先生の狐化事件のショックを引きずっているのだろう。他には、狼族や牛族の姿も見える。森の中には、パリーとその仲間の森の妖精の姿が見える。一応、敬意を払っているのだろう、人型であった。パリーと同じ系統の服装をしているので、カルト教団か何かにも見える。
時間になったので、臨時に組み立てた壇の上に上った校長が、軽く咳払いをした。手にはハンドマイクを持っているが、スピーカーのような拡声器は見当たらない。
「えー……では、時間になりましたので、講習会を開催します」
まるでスピーカーを介したような、大きな声が校長の背後の空間から放たれた。ソーサラー魔術による〔会話〕魔術の一種である。おかげで、森の中にいるパリーたちにもよく聞こえているようだ。好奇心で目をキラキラさせている。
校長が穏やかではあるが気合いがこもった声で、話を続ける。
「講師はエルフのカカクトゥア先生です。彼女は、母国では機動警察官をしておりますので、現実に即した有用な講習になるでしょう。お聞きの皆さんは帰宅した後で、カカクトゥア先生の話を伝えてください」
「おー」と受講生たちから返事がくる。
その反応に微笑んだ校長が、壇上からエルフ先生に顔を向ける。
「では、よろしくお願いします」
「はい」
エルフ先生が手ぶらのままで壇上に上り、校長に会釈する。校長が足早に壇から降り、彼も受講生の中に加わった。エルフ先生の服装は、当然ながら機動警察の制服である。
(場の空気が、かなり引き締まったなあ……)と思うサムカ熊。彼とノーム先生やマライタ先生、法術のマルマー先生は壇の脇に控えている。他の先生の姿は見えない。
生徒の姿も見えないが、代わりに数個の光る玉、〔オプション玉〕が上空を浮遊している。これで撮影しているのだろう。
マライタ先生がサムカ熊の横へやって来て、申し訳なさそうに赤いモジャモジャ髪をかいた。
「すまねえな、テシュブ熊先生。一応は学校の保安警備システムの復旧が終わったんだが、ウィザード先生たちの魔力サーバーと関連機器の調整が終わっていないんだ。先生本人を〔召喚〕してしまうと、予期しない魔力〔干渉〕が起きて事故が起きる恐れがあってな。もうしばらくの間は、その熊人形で我慢してくれ」
サムカ熊はそれほど気にしていない様子である。丸い毛玉のような尻尾と熊耳をピコピコさせた。
「この熊でも授業を行うには充分だ。実習訓練用に元々用意したぬいぐるみだから、結構魔力が使えるんだよ。気にしなくても構わないぞ」
ほっとするマライタ先生の頭を見ていたサムカ熊が、視線を壇上に戻す。一瞬、目まいのような感覚が襲ったが、すぐに収まる。(ゾンビのような死体に〔憑依〕しているわけではないので、挙動がやや不安定になるのだろうか……)と思うサムカ熊。
「そろそろ講習会が始まるな。私も実は見学したいと思っていたんだよ」
エルフ先生が講習を開始した。まず最初に、自分の腹部に両手を当てる。
「体の中で、最も弱い部分は腹部です。手足は負傷しても何かで縛って止血することが容易ですが、腹部はなかなか難しいものです。頭部は丈夫な頭蓋骨に守られていますので、銃弾や爆弾の破片が直撃しない限りは意外に耐えることができるものです。体に占める体積も小さいですから、命中する確率も腹部に比べるとかなり低いのですよ」
講習生たちも、その点は理解できているようだ。「うんうん」とうなずいている。森の中で狩猟をすることが多いせいだろう。一方で、「へえー」と感心しているのはマルマー先生だったりする。
エルフ先生が聴衆の反応を見ながら、話を進める。拡声器を使ったような〔会話〕魔術は、術式がソーサラー魔術から風の精霊魔法へ切り替わっていたが、聴衆には分からないようだ。なので今は〔会話〕の精霊魔法となっている。
「さて。魔法攻撃ですが、基本的に自動追尾する仕様になっています。走ってみると分かると思いますが、頭部はかなり動きますので、自動追尾する目標としては術式が複雑になってしまう傾向があります。最も面積が大きく、走っていてもそれほど動かない腹部に標的を設定する魔法が標準的なのですよ。従って、まず保護する部位は『腹部』ということになります」
エルフ先生が自分の腹部を、機動警察の制服の上から叩いた。かなり鍛えているせいか、分厚い板を叩いたような音がする。
「外出時には、腹部を覆うことができる大きさのバッグを持っていくことを勧めます。防弾処理されているバッグは、なかなかありませんが……多分、ここにいるドワーフのマライタ先生に頼めば、すぐにやってくれるでしょう」
いきなり話を振られたマライタ先生が、赤いモジャモジャヒゲの間から大きな白い歯を見せてガハハ笑いをする。
「おう、任せろ。魔法処理じゃなくて、カバンの表面を処理して物理的に強化することになるな。材料費として、ちょっとだけ手数料をいただくことになるが、ツケ払いでも問題ないぞ。酒であれば、なおさら良い」
エルフ先生が微笑みながらマライタ先生に礼を述べ、再び聴衆へ顔を向けた。
「くれぐれも、魔法攻撃を受けた際には、地面に伏せたり、物陰に隠れたりせず、一目散に逃げて下さい。自動追尾が基本なので、その場に留まると必ず命中します。例外は私やノームのラワット先生が使うような、光の精霊魔法だけですね。これは直進しかできませんから」
エルフ先生がソーサラー先生の姿を探すが、ここには来ていない様子だ。構わずに話を続ける。
「他の光魔術や光魔法は自動追尾機能がついていますので、屈折したり曲がったりして追いかけてきます。銃撃の場合も同様です。建物の中に隠れても無意味です。その場にいると標的にされるだけですよ」
聴衆が今一つ理解できていない様子なので、エルフ先生が腰ベルトのホルダーケースから簡易杖を取り出して向けた。今日は、いつもの草で編んだポーチは付けていないようだ。
「自動追尾の実演をしましょう」
