44話
【レブンの故郷】
レブンはラヤンの〔占い〕に渋々従って、故郷へ戻っていた。
彼もまたミンタと同じく、自治軍への参加は断られてしまい、今は地元町の自警団のもとで担当水域を1人で巡回して警戒している。
場所は前回〔テレポート〕した場所に近く、叔父の養殖生け簀が数多くある産業区である。水深は20から30メートルほどあり、テーブルサンゴが何十もの層になって、まるで各階層のフロアだけ先に造っていて、外壁を巡らせる前の巨大なビル群のようだ。所々に山のような石サンゴが聳え立っている。
結構、強めの海流が流れていて、無数の熱帯魚群がサンゴの周りを乱舞している。クエなどの大型魚も数多く泳いでいて、その優雅なヒレを揺らめかせていた。
その魚の洪水のような海中を、レブンがマグロのような高速で突っ切っていく。退屈なようだ。顔はセマン顔のままで、少々ジト目になっている。
レブンの手元には小さな〔水中ディスプレー〕が生じていた。画面分割されて、それぞれにミンタ、ムンキン、ラヤン、エルフ先生の顔が映っている。同じ竜族のムンキンとラヤンは、ジト目で仏頂面をしているようだ。
ミンタからの現地のテロ事件映像を見てショックを受けているのは、やはりエルフ先生であった。
「……不運な事件が重なってしまいましたね。ともあれ、皆さんが無事で何よりです。生徒たちの中には、熊や大フクロウに捕食されて死亡してしまった者も出ています。パリーとマルマー先生のおかげで皆、学校で無事に〔復活〕を果たしましたが、『死んだ』というトラウマになりやすい記憶は残っています。後日、記憶〔消去〕と〔改変〕魔法を施すことになるでしょうね」
エルフ先生に完全同意するミンタである。金色の毛が交じる尻尾が物憂げに床を掃く。〔水中ディスプレー〕の背景映像がミンタの動きに合わせて動いていて、街の屋根の向こうに黒い煙が数本立ち昇っているのが見えている。
「そうですね、カカクトゥア先生。ジャディ君を見るまでもなく、トラウマになりやすいと思います。適切な〔治療〕が必要ですよね。そういう事だからムンキン君、ラヤン先輩。あなたたちも一緒に受けておく?」
ムンキンは即座に拒否してきた。〔水中ディスプレー〕の背景映像には大フクロウが時々映るが、次の瞬間〔レーザー光線〕を食らって胴体や羽に大穴が開き、そのまま落下していく。かすかに絶叫のような声が聞こえて画面から消える。
ムンキンは簡易杖を敵に向けたりしておらず、顔も向けていない。〔レーザー光線〕による迎撃術式を完全自動化しているのだろう。
「不要だよ。テロがミンタさんの故郷の街で起きたことを忘れたり、何とも思わなくなったりするなんて、それこそ許せない。同じ竜族とはいえ、そいつらは敵だ」
ラヤンもムンキンに同意した。救護所の一角のようで、彼女の後ろで医師や看護師が慌ただしく行き来しているのが見える。悲鳴や怒声、泣き声などがカーテンの向こうから雑音と共に聞こえてくる。声の多さからして、負傷者数は数十人にも上るだろう、かなりの修羅場のようだ。
そのラヤンは紺色の瞳を疲れで濁らせてウロコを少し逆立たせているが、平静そのものの表情をしている。
「私も不要。将来、警官や警察病院勤務を目指している私にとっては、この程度で根を上げる訳にはいかないもの」
エルフ先生が2人の決意を聞いて、困ったような表情で笑みを浮かべた。
「……まあ、今はそれで良いでしょう。後で〔治療〕が必要になったら言いなさい」
そして、首を軽くかしげた。片耳の先がピコピコ動く。
「ペルさんの顔が見えないけれど、どうしたの?」
ミンタが答えた。近くを緊急車両が通過したようで、サイレンの音が聞こえる。
「〔念話〕で先ほど会話しました。元気そうでしたよ。忙しいのかな」
それを聞いてエルフ先生が微笑んだ。
「かもしれませんね。私から後でまた、ペルさんに呼びかけてみます。そうそう。ジャディ君だけど、精神の精霊魔法を使って、パニックを〔除去〕しました。今は〔沈静化〕の魔法でよく眠っていますよ。明日には回復するでしょう」
レブンがほっとした表情になった。海中なのだがセマン顔を維持したままだ。エラ呼吸に変更しているので、口や鼻からは空気泡は出ておらず、黒髪が海流に流されて左右にたなびいている。
「そうですか。さすがカカクトゥア先生ですね。パリーさんのせいで大変な目に遭っていて、同情します」
エルフ先生が空色の瞳を細め、軽く肩をすくめた。
「確かにね。明日の朝にでも精霊を放って、飛族がどこに追放されたのか調べてみます。パリーの機嫌が直れば、また戻ることもできるでしょう」
レブンが腕組みをして首をひねった。
「そうですね……困った妖精だなもう。生命の精霊魔法の先生の仕事も……あ」
衝撃波がレブンの体を通り抜けた。轟音が海中に鳴り響き、レブンが立っている岩サンゴも激しく振動する。
近くにある叔父さんの生け簀も激しく揺れて、中のサバの大群がショックで気絶して泳ぐのを止めた。そのまま海上へ浮かび上がっていく。
すぐにアンコウ型シャドウを出して索敵に向かわせる。〔防御障壁〕が機能していたおかげで、レブンには何も影響は出ていない様子だ。しかし、通信が妨害されているようで、〔水中ディスプレー〕画面が全て砂嵐になって映らなくなった。
〔水中ディスプレー〕を〔念話〕モードから、シャドウとの〔通信〕モードに切り替える。シャドウから〔オプション玉〕が1つ発生し、それが海上に上がって10メートルほどの空中で静止した。その〔オプション玉〕からの観測情報が、別の〔水中ディスプレー〕に表示され始めた。その他の余計なディスプレーは消去し、簡易杖の状態を確認する。
空中の〔オプション玉〕からの映像が映り、水平線上に数本の大きな水柱が立っているのが確認できた。すぐに光学ズームして詳細映像を見るレブンである。拡大しても水柱と壁のような大波しか見えないが、魔法場の〔解析〕結果が表示されて、レブンのセマン顔が魚顔に完全に戻った。
(クラーケン族の攻撃魔法か……距離は、ここから5キロちょっと。敵影は50頭前後か。既に、魚族の自治軍との戦闘が始まっているんだね。まったくもう……僕たち住民に連絡くらい回してくれればいいのに。避難した方がよさそうだな。ラヤン先輩の〔占い〕が当たった)
先程の衝撃波は、その攻撃魔法の余波だったのだろう。アンコウ型シャドウが高速で海中を泳ぎ回りながら、サンゴ礁の中で気絶して海流に流されている魚族の位置情報を次々に表示し始めた。
(この周囲の要救助者数は8人か。あ、これは叔父さんだな。この程度の人数だったら、僕だけで拾って曳航して避難できそうだ)
養殖の生け簀では気絶したサバやイカなどが、それぞれ数万匹もの大群で海面に浮かんでいるのが、レブンのいる水中からでもよく見える。サンゴ礁の中を泳いでいた大小無数の野生の魚群も、軒並み気絶して海面に浮かんだり、海流に流されていたりしている。エビやカニも混じっているようだ。
「ごめんよ。今の僕では、大規模な法術や生命の精霊魔法は使いこなせないんだ」
水の精霊魔法を使って高速で泳ぎながら、そんな風景の中で魚族の救助に向かうレブンである。
早速、海中を漂っている1人めの魚族に追いつき、魔法の糸で体を縛りつけて曳航できるようにする。体の状態をチェックするが、まだ法術は得意ではないので心拍数程度しか分からない。
