28話
【ネズミ群と】
セマン族の警備会社の仕事が始まったのだが、その効果はすぐに現れた。あれほど連日、城内に侵入してサムカたちをからかっていた泥棒がパッタリと出なくなったのである。
これにはサムカも驚いた様子だった。城の展望台から城壁を巡回している派手な装いの警備隊員たちを見下ろしながら、配下の騎士シチイガに思わずつぶやく。
「予想以上だな。これほどとは」
一方の騎士シチイガは、あまり面白くない様子で憮然としていた。これまでは、彼が実質の泥棒対策を講じていたので当然の反応だろう。
「我が主、気を許してはいけません。連中の悪賢さは有名です。泥棒どもと密約でも交わして、裏で通じているのかもしれません。現に、泥棒どもは姿を見せないだけで、ただの1人も捕まっておりません」
サムカも腕組みをしながら、騎士シチイガの疑念にうなずく。
「そうかもしれんな。だが結果として、我々の手間が減っているのは事実だ。私としては、捕まえた泥棒を刑に処す手間も面倒だからな。我々の本来の仕事に支障が出ないのであれば、裏取引をしていても黙認することにするさ。警備料金も格安だしな」
まだまだ不満そうな表情の騎士シチイガに、サムカが微笑みかける。
「もちろん、連中を信用することは今後もない。卿の仕事の合間に時々、監視してくれると心強い」
騎士シチイガが真剣な表情でサムカに膝を曲げて頭を垂れた。その淡い山吹色の瞳が輝く。
「は! 使い魔をいくつか監視に当てましょう」
サムカが鷹揚にうなずいた。雲間から日差しが差し込んで、サムカ主従がいる城の展望台が日向になる。
「分かった。本来の業務に支障が生じない程度で頼むぞ、シチイガよ」
そして後ろを振り向いて、息を切らせてやってきた執事のエッケコに声をかけた。
「何か起きたか?」
「は、はい。森の中からネズミの大群が現れて、収穫前のコーン畑へ向かっているとの知らせが入りました」
執事の返事に、即座に対応するサムカである。マントを翻して執事に体を向ける。
「分かった。早速、退治に向かうとしよう。我が騎士シチイガよ、ついて参れ」
「は! 我が主の御意のままに」
その1分後には、愛馬を駆って城を飛び出していくサムカと騎士シチイガの姿があった。城壁からパイプをふかして見下ろす部隊長がニヤニヤしている。
「ほう……迅速だな。たかがネズミでも真剣な対応か。良い領主じゃねえか」
そして、袖口に仕込んである通信器を、指向性会話モードにして秘匿回線にもした。〔念話〕魔術では盗聴の危険性があるので使用していない。その点だけを取り上げても、いかにサムカたちが甘いかを証明している。
「泥棒どもが、これを見たら城に盗みに入ろうとするかもしれねえな。警戒度を1つ上げとけ」
しかし、1つだけセマンの隊長が勘違いしていることがあった。この世界のネズミは、ただのネズミではなく魔族の一種だということに。
サムカの領地は亜熱帯ではあるが高原地域に位置する。そのため、トウモロコシの栽培に適した気候になっており、初夏前に収穫する春コーンと、今回の秋に収穫する秋コーンが栽培されている。
もちろん、春コーンを収穫してから、秋コーンの種まきをするには間に合わないために、ジャガイモやカボチャに雑穀などと野菜を組み合わせた輪作を採用している。サムカや騎士シチイガたちは食べないので、これらは全てオーク住民のための食料だ。
ちなみに、この世界のトウモロコシは、セマンの暗躍のせいで異世界から導入された品種が現地適応したものである。それはジャガイモやトウガラシにトマト、ナス、カボチャなどにもいえ、さらには果樹や家畜、養殖の魚に至るまで幅広い。
しかし、あくまでも暗躍に過ぎないので、これらの品種は最新版ではなく原種に近い。当然ながら生産性は低い。風味も今一つだ。栄養価だけは原種に近いせいもあるのか高いそうだが。
なお、死者の世界独自の作物や家畜もある。
例えば、サムカが定期的に巡回指導している養鶏場の赤い鶏は、死者の世界原産である。足が3本あるので、厳密には鶏とは呼べないのだが。肉や卵の味は、オークや魔族に言わせると似たようなものだそうだ。
こうして、セマンは昔から民族を挙げて、盗み、盗掘、盗聴に盗撮など、迷惑な事しかしていない。基本的にスリル重視なので、こうして異世界へ作物の種苗や家畜の種親を密輸して、押し売りする行為もしている。
もちろん正規の世界間転移ゲートは一切使わない。密輸行為を楽しむためだ。成功すれば、魔神から〔加護〕を得られるのだろう。
サムカ主従が城から飛び出すと、ほどなくしてオーク自治都市からも500名ほどの武装したオーク兵が隊列を組みながら駆け出してきた。彼らと合流し、そのまま現場へ急行する。
サムカと騎士シチイガが、それぞれの使い魔を空に放って索敵を開始する。数分で、敵ネズミ軍団の規模と位置情報を得るサムカたちだ。
瞬時に〔念話〕で騎士シチイガと情報を〔共有〕し、状況を把握したサムカ。そのまま騎乗して疾走しながら、高速で隊列を組みながら後ろを駆けているオーク兵の指揮官に通信器を介して話しかけた。
オークは魔法を使えないので、こうした機械に頼っている。もちろん、サムカが発する闇魔法場による機械への浸食があるので、最小限度での使用になるが。
「君が、この討伐部隊の長かね? 索敵情報を送る。敵ネズミは10万、合流離散を繰り返しながら、30あまりのグループに分かれて森の中を侵攻中だ」
通信器の具合が一時悪くなったので、少し間をおいてから話す。
「分散しているネズミ群のグループを、我々が追い立てて1ヶ所に誘導する。君たちは待ち伏せて迎え撃ち、殲滅してくれ。場所は、今送った地図情報で記した、収穫済みのコーン畑にした。それで構わないかね?」
通信器の小さな画面に出された地図情報を見た、オークの隊長が即答した。
「はい、領主様の御意のままに。では、このコーン畑に向かいます!」
そして、後ろを向いて五百名ほどのオーク兵たちに命令を下した。
「野郎ども! 待ち伏せて殲滅するぞ。オレに続けえっ」
雄叫びを上げる500名余りのオーク兵が、秋の空を震わせて地響きを立て、サムカ主従から離脱して駆け去っていく。
オークなので皆、豚顔で小太りな体格なのだが、騎馬の速度についてくるほどの脚力を持っている。
もちろん、訓練を重ねているので普通のオーク以上に体力はあるのだが、鎖帷子でできた簡易鎧にヘルメット型の兜をかぶり、厳重な足ごしらえと籠手を装備して、大剣や戦斧、槍に大弓などを担いで走る様は壮観である。武器には全て魔法がコーティングされているのは、前回のガーゴイル戦や魔族戦と同じだ。
サムカが騎士シチイガに視線を戻し、スラリと剣を抜いた。秋の日差しを鋭く反射して刀身が輝く。
「では、我らも作戦を開始する。シチイガは右翼へ。私は左翼へ展開する。ネズミどもを追い立てるぞ」
サムカ主従の馬は、死者の世界特産のベエヤード種である。見た目は普通のたくましい馬なのだが、特筆すべき点は『無音の疾駆』ができることだろう。水上も陸上と同じように走ることができ、体力も尋常ではない。
しかし、生きたままでは貴族が帯びている魔法場に耐えられないので、ゾンビにしてから運用している。