〔オプション玉〕を1つ発生させて空中に飛ばす。それを杖で狙いも追いもせず、あらぬ方向にエルフ先生が風の精霊魔法を放った。小さな〔旋風〕が杖の先で発生して、フワフワと上空を漂う。
「では、自動追尾させます」
エルフ先生の声と同時に、〔旋風〕が獲物を狙う猛禽類のような俊敏な動きで〔オプション玉〕を追いかけ始めた。
〔オプション玉〕は〔旋風〕から逃れようと上空を縦横無尽に飛び回るが、〔旋風〕はその軌道を着実に追尾して追いかけていく。速度差は歴然で、ものの20秒弱で〔旋風〕が〔オプション玉〕に追いついて飲み込んでしまった。次の瞬間、〔オプション玉〕が空中分解して〔消滅〕する。
「おおー……」
どよめきが聴衆の間から漏れてくる。その声の中には、マライタ先生とマルマー先生も含まれていた。エルフ先生が〔旋風〕を消去して、聴衆に顔を向ける。
「このように、かなりの高速で追尾します。ですが、魔法は基本的に術者から離れるほど、威力が低くなるものです。とにかく逃げて距離を広げること。これは銃撃についても同じことが言えますね」
もちろん、エルフ先生やミンタにムンキンが使うような光の精霊魔法の有効射程は50キロ以上に及ぶ。上空の電離層や水の精霊魔法によるレンズ反射と組み合わせると150キロ以上にもなるのだが、ここでは言及していない。
同じく、ミンタたちが使ったように〔テレポート〕魔術や魔法を組み合わせると、その距離によるデメリットを補うことができるのだが、ここでは言及しない。
また、レブンが使うようなシャドウの行動半径は10キロにも及ぶので、少々走って逃げた程度では意味はないのだが、これも言及していない。
サムカ熊もエルフ先生の話を聞きながら、その点を理解したようだ。
(獣人のテロ実行犯が使うような、魔法具による攻撃を想定しているのか。魔法適性が乏しい者が使える魔法具の威力は、それほど大したものではないし、銃撃や爆弾と同様に扱っても構わない……か。なるほどな。私も、本体と〔同期〕したら領地のオーク自警団に教えてみるか……)
サムカ熊が両耳と毛玉のように丸い尻尾を、フリフリ動かして思案している間、エルフ先生が聴衆に補足説明した。
「あ。1つだけ言い忘れていました。逃げる際ですが、できれば頭は下げた方が良いでしょう。カバンに顔をうずめて走るようにすると良いと思いますよ。最優先すべきことは、逃げる速度を最大にすることです」
1呼吸おいて、エルフ先生が次の注意点を上げる。
「さて。次ですが、通常兵器に毒ガスがあるように、魔法にも〔石化〕や〔麻痺〕をもたらすガス魔法があります。これらも基本的に自動追尾式です。厄介な点としては、魔法適性が乏しい人にはガスが見えず、知覚できないことですね。色も臭いもないガス魔法はかなり多いのですよ」
その割には、これまでのガス魔法には色付きが多かったようだが……エルフ先生が口調を厳しいものにした。
「近くで誰かが外傷もなく倒れていたら、救助せず見捨てて『すぐに』その場から走って逃げて下さい」
さすがに、聴衆の間からどよめきが上がる。マルマー先生も白い桜色の顔をやや紅潮させて、抗議し始めた。
それを、壇上から両手をヒラヒラ振って落ち着かせるエルフ先生である。
「ガス魔法は、非常に危険なのですよ。吸い込んだら、それでおしまいです。村や町が全滅することも頻繁に起きるほどです。あなたたちは〔蘇生〕法術が使えませんから、『吸い込んだら即死』だと肝に銘じておいて下さい」
観衆のどよめきが止まった。それほど危険な魔法だとは思っていなかった様子だ。そんな危険を訴えてから、エルフ先生が口調を少しだけ和らげる。
「ガス魔法は自動追尾機能がついていても、その有効範囲はせいぜい500メートル程です。周囲の空気に混じって希釈されますからね。その外に脱出すれば、助かる可能性が大きく上がります」
それでもまだ、不満の声が上がっている。サムカ熊が熊手を上げて、エルフ先生に発言の許可を求めた。エルフ先生が苦笑しながら認める。
「サムカ熊先生。あまり過激な発言と行動は慎んで下さいね」
「心得た」
サムカ熊が壇上には上らずに、地面に立ったままで聴衆に話し始めた。
「私は死霊術を使うアンデッドの代理人形だ。ゾンビなどを作る術を使う」
身長が180センチあるので、普通に立っているだけでも聴衆全員から見えている。思ったよりも拒絶や驚愕の反応が返ってこないのに、内心驚くサムカ熊であった。
(ふむ……そうか。カルト派貴族の故ナウアケが、皇帝への謁見を許されたというニュースを知っているせいだな。警戒心が依然と比べると格段に和らいでいる。不思議なものだが、これは奴の功績だな)
表情はただの熊のぬいぐるみなので、思っていることは顔には出ていない。それでも、声の調子が柔らかくなるサムカ熊であった。ちょっと嬉しいようだ。
「ゾンビにするガス魔法というのがある。これも吸い込んだら最後、否応なくゾンビになってしまう魔法だ。無理して救助しても、すでにゾンビになっている。敵として君たちに襲い掛かって来ることになる。それで、村や町が全滅することがあるのだよ。魔法を甘く見ないことだ」
とは言うものの、まだ充分に理解できていないような聴衆である。
今度はノーム先生が発言の許可を求めて手を挙げた。ガッカリ気味なサムカ熊の背中を「ポンポン」と軽く叩いて、自身の銀色のあごヒゲを1回だけ撫でる。
「ノームのラワットだ。君たちの感覚では、そこの森の中にいるパリー氏のような森の妖精が行う、〔妖精化〕や〔精霊化〕の方が理解が早いだろう。『森に食べられる』という表現の方が、馴染みがあるかな。いったん、〔妖精化〕や〔精霊化〕が始まったら、もう元には戻れないことは知っているだろう? そういうことだよ。残念ながら、救助すること自体が無意味なんだ」
ここでようやく、納得のどよめきが聴衆から上がってきた。
