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召喚ナイフの罰ゲーム  作者: あかあかや & Shivaji
ドラゴンと貴族を討つ者たち
118/124

117話

【ドラゴン殺しの剣の概略】

「テシュブ先生、こんにちは!」

 真っ先に、ペルのいつもの挨拶が飛び込んできた。次いで、大泣き状態のジャディがサムカの足元に飛んできて、「オイオイ」と騒がしく泣き始める。


 サムカが手慣れた手つきで、足元にすがりつくジャディを引き起こして、肩を「ポン」と叩く。

「こんにちは。さあ、ジャディ君は席に戻りなさい」

「了解ッス、殿っ!」

 さっきまで大泣きしていたのが嘘のように、キリリとした精悍で凶悪な表情になったジャディが、適当な敬礼をして飛び上がった。

 旋風が教室に巻き上がり、浮き上がったイスと机を空中で捕まえて、そのまま座って床に落下する。教室にいる生徒と先生たちは、いつもの〔防御障壁〕を展開しているので、席についたまま微動だにしていない。


 しかし校長たちは違うので、サムカが軍手をした左手を伸ばして彼らに〔防御障壁〕を付与する。おかげで吹き飛ばされる事なく、サムカに続いて教室へ歩み入った。

 ドラゴン部長にも〔防御障壁〕をかけようとしたのだが、部長は黒褐色の瞳を細めて軽く首を振ったので、止めている。部長も当然のように〔防御障壁〕を展開しているようで、この突風にもびくともしていない。


 教壇に立ったサムカが、今日の授業参加者の顔ぶれを見回した。

 ペルとレブンにジャディ、それにミンタとムンキン、ラヤンのいつもの面々が所定の席についてサムカを見つめている。それに加えて今回は、エルフとノーム先生の〔分身〕、それに墓用務員の姿もあった。

 先生〔分身〕の2人は、それぞれエルフとノームの一般警察官の制服姿である。亜熱帯気候なので上着はなく、厚手の長袖シャツと長ズボンに丈夫な革靴の姿だ。階級章は外しているのだが、それでも若干の威圧感を出している。ノーム先生は大きな三角帽子を背中に引っかけていて、先の丸まった革靴がよく目立つ。

 用務員は、後方隅のロッカーの前にひっそりと立って微笑んでいる。相変わらずの冴えない中年オヤジの姿だ。白髪が半分以上を占めている頭髪も薄く、少し垂れた腹を支える足もガニ股のままである。目で挨拶をするサムカ。


「ん?」

 かなり強めの生命の精霊場を感じたのでキョロキョロしてるサムカに、エルフ先生〔分身〕が自身の右肩を指で示した。

「パリー先生の〔分身〕ですよ。地下階に行くのは嫌だと言い張ったので、こうしています。有害ではないと思いますので大丈夫ですよ、多分」


 エルフ先生〔分身〕の右肩の上に、ハグ人形ほどのサイズの妖精が姿を現した。顔はパリーそのものだが、年齢を10歳くらいに若返らせたような幼い顔と姿になっている。

 一応、可愛らしい姿なのではあるが……服装が相変わらずの古着の寝間着もどきで、赤い髪もバサバサだ。機嫌が悪いのか、無言でジト目のままである。サムカに手も振らずに、丸いあごを突きだした。これでも挨拶しているつもりなのだろう。「うい~す」とか何とか呻いている。


 エルフ先生〔分身〕がジト目になって、肩先のパリー先生の〔分身〕をたしなめる。

「ぱりー……今は先生なのだから、そんな山賊みたいな仕草は止めなさい」

 なおも「プイ」と顔を背けて、無言を貫くパリー先生〔分身〕だ。仕方がないので、代わりにエルフ先生〔分身〕がサムカに話しかけた。

「すいません、サムカ先生。授業を進めて下さいな。パリー先生には、今の金星の状況を知らせてもらう必要があると思いましたので、こうして呼びました」


 素直にうなずくサムカである。

「うむ、そうしてくれると私も助かるよ。しかし、今回は他の生徒たちも受講すると予想していたのだが……むう、残念だ」


 校長が両耳をやや伏せて答えた。彼とドラゴン部長、アイル部長は、教室の後方に移動している。今はそこにいる2人の先生〔分身〕と墓用務員に、簡単に挨拶を交わしていた。

「授業が大幅に遅れておりますので、生徒は皆、受講する時間が取れないのですよ。ミンタさんたちは、例外的にこうして参加しています」


 ラヤンがジト目になって腕組みをした。ついでに尻尾で軽く床を「パシン」と叩く。

「そうなのよね。私もギリギリなのよ。このせいで私が留年したら、ただじゃおかないわよ」


 一方のムンキンは余裕の表情だ。「フフン」と鼻先でラヤンの文句を笑う。

「そりゃ、ただの言いがかりですよ、ラヤン先輩。僕は真面目なので、授業の遅れなんか起きていませんしっ」

 ミンタに至っては、何もいわずにニヤニヤしているだけだ。


 一触即発の雰囲気になったので、すぐにレブンが間に割り入る。しかし、レブンも慣れているようで、口元すらセマンのままで魚の口に変化していない。

「まあまあ、落ち着いて下さい。言い争うと、さらに時間が過ぎてしまいます。留年が確実な人は、ここに1人います。留年仲間には不自由しませんよ」


 指摘を受けたジャディは不敵に微笑んでいる。背中の翼が広がりかけたが、途中で止めて再び折り畳んだ。

「オレ様は、別に卒業なんて考えていないぜ。殿の授業が受けられる間は、ずっと学校に来るつもりだ」

 実際、ジャディの扱いは校長の特例措置によるものなので、正規の生徒ではない。一般の受講希望者と同じような扱いだ。制服も羊族用の事務職員の制服のままである。


 こうして、いつものやり取りが一通り終わったのを見計らって、サムカがマライタ先生を指名した。

「シーカ校長の予定が詰まっているようでね、まずはマライタ先生から、このドラゴン殺しの剣について簡単に10分間ほど説明をしてもらう。では、始めてくれ。〔防御障壁〕の再確認は済ませてある」



 ドワーフのマライタ先生が、サムカに勧められるまま教壇に立って生徒たちに挨拶した。手には、くだんの剣が握られている。

「それじゃあ、簡単に説明するぞ。この剣だが、正式名称は『試作10万807番』だ。ありえないほどに開発が難航してな、こんな酷い番号になってしまった。まあ、ここでは『ドラゴン殺しの剣』と呼称しても良いが、面倒なので『中性子剣』と仮称するぞ」

 どちらも面倒な名称だと思えるのだが、ここは異を唱えない聴衆である。マライタ先生が話を続ける。

「この剣の素材は、知っての通り中性子物質だ。とある中性子星から採集している。表層じゃなくてそれなりに深い場所から採掘したんだが、それでも純度がやや低いんだよな。純粋な中性子物質じゃなくて、ゴミとしての原子や陽子やらが混じっている」


 中性子星は、一般には太陽よりも巨大な恒星が最後を迎えた後にできる星だ。強力な重力によって、原子が押し潰されて、中性子になっている。

 電子や陽子がなくなっているので電気的な反発力が失われ、重力に従って中性子が密集状態になっている。そのため密度が桁違いに高い。それは同時に、質量が非常に多いという事でもある。


「宇宙でも最上位級の固い物質だな。だが、採掘してすぐに剣に加工できるわけじゃない。中性子星から離れたコイツは、通常ならすぐにバラバラになって飛び散ってしまうんだよ。磁力で押さえつけるとしても、とんでもない磁場が必要だ。剣を持つ奴が磁場でやられて死んでしまう程だな」

 軽く肩をすくめるマライタ先生。

「一応は、中性子星の大地の妖精と契約を交わしているんだが、それでもまだ不充分だ。その制御に滅茶苦茶に苦労したんだよ」


 ここでマライタ先生が、チラリとドラゴン部長の顔色をうかがった。やはり苦虫を噛み潰したような渋い表情をしている。

「どうやって制御に成功したかは、残念だが言えない。政府間の協定が出来ちまったからな。ワシも後で、関連記憶と思考履歴を削除する手続きをする。白状させるような魔法をワシにかけてもな駄だぞ」