実用重視のサムカらしく、主従の愛馬2頭の装備も無骨でシンプルだ。敵からの攻撃はサムカや騎士シチイガが自身の〔防御障壁〕で防いでくれるので、地雷対策が施された蹄鉄が目立つ程度だ。
魔族の白兵攻撃に対する布製の分厚い防護衣で、馬の体がすっぽりと包まれている。先日の魔族との会戦では馬用の甲冑も装備していたが、今回はしていない。機動性重視の装備といえる。
すぐに無音疾走になると、風を切り裂く音だけを残して騎士シチイガと別れて1騎で駆けていくサムカである。配下の騎士シチイガも風切り音だけを残して、右方向へ駆け去っていった。
ほとんどの貴族たちは、ブラーク種という飛行も可能な馬を好むのだが、サムカはベエヤード種一筋である。長距離長時間の疾駆にも耐え、荷役にも使えるという点を評価しているようだ。
ブラーク種の馬は優雅な姿ではあるのだが、足を痛めたりすることが多く、このような戦闘向きではない。
ものの1分も経過せずに、サムカがネズミの大群の側面に躍り出た。2万匹ほどの群だ。尻尾を除いた大きさは、猫ほどもある。サムカが森の中から気配もなく全く物音を立てずに、馬に乗って側面に出現したのでネズミ群が驚愕し始めた。
甲高い悲鳴のような鳴き声が上がり、軽くパニック状態に陥っていく。それを冷静に確認したサムカが、剣を鋭く振りぬいた。
その次の瞬間。サムカの進行方向に向かって、数百もの〔闇玉〕が出現した。その中に飲み込まれたネズミが、たちまち500匹ほど〔消去〕される。〔闇玉〕に触れた雑草や地面の土も、ネズミと一緒に〔消去〕されてしまった。
慌てたネズミ群が進路を変更して、サムカから逃げ出した。ネズミ同士は既に密集状態だったので、互いに衝突して空中に跳ね飛ばされていく。
それでも数秒ほどで混乱は収まって、甲高い鳴き声もなくなり、一糸乱れない集団行軍を回復させてサムカから急速に遠ざかっていった。互いの位置情報や運動情報を共有するために、木管の笛のような声を上げている。
一方で、サムカに近い場所にいたネズミ群は決死隊を組織して、馬上のサムカに飛び掛ってきた。猫サイズのネズミなので、かなりの迫力だ。空中にも高く跳び上がり、ネズミのくせに立派な闇魔法の〔攻性障壁〕を数枚重ねて展開する。
同時に、ネズミの背中から別の頭が瞬時に生えて、術式の詠唱を始めた。これも以前に狼バンパイアが使った、〔唱える者ども〕という補助魔術である。術式を唱える口が2つに増えるので、より効率的に魔術が使える。
その新たに生じた口で唱えたのは、圧縮高速術式だった。通常の詠唱時間を100分の1程度まで短縮できる。その分、キンキンと高音の耳障りのする声になるのが欠点ではあるが。
その高速詠唱が数秒もかからずに完了すると、ネズミの周囲に光る玉が数個出現した。〔オプション玉〕と呼ばれる補助魔術である。あらかじめ決められた攻撃魔術を、自律的に発動させることができる。
そして、ネズミ群が採用した攻撃魔術は、ソーサラー魔術の〔塩化〕効果を持つ光線だった。ネズミがサムカに向かって跳び上がってから、光線発射まで10秒もかかっていない。
そしてその光線は、ネズミ本体と〔オプション玉〕から合計、100本ほどが正確にサムカに向けて照射され、文字通り光速の速さでサムカの体を貫いた。これだけで既に、学校を襲撃した狼バンパイアを軽く凌駕している魔力と魔術攻撃だ。
……が。サムカは塩にはならない。光線が貫いた場所が黒い霧状になっているだけで、それも次の瞬間には霧が消えて何も起きなかったかのようだ。服も含めて全くの無傷である。貴族がよく使う、自動〔修復〕魔法だ。
サムカのような貴族であれば、単に〔防御障壁〕を展開すればこのような光線は遮断できる。しかし今は、それすらも面倒だったようだ。もちろん、愛馬が被った傷も自動〔修復〕されている。
剣を振るうまでもない様子だ。跳びかかってきたネズミ群100匹余りを、その黄色い瞳で一睨みする。それだけで、空中のネズミ群が全てかき消されてしまった。
愛馬の足元に取りつこうとしていたネズミ群100匹余りも、その次の一睨みで全て〔消去〕される。断末魔の鳴き声すら出せない、一瞬の早業だ。
これらはバンパイアや魔法使いたちと違い、自力で魔力を生み出せる貴族ならではの攻撃といえよう。術式詠唱を必要とせず、『思考』そのものが闇魔法として具現化する。
この類の魔法はペルやレブンたちには教えていない。
教育指導要綱で想定されていないということもあるが、魔力の使用量が桁違いに大きい。生きている者が扱えるような代物ではないことが大きな理由だろう。
さらに、貴族独自の魔法適性である『闇魔法適性』が必要で、ペルやレブンたちが有する『闇の精霊魔法適性』や『死霊術適性』では不充分である。そんな魔法だがもちろん、リッチーであるハグには及ばないし、攻撃をしたとしても通用しない。
だが、決死隊のネズミ群は無駄死にではなかったようだ。サムカが彼らを殲滅する間に、2万匹の本隊の群れは無事にサムカから逃れて去っていた。
サムカが愛馬の駆け足を遅くして、逃げ去ったネズミ本隊の方向を眺める。
決死隊が放った塩化光線が命中した雑草や森の潅木が、見事に岩塩の結晶に変わっていた。地面までもが塩に変化しているので、相当に強力な魔術だったのだろう。ちなみに、魔法学校のソーサラー先生では、ここまで強力な塩化魔術は使えなかったりする。
サムカが剣を再び一閃させて、ネズミ群が去った方向に向けて100発余りの〔闇玉〕をロケット砲のように撃ち込んだ。数百メートルから1キロほど先の畑の中でウロウロしている500匹ほどのネズミの小さな群れが、〔闇玉〕に飲まれて〔消去〕されていく。
生き残ったネズミが「キイイ」と甲高い悲鳴を上げて、ネズミ本隊の去った方向へ逃げていった。
あまりたくさん撃ち込んでしまうとコーン畑への被害も増えてしまうので、これ以上の撃ち込みは控えるサムカだ。収穫は終えているのだが、表土の消失は避けねばならない。
「うむ。予定の場所へ、うまく誘導できたようだな」
サムカが馬上で1人うなずき、戻ってきたカラス型の使い魔からの戦況報告を受ける。馬は止まらずに無音のままで、風切音だけを発しながら走り続けている。
(我が騎士も、予定通りに追い込んでくれているようだな。では、私も包囲殲滅予定地に向かうか)
手綱を操って、愛馬に進む方角を教える。その愛馬が足を踏み出した時、サムカの磁器のようにきめこまやかな藍白色の白い顔が険しくなった。
「……魔族か。隠れておらずに出てくるがよい」
サムカが、そう告げた瞬間。
前方左の空中から突然1000本もの矢が〔テレポート〕され現れて、サムカに向けて殺到してきた。自動追尾機能がついているようで、正確にサムカの頭と胸に飛んでくる。速度もライフル弾並みの秒速1キロ以上で、衝撃波が矢の後ろで発生している。
しかし、これらもサムカの〔防御障壁〕の1枚も破壊貫通することはできなかった。1000本の矢がことごとく、衝撃波ごと闇魔法の〔防御障壁〕に飲み込まれて消滅した。愛馬も動揺せずに、そのまま疾駆し続けている。
そして、カウンターのようにサムカが一閃する。剣の先から生じた闇魔法が、矢が現れた空間に飛んでいった。そのまま音もなく炸裂する。
「ぐは」とも聞こえる呻き声が複数して、魔族の部隊が畑の畔の陰から姿を現した。