パリーがヘラヘラ笑っているので、何か悪さをしてくることはなさそうだ。エルフ先生がノーム先生に礼を述べ、聴衆に視線を戻す。
「厳しい言い方で、かなり気分を悪くさせたと思います。ですが、被害者をできるだけ少なくするには、こうするしかないのです。〔石化〕や〔麻痺〕の解除には、専門の知識が必要になります。魔法適性が高い者でないと施術できないのですよ」
さすがに、聴衆の士気が低下していく。(まあ、仕方がないわよね……)と思うエルフ先生である。
「ガス魔法の他にも、危険な魔法があります。水の精霊魔法は地味な印象がありますが、〔溶解〕して〔消化〕してしまう特性があります。魔法攻撃が始まったら、水の中には入らないようにして下さい」
水の特性それ自体が〔溶解〕だ。
「大地の精霊魔法も、あなた方を大地に飲み込んで〔分解〕したり、機関銃のように岩塊を乱射してくることが多いですね。これも急いで逃げることです」
聴衆に交じっている校長が手を挙げてエルフ先生に質問する。
「とにかく、避難することが最優先ですね? 避難訓練や避難場所の設置を、敵の魔法に応じて計画するということで良いのでしょうか」
エルフ先生がうなずく。
「そうですね。これまで話した魔法に応じて、考えた方が良いでしょう。特にガス魔法に関しては、風上に逃げる訓練も必要ですからね。避難場所は、可能な限り地下室が良いでしょう」
聴衆が一斉にうなずいた。エルフ先生が最後の項目について話し始める。
「では最後に、精神の精霊魔法の攻撃について話しましょう。代表的な攻撃は、強制的な〔混乱〕、〔発狂〕、感情〔操作〕と記憶〔操作〕、そして〔洗脳〕です。先程のテシュブ先生の〔ゾンビ化〕に似て、味方がいきなり敵になる魔法ですね。これも、専門知識がある魔法使いでないと解除できません」
物騒な単語が並んでいくので、内心で苦笑しているエルフ先生。
「残念ですが、こうなってしまった人は、救助をあきらめて『放置』して下さい。麻酔薬は比較的効きますので、準備しておくと良いでしょう」
校長がメモしている。他の参加者もメモしているので、それが終わる頃合いを見ながら話す。
「この精神の精霊魔法は、普通は光に乗せて使用します。目の視神経から脳へ侵入して、魔法が発動するという仕組みです。ですので避難する際は、『地面を見ながら走る』のが良いでしょう。地面から反射して目に入る光は、比較的少ないですからね」
その後は、ノーム先生から大地の精霊魔法や生命の精霊魔法、それとウィザード魔法やソーサラー魔術の基礎的な防御方法の説明があった。
これも、逃げることが基本であることは同じだが、ウィザード魔法については魔力サーバーの位置の把握、ソーサラー魔術については術者の位置の把握が加えられた。逃げる先が魔力サーバーがある方向だったり、術者がいる場所に近くなっては、反対に危険になるからである。
そのため、魔力の強弱を〔察知〕する魔法具を用意しておく必要性を説くノーム先生だ。
次いで、マライタ先生の番になったが、魔法具カタログの見方の説明に終始してしまった。獣人族は魔法適性が乏しい者が多いので、自身の魔力を使用しない魔法具を選ぶことと、攻撃系統の魔法具よりも〔防御障壁〕などの防御系統の魔法具を充実させること、などが説明された。
最後に法術のマルマー先生の番になったが、やはり布教活動になってしまったので、早々に打ち切られてしまった。
サムカ熊はごく基礎的な死霊術や闇の精霊魔法についての説明をしただけで終えた。
この獣人世界では死霊術や闇の精霊魔法を使える者は、ほとんどいないためだ。それに加えて、森の中にパリーたちがいるせいもあり、話し方に注意する必要がある。下手に刺激することは避けた方がよい。
説明後、サムカ熊が熊手で後頭部をかきながらノームのラワット先生に聞く。
「どうだったかね? 上手く伝わったかな」
ラワット先生が銀色のあごヒゲを手でかきながら、口元を緩める。
「どうでしょうね……聴衆はゾンビを見た事がない人ばかりでしたし。それでもまあ、最初の講習としては上出来だったと思いますよ。一度で全て理解できるわけではありませんからね」
サムカ熊が腕組みをして、軽く首をひねる。
「うむむ……そうかね。なかなか難しいものだな。生徒向けの授業とも違うし」
ノーム先生が小豆色の瞳を細めて、銀色の口ヒゲを指で引っ張った。
「そういうものです。順次、改善していけば良いのですよ」
講習が終わり、参加者がそれぞれ帰宅していくのを見送るサムカ熊である。エルフ先生が片づけを手早く終えて、やって来た。
「どうでしたか? このような講習会は実は初めてだったのですが」
サムカ熊がエルフ先生を見つめて、ゆっくりとうなずく。熊人形なので表情に変化をつけることができないのだが、仕草が感情を充分に示している。
「上出来だ。私も学ぶべき点が多かったよ」
エルフ先生の両耳がピコピコと上下に跳ねた。上機嫌になったようだ。
「ありがとうございます。実際に軍を率いている人からの評価は、嬉しいものですね。今後も繰り返し、講習会を開くようにしたいと思います」
サムカ熊が大きくうなずいた。
「そうだな。反復訓練は、やればやるほど効果が出るものだからな。その初回講習としても、良かったと思うよ。私のように初回に失敗してしまうと、皆逃げてしまうからね」
サムカ熊の評価に、更に気を良くするエルフ先生である。パリーたちが何も悪さをせずに、森の中へ戻っていくのをニコニコしながら見送る。
「学校の生徒たちにも、教えてみようかしら。どう思いますか? サムカ先生」
サムカ熊も同意して熊頭でうなずく。
「そうだな。有益な講義になると思う。敵役も、この熊人形があるから大丈夫だろう。存分に光の精霊魔法や法術を撃ち込んでくれたまえ。なに、ただの人形に私の思念体が〔憑依〕しているだけだかね。私にも熊人形にも大した被害は出ないよ。ハグ人形みたいなものだ。〔修復〕魔法も用意しているからね。粉砕されても本体の私と〔同期〕し直せば、問題なく復帰できる」