 残念そうなため息が生徒の間から漏れてくる。赤いゲジゲジ眉の端を上下させて、少し愉快そうにそれを聞くマライタ先生だ。

「ちなみに、本来なら柄と鞘も中性子剣に吸い込まれる道理だし、空気も吸い込まれるんだが、それも制御している。質量も実は膨大なんだが、これも制御している。こんな物質、普通は持つ事なんかできないぞ。これだけで余裕で月よりも質量があるからな。重力制御やら磁場制御やらしていないと、振り回しただけで、地球の自転が早まったり遅くなったりする。地軸の角度も簡単に変わるほどだ」

 中性子剣を目の前に持ってきて、柄に手をかける。

「だから、コイツを使用する事も禁止だ。これが中性子剣を拝める最後の機会だな」

 スラリと音もなく長剣が貧相な鞘から抜かれた。


 瞬時に警報が鳴ったが、すぐに収まる。サムカの使い魔が何かしたようだ。パリー先生〔分身〕を刺激しないために、使い魔とシャドウは高度な〔ステルス障壁〕を展開している。そのために、彼らの姿を〔察知〕できたのは、生徒ではペルだけだったようだ。ミンタに肘で突かれて、小声で解説している。

 サムカの他に見えているのは、墓用務員とドラゴン部長だけのようだが……どちらもチラリと見上げただけで、その後は何気ない表情をしているだけだ。

 サムカがマライタ先生に、軽くうなずいた。

「大丈夫だ。このまま続けてくれ」


 マライタ先生が黒褐色の瞳をキラリと光らせて、白い大きな歯を見せる。

「おう、さすがだな。では、続けるぞ。この中性子剣は魔力を帯びていないから、直接見ても平気だ。本来は、こうして抜いただけで放射線がバンバン飛ぶんだけどな。それも、中性子星に戻しているんで被曝はしないぞ。ただ、念のために剣の先には触れないようにな。潜在的な危険性は、とんでもなく高いから警報が鳴ったんだ」


 生徒たちが感心した様子でマライタ先生の話を聞いている。エルフ先生〔分身〕が、中性子剣を眺めながらジト目になっていく。

「確かに刀身からは放射線の放出は見られませんね。本当に、一体どうやって制御してるのかしら」


 教壇の上に散乱していた何かの木の破片とコンクリの欠片を、マライタ先生が拾い上げた。先程のジャディの羽ばたき旋風で、舞い上がったのだろう。一応、サムカに見せて確認を取る。

 サムカが使い魔から報告を受けて、うなずいた。

「マライタ先生。その破片と欠片には特に何も魔法はかかっていない。普通のゴミだそうだ」


 マライタ先生が、木の破片とコンクリの欠片を剣を持っていない左手だけでお手玉しながら、赤いゲジゲジ眉を愉快そうに上下する。

「了解だ。後で、そこの用務員に「掃除をさぼるな」と言っておいてくれ。では、この中性子剣の特徴について話すとしよう」

 もう一度、左手で破片と欠片をお手玉する。

「コイツは接触した物質を『全て』中性子にしてしまうんだよ。剣の一部として取り込んでしまう。よく見てろよ。あ。その際に剣先から中性子線のビームが放たれる。天井が焦げるかもしれないから、テシュブ先生、頼むぜ」


 サムカがうなずいて、使い魔に剣先の直上の天井を特別に〔防御障壁〕で強化させた。それを待ってから、マライタ先生が左手に握っていた破片と欠片を空中に飛ばす。すぐに、右手に持っている中性子剣の刀身に当たった。

 《ブオン!》

 空気が振動して、刀身全体が薄赤く光った。その赤い光が剣先から真っ直ぐに伸びて、教室の天井に照射される。

 その赤いビーム光線は1秒も経たずに消滅してしまったが、空気の振動はまだ続いている。


 目を丸くしている生徒と先生たちに、マライタ先生が満足そうな笑みを向けた。

「注目するのはビームじゃないぞ。破片と欠片がどうなったのか、ちゃんと見えたか?」


 思い出したかのように「ハッ」として、各自の手元にある〔空中ディスプレー〕画面の撮影記録を確認する生徒と先生〔分身〕たちだ。無事に撮影できていたようで安堵している。


 その記録映像には、刀身に接触した木の破片とコンクリの欠片が、瞬時に赤く染まって消滅する様子が映っていた。マライタ先生も、自身を遠隔自動撮影している分子カメラからの映像を確認する。このカメラは空気の分子程度の大きさしかないので、目では見えない。

「うん、よく撮れているな。まあ、この手の映像情報は、ドワーフ政府の研究機関に山ほどあるんだがね。著作権という面では、ワシのモノになるから都合が良かったわい」

 さすが盗撮が趣味だと豪語するだけはある。

「こうやって、あらゆる物質が中性子に変わってしまうんだよ。これに対抗できるのはブラックホールぐらいじゃないかな。イモータルも通常物質で体が構成されている以上、中性子化は避けられないって理屈だ」


 教室の後ろの隅で墓用務員と何か立ち話をしていたドラゴン部長が、手を挙げて質問してきた。

「マライタ先生。質問だが、魔力を有している者でも関係なく中性子化されるという事かね?」

 マライタ先生が剣を掲げたままで、赤いゲジゲジを上下させた。

「実験した事がないから、何ともいえないな。だが少なくとも、ドラゴンは剣に吸収する事ができている。理論上では、原子や分子が中性子に変わるから『生物でなくなる』事は確実だ。生物でなくなった後でも魔力を行使できるかどうかは、分からないな。でもまあ、隣に生物じゃない人がいるから、魔力で何とかなるのかも知れないが」

 律儀にメモを手元の〔空中ディスプレー〕画面に取るドラゴン部長だ。


 不意に生徒や先生〔分身〕からの視線を一身に浴びる事になったサムカが、首を少しかしげて錆色の短髪を軍手でかいた。

「アンデッドで体が中性子物質で出来ている者は、残念ながら見た事はない。だが、〔防御障壁〕を張れば中性子星に上陸しても問題なかった。力場を〔遮断〕するからだろう」


 マライタ先生がビームの放射と、刀身の発光が収まったのを確認して鞘に剣を収める。一息つく先生だ。

「ふう……説明はこれで終了だな。じゃあ、ワシはこれで教室に戻るとするよ。自作のアンドロイドに授業を任せているんだが、やはりワシ本人が行うべきだからな」


 時間を確認した校長が満足そうに微笑む。エルフ先生に礼を述べて、手を離した。

「ちょうど10分間でしたね。さすがです。では、私も事務仕事に戻りますね。私には少々専門的過ぎて、半分程度しか理解できませんでしたが、有意義な講義だったと思いますよ」

 確かに、マライタ先生の講義中は、目を点にしたままの校長だった。


 中性子剣をマライタ先生から受け取ったサムカが、今度はドラゴン部長を手招きした。

「では、約束通りに剣を渡すとしよう。受け取ってくれ」


 ドラゴン部長が仏頂面のまま、床を滑るように歩いて教壇に上った。そのままサムカから剣を受け取る。

「我の任務は『市民』の救出だ。剣には金星の妖精がいくつか吸収されているから、我が世界へ持ち帰る事はできぬよ。拉致したとかいわれて、妖精界からの非難を受けるだろうからな。金星へ持っていき、埋めるなりして処分した方が良かろう」

 パリー先生〔分身〕がエルフ先生の肩で、ニヤニヤしながらうなずく。

「そうね~そのほうがいいかも~」


(妖精とは、つくづく面倒な連中だな……)と内心思うサムカであった。エルフやノーム先生〔分身〕とも視線を交わすが、2人とも目を閉じて肩を軽くすくませるだけだ。ドラゴン部長の意見に素直に従う事にする。