身長は2メートル半ほどはあろうか。ヒキガエルのような顔をした筋肉質でたくましい魔族で、背からは多くのトゲが生えている。既にサムカの攻撃で消滅したり、半身を消し飛ばされたりしている者もいるが、総勢は20名というところ。矢を〔転移〕させた術式をサムカに読まれて、位置がばれてしまったのだろう。
1ヶ所に集まらずに、セオリー通りに幅百メートルほどに渡って散開した、半包囲の配置であったのだが……サムカに効果はなかったようだ。
「おのれ、貴族め!」
首領とおぼしき者が悪態をついて、第二波の攻撃を開始する合図をそのたくましい腕で示した。まだ戦闘可能な10名ほどの魔族が、背中に背負っている無反動砲のような形の魔法兵器をサムカに向けて〔ロックオン〕する。
しかし、彼らが引き金を引くことはなかった。
サムカが返す刀で、再び一閃させていた。剣の先から発生した、更に強力な闇魔法が〔転移〕し、彼ら1人1人の目の前に出現して飲み込んだからであった。潜んでいた雑草と潅木ごと、魔族たちが声すら上げる間もなく〔消去〕される。
魔族たちは当然ながら、〔防御障壁〕を念入りに展開していたのだったが……全くの無意味だった。サムカによる最初の攻撃は、何とか軽減することはできたようだが、同時に〔防御障壁〕の術式を〔解読〕されてしまったのだろう。2回目のサムカの攻撃には為す術がなかった。
サムカの剣が止まることなく再び一閃される。上空をステルス装備で飛んでいた、魔族所有の使い魔群が〔消去〕され、森の中に潜んでいた同様の使い魔群もかき消される。
サムカが愛馬を進める先の進路にばら撒かれていた、各種地雷も全て大地ごと削り取られて消えた。巨人ゾンビ地雷だったのか、地雷から身長数メートルもの巨人ゾンビが爆炎と共に15体ほど発生したが、その爆炎ごと〔闇玉〕に飲まれて〔消去〕される。
ここまでの出来事が、サムカが剣を続けて3回振っただけの時間で終わってしまった。3秒ちょっとだろうか。サムカの錆色の前髪が少し乱れただけだった。
「……ふむ。ネズミどもを、けしかけたのは奴らだったか。混乱に乗じて収穫物を強奪するつもりだったのだろうな」
サムカが少し乱れた前髪を、手袋をした左手で適当に整えた。他に残敵が残っていない事を、〔探知〕魔法を使って確認する。
「1人くらいは残しておけば良かったか。部族名くらいは聞けただろうが……さて、ネズミどもの駆除に向かうか」
数分後。サムカが作戦予定地へ到着すると、騎士シチイガが準備万端で出迎えた。
サムカの愛馬と同じ種類のベエヤード馬に騎乗しているが、装備はサムカの愛馬とほぼ同じである。色を地味な色合いにしているくらいだろうか。サムカのも地味な色ではあるのだが。
「我が主。ネズミどもは予定通り、この収穫済みのコーン畑に追い込みました。オーク兵も配置済みです」
騎士シチイガが、汗一つかかない藍白色の白い涼やかな表情でサムカに報告する。もちろん死者なので、汗をかくはずもない。
既に魔族のルガルバンダたちも、9人の魔族の部下と巨大な魔犬群を引き連れて応援に駆けつけていた。先日の別の魔族の大将は、姿が見当たらない。(そういえば、まだ採用通知を出していなかったな……)と思うサムカ。
ルガルバンダとその部下たちは身長が4メートルほどもあるので、よく目立っていた。皆、丸太のように太い4本腕で、槍や魔法の杖等を振るっている。
ヒグマのような顔をサムカに向けて、朱色の瞳を輝かせて白い牙を見せた。荒縄のような黒褐色の髪が跳ねている。彼らも機動戦のためか、軽装備で兜もしていない。
「おおおーい、テシュブ殿おおお、助っ人に来たぞ」
野太い豪快な声に、サムカが頬を緩めた。
「わざわざ済まないな。ネズミ退治なので、ルガルバンダ殿を呼ぶのは気が引けたのだが、来てくれて感謝するよ」
ルガルバンダがヒグマ顔で大笑いし始めた。白い牙がズラリと並んで見える。
「ガハハ! 気にすんなって。母ちゃんたちも暮らしが楽になったって、喜んでるからよ。感謝したいのは、ワシらの方だぜ」
ルガルバンダの副官の魔族が、騎士シチイガに手持ちの大槍を掲げて挨拶してきた。騎士シチイガも微笑んで剣を掲げる。その様子をサムカが頬を緩めたまま見つめて、視線をルガルバンダに戻した。
「では早速だが、作戦を始めるとしよう。配置についてくれ」
ルガルバンダが丸太のように太い左腕の1本を高く挙げた。刃渡り2メートルほどの魔法の剣を握っている。
「おう! 了解だぜ。行くぞ、野郎ども!」
巨大な野犬群を引き連れて、オーク兵の布陣の一角に陣取る魔族軍だ。
騎士シチイガがサムカに報告した。
「魔族の自律型ゴーレム兵ですが、今回は運用を見送ってもらいました。機動性に劣りますので、ネズミ相手では足手まといになるかと」
サムカが鷹揚にうなずいた。
「まあ、そうだろうな」
騎士シチイガがオーク部隊長からの連絡を受け、さらに自身の使い魔からの索敵報告を受けた。すぐにサムカに報告する。
「配置完了しました。なお、残党とおぼしき魔族は残っておりません。我が主」
サムカからは既に〔念話〕で、黒幕だった魔族のことを騎士シチイガに伝えてあった。その残党が残っているかどうかを、彼に命じて確認させていたのだった。
サムカが馬上でうなずく。山吹色の瞳がキラリと秋の日差しを反射した。
「うむ、ご苦労。では、残りはネズミだけだな。予定通り、作戦を開始しよう」
10万ほどの数のネズミ群は、誘導されて1つにまとめられて、収穫を終えたコーン畑に隙間なく充満していた。数が多いので群れの動き自体が、何かの化け物の背中のようにも見える。
鳴き声も普段のネズミのものではなく、極度の興奮のせいでゴーストが発する叫び声のように聞こえる。無数の笛を一斉に吹き鳴らすような、凶暴で無秩序な金切り声だ。
ネズミ群はサムカたちに攻撃魔法を繰り出している。しかし、密集しているために魔法の術式が『混線』してしまい、全く発動できない状況になっていた。
これらネズミ群を包み込むように、騎士シチイガが放った闇魔法の壁がぐるりと展開されている。エルフ先生が狼バンパイアの動きを封じる際に用いた光の〔結界壁〕の、闇魔法バージョンである。
光の壁は触れる物を弾き飛ばすが、この闇の壁は吸い込んで〔消滅〕させてしまう性質を持っているようだ。
10万匹ものネズミの群れの動きで、弾き飛ばされた運の悪いネズミが次々にこの闇の壁に当たり、吸い込まれて跡形もなく〔消滅〕していく。
その一方向の闇の壁が崩れてなくなり、その奥から500ほどのオーク兵とルガルバンダ勢が姿を現した。
密集陣形で、前方は火炎放射器を、後方は火矢をつがえた弓部隊とで構成されている。ルガルバンダ勢はオーク部隊の前衛に陣取っていて、肩高が2メートルもある魔犬の群れを最前線に配置していた。
サムカからの通話を受けたオーク部隊の長が、割れた鐘のような大音声を発した。
「よおし、皆の衆、攻撃開始じゃあ!」
次の瞬間。火炎放射器から一斉に炎がぶちまけられた。炎の噴水、もしくは炎の川とでも表現できるだろうか。
最前衛のルガルバンダ勢を飛び越えるように、アーチ状になって炎の束が飛んでいく。その有効射程は15メートルほどもあり、瞬く間に手前のネズミ群が炎に飲み込まれた。