それを聞いたエルフ先生が、微妙な笑みを浮かべた。やや困ったような口調にもなる。
「それって、私たちの対アンデッド攻撃魔法が『効かない』という事でもあるんですが。私の母国、ブトワル王国の魔法研究所員が聞いたら卒倒しますよ」
早速、エルフ先生が手元に小さな〔空中ディスプレー〕を出現させて、サムカと連名で生徒向けの講習会の開催を校長に打診する。校長は既に教員宿舎内の事務所に戻って書類仕事をしていたが、すぐに応答してきた。
「それは良い考えですね、カカクトゥア先生。帰省している生徒たちが概ね揃うのが1週間後ですから、その頃に設定しましょう」
校長によると、故郷の復興支援で一時帰省している生徒が、徐々に学校へ戻ってきているそうだ。つい先ほど校長が生徒たちにアンケートを取ってみたところ、一番要望が多かったのが、今回行ったような『一般向けの避難訓練』ということだったらしい。
「その課題については、今回の講習会を録画しましたので、これを基にして対応できると思います。タカパ帝国内に大量のゾンビが発生する事態は、あまり考えたくありませんが……ともかく、ありがとうございました。カカクトゥア先生、テシュブ先生」
校長が、画面向こうで書類の山に埋もれながら礼を述べる。画面の後ろでは事務職員たちが、書類の束を抱えて右往左往している様子が見えた。
エルフ先生が両耳の先を赤くしながら、それでも冷静さを保って校長へ告げる。
「サムカ熊先生からも提案されたのですが、こういった訓練や講習会は、一度きりでは理解が難しいものだと思います。授業やクラブ活動が優先ですが、定期的な講習会を開くことには私も賛成です。ある程度マニュアル化が済めば、私の〔分身〕に任せることもできますし」
校長が嬉しそうな表情でエルフ先生の提案を聞いて、すぐに賛同した。
「はい。そうなるように私も調整してみましょう。それで、生徒向けの講習なのですが、実際にはどのような内容にするお考えですか?」
エルフ先生が、サムカ熊と顔を見合わせる。
「まずは、今回の一連の騒動で私たちが経験したことを、生徒全員に〔共有〕してもらいます。私が立案実行した作戦は、ほとんど失敗だらけなので恐縮なのですが……それも含めてですね」
そして、エルフ先生がサムカ熊の横腹を肘でつついた。ぬいぐるみ人形なので魔法場〔干渉〕が起きず、火花等は発生していない。
「その後、サムカ熊先生を『標的』にして、生徒たちが実際に攻撃魔法を使用することを計画しています。魔法は実際に行使することで、魔法回路が強化されていきますから。もちろん、魔法適性に応じて調節することになりますね。ですので、生徒によっては精霊魔法ではなく、ウィザード魔法やソーサラー魔術で代用してもらうことになるでしょう」
すんなりと了解する校長である。1週間後の放課後に30分ほど時間を設けて、運動場で行うように調整することに決まった。校長の背後で走り回っている事務職員たちから、悲鳴みたいな声が聞こえてきている。
しかし、そんな声を無視してエルフ先生に微笑む校長であった。
「分かりました。場合によっては教育研究省や軍、警察からの応援や視察もあるでしょう。来週になれば、帝国各地の混乱も静まるでしょうからね」
生徒たちは寄宿舎にまとめて待機していたので、講習会が終わると入れ替わるように運動場へ出てきた。
生徒たちは魔法適性を持つ者ばかりなので、今回のような講習会に参加するのは意味がない。「かえって一般参加者への迷惑になりかねない」という校長の判断で、寄宿舎に押し込められていたのであった。
そして、エルフ先生とサムカ熊がいる場所へ一番乗りでやって来たのは、やはりジャディであった。
ようやく制服が支給されたようで、今はタンクトップシャツやツナギ作業服姿ではなくなっていた。しかし、背中と尾翼の邪魔にならないように、制服には大穴が開けられているが。
それ以外の部分は、一般の生徒と同じ制服である。しかし、白い長袖シャツは袖口がまくり上げられていて、鳶色の羽毛で覆われた腕がむき出しだ。紺色のベストには金糸で校章が刺繍されているのだが、これも早くも擦り切れ始めている。首元が苦しいのか、濃紺色の細いネクタイは締めていない。
学年章だけはキラキラしているせいなのか、入念に磨かれているようだが。
黒紺色の半ズボンには布製の丈夫な黒ベルトが巻かれていて、簡易杖が収まったホルダーケースが付いている。靴は当然のように履いていないので裸足だ。
「殿おおおおおっ! 熊になっても、殿は殿ですからああああっ」
寄宿舎の屋上に彼専用の家があるので、そこから飛んできている。たちまちサムカ熊の足元に抱きついて男泣きを始めた。新品の制服が、あっという間に土まみれになっていく。
その一方で、サムカ熊の横で呆れているエルフ先生には、猛禽類の鋭い琥珀色をした視線を向けてきた。
「見ていたけど、何だよあの講習会はよ! 逃げろ逃げろの一点張りじゃねえか。つまんねえこと教えるなよ、このエルフめ」
背中の鳶色の大きな翼と尾翼を広げて、威嚇行動をし始めるジャディである。両翼の先の黒い風切り羽が、ピンと張っている。
エルフ先生がサムカ熊を見て、軽く肩をすくめた。迷いもなく、腰ベルトのホルダーケースから簡易杖を引き抜いて、ジャディに向ける。
「校長の判断は正しかったようですね。先生への態度が悪いですよ、ジャディ君」
そして、遠慮なく風の精霊魔法をぶっ放した。ジャディを竜巻の中に放り込んで、そのまま地平線の彼方まで吹き飛ばす。ほとんど『ゴミ掃除』の要領である。
ジャディの怒声が切れ切れになって聞こえ、それがあっという間に森の向こうへ消えていった。