(帰ったら、法術をもっと勉強しないとなあ……脳内の状況までは分からないけど、とりあえず心拍数は正常だな)
次の要救助者のもとへ急行していると、シャドウからの警報を受信した。
「げげっ。また衝撃波がくるのか。かなり本格的な戦闘みたいだな」
その1秒後。倍くらいの威力がある衝撃波がレブンの体を通り抜けていった。これも、〔防御障壁〕で防御するレブンである。もう1つ別の〔水中ディスプレー〕を出して、攻撃方向を特定する。
(クラーケン族の進路は、町の役場方面か。他の敵部隊はいない……な。よし。敵進路から一番遠い集落へ避難するか。ええと……第7ブロックのこの集落でいいかな)
2人目の魚族が海流に流されているのを捕まえて、すぐに1人めと連結して〔拘束〕する。
(スケルトンを操るための魔法の糸なんだけど、こういう使い方でもいけるな。ええと、互いに衝突しないように、間に『バネ』を作って……と。これでよし。次だ)
その時、シャドウの探査ソナーに反応が出た。死霊術場によるソナーなので、この魔法適性がない者は〔察知〕できない優れものである。
シャドウ自体もステルス性能が非常に高いので、敵は〔察知〕できていないようだ。そのままの移動速度と方向を維持している。すぐに手元の〔水中ディスプレー〕に敵の解析情報が表示された。イカによく似た姿である。
(クラーケン族の威力偵察小隊か。数は6頭。僕のシャドウ、『深海1号改』からの索敵から逃れていたなんて、さすが海賊だな。武装は魔法銃と〔マジックミサイル〕。機雷も引いているのか)
距離はレブンから3キロほどあるので、当然ながら目視できない。〔水中ディスプレー〕画面上の記号でしかないのだが、敵は水深20から30メートルのサンゴ礁の底面に沿って高速で移動している。レブンのいる方向へは来ないようだ、が。その方向には……
(叔父さんの養殖生け簀を破壊されては困るな。申し訳ないけど、死んでもらうよ。と、その前に、他に偵察部隊は……いないな。よし)
レブンが3人めを救助して〔連結〕しながら、シャドウに攻撃命令を出した。
その3秒後に敵の生命反応が全て消えた。4人めの場所へ急行しながら、〔水中ディスプレー〕画面を見るレブンが首をかしげる。
「……こんなものなのか。殺人者になるのは、あっけないものなんだな。テシュブ先生の仰る通り、『方針』次第……か。なるほど」
そして、泳ぎながら考える。
(それにしても、タイミングが良すぎるなあ。海賊だって、襲撃には準備が必要だし。ミンタさんの故郷での竜族によるテロもそうだし。ティンギ先生並みに未来〔予知〕できる敵がいて、そいつらの仕業なのかな)
【ラグの故郷】
バントゥ党の側近の1人としてミンタたちにちょっかいを出していた、竜族の3年生ラグ・クンイットの故郷は、帝都から遠く離れた田舎町である。人口は3000ほどの城塞都市ではあるのだが、城壁の規模や自警団の戦力はムンキンやラヤンの故郷と比較すると小さい。
それでも、川のほとりに立つ町は小奇麗で、養殖池がズラリと並んで広がっている風景は見事『だった。』周囲には丘もなく、地平線が望める。
ここで養殖されている川魚のニジマスや、沢蟹、川エビなどは美味と評判で帝国でもよく知られていた。観光客も多く訪れる町でもあった。
中でも沢蟹は、生のままで食べても食あたりしないと評判の高品質だ。ニジマスや川エビも、刺身で食べる事ができる。
……まあ実際には、病院送りになる不運な者も出ているようであるが。宣伝と実態が『ちょっとだけ』違うのは、よくある事だ。
その全てが今、5000頭に達する巨大熊と大フクロウの大群によって蹂躙され破壊されている。
養殖池の堤が巨大熊の一撃で爆発するように粉砕され、川にニジマスや川エビが流出していく。それをすくい上げて生のまま貪る巨大熊群。大フクロウ群も上空から舞い降りて、熊の爪を避けながらニジマスや川エビを、その巨大な鉤爪に引っかけてかっさらっていく。
町の城壁も大熊群が見境なく放つ〔火炎放射〕や〔爆破〕魔法によって、無惨に破壊されて瓦礫の山と化していた。
大熊群が空気を震わせる咆哮を放って、町への侵入を始める。
自警団の武装も、ムンキンやラヤンの町に比べると貧相なものだ。同じ竜族や狐族、せいぜい狼族の盗賊を想定している装備なので、弓矢や銃弾に対する防御しかない防護服である。
これでは、50センチもの長さの爪を振り回す巨大熊の攻撃には耐えきれない。巨大熊のひと殴りで、簡単に竜族の体がミンチになって四散する。ムンキンの故郷の自警団の装備とは大違いだ。
その巨大熊をソーサラー魔術の〔熱線〕魔術で火だるまにして炭にするラグである。崩壊した城壁の上に立って、最前線で奮闘していた。そばには自動小銃で武装している自警団の仲間たち3人がいる。
ラグはトランシーバーをヘルメットに装着しているのだが、既に作戦本部は大混乱に陥っているようだ。悲鳴と怒声しか聞こえてこない。まともな作戦指示は期待できないようだ。
「そう言えば、学校で誰かが言っていたな。組織戦闘の訓練をしていないとどうとか。フン!」
ラグが青藍色の瞳を怒りでギラギラと輝かせ、黄赤色の細かいウロコを逆立たせている。太陽光が頭と尻尾のウロコに反射して、金属光沢を放った。
「くそっ! こんな熊なんか、学校の森では余裕で退治できたのに。数が多すぎるぞ」
彼も歴史〔改変〕の影響を受けているようで、記憶が別のものに変わってしまっているようだ。実際にはヒドラ騒動の際、学校の森の中では1匹も倒せていないのだが。
再び、ソーサラー魔術の〔熱線〕魔術を撃って1頭の大熊を炭にする。が、その背後には100頭を超える大熊の群れが迫ってきていた。熊が〔火炎放射〕魔術をラグたちに放ってくるのを〔防御障壁〕で防ぐが、周辺の瓦礫の山に引火して炎が上がり始めた。
壁には補強のために多くの木材の柱が使用されている。レンガや切り出した石を積み上げただけでは、大雨などで地盤が緩んだ際に崩れてしまうからだ。ここは川のほとりなので、地盤がかなり緩い。それに、彼の故郷では、防壁が鉄筋コンクリートではなかった。
こちらへ襲い掛かって来る大熊群の背後では、まだ養殖池の堤を破壊している群がウジャウジャいるのが見える。無惨に破壊されていく故郷の風景に、ラグの青藍色の瞳に殺気がこもった。
「こいつら、絶対に殺せ! 撃ちまくれっ」
ラグの怒号に呼応して、一緒にいる3人の自警団の男たちが雄叫びを上げた。自動小銃の掃射が始まる。大熊が数頭ほど穴だらけになって、全身から真っ赤な血を空中に噴き出して倒れた。
ニヤリと目を細めたラグたちに、その時、爆発音が数回轟いた。かなり近い。同時に、町の中でも爆発音が何度も起きて、黒煙に包まれた火の玉が町の屋根の向こう側で上がった。ラグの隣で自動小銃を撃っていた自警団の男が、悲鳴を上げる。
「最内殻の城壁が突破されたのかっ」
ラグも思わず、その爆煙が生じた町の中を見てしまった。(しまった)と戦慄する。
次の瞬間。3人の自警団の男たちが数個の肉片に変わった。ラグも簡易杖を持っていた右手が肩先から粉砕される。大熊が異常な速度で突進してきて、両手の爪を一閃させたのだった。エルフ先生が使うような、〔格闘支援〕魔術を使用していると直感するラグ。