「なるほどな。シーカ校長、タカパ帝国からの指示は出ているのかね?」

 校長がドア付近で振り返って、両手を振って否定した。

「いえ。ドラゴン政府に一任するという事だけです」


 サムカが再びパリー先生〔分身〕やエルフ先生〔分身〕、ノーム先生〔分身〕と視線を交わす。特に反応は出ていない。

「そうかね。では、ドラゴンの部長の言う通りにしてみるか。剣を地球に置いても、面倒事が増えそうな予感がするだけだ。セマンの盗賊や冒険家にとっては、垂涎の的だろう」


 教室の全員がサムカの提案に同意する。それを見てから、ドラゴン部長が中性子剣の柄に手を触れた。

「では、救出を開始する」

 そのまま「スイッ」と、柄に当てた手を頭上に振り上げた。同時に、柄からゴースト状の白い煙が噴き出す。その煙が、たちまちドラゴンの形状にまとまった。


 サムカが笑いを堪えながら、霧状のドラゴンを見上げる。

「救出おめでとう、ドラゴン君。気分はどうかね?」


 白い霧状のドラゴンが「ミャア……」と力なく吼えた。大きさは頭から尻尾の先まで含めても2メートル弱しかない。背中に生えている翼も縮こまっていて、差し渡し20センチもあれば良い方だ。

「た、たすかったああああああ……」

 泣き言を漏らして、ドラゴン部長にすがりつく霧ドラゴンである。先日の威厳はもう欠片も残っていなかった。


 エルフ先生〔分身〕が笑いを堪えながら、肩先で笑い転げているパリー先生〔分身〕を右手で押さえつけている。ノーム先生も視線を外して、肩を震わせているばかりだ。コメントする余力はないらしい。

 生徒たちも必死で平静さを保とうと努力している。ジャディは既に、光の精霊魔法で複数個所を撃たれて気絶していた。


 ドラゴン部長も口元を大きく緩ませたが、「コホン」と大きく咳払いをして真面目な表情になった。足元にすがりついて泣いている白い霧ドラゴンに告げる。

「指名手配犯プラング・ドニア・テ・クドゥアを救出。帰国後、警察へ連行するから、そのつもりで。我には逮捕権がないので、任意同行を求めるだけだが……我と共に帰国するかね?」


(だったら、警官を寄越せよ……)

 無言でジト目になる校長を含めた先生と生徒たちである。墓用務員は、エルフ先生の肩で押さえつけられているパリー先生〔分身〕の視線を受けてニコニコしているままだ。霧ドラゴンの名前を口にしているが、特に何も起きていない。ドラゴン部長が対処しているのだろう。


「もちろんですうう。連れていって下さいいいいい……」

「ミャアミャア」泣きながら訴える霧ドラゴンである。


 ドラゴン部長が霧ドラゴンに左手を添えながら、背中の3対の羽毛で覆われた優美な翼を広げた。ジャディの翼とは大違いの優美さである。校長に黒褐色の瞳を向けて、軽く会釈をした。

「では、我はこれで。賠償については後日、我が政府より具体的に提示されるであろう」

 そのまま、あっけなく姿が消えた。


 わずかに光の粉のような羽毛の破片が床に散ったので、それを手早く回収して〔結界ビン〕に放り込むマライタ先生とノーム先生だ。さすがに抜け目がない。

 アイル部長は数秒ほど反応が遅れてしまったので、回収できなかった。悔しがる部長に、校長が「ポンポン」と背中を叩く。

「アイル部長ですが、金星の調査部隊の先遣隊隊長に任命されました。剣を金星に持っていくのですよね。どうか、彼も同行させて下さい。では、私もこれで失礼しますね」


 サムカがうなずいて、アイル部長に話しかける。

「ではこの後で、金星へ皆で〔テレポート〕して向かうとするか。野外実習という事にすれば良かろう」

 パリー先生〔分身〕がエルフ先生の手の押さえをはねのけて、ピョンと肩の上で跳び上がった。

「賛成~すっごく賛成~。こんな地下にいたらしんじゃう~」




【湖の水】

 〔テレポート〕魔法の準備が整うまでの間、サムカが湖の水が入った小瓶をペルとレブン、それに気絶から回復したばかりのジャディに手渡した。その簡単な説明を聞いて、レブンが口元を魚に戻している。両目まで魚に戻ってしまいそうな勢いだ。

「テ、テシュブ先生……それって『人体実験』っていうんじゃ」


 一方で、ジャディは感激して教室内を飛び回っている。暴風が容赦なく教室内を吹き荒れるが、もう誰も気にしていない。

 サムカの使い魔やシャドウだけは、教室の維持に注意を払っているが。しかし、彼らもエルフ先生やパリー先生の〔分身〕がいるので、元凶のジャディを攻撃したりする事は慎んでいる。おかげで、好き放題に教室内を飛び回るジャディであった。

「何をいってんだよ! 殿がくれた物は何でも全部全て隅から隅まで素晴らしいんだよっ。かーっ分かってねえなあっ」


 盲信者に何を言っても無駄なので、代わりにペルに魚目を向けるレブンだ。ペルもかなり戸惑っている様子だが、暴風吹き荒れる中で、とりあえず微笑んだ。

「ま、まあ……注意して扱えば大丈夫よ、きっと」

 レブンがガックリと肩を落として、力なく微笑み返す。

「そ、そうだよね……〔蘇生〕や〔復活〕の準備は万全にしておこうっと」


 エルフとノーム先生〔分身〕もサムカを非難しているので、さすがにへこむサムカであった。

「そ、それほど常識外れの行為だったかね?」

 2人の先生〔分身〕が、完全に同調して首を縦に振った。エルフ先生〔分身〕がジト目でサムカを睨んでいる。

「まったく……これだからアンデッドは」


 法力サーバーが稼働しているので、今では〔蘇生〕や〔復活〕は問題ない。直前の記憶が残らないだけだ。しかし、〔蘇生〕〔復活〕時に遺伝子情報や共生微生物などの同期でエラーが起こりやすい。その〔治療〕に時間と手間がかかる。今は授業時間が不足している状況なので、死んでいる暇はない。


 そのような説明を、ノーム先生〔分身〕から再度受けるサムカであった。やはり、アンデッドにはどうも理解しにくい内容のようである。錆色の短髪を軍手でかきながら、目を閉じて首を傾けている。

「むう。その注意事項は以前にも聞いているな……心しておこう」

 そして、まだ落胆した表情で3人の教え子たちに告げた。

「そういう事だ。その水は廃棄して構わぬよ」


 当然ながらジャディは頑として断っている。また大泣きを始めそうなので、慌ててレブンがジャディの翼を両手で押さえつけて畳んだ。おかげで、ようやく教室内の暴風が収束する。

「慎重に実験してみます、テシュブ先生。まず僕たちの〔蘇生〕と〔復活〕用の組織サンプルを使って、細胞毒性や遺伝子機能の阻害などが起きないかどうか確認します。その後で、メダカや鶏の雛鳥やネズミなんかに飲ませてみて、統計処理をすれば、大よその効果が推測できます。僕たちへの治験は、その後で行えば良いかと思います」


 ペルもレブンと一緒にジャディの尾翼にすがりついて押さえつけていたが、レブンの意見に賛同する。

「そ、そうです先生。法術クラスや招造術クラスにも相談して、興味を持つ生徒と一緒に調べてみます。貴重な死者の世界の産物ですもの、きちんと長所短所を理解すれば、きっと使えます」