ついでに何かの光の精霊魔法も数発撃ち込んでトドメをさすエルフ先生である。ジャディの制服の切れ端が、何枚か空中にヒラヒラと舞っている。
サムカ熊もジャディが飛ばされていく方向に顔を向けていたが、特に何もしない。
入れ替わるように、地面を転がるように駆け込んでエルフ先生に抱きついてきたのはムンキンとミンタであった。さすがに、衝撃で30センチほど後ずさるエルフ先生である。
ミンタが金色の毛が交じる尻尾をブンブン振り回して、両耳をパタパタさせながら、エルフ先生を見上げる。
「〔オプション玉〕からの生中継映像、全部見てました。私の故郷にも映像をコピーして送りますね」
「僕の故郷の自警団に知らせます。帝国軍や警察は当てにできませんからね」
ムンキンもエルフ先生に抱きついていたが、男の子なのかすぐに離れた。その代わりに尻尾を≪バンバン≫地面に叩きつけながら興奮気味になっている。
今度は、サムカ熊に厳しい視線を投げかけるミンタとムンキンである。ちょうどジャディがしたのと逆だ。さすがに、ジャディほど敵意をむき出しにしてはいないが。
「こら、アンデッド先生。カカクトゥア先生に近寄るな。魔法場の性質が反対だから、汚染されるだろ!」
ムンキンが頭と尻尾の柿色のウロコを逆立てて威嚇しながら、エルフ先生とサムカ熊の間に割って入る。
ミンタもムンキンに続いて割って入った。しかし、すぐに小首をかしげている。
「……あれ? 有害な魔法場の発散はないのね。ああそうか。ハグ人形と同じだからなのか。でも、要警戒なことには変わりないからね、このアンデッド先生め」
エルフ先生が困ったような笑顔を浮かべながら、ムンキンとミンタをなだめて、サムカ熊に頭を下げた。
「すいません、サムカ熊先生。こら。熊人形でも先生なんだから、無礼な物言いをしてはいけませんよ。あ、サムカ熊先生。できれば、先程私がジャディ君にしたようなことは避けてくれると嬉しいのですが……」
サムカ熊が鷹揚にうなずく。このあたりは、いかにも『貴族』という所作である。熊人形なのだが。
「心配は無用だ。私のような貴族は、珍しいようだからな。下手になじんで警戒心を失ってしまうと、ハグのような奴に『痛い目』に遭わされる。『アンデッドを信用しない』というのは生者として正しい方針だ」
既に戦闘態勢に入っているミンタとムンキンを無視して、サムカ熊がこちらへ飛んでくるレブンの姿を認めた。そのかなり後方では、ペルが走ってきているのも見える。
他の生徒たちの中に完全に紛れ込んでいるので、その他大勢の一部になっているが。ラヤンの姿は見当たらない。
その代わりに、別の人影を認めるサムカ熊であった。墓用務員である。今まで何をしていたのか分からないが、飄々とした雰囲気は変わっていない。とりあえず、熊顔を臨戦態勢中のミンタとムンキンに向ける。
「校長と話していたのだが、来週。私を仮想敵とした実習授業を30分ほど、ここ運動場で行うことになった。今、攻撃しても構わないが、来週まで戦術を練っておくのも悪くはないだろう」
エルフ先生から諭されたせいもあって、渋々ながら簡易杖を下ろして攻撃魔法の詠唱を中断するミンタとムンキンであった。
「しょうがないわね。じゃあ、アンタの命日は来週まで延期しておいてあげるわ」
「ち。確かに今の俺じゃ、アンデッド先生の〔防御障壁〕を突破する魔法は厳しいか。来週を楽しみにしておけよ」
そんなミンタとムンキンではあるが、本気でサムカ熊を滅殺するような気はない……ということは言葉の調子や態度から明らかに分かる。(結構変わるものなのだな……)と思うサムカ。
そして、恐らく新たな揉め事を持ち込むつもりであろう墓用務員に視線を戻した。墓も察したのかヘラヘラ笑いを浮かべて、頭をヘコヘコ下げながら、へっぴり腰でこちらへ歩いてきている。先程までの飄々としていた雰囲気が台無しだ。
2人揃って、同時にため息をもらすエルフ先生とサムカ熊であった。
【教員宿舎のカフェ】
とりあえず、夕方の運動場で墓用務員の話を聞くのは何なので、教員宿舎のカフェに場所を移すことになった。
エルフ先生がせっかく片付けた講師用のひな壇を、リーパット党がわざわざ再び運動場へ持ち込んできていた。それを使って、運動場で演説を無理やりに始めたせいもある。既に賛同者の生徒数は100名に達しているようだ。いつの間にか、一大勢力にのし上がっている。
新参の側近のチャパイ狐が新規の党員たちを整理誘導して、リーパットに応援の気勢を上げ始めた。なかなかに群衆の誘導が上手だ。恐らくは、この新参の彼のおかげで賛同者が激増したのだろう。
古参の側近のパランは、壇上に立つリーパットの下で仁王立ちをして警戒している。相変わらずの忠誠ぶりだ。
壇上でリーパットが熱弁しているのは、当然ながら異種族排斥と狐族への優遇政策の拡充についてだった。魚族や竜族は顔をしかめて遠巻きにしながら、リーパット党を眺めている。
バントゥ党の姿はもうどこにも見えなかった。竜族のラグは自主退学して学校を去ったという話で、チューバとバントゥも、今は諸手続きのために学校を留守にしているらしい。
ムンキン党やアンデッド教も徐々にメンバーを増やしているみたいだが……こういった政治的な集団ではないので、さっさと運動場を後にして去っている。
カフェには就業時間を過ぎたせいもあって、狐族や竜族を中心にした事務職員が10名ほど寛いているだけだった。事務所からは、まだ話し声とパタパタ音がしてくるので、残業をしている者もかなりいる様子だ。
先生たちは、やはりそれぞれの魔力サーバーの設置と調整作業をしているのだろう、姿が見えない。
一方でマライタ先生とティンギ先生、ノーム先生は、3人で雑談しながら酒を飲んでいる。どうやら、森の中にまだある『密造酒』の熟成についての議論のようだ。懲りていない。
エルフ先生と生徒たちそれぞれが、飲み物と軽食を持ってテーブルにつく。夕食には、まだ少し時間が早い。