ルガルバンダ勢も魔法の杖を向けて、ビーム光線をネズミ群に向けて撃ち始めた。魔犬の群れは、〔防御障壁〕を前面に展開している。
ネズミは当然、〔防御障壁〕を展開して、炎とビーム攻撃を寄せつけまいとする。しかし、その〔防御障壁〕も火矢の雨を浴びると、あっけなく破壊されて〔消滅〕していった。サムカと騎士シチイガが、既にネズミの〔防御障壁〕の術式を〔解読〕しており、その〔解除〕術式を、オーク兵の放つ火矢に乗せているせいである。
魔族が放つビームにもその術式が組み込まれているので、ネズミ群の〔防御障壁〕が紙のように貫通されて破られていった。
ネズミ群も大混乱の中で、〔レーザー光線〕や〔マジックミサイル〕、それに〔石化〕ガス等を放って応戦してきた。それらを全て〔防御障壁〕で防御する魔犬群だ。まさに鉄壁の守りで、後方のオーク部隊には一発も届いていない。
ほとんど一方的な攻撃が続き、火炎地獄のような風景がサムカと騎士シチイガの目の前で展開されていた。輻射熱に対する〔防御障壁〕が、魔犬の群れによって新たに張られていく。
収穫済みのコーン畑にも大量の収穫残渣が残っていて、しかも乾燥していたので、この火炎攻撃の火種となるには充分過ぎた。たちまち燃え広がって、炎の旋風をいくつも発生させてネズミ群を燃やしていく。ネズミが発していた金切り声も、炎の渦に飲み込まれて消えていった。
ものの数分間で、10万匹のネズミ群は全滅して焼け死んでしまった。肉が焼ける香ばしい匂いがコーン畑に漂い始める。使い魔からの報告を受けたサムカが、満足そうな笑みを浮かべる。
「うむ。全て焼けたようだな。作戦を終了しよう。シチイガよ、闇魔法の壁を〔解除〕せよ」
「は。我が主」
騎士シチイガが即座に答えて、闇魔法を〔解除〕した。とたんに視界が開け、煙で覆われた畑にうず高く重なり合って焼け焦げているネズミ群の姿が見えてきた。
「さすがに10万匹ともなると、山盛りだな」
サムカが煙に包まれている畑を、鋭く光る黄色い瞳でじっと見つめながら調査していく。
「闇魔法を使うと、畑の肥えた土までネズミと一緒に消し去ってしまうのだが……うむ。この程度であれば通常の土壌改良の手法で回復するだろう。我が騎士シチイガよ、ご苦労であった」
サムカが深い山吹色の瞳を細めて微笑んで、騎士シチイガをねぎらう。
オーク部隊の隊長がニコニコしながら、こちらへ駆け寄ってきた。オーク自体がハゲ頭の豚顔で太っているので、あまり可愛くはないが。
「領主様。ネズミの殲滅を確認しました。これでもう安心です。ありがとうございました」
馬上からサムカがうなずく。愛馬が漂う灰を嫌って鼻を鳴らすのを、首を「ポンポン」叩いてなだめた。アンデッド馬なので呼吸はしないのだが、嗅覚はある。
「うむ、ご苦労だったな。死者や負傷者は出たかね?」
オークの隊長が太鼓腹の上に乗っている胸を張った。
「いえ、全く出ませんでした。損害なしです。領主様」
それを聞いて、サムカの顔もほころんだ。山吹色の瞳が優しげな光を放ち、錆色の髪が日差しを反射して輝いた。藍白色の白い顔も、秋の日差しのせいで暖かく見える。
「上々だな。では、これにて作戦を終了する。焼けたネズミの山は、肥料や家畜の餌にすれば良かろう。清掃獣どもにも与えておいてくれ。また暴れ出すと面倒だからな。では、少ないが、これで宴会の足しにでもしてくれ」
そう言ってサムカがオーク隊長に、銀貨が入った小袋を馬上から投げて渡した。
「はは! かたじけなく!」
深く礼をして、オーク隊長が喜び勇んで走り去っていった。それを見守るサムカと騎士騎士シチイガである。
オーク部隊が解散して、雑談をしながら自治都市へ帰っていく。それと入れ違いに、ルガルバンダがガハハ笑いをしながら大股歩きでやって来た。身長が4メートルもあるので、歩くだけで地響きがする。
「テシュブ殿。上手くいったようだな。呆気ないほどだわい」
サムカが頬を緩めた。
「ルガルバンダ殿の教練の成果が良く出ていたな。オーク部隊の錬度も上がって、我々の仕事が楽になって助かるよ」
サムカがそう告げると、騎士シチイガも同意した。ルガルバンダの副官魔族に、にこやかな笑顔を向ける。
「左様ですね、我が主。畑の被害も少なくて、実に効率的に害獣を駆除できました」
ルガルバンダが満足そうな笑みを浮かべた。
「評価が高くて嬉しいね。さて、ワシらも村へ戻るとするか。まだ畑仕事が残っているんだよな」
魔族の副官が騎士シチイガに礼をしてから、ルガルバンダ大将に頭を下げた。
「そうです、大将。今日中に畑の畝立てを済ませないといけません」
ルガルバンダが困ったような笑みをサムカに向けて、たくましい4本腕を上に上げて万歳の姿勢をとった。
「そういう事だ。じゃあ、またな」
ルガルバンダ勢が大声で談笑しながら、彼らの村へ帰っていく。
その後ろ姿をしばらくの間、見送ったサムカが騎士シチイガに山吹色の瞳を向けた。
「さて、我々も城へ戻るとしよう。魔族の大将と同じく、通常業務が少し溜まっているのでな」
普通の巡航速度で馬を走らせながら、サムカが騎士シチイガと一緒に城へ戻っていく。騎士シチイガが、馬を並べて走らせながら、サムカに一応尋ねた。
「我が主。生き残ったネズミを〔アンデッド化〕させる攻撃魔法の術式は、〔解除〕いたしますか」
これは、ネズミの一部をアンデッドにして支配し、ネズミの同士討ちを狙った追加の作戦であった。サムカたちが闇魔法の壁で追い立てても、逃げのびる群れがいる可能性があったため、その対策用の術式である。
サムカが馬を走らせながら、うなずいた。
「使い魔どもからの報告を今、再確認した。確かに、全てのネズミは消滅しているな。術式を〔解除〕してくれ」
「我が主の御意のままに」
剣を一振りして、待機中の術式を終了する騎士シチイガ。彼の横を並走しながら、サムカが満足そうな笑みを投げかけた。錆色の短髪が風になびいて揺れている。
「しかし、思ったよりもオーク部隊の働きが良かったな。ルガルバンダ殿の教練の成果だ。おかげで、余計な闇魔法や死霊術を使わずに済んだよ。畑への魔法被害も、当初予想よりもかなり軽微なもので収まったしな」
騎士シチイガが剣をマントの中に納めながら恭順した。こちらの黒錆色の短髪も、秋の風に揺れている。
「左様ですね、我が主。あの程度の火炎放射と火矢であれば、土地の地力回復も容易でしょう。さすがはノーム製の武器ですね。次期作が不作になることはないと思われ……ん?」
その時。サムカ主従のそばに突然セマンの警備員が1人姿を現した。全く気配もなく登場したので、驚くサムカ主従である。
「サムカの旦那。うちの隊長からの伝言でさ。怪しい動きをしていたオークを5名、とっ捕まえたんで検分に来て欲しいってことでさ。場所はオーク自治都市の穀物倉庫っす」
サムカの顔色が険しいものに変わった。騎士シチイガも同様の表情になる。サムカが愛馬を自治都市に向けて走らせながら、その伝令に顔を向けた。
「それはご苦労だったな。契約以外のことをさせてしまい申し訳ない。隊長に私が礼を述べていたと伝えておいてくれ」
伝令が口元を少し歪めて笑みを浮かべた。
「へい。確かに。では、あっしはこれで」