 ジャディが何を思ったのか、泣き暴れをピタリと止めた。風も完全に止んで、静寂が教室内を包み込む。

「そ、そうか。抗争相手の飛族や山賊に飲ませて調べりゃいいのか。飲ませた人数が多けりゃ多い程、データとやらが揃うんだな。よし分かった。やってやりますぜ、殿っ!」

 どこかの羊と似たような事を言っている。


 ムンキンがニヤニヤしながら簡易杖をジャディに向けた。

「大騒ぎになりそうだな。また記憶を飛ばしておくか?」

 ミンタとラヤンが、ジト目のままで肩をすくめて首を振る。ほぼ完全に同期した首振りだ。

「無駄よ。こういうのは飛族の性質だから。記憶を消しても、すぐにまた同じ事を思いつくだけ」

 ラヤンの冷徹な言葉に、ミンタも深くうなずいている。

「そうよ、ムンキン君。魔力の無駄だから止めておきなさい。勝手に部族間抗争をさせておけばいいわ」


「仕方がないな……」と言わんばかりに、ムンキンがジト目のまま簡易杖を机の上に置く。そのままサムカにジト目を向ける。

「それじゃあ、テシュブ先生。授業の続きをお願いします」


 ジャディが席についた。手元の〔空中ディスプレー〕画面を色々と操作して、何か作戦を考え始めている。嬉々としていて、琥珀色の瞳が鋭く光っている。集中しているおかげで、静かさが続く教室だ。


 サムカが次いで、エルフ先生〔分身〕と肩先に留まっているパリー先生〔分身〕に、山吹色の視線を向けた。

「待たせたね。では、金星へ向かうとしようか。この剣を返しに行こう」

 エルフ先生〔分身〕が肩に座っているパリー先生〔分身〕と、隣のノーム先生〔分身〕とで視線を交わす。そしてサムカに顔を向けて、空色の瞳を細めて微笑んだ。

「そうですね。一応、念のために宇宙空間に対応した〔防御障壁〕を準備しておいて下さい。かなり〔地球化〕されたとはいえ、まだ不安定ですからね」

 パリー先生〔分身〕がヘラヘラ笑いを浮かべる。

「完全に〔地球化〕するまで~10年くらいかかる~」


 それを聞いて、露骨に落胆しているのはアイル部長であった。ジャディが起こす嵐に魔法具をいくつも使って耐えながら、金星へ一緒に向かう準備をしていたのだが……金星現地での〔防御障壁〕までは考えていなかったようだ。日焼けした両耳を前に伏せて、鼻先のヒゲも全て垂れてしまっている。

「わ、私の持っている魔法具では、宇宙空間への対応はできません……うう、残念ですが、今回は見送りでしょうか」


 エルフ先生が申し訳なさそうにアイル部長を空色の瞳で見て、軽く頭を下げた。

「すいません、アイル部長さん。不測の事態が起きる恐れがまだあるので、自身の身は自身で守ってもらう必要があります。今回は、遠慮して下さると有難いですね。次回に備えて、マライタ先生と相談して魔法具を調整してみて下さい」


 渋々、従う事にするアイル部長であった。

「……そうですね。皆さんの足手まといになるでしょうし。準備を更に整えてから再挑戦してみますよ」


 この時、既に校長とドラゴン部長、それにマライタ先生も退室していなくなっていた。アイル部長が寂しげに挨拶をして、教室からトボトボと歩いて出ていく。

 残るは墓用務員だが、相変わらず教室後方のロッカーの隣で、ひっそりと影のように立って微笑んでいる。本来ならば、ジャディが引き起こした教室内暴風の後片付けと掃除をしないといけないのだが……当然のようにさぼっている。背後に掃除道具が収められているロッカーがあるのだが。

「さすが妖精ですね。金星ほどの惑星を10年程度で〔地球化〕できるのですか。ドワーフのマライタ先生が聞いたら驚くでしょうね」


 ペルは魔法工学もよく勉強しているので、墓用務員の言いたいことが分かるようだ。両耳をピンと立てて墓用務員に何度もうなずいている。サムカが〔テレポート〕魔法陣を出現させて、座標の最終確認をしているのを見ながら、小声でレブンとジャディに話しかけた。

「魔法を使わないと、多分、数十万年くらいかかると思う。それでも、地球と同じような環境にはできないかも。妖精さんって本当に凄いのね」


 レブンが口元を緩めて、ペルに賛同した。今は落ち着いたのか、セマン顔だ。

「だよね。ドラゴンと妖精の大戦争、凄かったからね。僕たちは避難して正解だったと思うよ」

 ジャディはパリー先生に何回かやり込められているので、不服そうに顔の羽毛を膨らませている。作戦の立案は済んだようで、手元の〔空中ディスプレー〕画面を消去した。

「まあな。傍若無人で、不死で、群れるから、始末に負えねえ」


 レブンが、そんなジャディに明るい深緑色の瞳を向ける。

「それはそうと作戦案は、もうできたの?」

 ジャディが凶悪な笑みを口元に浮かべた。琥珀色の瞳がギラリと輝く。

「おう。襲撃のパターンは決まっているからな。そいつを、ちょいと加工すれば出来上がりだ。山賊や盗賊稼業の飛族が、帝国がゴタゴタしてるのに乗じて暴れているからよ。捕まえても、今じゃ簡単に殺す事はできねえし、かといって警察に突き出しても肝心の警官がいねえ。仕方がねえから〔石化〕しているんだ。そいつらで実験すれば問題ないだろ」


 レブンがムンキンと顔を見合わせて、頭をかいた。ムンキンが真面目な表情でジャディに告げる。

「気持ちは良く分かるけどな。残念だが、それは確実に問題行為になるぞ。〔石化〕だけで我慢しておけ」

 レブンもムンキンと同意見だ。

「そうだよ。逮捕権は僕たちにはないし、処罰という名の暴力行為は犯罪だよ。人体実験の結果公表も難しいだろうしね。家畜の鳥の雛なんかで、試した方がきちんとした治験になるから、そうすべきだよ、ジャディ君」


 2人にこうまで言われては、さすがに黙るしかないジャディであった。渋々うなずく。でも無言のままだが。


 そうこうする内にサムカが〔テレポート〕魔法陣の最終調整を終えて、2人の先生〔分身〕に顔を向けた。エルフ先生〔分身〕と、ノーム先生〔分身〕が揃って微笑む。合格のようだ。それを受けて、サムカが生徒たちに山吹色の視線を向けた。

「待たせたね。では、金星へ旅行してみようか」




【青い海と空の金星】

 教室から瞬時に金星へ降り立つ、大小11名の集団だ。サムカと対立する魔法場を帯びているエルフ先生〔分身〕やパリー先生〔分身〕がいるので、〔テレポート〕魔法陣の術式も複雑になってしまった。

 ペルたち3人のような闇の因子を有する教え子だけであれば、簡単に〔テレポート〕できるのだが、今回は様々な魔法適性の所有者の一団なので大変だった様子である。ほっと安堵するサムカだ。


 エルフ先生〔分身〕が、肩のパリー先生〔分身〕の状態を確認してから、サムカに微笑んだ。

「お見事です、サムカ先生。私もパリー先生〔分身〕も、異常ありませんよ」

 ノーム先生〔分身〕もニコニコして、背中に引っかけていた大きな三角帽子を頭に被る。

「ウィザード魔法を勉強した成果が出ていますな、テシュブ先生」


 なぜか一緒に付いてきた墓用務員も、キョロキョロして感心している様子だ。そのまま散歩を始めて、磯の上を歩き始めた。

「ほう、ここが金星ですか。確かに、かなり〔地球化〕が進んでいますねえ。私は少し辺りを散策してきますね。ですので、私に構わずに授業を進めて下さい。では」

 そのままテクテクと磯の上を歩いて去っていった。磯の岩は、かなり鋭利に尖っていて、下手をすると足を切ってしまいかねない程なのだが、器用に歩いている。相当に丈夫なサンダルのようだ。


 ジャディはジャディで、すぐに上空高くまで舞い上がってしまった。

「ひゃっほう! こりゃあ良い風だぜっ。殿お! オレもちょっと辺りを飛んでくるッス!」

 あっという間に音速を超えて、水平線に向かって飛び去ってしまった。爆音が轟くが、サムカたちはもう慣れているので、騒音を〔防御障壁〕で遮断している。


 サムカたちが降り立ったのは小島の海岸だった。小島は鬱蒼とした熱帯林で覆われていて、既に虫やら小鳥が木々の枝を飛び回っているのが見える。

 海岸は岩だらけの磯なのだが、ここにも無数の小魚やカニに貝の姿があった。先日、妖精大戦争があったばかりなのだが、驚異的な生命の息吹である。


 目の前には水平線がキラキラと太陽の日差しを反射する、青い海が広がっていた。波もかなり穏やかで、先日のような沸騰状態ではない。

 早速、レブンが海水に両足を浸けて「バシャバシャ」やっているところを見ると、水温も地球とほぼ同じのようだ。そのレブンが海水を口に含んで、思わず魚顔に戻ってしまっている。