血吹雪が舞い上がる中、ラグが残った左手で大熊を殴りつけた。たちまち燃え上がって絶叫する大熊。
その大熊が数個の肉塊に解体された。血煙と肉片やら組織片が空中に噴き上がる中を、新手の大熊が熊手を振り回しながら突撃してきた。(燃え上がった大熊が邪魔になったので、背後にいた仲間の大熊が粉砕したのだ)とラグが理解した瞬間。ラグの体も、その大熊の爪に切り裂かれた。
「……ぐ、は!」
自動〔治療〕法術が起動して、起き上がるラグ。胸から腹にかけてザックリと切り裂かれたようで、制服も紺色のベストと白い長袖シャツが、ごっそりと引きちぎられていた。
10メートルほど殴り飛ばされたせいで気絶し、回復まで時間がかかってしまったらしい。しかし、手足や頭は、ちぎれ飛んでいなかったので安堵する。死ななかったので、学校への強制〔テレポート〕退避からの〔蘇生〕や〔復活〕は回避できたようだ。粉砕された右腕が、元通りに戻っているのを確認して肩を回す。
大出血のショックでまだ足元がふらつく中、ほぼ上半身裸の状態で立ち上がる。竜族は全身が丈夫なウロコで覆われているので、裸でも鎧をまとったような姿である。
ラグの復活に驚いた様子の大熊を1頭、ソーサラー魔術の〔火炎放射〕魔術で炭にした。大熊の断末魔の絶叫を聞き流しながら、急いで周囲を見回し状況を確認する。その顔が苦渋に歪んだ。
3人の自警団の男たちは、その衣服や武器の破片しか残っていなかった。
ラグと違い魔法が使えないので〔防御障壁〕を展開できず、熊の攻撃をまともに受けてしまったようだ。魔法具での〔防御障壁〕は一種類しか発生できない仕様なので、敵に術式を〔解読〕されてしまうと無力化されてしまう。
大熊の直撃は相当強力だったようだ。血まみれのミンチが、城壁が崩れた瓦礫の山にべっとりと塗りつけられている。自動小銃も、踏み潰されたようで粉々になっていた。もうこれでは使えない。
視線を上げると、町のあちこちで爆発と黒煙が上がっている。5000もの大熊と大フクロウ群は既に町の中へ侵入しているようで、轟音が鳴り響いて耳がおかしくなりそうだ。ラグはたった1人、500頭もの大熊群の中にいた。
たちまち大熊がラグを発見して、四方からその鋭い爪を振り回して襲ってきた。それを〔爆裂〕魔術で吹き飛ばす。熊の頭がロケット弾のように血を噴き出しながら上空を飛んでいくのを、横目で見て毒づいた。
「ち。こんなもんじゃ数頭しか殺せないか」
周囲には、もう友軍は誰1人生き残っていないので、無差別飽和攻撃を仕掛けるラグだ。崩壊しつつある町の家ごと、ソーサラー魔術の〔爆破〕魔術で大熊と、上空から襲い掛かる大フクロウ群を血祭りに上げていく。
……が、敵の数が多すぎる。町の中央部でも爆発が起きたのを見たラグが、怒りの雄叫びを上げた。ひと際巨大な〔爆裂〕魔術を炸裂させ、一帯を瓦礫の山に変える。
大熊群は50頭ほど破砕されたのだが、すぐに新手の大熊群が爆炎を突き破ってラグに殺到してきた。その狂気を帯びた熊の目に、さすがにひるむ。
「いったん撤退して、町の中央塔で籠城するか。このままじゃ、俺は生き残っても町は全滅だ」
ラグが5000もの大熊群と大フクロウ群の中を突進して、町の中央にある塔へたどり着くまでに、さらに数回ほど瀕死の重傷を負ってしまった。
そのたびに自動〔回復〕法術が起動したが、これは法術を封じた〔結界ビン〕によるものである。法術専門クラス生徒ではないラグでは、自力で使える法術はせいぜい切り傷の〔治療〕程度だ。とても、このような戦闘時の負傷には対応できない。そのため〔治療〕回数は、「結界ビン」の個数分しかない。
ラグがジャンプして塔内4階のバルコニーに到着する頃には、〔結界ビン〕の持ち合わせが切れてしまった。これ以上の〔回復〕法術は使えない。次に致命傷を受ければ、学校へ強制〔テレポート〕されることになる。
それは、すなわち、ラグの故郷が滅亡することを意味していた。
手元に表示された警告を消去し、すぐに塔内に駆け込む。生き残っている自警団と共に、階段を上がって来る大熊群への迎撃を始めた。もう指揮官は戦死しているようで姿が見えない。
「くそ。どんだけ、俺たちを食いたいんだよコイツら」
塔の階段が竜族の小さな体に合わせて造られているので、身長5メートルにも達する巨大な熊の体では、なかなか上がって来れないようだ。熊の頭を〔爆破〕して砕き、その死体で階段を塞ぐ。
が、大熊群は、塔そのものを破壊して押し倒そうとし始めた。爆音と大きな揺れで、塔内のラグたちが壁や床に叩きつけられる。
「ち。援軍の要請は……できないか。くそ。あのフクロウどもが通信〔妨害〕の魔術を使ってるんだな。こざかしい」
塔内に避難している住民は、ざっと50人というところだろうか。ほぼ全員が負傷していて、手当もされていない。重傷者も止血処理すらされずに床に放置されて転がっていた。
階段は頭を破壊された大熊の死体が詰まっているおかげで、階下からの侵入は当面防ぐことができそうだ。その熊の死体は絶えず《ガタガタ》と蠢いていて、階下の大熊に食われているのが分かる。
ラグが再び4階のバルコニーへ出て、町の様子を確認した。
既に町とは呼べない有様になっている。ほとんど全ての建物が大熊によって破壊されて崩壊し、瓦礫の山に変わっていた。まるで大規模な爆撃を受けたような状況だ。
城壁もほぼ崩れ去り、その向こうに広がる養殖池も、全て堤が切られて水が抜けてしまっていた。5000頭もの大熊群と大フクロウ群が、我が物顔で町中を荒らし回っている。
「生存者は、もう残っていないか……」
ソーサラー魔術で、生存者が町の瓦礫の中に残っているかどうかを〔探知〕したラグが、両目を閉じて天を仰いだ。大熊は獣だけあって、嗅覚も鋭い。瓦礫の中に隠れていても、すぐに見つけられて食べられてしまったようだ。
「よお、魔法使いさんよ。俺たちも、どうやらここまでのようだぜ」
バルコニーで塔の下に向けて自動小銃を撃ちまくっている竜族の男が、ラグに話しかけてきた。自警団の戦闘服姿で、両足の火傷がひどい。
ラグが目を開けて、その男に顔を向けた。そのまま塔の下で壁を叩き壊している大熊を数頭、〔液化〕魔術でドロドロのスライム状にする。塔の下に集っている敵には、〔爆破〕や〔火炎放射〕に〔熱線〕魔術は使えない。
ラグがその自警団の男にあごをしゃくって、城壁の向こう遥かを示した。
「そうでもないぞ。ほら、帝国軍の砲兵部隊が到着した。もうしばらく我慢して塔を守り切れば、全滅は避けられる」
地平線あたりに、確かにキラキラ光るものがある。
50名ほどの生き残り住民も、ラグの言葉に誘われてバルコニーへ先を争って出てきた。あっという間に身動きがとれないほどになる。歓声が住民の間から湧き上がり、ラグも疲れた顔をほころばせた。
……が、その自警団の男は呆れ果てた顔をして、ラグに吐き捨てるように告げた。
「馬鹿か。軍は俺たちを救いに来たんじゃないぜ。一緒に葬るつもりだ。見ろよ。ちょうど今、熊と鳥のほとんどが、最後のエサである俺たちを目がけて殺到して集結してる。今、5000の敵が、この町の中に収まっているんだよ」
ラグの顔が硬直した。地平線のキラキラが消え、手元に警告メッセージがいくつも表示されたためだ。それでも、なお信じられないラグだ。尻尾が不安定なリズムを刻む。