サムカ熊と墓用務員はエスプレッソが入った小さなコップだけを持っている。墓用務員はアンデッドなのだが、サムカと違って食事ができる仕様にも変更できる。しかし今回は、サムカ熊にならったようだ。
1分もしない内に、ラヤンがカフェに走ってやって来た。
「私も混ぜなさい」
先生と生徒たちが一斉にティンギ先生を見つめる。相変わらず、白々しい笑みを浮かべてワインをすするティンギ先生だ。
「どうしたのかな? 何か私の顔についているかね?」
半ば強引にラヤンが席についたので、墓用務員も降参のポーズをとっている。
「仕方がありませんね。さすがセマンだ……ということにしましょう」
カフェの中央には、いつもの〔空中ディスプレー〕があり夕方のニュースを流していた。復旧関連のニュースが大半を占めているのだが、以前と比べるとその割合はかなり減っている。
エルフ先生がマンゴとパイナップルのミックスジュースをストローで1口飲んでから、墓用務員に話題を促した。
「それで? 今度はどんな面倒ごとなのかしら」
墓用務員もエスプレッソを1口すすってカップをテーブルに置き、愛想笑いを浮かべながら話を始めた。彼はサムカ熊と違い、エルフ先生や生徒たちと同じテーブルについている。
中年太りで、薄くなっている髪の毛が白髪と半々になってゴマ塩のように見える。ゴムサンダルはさらに擦り減っていて、足の皮の一部になってしまっているようだ。
講習会の機材準備と後片付け作業で、作業服があちこち汚れている。用務員の仕事は、真面目にこなしているようである。
「厳しいことを仰る。今回の一連の騒動では、我々墓所も反省しているのです。墓所の〔ステルス障壁〕の調整作業をしていた際の副作用で、世界中の違法施設の〔ステルス障壁〕まで無効化されてしまいました。結果として大騒ぎになり、目立ってしまいましたからね」
どうも、聞いた話とは若干違う点があるようだが……エルフ先生がキツイ視線を墓用務員に向けた。
「目立ったどころの騒ぎではないのですけどね。死傷者が大量に出たのですよ」
ムンキンに至っては殺気すら帯びた視線になっているのだが、墓用務員は今日の天気程度の関心事に過ぎないようだ。
「また生まれてくるので問題ないでしょう。すぐに数が戻りますよ。我々、墓所の住人から見れば、少し羨ましいくらいです」
あまりにも淡々と世間話をするような口調なので、さすがにエルフ先生や生徒たちも嫌悪の表情を浮かべている。死生観が『根本から違う』のだという実感からであろう。
ムンキンも『ドン引き』を通り越して、墓用務員に『恐怖感』すら抱いてしまったようだ。
一方で、反論してきたのはレブンとペルの2人だった。簡易杖を墓用務員に向けて臨戦態勢を整えている。
「発言には充分に配慮をお願いします。僕たちを大量生産の人形のように扱うことは許しませんよ」
レブンがかなり珍しく怒っている。表情はセマン顔のままなので、まだ自制は利いているようだが。
ペルもかなりカチンときているようだ。全身のフワフワ毛皮が見事に逆立っている。
「そ、そうですよ。私たちの心情も学んで下さい」
サムカ熊がエスプレッソカップをテーブルに置いて、墓用務員に諭す。
「アンデッドと生者との価値観は、かなり異なるものだ。勉強不足だぞ。その価値観のままでは、再び同じような騒動を呼び寄せることになる。安らかに墓所で眠りたいなら、生者の心理とその変化についても学ぶべきだろう」
ようやく墓用務員も考える仕草をとった。中年太りで大いに緩んだ頬を、土汚れが目立つ手の甲で支える。どうも何というか、絶妙に気持ち悪い仕草だ。
「なるほど……サムカさんの忠告には一理ある。墓所で検討することにするよ」
……と、サムカ熊だけに軽く礼をして、本題に入った。
「さて。君たちに会いに来たのは、1つ頼みごとをお願いしたいからなんだ」
【墓所からのお願い】
露骨に嫌悪の表情を浮かべるエルフ先生と生徒たちであるが、当然のように無視して墓用務員が話を続ける。
「今回の騒動では、実に様々な魔法や〔防御障壁〕が使用されましたね。我々墓所にとっても、実に有意義な騒動でした」
エルフ先生が冷ややかな目でテーブルから立ち上がって、墓用務員に告げた。口調もかなり冷たい。
「はあ。それは良かったですね。じゃ、話はここまでで。そろそろ夕食ですからね」
背中を腰まで流れる金髪から何本も静電気が走っていて、エルフ先生の体全体がぼんやりと帯電して発光している。ミンタとムンキンも同じように体が発光してきている。
それにも全く気づかない様子で、墓用務員が右手を上げて制した。先生と生徒たちの険しい視線に気がついたのか、作業着や両手の汚れを一瞬で〔消去〕している。
「お待ちを。お願いと言うのは、墓所の〔ステルス障壁〕の性能検査をやってもらいたい……という事です。我々だけでは見落とす可能性が高いですからね。ここは、〔防御障壁〕を『破った実績』のある、あなたたちにやってもらいたいのです」
大いに怪訝な表情をしているエルフ先生と生徒たちである。代わりにサムカ熊が墓用務員に質問をした。
「普通に闇魔法で〔防御障壁〕を組み直したと思っていたが。かなりの改変を加えたのかね?」
墓用務員が愛想笑いを浮かべて頭を下げた。あご周りのぜい肉が、《ふよん》と揺れる。
「そうなんですよ。今回の騒動で使用された全ての攻撃魔法や探査魔法、ミサイルなどの物理攻撃に対しての試験は全て終了して、完全無効化できています。最後にあなた方による検査に合格すれば、我々墓所も安心できるというものです」
エルフ先生がかなり冷ややかなジト目になって、墓用務員に詰問する。まだテーブルのイスに座る気はないようだ。
「まさかとは思うけれど……今回の騒動を扇動した黒幕は、あなたたちじゃないでしょうね。最も利益を得ているのは、あなたたちのような気がするのだけど」