「地球よりも塩辛くない。ほとんど淡水……? いや、違うな。溶けている塩類の組成と濃度が違うのか。そういえば、カニや貝も淡水性っぽいな」


 そして、海に浮かんで漂っている森の群れを眺めた。水平線上にまで、まるで浮島のように100以上もの森が浮かんでいる。見た目はマングローブの低い森を下層に、熱帯の高木が乗っている複層構造の森だ。

「だから、森が海でも生育できているのかな」


 パリー先生〔分身〕がエルフ先生の金髪頭の上に仁王立ちして、偉そうに胸を張って答える。

「海の妖精と~上手く交渉できたのよね~。地球よりも~森の妖精にとって良いかも~。余計な塩類や金属なんかは~土中に閉じ込めてる~炭素や硫黄もね~」

 足元のエルフ先生も、半分呆れたような笑顔になって同意した。

「そうね。エルフ世界でも、こんな光景は見られないわね」


 海中には既に大型の魚類が出現しているようで、体長3メートルほどもあるマグロのような魚の群れが、海面から跳び上がって高速で回遊しているのが遠目に見えた。時速90キロは出ているような遊泳速度だ。食物連鎖や生態系も急速に形成されているのだろう。


 パリー先生〔分身〕が、その巨大魚の群れを見つめながらヘラヘラ笑いを浮かべる。

「好き放題できるからね~。邪魔な『化け狐』もいないし~。生き物作り放題~」


 既に50メートルほど散歩して離れている墓用務員は、微妙な表情になりながらも穏やかに周囲を眺めている。サムカが〔念話〕で感想を聞くと、〔空間指定型の会話〕魔法を使って答えてきた。ノーム先生が使うような、大地の精霊を3つ使用した本格的なものだ。墓用務員も現代魔法をかなり習得しつつあるようである。

「これもまた、墓所の参考になりますね。引っ越してくる墓所が現れるかもしれません」


 サムカが素直にうなずいた。墓に合わせて〔空間指定型の会話〕に切り替える。こちらは〔オプション玉〕を2つ使った普通の形式なので、今ひとつの音質だ。

「なるほどな。死者の世界でも『このような事』が起きれば、色めき立つ者が多く出るだろう」


 そのサムカの山吹色の目に、青い空が映った。今はもう真っ白な入道雲がいくつも湧き上がっていて、地球と同じだ。しかし、可視光線以外の周波数の光や電磁波も知覚できるサムカは、この青空の向こうに広がっている現象にも気がついたようである。近くのエルフ先生〔分身〕に、空を指差しながら聞く。

「クーナ先生。オーロラが満天の空に広がっているのだが。これには、何か理由があるのかね?」


 エルフ先生が空を見上げて、すぐに微笑んでうなずいた。

「そうですね。信じ難い事ですが、金星に強力な磁場が生まれているのですよ。地球よりも強力ですね。そのせいで、太陽風の荷電粒子が磁場に捉えられて、こんな赤道上にまでオーロラが発生しているのです。地球よりも太陽に近いですからね、オーロラも大規模になります」


 パリー先生〔分身〕が、なおもエルフ先生〔分身〕の頭の上で仁王立ちしながら自慢気にサムカに告げる。

「妖精って凄いのよ~。金星の自転周期も変えたし~。今は地球とだいたい同じ~。太陽は西から昇るけど~」

(自転の方は、大地の妖精の仕業だろうな……)と思うサムカであった。磁場も彼らによるものだろう。


 エルフ先生〔分身〕が、穏やかな熱帯の海を満足そうに眺める。

「おかげで金星の大気も安定しました。地球よりも強い日射については、ドワーフ政府の協力で透明な日傘のような膜を、金星と太陽の間に設けて対処しています。しばらくの間は、その膜の調整を行うために気象が若干不安定になるそうですが、それが済めば地球のような気候になるそうですよ」


 サムカが感心して空を見上げた。確かに膜のような巨大な構造物が宇宙空間に浮かんでいる。

「魔法工学か。大したものだな。魔力を使えば、私のような者でも闇魔法の〔防御障壁〕で金星を包み込んで、太陽光の調節ができるが……金星に私が常駐するわけにもいかないからなあ。魔力を使わずに対処できるのであれば、本当に便利だ」

「できるのかよ、テシュブ先生……」

 一斉に呆れたような視線がサムカに集まる。ジャディは既に狂喜して上空を飛び回っているので、聞いていなかったようだ。今は水平線上を音速を超えた速度で飛行している。


「コホン」と軽く咳払いをしたサムカが、腰に吊るしてあったドラゴン殺しの剣を鞘ごと外して、軍手をした左手で頭上に掲げた。

「では、始めるとするかね」

 無造作に、スラリと剣を鞘から抜く。


「げ!?」

 その瞬間、サムカの周囲で剣を見上げていた先生〔分身〕と生徒たちが全員、同心円状に5メートルも吹き飛ばされた。慌てて剣を鞘に収めるサムカである。

「だ、大丈夫かね?」


 鋭くとがった岩だらけの磯をゴロゴロ転がって、ピクピクと痙攣している生徒たちと先生〔分身〕を気遣って、錆色の短髪を軍手でかいて謝った。

「済まなかった。ドラゴン君が抜けたから、魔力制御が充分に行われていないようだな」


 そして、改めて鞘を見つめる。サムカには特に何も影響が出ていない様子である。剣と鞘の噛み合わせを良くするために施していた〔石化〕処理部分に目を留める。

「暴走気味では、取り扱いが面倒だな。仕方あるまい、鞘ごと剣を〔石化〕処理するか」

 次の瞬間。剣が鞘ごと石になった。それでもまだ、整った眉をひそめている。

「むう……この程度の〔石化〕では、完全に封じる事は無理か。まあ、注意書きを鞘に刻んでおけば良かろう」


 そのまま、サムカが指で石になった鞘を撫でる。それだけでウィザード語の警告文と取り扱い上の注意事項が記された。ウィザード文字は本来は立体なので、レリーフ状にして鞘に埋め込む。



 そんな事をサムカがしている間に、先生〔分身〕と生徒たちがようやく麻痺状態から自力で回復したようである。まだフラフラしているのだが、何とか立ち上がってきた。

 次に、文句をこぼしながらも、磯の岩でズタズタになった制服や体を、法術や生命の精霊魔法で〔修復〕、〔治療〕する。皆、血まみれで、ラヤンなどは骨折までして骨が見えていたのだが、迅速に自己〔治療〕を終えていた。最後に、全員の制服にべったりついてる血糊や肉片毛皮などを、ペルが闇の精霊魔法で〔消去〕して回る。


「何だ何だ。面白そうな事やってるじゃねえかよ。オレ様も混ぜろやコラ」

 上空を旋回して飛び回っていたジャディが、琥珀色の目をキラキラさせて舞い降りてきた。

 ミンタとムンキンが簡易杖を向けようとしたが……まだ失血の影響が残っているのか、力が入らない様子である。おかげで迎撃されずに済んだジャディに、ペルが薄墨色の瞳を向けた。

「ごめんね、ジャディ君。事故処理はもう終えちゃった」


 不満そうに羽毛で覆われた顔を膨らませるジャディである。金星へやって来てから、早くも冬毛から夏毛に切り替わり始めている。とはいえ、黒っぽい鳶色から普通の鳶色になる程度だが。