「ま、まさか。そんな非道なことを帝国軍がするはずない……なぜ分かった、お前」
まぶしい閃光が塔の真上で炸裂した。バルコニーに出ている住民の間で悲鳴が上がる中、自警団の男が自嘲気味に微笑んで、高熱で自然発火して燃え上がった。
「オレが、竜族独立派の構成員だからだ。オレたちの仇をとってくれ」
超高温爆撃で塔が粉砕されて、町ごと粉みじんになって溶岩状になっていく。その様を、その青藍色の目に焼きつけながら、ラグ自身も粉になって蒸発した。
【チューバの故郷】
バントゥ党のもう1人の側近であるチューバ・アサムジャワは魚族だ。彼もレブンと同じく故郷の海中の町へ戻っていたが、やはりレブンと同じく自警団に回されていた。仕方がなく、町区の自警団と共にトーチカに入って砲台の守備をしている。
彼の町はレブンやスロコックの町とは違い、重要な航路上にはない。また、亜熱帯海域ではあるが、強い海流が近くを流れているために養殖に適していない。そんなこともあり、町の規模はかなり小さい。人口は1000というところか。普通の田舎町の風情である。
仲間の自警団員と一緒に水雷砲台の装填器へ魚雷を次々に押し込みながら、チューバが青くかすむ海中の奥を眺めた。プランクトンの密度が高く、海水の透明度はそれほど高くない。視界は10メートルちょっと。
チューバが魚顔で口元を尖らせ、仲間の自警団員にこぼす。
「いつの間にか自治軍ができていたんだね。ずっと学校にいたから知らなかったよ」
「つい最近できたばかりだよ、チューバ。まだまだ訓練不足だけどな。まあでも、海賊退治はできるはずだぜ」
自警団員の解説にも不満そうなチューバだったが、砲台の制御盤を再確認し、ほっとしたような顔になる。
「やってくれないと困るよ。さて。魚雷への支援魔法の付与も全て終わった。これで絶対命中するはずだ。〔防御障壁〕も付与したから、途中で迎撃されても弾くよ」
「おお」と砲台の中の自警団の面々が驚いた表情になった。といっても皆、魚頭だが。
「凄いな。さすがは魔法学校の生徒だぜ。これからも期待してるぞ、アサムジャワ家のチューバ」
褒められて照れているチューバである。
「その代わり、僕の魔力はすっかり空になったけどね。魚雷1500発分は、さすがに疲れたよ」
確かに、彼の手元にいくつか警告メッセージが出ているのが見て取れた。自身の魔力切れを知らせるそれらを、消去するチューバだ。最後の警告メッセージを消して、再び海の彼方に黒い紫紺色の視線を向ける。
「敵も、魔法を使えるようだね。通信妨害がひどい。有線通信回路を構築した方が良いかな。確か、準備して持ってきていたはず……」
チューバが制服のベストの内ポケットの中をごそごそしていると、電磁波パルスが海底を照らした。
その数秒後に、衝撃波が襲い掛かってきた。砲台が基礎部分から大きく振動する。背後の町並みにも被害が出ているようだ。すぐに衝撃波が〔解析〕されて、〔防御障壁〕が更新された。これで、次からは防御できるはずだ。
チューバがポケットの中を探るのを止めて、砲台の中の所定の位置につく。その隣の自警団員が、魚顔のまま緊張した声でチューバに告げた。
「始まったな」
「はい」と返事をした瞬間だった。意識が吹き飛んで気絶した。
すぐに自動〔蘇生〕法術が起動したらしい。チューバの意識が戻り、混乱したまま周囲を見渡した。空になった法術入りの〔結界ビン〕が海底に沈んでいく。
その向こうでは、砲台が根こそぎ〔溶けて〕無くなっていた。砲台内にいた自警団員の姿も1人として見えない。
すぐに術式を〔解析〕したチューバが、魚顔のままで歯ぎしりをして悔しがった。
「く、くそ。〔爆破〕魔術か。敵にはソーサラー魔術使いもいるのかよ。クラーケン族だけじゃないな」
海中なので、炎の精霊魔法は使えない。一方で、ウィザード魔法やソーサラー魔術の〔爆破〕魔法や魔術は、充分な酸素がない海中でも自在に炎や爆破を起こすことができる。
が、チューバを含めて自警団や恐らく自治軍も、敵海賊にそれを使いこなす魔術使いがいるとは想定していなかった。
チューバが〔探知〕魔法を敵がいると思われる方向へ放った。すぐに真っ青な表情になる。
「……何てことだ。自軍が全滅してる。残っているのは、僕だけじゃないか……」
通信障害が解除された。同時に、チューバが守っている町の役場から、町長の名前で海賊への降伏が発せられた。ガックリと肩を落とすチューバである。
「完敗だ。町長の判断に従うよ……」
そして、すぐに町の家族と親戚宛にメッセージを作成して一斉送信した。通信障害がなくなっているので、無事に届いたようだ。そして、〔テレポート〕座標を学校へ設定した。最後の1つになった〔結界ビン〕の封を切る。
「ここは引こう。僕まで海賊に捕まる必要はない。父さん、母さん、お元気で!」
【魔法学校の救護所テント】
森から追い出された巨大熊と大フクロウの大群は、ペルたちによる奮戦で防衛や駆除できた町村もあったのだが……それは『例外』的なものだった。タカパ帝国の町村数は数千にも上るのである。
帝国軍や警察は、帝都や重要都市の防衛に集中せざるを得ず、結果として、このように多くの村や小さな町が蹂躙された。この時点では、死傷者の数は全くの不明である。通信が途絶えた町村が次々に出たということしか分かっていない。
属国や占領地、さらに竜族の城塞都市や、魚族の海中都市に至っては、何が起きているのかすら把握できていない。ラグやチューバなどの帰郷した生徒が、しばらくすると次々に学校へ〔テレポート〕して戻ってきたことから、かなりの激戦になっていることは確かだろう。
幸いなことに、帰省先で魔力が完全に尽きて死亡してしまい、学校から救助隊を差し向けることになるような事例は出ていない。ただ、瀕死の重傷を負った状態で強制〔テレポート〕によって学校へ戻って来る生徒は、相当数出ていた。今も次々に生徒が〔テレポート〕で戻ってきて、そのまま救護所テントへ運ばれていく。
一方、学校の法力場サーバーの能力が低いので、〔治療〕は最低限度に留まっているようだった。〔蘇生〕や〔復活〕しても、立ち上がったりする気力や体力までは回復できていない。パリーが魔力支援しているのだが、やはり法術への魔力の〔変換〕効率の悪さが、壁になってしまっているようだ。
パリーとマルマー先生とが、共に不満そうな表情をしている。
「は~……〔変換〕効率悪すぎ~。私が直接生徒を〔復活〕させた方が早いぞ~面倒くさい~」
パリーが文句を垂れている。マルマー先生も同様のようだ。〔治療〕法術を生徒たちに次々にかけながら、足を踏み鳴らした。
「それはこちらのセリフだっ。本当に、使えぬ精霊魔法だな。やはり、法力場サーバーの大幅強化が必要だな! 妖精などに頼っていられるか」
中にはチューバのように冷静な判断で学校へ撤退してきた生徒もいるが、それは少数だった。
〔蘇生〕や〔復活〕を果たした生徒たちも、そのほとんどが放心状態か、精神錯乱状態に陥っていた。ラグも例外ではなく、自動〔復活〕を果たした後も床に倒れて動かない。ラグの隣には〔テレポート〕してきたばかりのチューバが座り込んで、呆然としているのが見える。
法術専門クラスの生徒が、そんな2人を担架に乗せてベッドに運んでいった。