そのまま、サムカが走る進路から直角方向へ外れていき、すぐに木立の中に隠れて見えなくなった。気配も全くなくなる。騎士シチイガが舌を巻いて感心した。
「うは……何という〔ステルス障壁〕だ。全く〔察知〕できなかったぞ」
かなり動揺した様子であったが、とにかく今はオーク自治都市へ急行することが先決だと思ったようだ。厳しい表情のままで騎士シチイガがサムカに顔を向ける。
「テロでしょうか。我が主」
サムカが馬を疾駆させながらうなずいた。藍白色の白い眉間にシワが刻まれている。
「恐らくは、そうだろうな。とにかく現場へ向かうぞ」
【穀物倉庫の前にて】
自治都市の穀物倉庫前には100人以上のオーク住民が既に集まっていていた。捕縛されたオーク5人に向かって罵声を浴びせかけ、石などを投げつけている。セマン警備員の姿は見当たらなかった。
サムカ主従が到着する頃には、その5人のオークは既に血だらけになって息も絶え絶えに地面に倒れ伏していた。サムカの表情が曇る。
「これこれ。ほとんど死んでしまっているではないか。少しは手加減をしなさい」
オーク住民らはサムカ主従の到着を見て、慌てて膝をついて恭順の姿勢をとった。その中には、倉庫の責任者であるオークの姿も見える。その彼が恐縮しながらもサムカに答えた。
「これは領主様。このような、むさ苦しい場所へお越し下さるとは畏れ多いことでございます。警報が鳴りましたので急ぎ駆けつけたところ、こやつらが縛りつけられて倒れておりました。メモが残されていまして、それによると、こやつらは倉庫に爆弾を仕掛けていたとのこと。急ぎ調査しましたところ、このように時限爆弾が発見されました」
そう言いながら責任者のオークが、馬車用の荷台に乗せられた10個余りの爆弾をサムカに見せた。合計すると150キロ以上にもなりそうな量の爆薬だ。こんな倉庫では、ひとたまりもなく粉砕されてしまうだろう。
「既に、信管を外して、回路も破壊しておりますので安全です。もし、この爆弾が炸裂していたらと思うと背筋がぞっといたします」
そして彼の周りで、いきり立っている仲間のオーク住民100名余りを見回した。
「こやつらを半殺しにしたことは申し訳なく存じます。ただ、我らの心情もご配慮くださりませ」
倉庫責任者のオークが深く頭を下げ、平伏する。同時に他のオークたち100名も一斉に従った。見事な禿頭だらけになるが、サムカ主従は特に表情を変えていない。
サムカが馬から降りて捕縛したオークの元へ歩みながら、倉庫責任者のオークに声をかけた。
「これほどの量の爆弾を用意するとは……このネズミの襲撃は、計画されたものだったようだな。南のオーク独立国群の工作兵だろう。武装している恐れがあるので、むやみに近寄るな。我が領地の住民がそれで負傷することは避けたいのだ。今後は、速やかに城兵やセマン族の警備員に知らせるがよい」
100名のオークが一斉にサムカに平伏して、額を地面にこすりつけた。土下座ではなく、五体投地の変形のような姿勢だ。
「はは! ご領主様のご厚情、感謝に堪えません」
それを見ていた5名の爆弾犯のオークが血まみれの顔を上げた。柿色の目が血走っていて、かなりの迫力が出ている。服装は軍服ではなく普通の野良着だが、これも裂かれてボロボロだ。
「それでも、誇り高きオークか! 死人に支配されておるのに、なぜ疑問に思わないのか! こいつら死人どもは駆除すべき敵なのだぞ!」
が、それに対する返事は、100名の住民オークから投げられた石つぶてだった。苦悶の声を上げて、地面をのたうち回る5人のオークである。
サムカが住民を制して、石を投げつけるのを止めさせた。そのまま倒れて呻いているオークのリーダーらしき人物の頭の横に立ち、腰を下ろす。そして、手袋を外した左手をオークの頭に乗せた。それだけで、喚いていたオークが激しく痙攣して黙る。
サムカの山吹色の瞳が陰りを帯びていく。
「……ふむ。やはり南のオーク独立国群の工作兵か。魔族と組んでネズミ群をけしかけ、その隙に、この倉庫を爆破する計画だったのだな。我が領土には、軍事施設や武器生産工場などの軍事目標はないのだが、なぜここのような田園地域を襲うのかね?」
痙攣して口から泡を吐きながらも、頑として答えを拒否するオークである。しかし、そんな抵抗は貴族には無意味であった。
「……ふむ。そうか。南の戦線で君らオーク反乱軍と、我が連合王国軍のオーク兵部隊とが衝突しているのだな。それで我が軍の兵站かく乱のために、ここまできたと。愚かなことだ。前線の兵糧庫には1年分を超える量の備蓄がされている。我が領土は王国連合の食料生産基地の1つに過ぎないから、ここを潰しても兵站には影響なぞ出ないぞ」
驚愕の表情を浮かべるオークリーダーだ。簡単に思考と記憶を〔読まれて〕しまっている。サムカが表情を全く変えずに次の質問をした。瞳の陰りは更に深くなっているようだが。
「君たちの今回の作戦は把握した。この無駄な作戦を立案し、実行命令を下した愚か者の名前は何だね?」
サムカの質問が終わるや否や、頭に手を乗せられていたオークリーダーが自爆した。紅蓮の火球がサムカの手元から発生して、衝撃波を伴った爆音と爆風が巻き上がる。
が、その爆発が途中でかき消されて〔消えた〕。爆音まで消えてしまう。倉庫の屋根に留まっていたツバメ等の小鳥が10羽ほど驚いた様子で飛び上がり、森の方へ飛び去っていった。
サムカが粉々になった元オークの肉片を見下ろしながら、軽くため息をついた。当然ながらサムカには何の被害もなく、汚れもついていない。
「何と無駄な生か……。自爆するために産まれたようなものだ」
そして、他の4人のオークに視線を向けた。彼らも自爆スイッチを押したようだ。しかし彼らには自爆すら与えられずに、そのまま〔消去〕されてしまった。
オーク住民たちが騒然としている中、騎士シチイガが周囲を数秒間ほど警戒してサムカに報告する。
「我が主。他に敵意や殺意を発する者は見られませんでした。こやつらだけのようです」
サムカが立ち上がった。そして騎士シチイガに、やや黄色い光が残る山吹色の瞳を向ける。眉間のシワは消えて、人形のような血の気の全くない藍白色の表情だ。無言のままでうなずいて、平伏しているオークの倉庫管理人に視線を移した。
「少々破片が残ってしまったな。済まないが、掃除しておいてくれ。清掃獣に食わせて処理するが良かろう。荷台の爆弾は、自警団で好きに使ってくれ。城に保管しても、魔法場で〔浸食〕されてゴミになるだけだしな」
倉庫責任者のオークが地面から跳び上がって、サムカに立礼をした。
「は! ご領主様! おい、このゴミを片付けるぞ」
てきぱきと清掃作業に入るオークたちを後にして、サムカが空を見上げた。特に感情らしきものは表情に表れていないが、どことなく寂しそうである。しかし、それも一呼吸程度の時間だけだった。すぐに騎士シチイガに顔を向ける。
「では、城へ戻るとするか。国王陛下への報告も遅滞なく行わなくてはならぬからな」
「は。我が主」
流れるような手慣れた動きでそれぞれの愛馬にまたがり、あぶみを軽く蹴って馬の首を城へ向かせた。馬も主の心情を察しているかのように、一声だけ「ブルルン」と鳴いただけだ。
サムカが再び視線を上空に向けて、口の中をもごもごさせている。