「何だよ、事故かよ。紛らわしいな」


 そんな会話を無視して、ラヤンがペルに礼を述べてからサムカに食ってかかる。

「ちょっと! もう少しで、全員死ぬところだったわよっ。何を考えているの! このアンデッドはっ」


 ジャディがラヤンに喜々として殴りかかろうとするのを、慌てて抱きついて抑えるペルだ。レブンはまだ魚頭の状態で魚目がクルクル回っていて、目の焦点が定まっていない。


 サムカもジャディに左手の平を向けてなだめる。そのままラヤンに謝った。

「済まなかったな。私も、ここまで魔力が暴走しているとは予想していなかった。まあ、ここにはパリー先生〔分身〕もいる事だし、大した事にはなるまいよ」


 エルフ先生〔分身〕がジト目のままでサムカを睨みながら、大きくため息をつく。肩ではパリー先生〔分身〕が、よく分からないが大威張りしてドヤ顔をきめている。

「サムカ先生……先程の魔力解放は、即死に至るような強力なものでしたよ。恐らくは、風の精霊場が噴き出したのでしょうね」


 そして、ここでようやく自身の制服の状態を確認していく。法術による、衣服と装備の自動修復が上手く機能したようで、特に破損した部位は見当たらない。代わりに、法術を込めた〔結界ビン〕が1つ空になっていた。

「〔防御障壁〕も全て破壊されてしまいました。さすが風の妖精ですね。校長先生やアイル部長を呼ばなくて正解でした。サムカ先生だけは『運よく』無事で良かったですね」


 サムカは〔防御障壁〕で防御できていたと思っていたのだが、実はそうではなかったとエルフ先生から指摘を受ける。

 剣を中心にして全方位に風の精霊場が噴き出したので、ちょうど中心地であるサムカがいる場所だけが無風になっていただけであった。いわば台風の目や、竜巻の中心と似たような状態だ。その指摘を受けて、再び錆色の短髪を軍手でかくサムカであった。


 パリー先生〔分身〕がヘラヘラ笑いを顔に浮かべながら、エルフ先生の肩に座ったまま追加の指摘をしてくる。

「妖精も中性子化してるのかもね~だから~〔妖精化〕攻撃じゃなかった~ラッキーだったわね~」


 確かに突風の変わりに〔妖精化〕攻撃を放たれていたら、今頃はパリー先生を除く全員が『何か別の存在』に強制〔変換〕されていただろう。


 サムカがチラリと墓用務員を見る。彼は150メートルほど離れた磯の上を散歩していたので無事だった。

「どうしましたかあ~」

 などと声をかけながら、こちらへ小走りでやって来ている。(ずいぶんと人間らしい行動をするようになったなあ……)と感心しているサムカだ。墓用務員にも、簡単に今の状況を通常音声で伝えた。

「皆が無事なので、散策を再開して構わないぞ」


 墓用務員が困ったような表情になって、サムカに抗議してきた。なおも、こちらへ駆けてきている。

「そういう合理的な行動は、この場合良くないのですよ、テシュブ先生。いわゆる気持ちの問題です」

 反対に、やり込められてしまったサムカだ。


 数秒後、墓用務員が到着して、エルフ先生〔分身〕やラヤンと何か話し始めた。すぐに、彼の作業服のポケットから、いくつもの〔結界ビン〕が取り出されて、エルフ先生〔分身〕とラヤンに手渡されていく。

 どうやら、法術の補充をしているようだ。なるほど、しっかりと用務員の仕事を果たしている。


 ノーム先生〔分身〕が、サムカの赤茶けた中古マントの裾に付いた泥を、簡易杖で「ポンポン」叩いて落としてくれた。

「これほどとは誰も予測していなかったし、気にする事はないよ、テシュブ先生」


 完全に石に覆われた剣の鞘先を、サムカが磯の上に立てる。軽く肩をすくめながら重ねて謝った。

「死者の世界で剣を抜いた時は、こんな事は起きなかったから油断していた。済まなかったね。さて、ラワット先生。どうすれば良いと思うかね? 私は、妖精に渡すべきだと思うが」


 ノーム先生〔分身〕が、銀色の口ヒゲの先を手袋をした右手で捻っていく。

「そうさな。素材が大地の属性だから、大深度地下の妖精に渡すのが、教科書通りの手法なんだが……封じされている妖精の1つが風というのが厄介だね。風は大地に〔干渉〕するのだよ。この場合、金星内部のコアやその周辺の対流に影響が及ぶ恐れがある」


 今ひとつ理解できていない様子のサムカに、「コホン」と軽く咳払いをしたノーム先生〔分身〕が言い直す。

「火山活動が異常に活発になる恐れがある。それは森の妖精や海の妖精にとっても好ましくないだろうね」


 確かに、火山がポコポコ海上に生えてきて、ドカドカ噴火し始めたら、生物にとっては多大な迷惑になる。その様子を想像して、サムカも理解できたようだ。

「うむ。では、どうすれば良いと思うかね?」

 ノーム先生〔分身〕が、大きな三角帽子のつばをクイッと指で持ち上げた。

「それ以外の属性の妖精に渡せば良いさ」


 エルフ先生の肩の上に座っていたパリー先生〔分身〕が、「ハイハイハイ!」と叫びながら両手を上げてブンブン振り始めた。

「仕方ないなあ~。じゃあ~その剣~森の妖精が預かる~」

 ウェーブのかかった赤毛の先を腰の辺りで跳ねさせて、ピョンピョン跳びはねるパリー先生〔分身〕だ。


 その彼女の土台にされているエルフ先生〔分身〕が、空色のジト目を向ける。

「ぱりー……また、良からぬ事を考えているわね」

 エルフ先生の視線から、なぜか目を逸らせるパリー先生〔分身〕であった。

「そんな事するわけないじゃない~。私は先生なのよ~」


 サムカとノーム先生〔分身〕が、顔を見合わせる。ノーム先生〔分身〕が、パリー先生〔分身〕の跳びはね様を横目で見ながら、銀色のあごヒゲを手袋をした手で撫で整えていく。

「消去法で、海の妖精が妥当ですかね、テシュブ先生。ですが、水は大地から干渉を受けやすいので、大深度地下の妖精の協力も併せて得るようにしないといけませんな」

 サムカが素直にうなずいた。ノーム先生〔分身〕と同じように、横目でパリー先生〔分身〕のダンスを見ながらだが。

「うむ。それが最善のような気がするな」




【海と大地と森の妖精】

 パリー先生〔分身〕が「ぶーぶー」文句を言っているのを、エルフ先生〔分身〕と一緒にサムカがなだめている。

 その間にノーム先生〔分身〕が、クラゲ型をした海の妖精をいくつか岸辺に〔召喚〕して、説明を始めた。その1体はレブンが助けた、大ダコに囚われて魔力電池にされていた妖精だ。レブンにクラゲ触手を何本か水面上に出して、それを振って挨拶している。レブンもその頃には意識もはっきりして回復できていたので、セマン顔で手を振って挨拶している。


「あれ? もしかすると、〔分身〕さんではなくて、本体さんですか?」

 レブンの問いに、説明を聞いているクラゲが触手の先をクルクル回して答えた。

「うむ、面目ない。魔力は戻ったのだが、あの後、他の海の妖精どもが攻め込んできてな。負けてしまった。折よく、金星移住の誘いを森の妖精から受けてね。参加したという訳だ。ドラゴンが退治されて良かったよ」


 レブンが妖精と話しながら、少し落胆している。あれだけ頑張ったので、この結末は悲しい。

(という事は、今は別の新しい海の妖精さんが支配しているのか。また最初から、関係構築を始めないといけないなあ……)



 ノーム先生〔分身〕の説明が終わり、剣を預かって欲しいという提案に海の妖精たちが了承した。代表して、レブンが助けた海の妖精が答える。

「よかろう。我らとしても大地の妖精との良好な状態を築く事は賛成だ。封じられているのは、金星の妖精であるしな。魔力源としても有効に使う事にしよう。なに、こういった魔力電池の取り扱いには慣れておるから、心配は無用だ」