先に学校へ戻っていたバントゥは帝都出身なので、特に何もすることがなかったようだ。ラグやチューバを始め、バントゥ党のメンバーたちの〔治療〕に勝手に加わっている。彼は法術についてはそれほど得意ではないので、大して役に立っているようには見えないが。
「あ~も~。つまんない~」
パリーがふて腐れてしまったのか、森の中へ消えてしまった。激怒するマルマー先生だ。
「逃げるな! ああ、もうっ。これだから精霊魔法使いは信用ならぬのだっ。もうよい、これ以降は、我が〔治療〕を仕切るっ」
怒りの表情で顔を真っ赤にしたマルマー先生が、専門クラスの生徒たちを指揮して〔治療〕を行い始めた。生徒側のリーダーは3年生のスンティカン級長が立派に勤めているようだ。ラヤンはまだ学校へ戻って来ておらず、故郷で奮闘中である。
エルフ先生もさすがに呆れた表情になってパリーを見送っている。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
「パリーは『魔力電池』の役目をしてくれれば、それで構いませんよ。マルマー先生、私も〔治療〕に加わりますねっ」
ナジス先生もようやく駆けつけてきた。汗を拭きながら、それでも上から目線で告げる。
「お待たせ。では早速、〔治療〕を手伝いますよ」
こうしてエルフ先生とナジス先生が、マルマー先生と共に走り回って〔治療〕を施し始めた。
マルマー先生の元ではバタル・スンティカン級長が、法術専門クラス生徒の指揮をとっている。しかし、やはりまだまだ慣れない手つきだ。マルマー先生の指示に、完全には応えられていない。
精霊魔法と招造術の専門クラス生徒はさすがに〔治療〕行為まではできないので、別の仕事を割り振られた。
さて、その法術のマルマー先生だが、当初こそ法術の独壇場だとばかりに喜び勇んで〔治療〕を施していた。
……が、次第に、患者生徒数の多さに辟易してきたようだ。パリーの事を言えない。
「……うぐぐ。このままでは新設増強した法力場サーバーの容量を超えてしまうぞ。森の妖精からの魔力支援も、大して当てにならぬし。何ということだ、まったく」
ウィザード魔法招造術のスカル・ナジス先生も〔治療〕魔法や〔蘇生〕魔法を独自に使うことができるのだが、彼もうんざりした様子である。白衣風のジャケットの両ポケットに手を突っ込んで、パタパタとジャケットの裾をひるがえして遊び始めた。褐色で焦げ土色の髪も、肩先でジャケットの裾の動きに同調している。
「全くですよ、ずず」
「こんな時間外労働、ずず」
「契約にはありませんよ。と言っても、上司の命令には逆らえませんし、ずず」
「困ったものです。あ。僕の魔法場サーバーの方は、君の法力場サーバーと違い、充分に余力が残っておりますよ」
そんな2人を、空色のジト目で冷ややかに見るエルフ先生である。
「私の場合はパリーという底なしの魔力源がありますから、後は私に任せてもらっても構いませんよ。っていうか『邪魔』だし。文句言う暇があったら〔治療〕しなさいよ」
それをきっかけにして3人の先生の間で口論が勃発したのであるが……また新たな患者が出たので、すぐに終了した。
その新たな患者の中に竜族の女子生徒がいた。目の焦点が定まらず、奇声を上げて床を転がっている。その女子生徒にエルフ先生が簡易杖を向けて、精神の精霊魔法をいくつかパッケージにして放つ。
すぐに気絶するように大人しくなった女子生徒を介抱しながら、周りを見渡した。精神異常をきたした生徒は、40名に達するようだ。
「……ふう。校長先生の判断、間違っていたのかもしれないわね。〔蘇生〕と〔復活〕の『副作用』も酷いな」
とりあえずは、エルフ先生と法術のマルマー先生、ウィザード魔法招造術のナジス先生による、適切な〔治療〕が功を奏しているため、精神疾患や後遺症は心配せずとも良さそうだが。
「こ、断る! 『記憶』を消されてたまるものかっ」
突然、救護所内に悲鳴に似た怒声が響き渡った。竜族のラグがほぼ上半身裸のままで簡易ベットの上に仁王立ちしていた。竜族なので上半身と尻尾の黄赤色のウロコが全て逆立っている。そのまま、猛烈な勢いで駆け出して逃げ去って行った。
「ぼ、僕もです! 拒否します」
次いで、魚族のチューバが同じように簡易ベットの上で立ち上がった。彼は制服のままで、簡易ベットから飛び降りて、同じように逃げ出していく。
「ま、待て! ラグ君、チューバ君」
慌てて、大将のバントゥが血相を変えて追いかけて行く。
それを冷ややかな目で見送るのは、リーパット主従であった。彼らもボロボロになって血まみれのまま、簡易ベットに寝ている。
「これだから、劣等種は排除せねばならんのだ」
「はい、その通りですね。リーパットさま」
マルマー先生とナジス先生は、特に何も行動を起こさないようだ。それどころか、仕事が減ったとばかりに少し嬉しそうでもある。エルフ先生が腰までのべっ甲色の髪に数本の静電気の波を浮かべながら、警察制服のベルトに両手を当てて肩をすくめる。
「まったく……まあ、後で〔診断〕すればいいでしょう。さて。とりあえず今はパニックになっている生徒たちを落ち着かせないと」
そこへ、ふらりと幻導術のウムニャ・プレシデ先生が救護所テント内に入ってきた。
「おお……こりゃあ修羅場だな。超過勤務ごくろうさま」
法術のマルマー先生が次々に患者の〔治療〕をしながら、着潰したシャツとズボン姿のプレシデ先生を横目で睨みつけた。
「分かっているなら、さっさと出ていけ。ここの生徒たちは精神的に消耗していて免疫力も低下しているんだ。プレシデ先生が持ち込んだ『雑菌』で、場合によっては重症化するんだぞ。しっしっし!」
野良犬でも追い払うような雑な仕草で、追い払おうとするマルマー先生である。エルフ先生も同意して、ジト目視線を野良犬に送る。
しかしプレシデ先生は意に介さず、フラフラと救護所テントの中央まで大股で歩いていく。
気取り屋なので、出来の悪いファッションモデルのような傾いた立ち姿である。ニヤニヤした笑みを浮かべる顔を覆う黒い煉瓦色の髪の先が、彼の着潰されたシャツの肩口辺りで物憂げに揺れる。それでも彼なりに真剣なようだ。切れ長の吊り目の中の黒い深緑の瞳は、いつもよりも少しだけ鋭利な光を宿している……ように見えなくもない。
法術のマルマー先生が腰に両手を当てて、プレシデ先生を非難した。
「おいコラ! 人の話が理解できないのかね。くそ、後で雑菌の〔殺菌〕法術を全体にかけないといけないな」
ちなみに、今のマルマー先生の服装は医療用の白衣に似たもので、非常にシンプルで機能的だ。手術や投薬まで想定しているのだろう。普段の豪勢な法衣姿とは、まるで別人な印象である。
プレシデ先生がこれまた履き潰したスニーカー靴の底で、数回床を「キュッキュ」とこすり、簡易杖を取り出した。
「魔法の術式が縦横に入り乱れているとね、よろしくないのさ。法術に精霊魔法にウィザード魔法が飛び交っているだろ。交通整理をしてあげよう。私も生徒たちが充分な〔治療〕を受けられなくなるというのは、心苦しいからね」
空中にウィザード魔法特有の、立体魔法文字が組み込まれた魔法陣が出現した。分子記号モデルに衛星がいくつも回っているような印象の、立体ウィザード文字が文章になって魔法陣に組み込まれていく。