「うむむ……牙が欠けていると、どうも凶暴な行動になりがちになるな」
【魔法学校の校長室】
その翌日。いつもの校長室に<ポン>と水蒸気の煙が立ち上って、サムカが〔召喚〕された。ほっとした表情のサムカである。
久しぶりだったが、土も一緒に〔召喚〕されてはいなかった。範囲指定が、かなり正確に機能してきているのだろう。校長室の床に描かれた〔召喚〕儀式の魔法陣も無事で、供物も吹き飛ばされたりしていない。
サムカの服装は、今回は少々カジュアルな長そでシャツに折り目のきちんとついたズボンで、いつもの銀糸刺繍が裾に施された黒マントを羽織っている。足元は革靴で、白い手袋をしている。また予期せぬ場所に〔召喚〕されるかもと、用心していたのだろう。
「ふむ。今回は正常に〔召喚〕できたようだな」
校長も白毛交じりの尻尾と両耳をパタパタさせながら、サムカと同じように安堵している。
「ふう……サラパン主事の体調は万全に仕上げていましたから、座標の間違いは起きないと信じておりました」
サラパン羊は〔召喚〕ナイフを高々と片手で掲げてキメポーズをとって、ご満悦の表情である。相変わらずのモコモコ毛玉に、無理やりスーツを着せた感が否めない。
「そりゃあ、朝から酒もタバコも薬も何もかも絶って、真面目にしていましたからなっ。〔召喚〕成功は疑いなしですよ。かっかっか」
って、朝からかよ……と、ツッコミを入れる者は、もういない。反対に感心している校長みたいな者も出てきている始末である。サムカだけは、わずかに苦笑しているが。
「結果さえ良ければ、私も文句はない。気がついたら〔召喚〕先が土中だった事に比べればな」
そして、校長室を見渡した。見慣れない壮年男性のエルフが1人、微笑みながら立っている。サムカと視線が合った。
「サムカ・テシュブ領主様ですね。初めまして、ブトワル王国の医局長ディ‐ナファス-プンバントゥ‐モスと申します。あなたの牙の補修治療を担当いたします。どうぞよろしく」
サラパン羊が早速、お茶をしに校長室から出て行くのを横目で見送りながら、サムカが壮年のエルフに軽く会釈を返した。
「すまんな。ノームやドワーフ、魔法使いたちに頼むこともできたのだが、どうしても口の中の違和感が気になってな。一刻も早く牙を修復させたいのだよ」
そして一応、念のためにエルフ医師に聞いてみる。
「我ら貴族とエルフとは魔法適性がかなり違うが、作業に支障は出ないのかね?」
エルフ医師が微笑んで、手袋を懐から取り出してサムカに見せた。
「ご心配なく。専用の手袋をしますので、問題ありませんよ。ブトワル王国の病院には、異世界からの患者さんたちも多く訪れますから」
その手袋をじっと見つめていたサムカだったが、すぐにうなずいて同意した。
「うむ。確かに、生命の精霊場に闇の因子が組み込まれているようだな。魔法場が死者の世界の手袋にかなり近い。これなら、心配なさそうだ。よろしく頼むよ、先生」
早速、手袋を両手にはめながら、エルフ医師がサムカに歩み寄ってきた。
「テシュブ領主も〔召喚〕時間の制限があるようですから、早速〔診断〕と〔治療〕を始めましょうか。生命の精霊魔法で牙を〔再生〕するだけですから、時間もかかりませんよ」
口を開けようとするサムカに、微笑んで首を振る。
「波動医術ですので、患部を直接眼で見る必要はないのです。口は閉じたままで構いませんよ」
そうして、サムカの両頬に両手の平を添えた。確かに触れても何ともないようだ。
「では、牙を〔再生〕しましょう。1分間ほど舌などを動かさないで下さいね」
あらかじめ術式を用意しておいたのだろう。〔遅延発動キー〕をエルフ語で一言口ずさんだエルフ医師の両手の平から、強力な生命の精霊魔法が発動された。
(ほう……かなり強い魔法だが、闇の因子のおかげで拒絶反応が出ないな。さすがだ)
内心驚いているサムカである。通常ならば生命の精霊魔法それ自体が、死霊術によって動かされているサムカの体に〔干渉〕してしまう。最悪の場合、爆発などの激しい反応を起こしてしまうのだが、それが全くない。
(私のような貴族の患者が、もしかしたら〔治療〕しにやって来ているのかもしれないな。かなり手馴れた技だ)
そんなことを思っていたサムカに、エルフ医師が両手を頬から離して微笑んだ。
「終わりました。牙の噛み合わせが問題ないかどうか、確かめてみて下さい」
そう言われて、恐る恐る口を動かすサムカである。すぐに安堵したような、ほっとしたような表情になった。
「おお。見事に折れた牙が〔修復〕されている。うむ、噛み合わせも全く問題ない」
エルフ医師がサムカの反応を見て微笑んだ。
「良かったですね。テシュブ領主様が私に、牙を失う前の記憶と感覚の情報を全て提供して下さったので、〔再生〕が上手くいったのでしょう」
サムカが山吹色の瞳を少し輝かせて、エルフ医師に聞く。
「それにしても、見事な手腕だ。私のような貴族も、先生の病院に来て〔治療〕しているのかね? かなり手馴れたように感じたのだが」
エルフ医師が少し困ったような表情になって否定した。
「守秘義務がありますので、答えることはできません。すいません。ですが、貴重な臨床データが入手できました。私からも感謝申し上げます」
短く切りそろえた錆色の髪を、手袋をした片手でかき上げるサムカである。
「いや、私こそ失礼な質問をしてしまった。許してほしい。しかし、本当にものの数分ほどで終わってしまうのだな。波動医術か。私の世界では無理だろうなあ。ノームやドワーフに工学系統の魔法使いは、差し歯を製造して、それを手術で移植する方法を取るそうだが……それでは時間と手間がかなりかかる。エルフの医術は驚異的なものなのだなあ」
エルフ医師が手袋を外して懐に突っ込みながら、微妙な笑みを口元に浮かべた。
「得意、不得意な分野があるだけですよ。遺伝子操作を伴う魔法医療の分野では、エルフの波動医術は法術に及ばない点が多々ありますから。奇跡や運を扱える量も少ないですし」
サムカが少し首をかしげながら、腕組みする。
「ふうむ。そういうものなのかね。奥が深いな。私には理解ができぬかもしれないが、波動医療とドワーフの歯科治療との違いを教えてもらえぬかね?」
エルフ医師がキョトンをした顔になった。しかし、すぐに首を少しかしげながらもサムカに説明してくれた。
「そうですねえ……生命の精霊魔法を使った、この波動医療の原理自体は単純ですよ。テシュブ領主様の無事な牙にある細胞を基にして、新たな牙を作っただけです」
〔再生〕魔法だが、基盤となる細胞は必要なようである。
「一方のドワーフたちの歯科治療では、皮膚から得られた上皮細胞を歯原性上皮細胞に人工的に誘導し、その細胞に各種必要な酵素を発現させます。それを以って、エナメル質を伴った歯の再生を行いますね」
そう、スラスラと話しながら、エルフ医師がサムカに微笑んだ。
「どちらの方法も、それで歯冠や歯根の形を制御できます。差し歯のような人工物は、もう使いませんよ」
サムカが軽く目を閉じて頭をユラユラさせている。半分も理解できなかった様子だ。目を開けて、錆色の短髪をかきながら謝った。
「すまんな。やはり私の知識では、半分も理解できなかったよ」
すっかり道具を片付けたエルフ医師が、微笑みながらサムカに手を振った。