 パリー先生〔分身〕が頬を膨らませて機嫌を損ねている。

「あ~も~、ずるい~ずるい~」

 このまま放置すると暴れ出しそうな雰囲気なので、エルフ先生〔分身〕が海の妖精たちに、頭を下げて頼み込んだ。

「一部で構いませんので、海に漂っている森に棲む妖精たちにも、剣の魔力を分けて下さいませんか?」


 パリー先生〔分身〕がエルフ先生〔分身〕の肩の上で、仰向けに寝転がって手足をバタバタ振り始めた。それを海中から見ていた海の妖精たちが、クラゲの触手を何本も海面上に出してクルクル回して答える。

「もちろんだ。今回のドラゴン騒動では、森の妖精諸賢も尽力してくれたからな。魔力の割り当ては、我ら、大地、森の君たちで、2対2対1でどうかな?」


 コロッと機嫌が直るパリー先生〔分身〕であった。ヘラヘラ笑いを満面に浮かべて、姑息に両手を合わせてハエのように摺り手揉み手を始める。

「いいわね~。よろしゅう~よろしゅう~今後とも~ごひいきに~」


 サムカが海の妖精に『石になった剣』を見せながら、一応忠告した。

「この剣だが、君たちが察する通り、膨大な魔力を有している。剣を鞘から抜かずに、石で覆われた状態のままで電池にした方が良いだろう。それと、こういった価値の高い物には、盗賊や冒険者が呼び寄せられるものだ。盗難にはくれぐれも警戒してほしい。まあ、これだけの魔力を帯びているので、よほどの者でない限りは、触れる事は出来ぬだろうがね」

 とはいうものの、赤茶けた中古マントを潮風になびかせている威厳のない姿なので、あまり説得力が伴っていないが。



 サムカがクラゲ型の海の妖精に、石化した剣を投げて渡そうとした瞬間。警報が鳴り響いた。それもサムカだけではなく、ここにいる生徒や先生〔分身〕の全員の手元に、警告メッセージが表示されている。

 ちょっとしたパニックになる生徒達だ。今の金星には強力な妖精しかいないはず。


 すぐにムンキンが頭の柿色のウロコを逆立てて、まぶしい日差しを反射させた。慌てた様子でポケットから〔結界ビン〕を取り出して、中から強化杖を呼び出す。

「お、おい。ヤバいぞ。とんでもない魔力値の奴がこっちへ向かっている」


 ペルとレブンも急いで強化杖を呼び出して、シャドウが入った〔結界ビン〕を開ける。

「うん。ドラゴンじゃないけど、それに近い魔力量かな。『綿毛ちゃん2号改』観測お願い」

 尻尾が竹ホウキ状態のペルに続いて、レブンも口元を魚に戻しながらアンコウ型シャドウを海に放った。

「逃げた方が良いかもしれないな、これは。魔法場の特徴から『化け狐』だよ。それも超特大の」


 ミンタが強化杖を呼び出して、すぐに多数の術式を走らせ始める。その不敵な顔に笑みが浮かんだ。

「ふふ。一度会った事があるわね。月の『化け狐』さん!」

 ラヤンが青い顔になった。

「マジか……光の精霊場の塊って話のアレね」




【月の『化け狐』、襲来】

 エルフ先生〔分身〕が頭を抱えているのが見える。隣のノーム先生〔分身〕は、簡易杖を手に狼狽していた。

「これは非常にまずいですぞ。ここは、まず逃げた方が良いでしょうな」

 しかし、エルフ先生〔分身〕は、その提案に反対のようだ。両手を頭から離して、空色の瞳をノーム先生に向ける。

「いえ。何もしないで、大人しくして下さい。あの『化け狐』は光の精霊場を餌にしています。私たちがその系統の魔法を使わない限りは襲ってきませんよ」


 そして、1つため息をついて、サムカと生徒たちに謝った。

「すいません。先日の対ドラゴン戦で、私が指揮を執って大量の光の精霊魔法を使ったせいですね。それで、月から呼び寄せられて来たのでしょう。地球から離れているから、大丈夫かと思ったのですが……」


 上空1000メートルまで上昇して、西の水平線方向を観測していたジャディが〔指向性会話〕魔法で怒鳴り気味に報告してきた。かなりうるさい。

「来たぜ! でっけえな、オイ。全長250キロの巨体だ。秒速20キロで、宇宙から真っ直ぐくる」


 数百メートル離れた磯の波打ち際で遊んでいる呑気な墓用務員に、サムカがチラリと視線を投げた。反応はない。

「墓所にも困ったものだな。この剣の魔力に『化け狐』が反応する事を黙っていたのか。剣が目的である以上、迎撃するしかあるまいな」


 声もなく目を点にしているエルフ先生〔分身〕と生徒たち。しかし、ノーム先生〔分身〕が「コホン」と小さく咳払いをして、エルフ先生に小豆色の瞳を向けた。

「ここはテシュブ先生の迎撃策を採用してみてはどうかね?」


 エルフ先生が軽く両目を閉じて渋々了解する。

「……仕方ありませんね。分かりました。サムカ先生、お願いしますね」

 サムカが剣の柄を「ポン」と叩いて口元を緩めた。

「やってみよう。とりあえず、妖精諸賢を含めた全員は私から少し離れてくれ。剣の封印を解く」



 サムカが海の妖精たちをいったん沖合いまで避難させて、剣にかけていた〔石化〕魔法を解除した。それでも貧相な剣である事には変わりはないが。

 辺りを素早く見回してから、ホウキをポケットから引き抜くように取り出した。その上にヒョイと乗る。すっかり手慣れたようで、ホウキもピタリと空中1メートルの高さで浮かんでいる。


 生徒と先生〔分身〕に軽く微笑んでから、サムカが西の水平線に山吹色の瞳を向けた。

「秒速20キロか。幽体だから衝撃波や熱等は発生しないが、目で反応しては間に合わないな」

 上空のジャディに〔指向性会話〕魔法を送りながら、空中に浮かび上がる。そのままグングン加速して上昇していく。

「ジャディ君。敵の軌道を推定してくれ」

「了解でさ、殿っ」


 ジャディの歯切れのよい返事を聞いて、次に墓用務員に、再び〔指向性会話〕魔法を送った。超音波を電波に〔変換〕する形式なので、距離が離れてもそれほど会話に支障は出ない。

「おい墓。奴の頭の大きさはどのくらいだ? 1キロか2キロか?」


「10キロくらいじゃないかな。この島くらいなら、一呑みだろうね」

 素っ気ない返事に、ジト目になるサムカである。いざとなると、墓といえども人間らしい言動はできなくなるようだ。

「そうかね。では出来る限り、上空に上がった方が良いだろうな」



 ジャディからの敵の軌道予測が入ってきた。それを手元の〔空中ディスプレー〕画面で確認するサムカだ。

「良い仕事だ、ジャディ君。では、君も島に降りて防御しなさい。奴は私が対処しよう」

「了解でさ、殿っ。そのホウキ、すっげえかっこいいッスよ」

 上空からジャディが急降下してきて、サムカに適当な敬礼をして飛び去っていった。


 ジャディが無事に島に着地したのを確認したサムカが、なおも上昇を続けながら、島が呑まれないような位置に移動する。高度は5000メートルといったところだろうか。下層の綿雲と、上層の筋雲との間に位置している。

『化け狐』は今も、西の水平線から島に向かってきている。


 サムカが剣を《スラリ》と鞘から抜く。たちまち、猛烈な竜巻が何本も発生して、サムカを取り囲んでいく。しかし、中古マントの裾がバタバタはためいて破れそうになっている事以外は、特に影響が出ていないようだ。

 長さ3メートルのホウキにも特に悪影響は出ていない事を確認する。充分な高度をとったので、眼下の島に竜巻が及んでいない事も同時に確認した。


 改めて見下ろすと島は楕円形で、長径が2キロほどだった。既に島を取り囲むようにサンゴ礁が形成されつつある。通常では100年の単位でサンゴ礁の形成が進むのだが、さすがは海の妖精の魔力である。

 しかし、サムカは熱帯の海については詳しく知らないので、塩辛くない海でサンゴ礁が発達しているという、驚異的な事実には気がついていない。

 生物に必要な塩類組成と濃度は、元々そんなに多くも高くもなく、特定の成分と低濃度で充分だったりする。金星の海はそういう方向性になっているのだろう。いわゆる『好適環境水』と呼ばれる状態だ。