プレシデ先生がニヤニヤ笑いをしながら、法術先生に深緑色の視線を向けた。やはりどことなくファッションモデルがするような上から目線である。
「この術式は、学校では教えない類のものだけどね。上司から使用命令が出たので、お披露目だよ」
魔法陣自体はすぐに消滅したが、3人の医療担当の先生が感嘆の声を上げた。特に法術のマルマー先生は驚いたようだ。
「ほう……確かに、法術が先ほどよりも走りやすくなったぞ。むむむ。幻導術は一般化されすぎて、もはや無用の長物だとばかり思っていたが、まだまだ使えるのだな。うむ、感謝するぞ」
エルフ先生も同じような顔をしている。
「そ、そうですね。これなら魔法と魔法の〔干渉〕も起きなくなるでしょう。助かりました、プレシデ先生」
しかし当のプレシデ先生は、さっさと救護所テントから出ていってしまった。ただ、足取りが少しだけ『フラフラ度合い』が減っていたので、多少は嬉しかったのかもしれない。
「では私はこれで。この後、警察と軍の指揮所でも同じ作業が待ってますのでね」
ウィザード魔法招造術のスカル・ナジス先生だけは、どことなく不服そうな表情をして〔治療〕に当たっている。
「やれやれ。どいつもこいつも、ずず」
「張り切ってしまいおって。契約外労働なんだぞ、ずず」
「まったく」
苦笑しているエルフ先生の目に、プレシデ先生と入れ替わりに救護所テントに入ってきた校長先生の姿が飛び込んできた。患者の多さにショックを受けたようで、ヨロヨロと入口近くの受付デスクに両手をついて、そのまま無言でうなだれている。
3人の先生が互いに目を合わせたが、法術のマルマー先生はすぐに〔治療〕を再開し、招造術のスカル・ナジス先生も小声で文句を言いながら〔治療〕を再開した。エルフ先生も深くため息をついて、〔治療〕を再開する。今は、そっとしておいた方が良いだろう。
【ペルの故郷】
ペルは相変わらず、闇の〔防御障壁〕を村の周りに展開して、さらに上空からの侵入にも対処していた。既に2時間ほどが経過している。子狐型シャドウが定期連絡で戻ってきて、ペルの首にフワリと巻きついた。フワフワな毛皮のマフラーみたいにも見える。
「……そうなんだ。やっと数が減り始めたのね。というか、どこかへ移動を始めたのか」
簡易杖の状態と、体の状態を定期的に自己〔診断〕して確認する。
「魔力の残りは、まだ大丈夫かな。私もそれなりに体力がついてきたのかも」
背中の方で、狐族の声がし始めた。シェルターの出入り口を塞いでいた瓦礫や木片にバリケード等を、撤去しているようだ。
元は門だった瓦礫の山の後ろから、ペルの両親も出てきてペルの小さな肩と背中に抱きついてきた。子狐型シャドウがパッと離れて、再び〔防御障壁〕の向こうへ索敵に出ていく。今は戦闘行動中なので、普通の狐族が不用意にシャドウに触れると、精神ショックを起こしてしまうせいだ。
「ペル、体は大丈夫なの? 今はペルだけが頼みの綱だから、頑張って欲しいけれど……いざとなったら、私たちを見捨ててでも逃げ延びなさい」
「母さんの言う通りだ。私たち一家を迫害している、この村の連中は見捨てても構わないぞ」
ペルの両親が身を案じてくるが、ペルは微笑むだけであった。
「大丈夫だよ。まだまだ魔力の余裕が残っているから、あと数時間は〔防御障壁〕を維持できるよ。それより、お腹へっちゃった。何か食べたいな」
「お、おうそうだな」と両親が慌てて村へ駆け戻っていく。それを振り返って見送りつつ、ペルがつぶやいた。
「『方針』を決めたの。お父さん、お母さん」
ようやく他の狐族の男たちも、シェルター出入り口から次々に顔を出してきた。突撃銃や無反動砲等の銃口や砲口を周辺に向けながら、ペルの立つ場所へ恐る恐る近づいてきている。槍や拳銃、手榴弾などを携えている者も多くいる。
「お、おい。バンニャ家のペル嬢。ど、どうだ? 俺たちは助かりそうなのか?」
ペルが微笑んだ。黒毛交じりの尻尾がクルンと1回回る。
「助かりそうです。もう、森の中には残っていませんし、ここの群れも移動を開始し始めました。1時間ほどでいなくなると思いますよ」
「おお……」
静かなどよめきが、ペルの背後の狐族の間から漏れた。確かに、上空にはもう大フクロウの姿は見られない。
「熊さんやフクロウさんも私と同じで、お腹が減ったのかな」
【ムンキンの故郷】
同じような状況は、ムンキンやラヤンが防衛している竜族の城塞都市でも起きていた。
ムンキンが大フクロウを全て撃ち落として巨大熊の餌にしてから、城壁の上に立って下を見下ろす。
「ふう……やっと全部落とせたか。数が多すぎなんだよ」
相変わらず、50頭余りの熊が城壁をよじ登ってきているが、竜族自警団の活躍によって落下していた。巨大熊は2000頭ほどいて城塞都市を取り囲んでいるのだが、その動きが先程から突然変わっていた。城塞都市から離れて、別の場所へ移動し始めたのだ。
自警団の仲間たちと一緒に城壁の上から見下ろしているムンキンが、ほっとした表情になった。疲れているのか、尻尾は石畳には叩きつけていない。
「ほう。転進し始めたぞ。この城塞都市は落とせないと諦めたか」
隊長が10メートル離れた指揮台の上で、新たな指示を出し始めた。
「熊どもが手薄になった場所には、すぐに救助隊を差し向けろ。壁下に落下した兵が、まだ生き残っているはずだ」
防衛戦に勝利したと確信し始めた自警団の兵士たちが、勝利の雄叫びをあちこちで上げ始めた。それは、瞬く間に他の兵士にも広がって、一種、狂乱状態とも言える勝利の宴になっていく。
ムンキンも例外ではなく、彼らに巻き込まれて一緒になって勝利の絶叫を上げている。体はかなり疲労しているのだが、テンションがそれを凌駕してしまったようだ。足も膝もガクガク痙攣していて、筋肉痛や関節痛も始まっているのだが、今は隣の自警団兵士と共に、ピョンピョン跳びながら雄叫びを上げ続けている。
(明日は、全身筋肉痛だな。ラヤン先輩かミンタさんに、法術をかけてもらうことにしよう)
早速、〔空中ディスプレー〕を出して、ラヤンにつなげる。
「おう、ラヤン先輩。こちらは勝ったぞ。熊どもが逃げ始めたぜ」
ラヤンがニヤリと微笑んだ。
「あら、奇遇ね。こちらでも熊の撤退が始まったわよ。負傷者数が多いけど、ほぼ応急措置を終えたから、そっちの負傷者を寄越してもらっても対処できるわよ。当然、私の一存では無理だから、責任者同士で話してもらいなさい。ムンキン、あなたも歓迎するわよ」
【学校の救護所テント】
熊と大フクロウ群の移動は、余裕ができてやっと〔念話〕回線を開いたペルを始めとして、ムンキンとラヤンからも報告されて、エルフ先生やレブン、ミンタにも〔共有〕された。
ミンタには何か思うところがあるようだ。両耳が交互にパタパタ動いている。
「そういえば、こちらの被害は爆破テロだけだったけれど制圧されたみたい。もう爆発音も銃撃音もしなくなったわね。生き残りのテロ犯は撤退したのかな。城外の熊や鳥も去っていったって、さっき放送があったわ」
エルフ先生も怪訝な表情になっていた。眉間のシワがくっきりと見え、腰まである真っ直ぐな金髪も数本が逆立っていて、髪の先端から小さな静電気の火花が飛んでいる。精神異常を起こしている生徒たちを、精神の精霊魔法で〔治療〕しながらの会話なので大変そうだ。