「お気になさらず。それでは、私はこれで。また何か困ったことが起きましたら、カカクトゥアさんを通じてご連絡下さい」
サムカが慌てて引き留める。
「代金をまだ支払っておらん。いかほどかね」
エルフ医師が、微笑を全く崩さないままで片手を軽く振った。
「いえ。無料ですよ。収集した情報だけで充分な対価になります。もちろん、次回もできるだけ無料にしますからご安心下さい」
サムカが恐縮して礼を述べた。
「そう言われると、私も何も言えなくなるな。ディ‐ナファス-プンバントゥ‐モス医局長殿、私の領地へ遊びに来たいときは、遠慮なく申し出てくれ。歓迎しよう」
エルフ医師がサムカの申し出に少し驚いた様子だったが、すぐにうなずいた。
「分かりました。ご厚意に感謝します。それから、カカクトゥア先生からも伺ったのですが、私のことは「ナファス」と呼んで下さって結構ですよ。名前にかかる魔力が弱い方が、お互いにとって良いでしょうからね」
サムカも微笑んで手を振り返した。
「うむ。そうしよう。重ねて礼を言うよ、ナファス医師。私のことは「サムカ」と呼んでくれ。ありがとう」
「では、お大事に。サムカ様」
すうっと、蒸発するようにエルフ医師の姿が消えた。
替わりにハグ人形が天井から落ちてきて、校長の机の上に着地した。
「〔治療〕がうまくいって何よりだったな。世界間移動の魔法はワシが責任を持って行使したから、安心せい。ちゃんとした正規の手続きを踏んだ魔法だ。無事にあの医者も、エルフ世界に戻ったよ」
どうやら裏方仕事をしていたようだ。
「エルフの精霊魔法では、本人ではなく映像や声しか異世界へ送れないからな。リッチーであるワシとの共同作業だったが、うまくいったわい」
サムカがハグ人形に視線を向けて、素直に礼を述べた。詳しい術式については、自身の知識では理解できないとわきまえているので何も聞かない。正規の手続きを経た魔法だったと知るだけで充分だ。
「面倒をかけて済まなかったな、ハグ。感謝するよ、これでイライラも収まるだろう。口の中の納まりが悪いと、こうもイライラするものなのだな」
軽く小首をかしげて質問する。
「しかし、用心し過ぎではなかったかね? エルフがいるとはいえ、ハグは人形の姿だから因果律〔干渉〕することはなかっただろうに」
ハグ人形が口をパクパク開けて、タップダンスを始めた。
「まあ、そうだが、念のためだ。しかし、そうか。やはりイライラしておったか。ネズミや魔族にゲリラどもを問答無用で雑に〔消去〕していたのは、そのせいだったか」
サムカが再び錆色の髪をかき上げて、目を閉じた。ちゃっかり見られていたようである。
「……かもな。確かに、いつもであれば話し合いで解決する道を探っていただろう。ハグの言うとおり、性急に片付けてしまうのは長期的にみて良くないな。反省することにしよう」
そして、校長に穏やかな山吹色の瞳を向けた。
「ふむ。授業開始まで、もう少し時間がある。何か困りごとがあれば相談に乗るが、シーカ校長」
校長室にはもう校長しかおらず、サラパン羊はとっくの昔に退室してしまっていた。エルフ医師も帰ってしまったので、緊張が和らいだような表情をしている校長である。
床に描いてある魔法陣を消す作業に取り掛かろうと、モップを取り出したところだった。が、そのモップを清掃具入れのロッカーに立てかけた。
「いくつかありますが、そうですね……ティンギ先生の実習授業を見に行きませんか」
サムカが少し首をかしげたが、すぐに理解したようだ。
「ああ。シャドウを使った〔運〕の強化実習だったか。ハグが私の代わりにシャドウを作って、提供してくれたそうだね。私からもハグに礼を述べておくよ」
既にハグ人形は、どこかに消えていなくなっていた。また、サラパン羊のモコモコ毛皮の中で昼寝でもする気なのだろう。
床の魔法陣は、校長が事務職員の狐族に消すように命令した。手際よく事務職員たちが、洗剤をつけたモップで魔法陣を消し始めたのを後にして部屋を出る。
校長室の隣の応接室を見ると、やはりカラオケ機械が鎮座してあった。結構、使われている印象で、ソファーにコーヒーをこぼした跡や、パイプの灰の不始末による焦げ跡等が見える。
壁掛け型の大きなディスプレー画面には、狐語でニュースが流れていた。応接室には誰もいないのでサムカが不思議に思っていると、校長が微妙な笑みを口元に浮かべながら説明してくれた。
「マライタ先生が設定したので、私たち狐族では手出しができないのですよ。どうも、学校の保安警備システムに直結されているようでして。この画面で、学校の誰にどんなメッセージをシステムが出したのか見えるようになっています」
校長の説明を、サムカも同じような微妙な顔になって首をかしげて聞いている。
「……まあ、そういう表示サービスは、別に無くても構わぬだろう。別の何かの目的のための、偽装表示だろうな。害が生じたら、マライタ先生に文句を言えば良かろう」
校長もサムカに同意のようであった。白毛交じりの両耳をパタパタと左右に振っている。耳についた埃を払うような仕草だ。
「そうですね。今の所は、特に問題は出ていませんし」
そう言いながら、校長が窓越しに応接室のディスプレー画面を見て、耳のパタパタを止めた。
ニュースが続いていて、音声はサムカたちがいる廊下まで聞こえないのだが、画面の狐語の文字表示ははっきりと見える。
「……タカパ帝国が派遣した、北方探検隊が全滅したようです。状況から考えて、突然の寒波にやられたのかも知れませんね。残念な事です」
サムカは狐語が読めないので、校長の顔をじっと見て思考を〔読む〕ことにしたようだ。先日のオーク工作兵よりも校長の魔力が弱いので、非接触である程度読む事ができる。
そのサムカの整った眉が少し陰った。
タカパ帝国は、領土拡大の野望を実行する強国である。
北方の大地には寒村が点在する程度で、国などはない。農業には不向きで、夏場になると大量の蚊やアブが発生する大湿原に変貌する。もちろん畜産にも向いていない。一方で地下資源は有望なので、その調査をしているようだった。
サムカが首をかしげた。
「ん? だが、動力やエネルギーは魔法世界の技術を使うのだろう? 化石燃料は不要ではないかね?」
サムカの疑問に、校長がディスプレー画面から視線を戻して微笑んだ。
「そうですね。燃料ではなくて鉱物や希少土類の調査ですよ。それと、古代遺跡もですかね。アイル部長によると、結構あるそうです」
そして、少し肩をすくめながら小声になった。
「ドワーフ政府との交易材料として、鉱物や土類が注目されているのですよ。彼らは資源に目がないですからね」
(そう言えば、マライタ先生も石や土が好きだったな……)と思うサムカであった。ドワーフとしての嗜好なのかもしれない。
校長が更に小声になった。
「ご存じのように、タカパ帝国には敵対国がいくつかあります。小競り合い程度ですが国境紛争も続いていますので、軍の発言力が強いのですよ。ドワーフ製の兵器を安価で購入できれば、という思惑があるのかもしれませんね」
サムカが所属するファラク王国連合も、南端でオーク独立勢力と小競り合いを続けている。そのために、あまり深く質問しない事にしたサムカであった。情報部の姿も何度か見ているので、盗聴盗撮は常時行われていると見てよい。