墓用務員は愛想笑いを続けたままで、それを否定した。
「いいえ。何度も申していますが、墓所としては安眠できればそれで良いのです。今回の騒動では、我々の存在が知られる恐れがありましたから、扇動などは元々想定もしていませんよ。『結果』として、様々な魔法の情報が入手できたので、これを利用しているだけです」
エルフ先生と生徒たちの脳裏に、サムカの言う『アンデッドを信用するな』という言葉が飛び交ったが……ここはそれで場を収めることになった。
エルフ先生がようやくテーブルの席に座り直す。なおも怪訝な表情のままで腕組みをしつつ、墓用務員に聞く。
「断ったら、どうする気なのかしら?」
「あなたたちを〔ロスト〕するだけですが。何か? この情報をあちこちに吹聴されては、困りますので」
「至極当然」とばかりの真面目な回答に、深いため息をついて頭を抱えるエルフ先生と生徒たちである。サムカ熊もさすがに呆れたような仕草をとっている。
〔空間指定型の会話〕魔法なので、近くのテーブルで酒盛りをしている小人3人衆や、事務員たちには全く聞こえていない。
エルフ先生がもう一度大きなため息をついてから、「キッ」と空色の瞳で墓用務員を見つめる。
「でしょうね。じゃあ、さっさと検査とやらを済ませましょうか。あ。私はエルフなので苦手な魔法がありますよ。特に、ミサイルとかの物理攻撃はできません」
墓用務員が少々ドヤ顔になって微笑んだ。何とも殺意が湧く笑顔である。
「ご心配なく。ちょうど、そこにドワーフとセマンにノームがいるじゃないですか。彼らを精神〔支配〕して操れば良いだけです」
ここに至って、やっと、「はえ?」と赤ら顔を向けてくる小人3人衆である。かなり酔いが回っているようだ。確かに、造作もなく操れそうである。
【ヒドラの洞窟】
ヒドラたちの越冬地でもある洞窟の入口付近は、まだ更地状態で芝のような草が生えているだけだった。〔テレポート〕魔術刻印が刻まれた近くの大木の幹に、全員が出現する。
ノーム先生を含めた小人先生たちは、既にあっさりと精神〔支配〕されていた。夢うつつのような幸せな表情をして、フラフラと上体を揺らしながら立っている。酒が結構回っているようで3人ともに顔が赤い。
エルフ先生の指示で、洞窟からの緊急脱出用のリボンを手に巻きつけて起動確認する。マライタ先生とティンギ先生、それにサムカ熊はつけていないが、「まあいいか」ということになった。
墓用務員の頭上にハグ人形が出現して、そのまま3回転半ひねりで「ポスッ」と頭の上に着地する。
「まあ、ワシがいるから問題あるまい。生き埋めになったら、ワシが〔テレポート〕してやるよ」
(また、余計な奴が出てきたわね……)とジト目になるエルフ先生と生徒たち。唯一ニコニコしているのは、墓用務員だけだ。
「やあ、ハグさん。調査はどうでしたか」
墓用務員がハグ人形を白髪が半分以上交じったゴマ塩頭でリフティングしながら聞く。結構、器用だ。
頭や膝の上でトランポリン競技でもしているように「ポインポイン」と跳ね飛びながら、ハグ人形が口をパクパクさせた。
「残念だが、ワシでも分からずじまいじゃ。見事過ぎる隠ぺい工作じゃな。感心したわい」
「そうですか……」と、残念そうに答える墓用務員である。マライタ先生とティンギ先生、ノーム先生は、そろって何かの暗黒舞踊でもしているような動きをしている。
そんな光景を眺めつつサムカ熊が、首を少しかしげながらハグ人形に聞いた。
「それは、もしかするとソーサラー魔術師のことかね? かなり高度な〔ステルス結界〕と、ドラゴンの思念体を捕獲して、それで『ゾンビもどき』を作り出した。当のソーサラー魔術のバワンメラ先生も正体を知らないということだったが」
「ああ、そう言えば、そんな奴がいたわね」と思い出すエルフ先生と生徒たちである。彼らは実際にはその現場に居合わせていなかったのだが、当時の印象はかなり強烈なものだった……事も『次第に』思い出した。
ミンタがかなり怪訝な表情になって、エルフ先生に顔を向ける。
「カカクトゥア先生……私たち、今の今まで、あの正体不明の魔術師のことを『忘れて』いました。記憶〔操作〕魔法を知らない間に受けていたのかも」
ムンキンも次第に思い出しながら、尻尾を地面に叩きつけ始めた。かなり不快に感じているようだ。
「そうだな。バジリスク幼体も育てていたのを思い出した。うわ……かなりヤバイ奴じゃねーか」
エルフ先生も2人の意見に深刻な表情になって同意する。同時に怒りも湧き上がっているようだ。髪からバチバチと火花が散り始めていく。
「……そうですね。私もきちんと報告書を書いて報告していましたけど、それでもすっかり忘れていました。精神の精霊魔法……ではないですねコレ。何だろう? 魔法場サーバーが機能していない間から忘れているので、ウィザード魔法の幻導術でもなさそうだし、不気味ね」
墓用務員が微笑みながら、ハグ人形のリフティングを中止した。
「なるほど。あなたたちに記憶〔阻害〕魔法をかけていたようですね。〔記憶のステルス化〕を行う魔法です。まあ、私とリッチーのハグさんがこの場にいるので、魔法が破れたのでしょう」
墓用務員が上空を見上げる。夕焼けが美しい。
「魔法場の特徴としては、ウィザード魔法に属しますね。ソーサラー魔術の偽装をしていますが、魔力は異世界からの供給です。〔逆探知〕してみましたが、追跡は無理でした。……あ。対抗魔法の〔罠〕がかけられていましたよ」
ハグ人形が墓用務員の頭の上で片足立ちをしながら、真上の夕焼け空を見つめる。まだ、明るいので星は出ていない。
「〔逆探知〕してきたら自動迎撃する〔罠〕だな。ふむ。ワシが〔反射〕したから、もう問題はない。良かったな、この星が丸焼けになるところだったぞ。代わりに別の星が1つ焼けたが、オマエさんたちに分かるのは数百年後だから気にするな」