「確かに、偶然にしては一致しすぎているわね。うーん……考えにくいけれど、誰かが『指揮』しているのかしら。先生方、私ちょっと休憩します」
そう言って、エルフ先生が救護所テントの外に出ていく。やはり、〔治療〕しながらの〔念話〕は、負荷が大きいようだ。そのまま、救護所テントのそばに山積みにされている救援物資にもたれかかり、〔空中ディスプレー〕画面の設定操作を行った。
それが済んでから、まだ救護所テント入口のデスクでうずくまっている校長先生を誘い出す。相当に落胆しているようだ。このままでは精神疾患に陥りそうなので、エルフ先生が簡易杖を校長先生に向けて精霊魔法をかけた。心配そうに画面の向こうから見つめているミンタたち生徒も、校長先生の表情が落ち着いてきたのを確認してほっとしたようだ。
「カカクトゥア先生、ありがとうございます。何とか……気持ちが落ち着いてきました」
校長が努めて笑顔になってエルフ先生に感謝した。エルフ先生が腰に両手を当てながら、校長に顔を寄せて注意する。
「そうですよ。シーカ校長先生は、この学校の責任者なんです。今は事態の収拾に全力を傾けて下さい」
「そ、そうですね。ははは……うん、気持ちを引き締めないといけませんな」
校長がぎこちない動きでガッツポーズをとる。それを見ながら、エルフ先生が微笑んだ。
「幸い、シーカ校長先生の指示で保存していた、全校生徒の生体情報が上手に機能しています。おかげで精神異常をきたした生徒たちも、後遺症も出ずにしばらくすれば回復しますよ。ただ、ある程度の記憶の〔消去〕や、〔改変〕は避けられませんが。それと〔復活〕組は、下痢や皮膚炎などが数日ほど続くと思います」
校長が再び深刻な表情に戻ってしまった。白毛交じりの尻尾も微動だにしていない。
「今回は私の落ち度でした。これでは、生徒たちの両親や親族に申し開きができません。責任を取って、私は学校を去ろうと思います」
生徒たちが画面の向こうから一斉に反発してきた。特にムンキンの怒り様は尋常ではない。濃藍色の目を見開いて、顔じゅうの柿色のウロコが逆立って膨らんでいる。
「なんでだよ! 生徒はシーカ校長先生の判断を恨んではいないぞっ。っていうか、学校に縛りつけられたままだったら、もっとひどいことになってたぞ。まずオレが学校を破壊してでも故郷へ戻る。故郷を守れない魔法使いなんて、何の意味もないだろうが」
ラヤンは半眼で冷徹そうな低い声のままでムンキンとは対照的な表情なのだが……口を開くと同じだったようだ。
「竜族は、くそったれ帝国から何の支援も得られないのよ。自警団の武装だって払い下げ。猫の手でも借りたいんだから、私も学校を破壊してでも故郷へ向かったでしょうね。シーカ校長先生は結果的に学校校舎を救ったんだから、気に病むことはないわよ」
ペルもオドオドしながらではあるが、はっきりとした口調で校長に意見する。
「あの……私も、故郷へ戻ることができて良かったと思います。私の村も田舎なので、帝国の支援が届きませんし。学校を壊してまでとか、は……しないと思うけど。多分、私が故郷へ戻らなかったら、村は全滅してたと思うので」
ミンタは先の3人とはテンションが違って冷静である。
「私の場合は重要都市だから、警察も軍もいるけどね。それでもテロまで起きたから、戻って正解だったと思うわよ。実際、数発の流れ弾から、家族と親戚を守ることができたし」
最後にレブンがミンタに同意しながら口を開いた。今はセマン顔である。海中ではあるが。
「そうですね。僕の故郷もクラーケン族の海賊に襲撃を受けました。シーカ校長先生に感謝します。おかげで、一族の魚養殖場の被害を、最小限に留めることができました。学費の支援も、ちょっと減額されるだけで済みそうです」
ウルウルし始める校長先生である。尻尾もパサパサと動き始めた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、少し楽になります。そうですね、この事態が落ち着いたら、早急に負傷した生徒たちの実家を回ることにしますよ。私への処分は、教育研究省が間もなく下すでしょう。それに従います」
そして、大きく息を吐いて、両手で両頬を「パン」と叩いた。
「では、私は仕事に復帰します。皆さんも無理をしてはいけませんよ」
そのままパタパタと、小走りで教員宿舎の方へ駆けていく。教育研究省などへの連絡と報告をするのだろう。
それを見送るムンキンとラヤンが、ジト目になって口を尖らせた。
「精神力が弱いな。大丈夫かよ、シーカ校長」
「後でまた、精神〔治療〕が必要になるわね。カカクトゥア先生、シーカ校長の介護をよろしく」
エルフ先生がラヤンにうなずき、壊れた校舎を見上げた。バジリスク幼体騒動が、ずいぶん前のことのように思える。今は力場術のタンカップ先生と、招造術のナジス先生が作った作業用ゴーレム部隊が、協力して応急措置を校舎に施している。
その校舎の上空を、森の方から飛んできたソーサラー先生が横切った。相変わらず、何か叫んでヒャッハーしている。エルフ先生が困ったような表情で口元を緩め、腰ベルトに両手を引っかけた。草で編んだポーチが弾んで揺れる。
「戻ってきたか。違法設置の魔法場サーバーは、無事守ることができたようね」
ミンタがジト目になりながら、エルフ先生に同意する。
「まったく、学校よりも魔法場サーバーが大事って……そんなだから、生徒からバカにされ……」
突然、エルフ先生が使用している、全ての〔空中ディスプレー〕画面が砂嵐に変わった。通信途絶になり、画面も消滅してしまった。
簡易杖を腰ベルトのホルダーケースから素早く取り出して、戦闘態勢になるエルフ先生である。
そこへ、ハグ人形が不意に「ポトリ」と、エルフ先生の頭の上に落ちてきた。<パパラパー>と、軽快なラッパ音が上空からする。
「いえ~い。ハグ様の〔復活〕だあい。待たせたなベイベー」
眉間にシワを刻んだままでハグ人形を、ゴミのように頭の上から叩き落とすエルフ先生である。それでもハグ人形は、まるで水泳の高飛び込みでもするかのようなフォームで、クルクル回転して頭から床に衝突した。
しかし、ぬいぐるみ人形なので、全くのノーダメージのようだ。「ぽむっ」と音がしただけで、平然と両足で立ち上がってエルフ先生を見上げる。
やはり絶望的な服装のセンスである。足元も片方がボロボロのスニーカー靴で、もう片方はボロボロで黒くなっているサンダルである。適当過ぎるトラ刈り頭も。しかしコレがオリジナルに忠実になってきている事は、まだエルフ先生は知らないようだが。
「どうだね、ワシの人形〔操作〕は。もう完璧だな。はははは。さすがリッチー様だぜ。偉いぞワシ」
反射的にハグ人形を足で踏み潰そうとしていたエルフ先生が、思い直して足を引いた。ゴキブリではないと思い直したらしい。
「ハグさんが留守の間に、こちらでは大変な騒ぎが起きていたのですよ。通信途絶になったのは、あなたのせいですね。まったく。あなたも、何かできることがあれば手伝いなさい」
ハグ人形が口をパクパクさせながら頭を傾けた。可愛い仕草だとでも思ってのことだろう。銀色のトラ刈り頭から所々不自然に伸びている細い毛糸製の髪の毛が、3拍子くらい遅れて左右に揺れた。かなりイライラさせる仕草だ。