校長もそのように思っているらしく、次のニュースに切り替わったのを機に、建物の外へサムカを案内し始めた。
「寒波が例年よりも早く南下してくるかもしれませんね。農家さんに知らせておきますよ。どうぞ、テシュブ先生。運動場へ出ましょうか」
サムカが鷹揚にうなずいて、校長の後ろからついて行く。最後に校長の思考を読み取ると、今流れているニュースについての感情が色々と混じっていた。
(ふむ……ニュースは『タカパ帝国軍が西の敵国へ侵攻開始、順調に予定通りの領土を確保』か。確かに、学校で話題にするような話ではないな)
これ以上は校長に失礼に当たるので、彼の思考を読む事を中止した。革靴だったので、歩くと「キュッキュ」と音が出る事に気がつく。すぐに〔防音障壁〕を追加展開して消音するサムカであった。
【運動場】
サムカと校長が談笑しながら外へ出ると、運動場はすっかり整地作業が終わっていた。デコボコもきれいにならされている。よく晴れた青空が広がり、太陽がサンサンと輝いてサムカの藍白色の白い顔を照らした。磁器の表面のようにも見える顔だ。
しかし、秋になったとはいえ、まだまだ強い日差しが照りつけている。さすがに逃げ水のような現象は、もう起きていないが。サムカはこの直射日光をまともに浴びているのだが、やはり平気な様子である。
「ほう、あれかな」
運動場の一角で、30名ほどの生徒たちが運動服姿で「キャーキャー」騒ぎながら何かから逃げ回っている。その中には竜族の2年生ラヤンの姿もあったので、選択クラスとの合同授業だろう。
(考えてみれば……選択科目で受講するような生徒相手に、シャドウは無茶な相手だ)と思い直したサムカであった。
ティンギ先生もいるが、パイプをふかして寛いで日光浴をしている。今回は代理ではないようだ。
その先生の代わりに、専門クラスの級長とみられるセマン顔の男子生徒が、必死の形相で仲間の生徒たちに指示を下していた。顔がほとんどマグロに戻ってしまっていて、その青緑色の瞳が泳いでいる。
「ラヤンさん! そっちへ走っては良くないぞっ。冷静に素早く〔占う〕のだっ」
ラヤンが地面を転がって、辛うじてシャドウの体当たりを回避しながら叫んだ。半泣きである。
「わ、分かってます! 分かってますが、シャドウの動きが速くてっ。スロコック級長、このままじゃクラスの大半が〔麻痺〕攻撃を食らってしまいますっ」
ラヤンにスロコックと呼ばれた、占道術専門クラスの級長が必死で級友を励ました。彼もまた、シャドウの突撃を転がってかわしていて、運動服が土まみれになっている。
そんな専門クラス生徒たちとラヤンのような選択科目生徒たちを、のんびりと見守るティンギ先生であった。
「うん。なかなか緊迫していて良いな。危険と隣り合わせでないと、運の魔神様はお喜びにならないぞ。がんばえ~がんばえ~」
わざと舌足らずな発音で応援している。
校長もサムカと一緒にしばらくの間、生徒たちを眺めていたが、首をかしげてサムカに顔を向けた。両耳の白毛と鼻先のヒゲ群が、キラリと太陽光を反射して輝く。
「あの……テシュブ先生。私には、シャドウらしきものが見当たらないのですが……」
サムカがそれを聞いて「ああ……」と、うなずいた。
「シーカ校長は、そう言えばシャドウを〔見た〕経験がまだなかったのかな。シャドウはゴーストよりも強力なアンデッドでね、ステルス性能も高いのだよ」
そう言って校長の小さな肩に、手袋で包まれた右手をそっと置いた。
「うわわわっ!?」
卒倒しかかる校長である。白毛交じりの尻尾が派手に逆立って45度の角度で硬直した。いきなりシャドウの群れが見えたのだから、当然の反応ではあるのだが。
ゴーストも凶悪な姿であったが、シャドウはより凶悪な姿をしている。悪意の塊のような、見るだけで生気を吸い取られてしまいそうな、それでいて全く命の躍動感が感じられない、そんな姿である。
死霊術と闇の精霊魔法の出力がゴースト以上に強力なので、当然ではある。しかし、頭では分かっているつもりでも、実際に目で見るのとでは大違いなのだろう。
数十秒間ほどかけて校長が心拍と呼吸を整えるのを、横でのんびりと待つサムカだ。
森からの鳥の鳴き声や虫の音が、ちょっと騒々しいほどにサムカの耳に入ってくる。しかし、牙が治った効果だろう、特にイライラは感じていないようだ。死者の世界で見かけたツバメが森の上空で旋回している。(メイガスも意外と暇なのかもしれないな……)と思うサムカであった。
「シーカ校長。驚かせて済まなかったかな。だが、生者としては至極正常な反応だ。シャドウほどにもなると、見るだけでも生気を奪われる恐れがあるからね。潜在魔力だけ吸われるならば、まだ良いが、生気ともなると別だからな。体調不良を起こして病気や精神病になりかねない」
かく言うサムカは更に上位のアンデッドなのだが、そのことには触れない。
実際ハグも漏らしていたが、サムカのような貴族にとっても、一般の生者と接する際には細心の注意を払っている。手袋は欠かせないし、見つめる際も間に何枚もの〔防御障壁〕を設けて、潜在魔力や生気を奪わないような工夫をしているのである。
潜在魔力はその名前の通りに潜在化している魔力なので、日常生活には関わってこない。そのため、吸われてもほとんど影響は出ないものである。
一方で生気は生命の精霊場と密接に関わりあっているので、これが低下するとたちまち体調が悪化するし、魔法行使にも直接の影響が出ることが多い。
そのために、貴族は『基本的には潜在魔力しか吸わない』という不文律を守っている。生気まで吸って、それが元で騒動が起きるのを面倒がるからである。
シャドウには、サムカのような相手に対する『気遣い』という概念が存在していない。そのために、生気まで吸い取ってしまうような危険性がある。
ただ、ハグがこのシャドウに行った初期設定では、生気まで吸収するような機能は停止させられている。
余談ではあるが、魔法兵器の類にも生気を強制的に吸い取るものが多い。実は先日の巨人ゾンビもそのタイプであった。
そのような説明をするとかえって混乱する者も多いので、サムカは校長には詳しくは説明していなかった。
サムカがティンギ先生と目を合わせて、いくつか〔念話〕で情報をやり取りした。使用言語はウィザード語なので所々翻訳ミスが出ているが、大きな問題にはなっていないようだ。
「……ふむ。初期設定のままか。まあ最初はこのような、初心者向け仕様で慣れる必要があるということか」
校長に顔を向けて微笑む。錆色の髪の先が太陽の光を反射して輝き、黒マントの銀糸刺繍も鈍い光を放った。
「現在のシャドウの設定は、飛び道具や遠距離攻撃魔法の使用なし、接触〔麻痺〕だけだ。スピードも最低にしている。生徒1人に対して、2体のシャドウを割り当てている段階だな。この程度であれば、事故が起きるようなことにはならないだろう」
校長がほっとした表情になった。暑さと緊張のせいなのか、鼻先と口元のヒゲの先に小さな汗の水滴がいくつかついている。
「なるほど。生徒たちの安全優先ですから、徐々に難しくすれば良いでしょうね。テシュブ先生、ありがとうございました。私にはシャドウが見えなかったので、困っていたのですよ」