何を言っているのか、よくつかめない話をしている墓用務員とハグ人形である。ハグ人形も当然のように話題を元に戻した。
「かなりの魔力を持つ魔法使いだということは、これで分かったよ。それに〔罠〕を仕掛けていたことで、手掛かりも得た。次に同じような〔罠〕の術式が見つかれば『特定』できるだろう。ワシに匹敵する程度だから、『メイガス』だろうな。今はここまでしか分からないし、それで充分だろう」
ハグ人形がエルフ先生たちに顔を向ける。
「日が暮れたら光の精霊魔法が弱くなる。さっさと新しい〔防御障壁〕の性能検査を済ませてはどうかね」
確かに、森の中が次第に暗くなっていき、東の空が夕闇に覆われ始めていた。急いだ方が良いだろう。
洞窟の中には、500匹に上る冬眠中のヒドラの群れがひしめいていた。それぞれの体長は10メートルほどなので、かなり迫力がある光景だ。
そのまま歩いたり飛んだりしては、足音や体温などを〔察知〕されて無用の騒動を引き起こすことになる。サムカ熊やペルによる闇の精霊魔法の〔防御障壁〕で全員を包んで、洞窟に入っていくことになった。
洞窟の最深部には〔テレポート〕魔術刻印があることはあるのだが、確実な起動という面では不安があったためだ。
エルフ先生には、ミンタが特別にソーサラー魔術を加えた追加の〔防御障壁〕を被せている。墓用務員とハグ人形は単独で〔防御障壁〕を張って、あくびをしながら後ろからついてきていた。
洞窟の床面は足を置く場所もないほど隙間なく、ヒドラの巨体で埋め尽くされている。〔浮遊〕魔術を全員が発動して、洞窟の天井すれすれの高度でゆっくりとヒドラの群れの上を通過していく。
精神〔支配〕されている小人3人衆もひとまとまりにされていて、浮かびながら上機嫌に何か踊っている。
サムカ熊は〔浮遊〕魔術が苦手のようでフラフラしている。何度か洞窟の壁や天井に衝突もしている。エルフ先生も狭い洞窟内部では思うように浮かべない様子だ。彼女もサムカ熊ほどではないが不安定な〔浮遊〕をしている。
サムカ熊が先生たち全員を〔防御障壁〕で包み、ペルが生徒たち全員を包んでいる。ペルはサムカの言いつけの通り、他の魔法も同時に発動させていた。そのため、〔防御障壁〕の表面に、水しぶきやら稲光やら水晶やらがランダムに発生して賑やかだ。
レブンは気楽な表情で〔防御障壁〕の中から、冬眠しているヒドラの群れを見下ろしている。
「へえ……洞窟の中って、意外に暖かいんだね。冬眠用だから、もっと冷えているのかと思った」
ムンキンが彼の隣で、尻尾を軽く振り回しながら答える。
「冬眠といっても『うたた寝』だけどな。これだけ大きな体だから、時々森に出て餌を食べないと飢えてしまうんだ。魔法で合体しているから、なおさらエネルギー消費が大きいしな。だから、少し暖かいくらいでちょうどいいのさ。寒すぎると完全に冬眠してしまって飢えてしまう」
レブンも魚族なので、何となく理解できるようだ。
「なるほどね。僕たち魚族は亜熱帯の海に住んでいるから、冬眠する習慣はないけど、分かるような気がする」
ムンキンは尻尾をグルングルンと振り回してニヤリと微笑んだ。
「竜族は温血だから冬眠することはないけどな。魚族もそうだろ。僕たちの遠いご先祖様は、このような変温動物だったみたいだから、大変だっただろうな」
意外に知られていないのだが、魚族は温血である。顔がマグロに戻ることから、先祖はマグロの仲間なのだろう。
竜族は、体の構造がどちらかといえば鳥に近い。羽がない飛べない鳥と例えることができようか。立派な尻尾と両手があるので、鳥とは思えないが。
ムンキンが少しドヤ顔になりながら、洞窟の天井や壁一面に記述されている魔法回路を指し示す。
「それに、この光の精霊魔法の魔法回路のおかげもあるな。太陽光を電気に〔変換〕しているから、その変換抵抗で熱が出る。蓄電回路も組み込まれているから、そこからの発熱もあるしな。変温動物のヒドラにとっては、ちょうどいい暖房設備になっているというわけだな」
レブンが重ねて納得している。
「だよねえ。寒いと何もやる気が起きなくなって困るんだよね。でも、あれだけの大騒動があったのに、生き延びたヒドラがかなりいるんだなあ」
そんな雑談をしていると、洞窟の最深部へ到着した。〔テレポート〕魔術刻印は土埃に覆われている上に、ヒドラが上を這ったのか、線がにじんでしまっていた。これでは、誤作動の危険がある。使わずにいて正解だったようだ。ここにはヒドラもいないので、〔防御障壁〕を解除して床に着地する。
魔法回路のおかげで、暗いながらもぼんやりとした明かりがある。ロウソク2、3本の明かりを、最深部分の洞窟壁面と床天井に広げて薄めたような明るさで、互いの顔と表情が分かる程度の明かりだ。
エルフ先生が全員にお願いする。
「もちろん、蓄電回路から電気を呼び出して、光に〔変換〕すれば、日中と同じような明るさにできますけどね。そうすると、ヒドラたちが驚いて起きて暴れ出すでしょうから、この明るさのままで我慢して下さい」
精神〔支配〕されて千鳥足で酔っぱらったような動きをしている小人3人衆は、無言のままでヘラヘラ笑って幸せそうな顔をしている。正気だったら、真っ先に文句を言いだす連中だ。
生徒たちは獣人族なので視覚も優れていて、さらに聴覚も鋭いので、この程度の明るさでも全く支障は出ないようだった。
サムカと墓用務員、ハグ人形に至ってはアンデッドなので問題などあるはずもない。エルフ先生だけが、ちょっとオドオドしているだけである。
墓用務員が最深部の壁に手を当てる。すると地鳴りがして壁が消え、真っ暗な大きな空間が現れた。
「墓所の〔防御障壁〕を、ここまで引っ張ってきました。触れても大丈夫なはずですが、一応は用心して下さい」
どうやら真っ黒な空間に見えたものは、実は〔防御障壁〕だったようだ。
「では、検査を始めて下さい」