「さっきまで〔ロスト〕しておったのでな。〔復元〕魔法を使用したんだが、まだ魔法場の残滓が残っておったのか。通信魔法に〔干渉〕してしまったようだな。すまんすまん」
口調は欠片も反省していないハグ人形である。イライラしているエルフ先生を上目遣いで見ながら、小首をかしげ、本題に入った。
「ワシに出来る事か……そうじゃな。〔治療〕は無理じゃな。皆をゾンビにしてしまう。熊の行き先くらいなら分かるから、教えてやろうか?」
「これだからアンデッドは……」
エルフ先生がジト目になりながら、ハグ人形に文句を言う。しかし、すぐに気を取り直したようだ。
「行き先の〔予測〕は助かります。ティンギ先生が行方不明で、〔占い〕ができないのですよ」
「では、占って進ぜよう。静電気娘よ。料金は特別に無料にしておいてやるぞ、感謝しろよ」
もったいぶった動きで、何やら踊り始めたハグ人形である。盆踊りと一人相撲とを強引にミックスしたような所作で、左足のつま先で地面に魔法陣を描いていく。
線はぐにゃぐにゃと曲がり、途中で途切れて慌ててつなげるなど、リッチーとはとても思えない描き方だ。魔法の文字もエルフ先生が見たこともないような変な形状である。子供が目隠しして、飴玉を口の中で転がしながら描いたラクガキより酷い。
「ハグさまあ、ハグさまあはあ、とってもお、えらくてつよいい、あんでっどなのさあ、うはははは、ろすとされても~こわくないもん~ああハグさまはあ、さいこう~らららら……」
必死で破壊衝動を抑え込むエルフ先生である。両手に握りしめた簡易杖がミシミシと軋む音を立てている。
やがて……
「あ。間違いちった、あはは」
ハグ人形が口をパクパクさせてエルフ先生を見上げて、せっかく今まで描いた魔法陣を両足で消してしまった。
「そう言えば、ワシはリッチーだから、魔法陣なんか描かなくても〔占い〕なんかできちゃうんだったよ。失敬、失敬、あははは」
次の瞬間。ハグ人形が〔雷撃〕を浴びて消し炭になった。
1億ボルトは出ていそうな巨大な雷が落ちて、地面を揺るがすような爆音と振動が周辺に広がっていく。すぐそばの救援物資の山にも〔雷撃〕が及んで、自然発火してしまった。慌てて消火するエルフ先生だ。
救護所テントの外で作業をしている狐族や竜族の事務職員たちが、びっくりして腰を抜かしている。とりあえず謝るエルフ先生である。
校舎を修理しているタンカップ先生もエルフ先生に怒声を投げつけているが、これは無視する。ソーサラー先生が雷の静電気を運悪く浴びて、奇声を上げながら森の中へ墜落していくが、これも無視した。
何事もなかったように、ハグ人形が〔復元〕した。
「もう、せっかちさんだなあ。この雷娘は。めっ」
服装まで、完璧に元通りだ。履き潰しスニーカー靴と、中古黒ずみサンダルの組み合わせも、完璧に元通りだが、その程度でひるむエルフ先生ではない。
「時間の無駄は止めてもらえますか。このアンデッド坊主」
エルフ先生が簡易杖をピタリとハグ人形に向けたままで凄んだ。しかしハグ人形は愉快そうに笑うばかりだ。
「坊主ではないぞ。ほら見ろ。ちゃんと髪の毛が生えているだろ。丸刈りだ。毛糸だが。さて、くだんの熊とフクロウだが、移動先が分かったぞ。帝都だ。数はそうだな、ざっと100万頭ほどかね。帝国領の全ての熊とフクロウが集結して、帝都へ向かっておる」
エルフ先生の表情が硬直した。腰まで真っ直ぐに伸びている金髪が「ザワリ」と静電気を帯びた。髪が何本も逆立っている。
「ちょ……ちょっと待って。100万? 物凄い大群じゃない」
ハグ人形が頭をクリンクリンと時計回しに回す。手足も同調して時計回りに回しながら、器用に立っている。
「自己〔増殖〕したんだろ。むろん、魔術でそれなりに強化されておる。しかし、魔法場の痕跡はキレイに〔消去〕されておるから、誰が魔法をかけた犯人なのかは分からない」
ようやく、ハグ人形に絡みついていた闇の魔法場が、拡散して薄くなったようだ。消えていた〔空中ディスプレー〕群が再び現れて接続が回復し、ミンタやムンキン、ラヤンの顔が映し出された。
ミンタが金ブチ毛皮を逆立たせたまま、エルフ先生に呼びかけている。
「カカクトゥア先生! どうしたんですか! 返事をして……あ、映った。先生っ! 大丈夫ですか? 何が起きたんですか!?」
ムンキンもラヤンも揃って、目を見開いてエルフ先生に呼びかけていたが、ほっとしたようだ。
「先生、いったい何が……あっ。オマエはハグ人形!」
ムンキンが瞬間湯沸かし器のように激高する。ラヤンも画面の中から簡易杖をハグ人形に向けた。
「こいつですね。駆除しますから、カカクトゥア先生はそこから離れて下さい!」
今にも攻撃しそうなラヤンとムンキン、ミンタを、慌てて制止するエルフ先生である。3人とも画面の向こうから簡易杖を向けている。
「ま、待って、待って。ちょっとした事故で、通信が途絶しただけですよ。もう復旧しましたから、大丈夫です。杖を下ろしなさい」
それでもまだ警戒している3人の生徒たちに、エルフ先生がハグ人形からの〔占い〕結果を知らせた。
「ひ、100万……?」
絶句している3人である。同時に緊急警報音が鳴り、エルフ語で何事か自動アナウンスが流れて〔空中ディスプレー〕画面が出現した。それにエルフ文字が表示されていく。地図も同時に表示されていて、無数の敵シグナル記号が画面全体を覆っている。
それを見たエルフ先生の表情が、決定的に険しくなった。髪に数本の静電気のリングが走る。
「……風の精霊による〔探知〕結果が出ました。ハグさんが〔占った〕通りですね。ここは……帝都近郊の軍の基地かな。先日に巨人ゴーレムが暴走して、建物が壊された基地ですね。熊と大フクロウの大群が押し寄せています。〔探知〕できた数だけで21万ほどか……ハグさんの言う100万というのも、誇張ではなさそう」
ハグ人形がエルフ先生の頭の上によじ登って、その画面をのぞき込む。そしてガッツポーズをとった。
「当たった、当たった。〔占い〕が当たったぞい。わーいわーい。ワシって天才だぜ、ひゃっほい」
強烈に無視するエルフ先生と、画面に映っている3人の生徒たちである。
間もなく現地映像も届いて、〔空中ディスプレー〕画面に上書きされ『リアルタイム実況』が開始された。映像だけで音声は届いていないが。
「電離層反射を使った、周波数の短い電波による生中継映像です。電送による遅延時間は2秒ほどかな。情報量の少ない映像ですが、我慢して下さい。光では地球が丸いので届かないのですよ」
エルフ先生が一応解説する。そして、この情報セットを提供する申し出を帝国警察と軍とに行った。
学校では魔法場サーバーを使った〔念話〕魔法が使える。これはソーサラー魔術ではなくてウィザード魔法なので、今の通信機器であれば使用できるようだ。つまり魔法適性のない一般の人でも通信器を介して〔念話〕が可能である。ただ、外見は普通の無線通信にしか見えないが。
この学校に残っている駐留警察署長と、帝国軍警備隊詰所の隊長を起点として、次々に上司の顔映像が切り替わっていく。
2分間もかからずに最終的に、警察長官と、帝国軍情報部大将につながった。彼らもまた、あまりの大群なので、目を点にして口を半開きにしている。
エルフ先生が小さくため息をついた。
「精神〔治療〕を必要とする人が大幅に増えそうね……」