 島の近くには浮島の森が数個ほど海面に浮かんでいて、ゆっくりと海流に流されていくのが見えている。

「クーナ先生の言う通り、台風の目の中にいるという事かな。さて、これだけの魔力を放出すれば、こちらに襲い掛かるはずだが……」

 敵の推定位置が65キロ西方にまで縮まった。当然ながら、目視では白い雲に遮られて、何も水平線上に見えない。


 サムカが剣を西の水平線に向けた。

「さあ、こい!」

 その言葉を言い終わらない内に、何か『巨大なモノ』がサムカにぶち当たった。いや、そういう感覚だけがあった。

 剣を握る両手には何の衝撃もない。(シャドウやファントムと戦った時のような感覚だな……)と思う。


 目の前には赤い光で覆われた霧が広がり、それが物凄い勢いで剣に吸い込まれていく。

 剣の刀身が赤く輝いて、切っ先から赤いビームが放出され始めた。ビームは透明な金星の大気層を突き抜けて、宇宙空間へ飛んでいく。それも、ものの数秒ほどで終了してしまった。


 赤く光る霧が消え、後には白い雲が呑気に浮かんで流れている。実に平和な青い空と海の景色だ。

 幽体で実体を持たなかったのか、衝撃波や熱風も起きていなかった。刀身の赤みがかった発光も既に終わっている。


 剣を鞘に収めて、再度〔石化〕する。数秒間ほど、空中で剣の様子を伺っていたが……異常はない。ほっとして、ホウキの先を「スイッ」と島に向けて降下していった。



 地上では、真っ先にノーム先生〔分身〕が小豆色の目を輝かせて駆けてきた。サムカの軍手の両手をとって称賛する。慌てて、自身の〔防御障壁〕を調整するサムカだ。

「良いものを見せてもらいましたよ、テシュブ先生。直接見るのと、映像情報とでは、大違いですなっ」


 エルフ先生〔分身〕も、すぐに駆けてきた。こちらも空色の瞳がキラキラしている。さすがにサムカの軍手を取る事はしなかったが、良い笑顔だ。高度数千メートルでの作戦だったのだが、この2人の先生〔分身〕には何ら問題なく、目視で観戦できていたようである。

「ドップラー効果が起きると報告ではありましたが、ああなるのですねっ。全長250キロの幽体が、毎秒20キロの速度で突入する様子を、島から見上げていました」

「単純計算では、剣に触れる部分だけが吸収される場合、全て吸収されるまでにかかる時間は、13秒弱。ですが、実際は加速されながら吸収されるのですね。実時間は、わずか8秒でした。最後はほとんど亜光速にまで、『化け狐』が加速されて吸収されていくなんて……政府間協定で、開発と使用が禁止にされる理由が分かりました」

 興奮しているせいか、いつもよりもかなり話が長い。


 再び波打ち際までやって来た巨大クラゲ型の海の妖精群に、サムカが石化したままの剣を丁寧に渡す。器用に500本ものクラゲ触手で受け取る妖精たちだ。代表の妖精がサムカたちに告げる。

「確かに預かった。威力も確認したよ。この程度の〔石化〕封印では、海中では300年しか維持できないだろうから、後は我らが大地の妖精と協力して〔石化〕し直す事としよう」


 サムカが錆色の短髪を軍手でかいた。サムカとしては結構自信があった〔石化〕魔法だったのだが……専門家にダメ出しされてしまった。

「そうかね。では、よろしく頼むよ。オマケで『化け狐』まで吸収してしまったが、それほど問題はなかろう」


 エルフ先生〔分身〕の肩に座っているパリー先生〔分身〕が、ニヤニヤしながら答える。

「問題なんかないわよ~。魔力増えたから感謝する~。これで~風と大地と光の精霊場の電池になって高性能~」


 クラゲ型の海の妖精が岸から離れて、ゆっくりと海中に沈んでいく。ノーム先生〔分身〕が、サムカに顔を向けた。

「じゃあ、僕は後で大地の妖精に会ってくるよ。内諾はもう受けているから、後は形式的な契約の締結に、僕が証人として立ち会うだけだ。これで、まずは一件落着かな」




【墓地の一角の空き地】

「……ほう。ワシも見てみたかったわい。金星の開拓か」

 いつもの墓地の一角の空き地で、サムカの周囲をゆっくりと巡りながらハグ本人が話を聞き、映像情報を興味深そうに見つめている。

 寒さのピークは過ぎたようで、枯れ草の根元からいくつか新芽が伸びて来ている。日差しも徐々に強くなってきているのか、黄色っぽい太陽が白っぽく変わってきていた。春が訪れたのだろう。


 今回は執事のエッケコが移動茶席を設置していたので、サムカとハグの2人ともに白いカップで紅茶を楽しんでいた。もちろん、湖の水を使っている。イスには座らずに、立食形式の茶席だ。

 ハグだけは、いつものように空中に浮かんでいる。それでも、同じ場所に浮かんでいると真下の地面が粉になるので、ゆっくりと茶席のテーブルの周りを回っているが。


 騎士シチイガも参加していて、少し離れた場所で周囲を警戒して歩いているのが見える。甲冑での警備をしようとしていた騎士シチイガであったが、サムカが止めさせていた。

 そのため、いつもの農地巡回用の中古マントに古着作業服の姿だ。腰に吊るしている剣だけは、戦闘用の厳ついものだが。


 そんな騎士シチイガを、少し呆れたような表情で眺めるサムカであった。サムカの今日の服装は、古代中東風の長袖シャツとズボンに革靴という『貴族っぽい』もので、肩に銀糸で刺繍が施された黒マントを引っかけている。紅茶をもう1口すすりながら、騎士シチイガの背中を目で追っていく。

「警護の仕事は兵に任せておけと言ったのだがな……どうも、まだ過剰に遠慮する癖が抜けないようだ」


 ハグがニヤニヤしながら、紅茶を1口すすった。

「まあ、そう言うな、サムカちん。ワシのようなリッチー協会の『偉い理事殿』が来ているから、それ相応の警備をするのは当然の事だよ。特に最近は、来訪者が多いのだろ? 何か時限式の罠や、遠隔操作型の魔法を仕込んでいる輩がいるかも知れぬからな」


 サムカが軽くため息をついて、紅茶をもう1口すする。

「『ドラゴン殺しの剣』は金星へ返したが……まだ来る連中がいるのは事実だな。商談もいくつか結ぶ事ができたから、私としても無下に追い返す訳にはいかない。難しいところだよ」

 そして、軽いジト目になった。瞳の色が見事に辛子色になっている。

「また、セマンの盗賊や冒険者どもが増えてきてしまったしな。今や、そこらじゅうで視線を感じるよ」


 ハグが愉快そうに頬を緩める。こうして見るとアンデッドではなく、本当に生きているかのようだ。

「良い事が1つ起これば、悪いことが3つは起きるものだ。また、いつぞやのセマンの警備会社と契約してみるかね?」


 サムカが錆色の短髪を無造作にかいて呻く。今は白い事務用の手袋をしている。

「いや。このような小さな館1つの警備を依頼するのは、貴族としてためらいがある。少なくとも、我が悪友ステワが、喜んで冷やかしに来るのは確実だろう」


 ハグが淡黄色の瞳の奥を少しだけ輝かせる。そうなる事を少し期待していたのだろうか。しかし、口調は落ち着いたものだった。

「まあ、サムカちんの館には金目の物はないからなあ。あっても『呪いの武具や道具』だしな。生徒や先生どもの生体情報も、今は保管していないのだろう?」


 サムカが素直にうなずく。

「うむ。学校のサーバーが本格稼働しているからな。くだんの情報一式は〔消去〕したよ。マルマー先生に聞いてみたのだが、生体情報の更新は彼の魔法世界でも頻繁に行っていて、厳重に保管しているそうだ。生体組織サンプルも同様らしいな。なので、私が余計な世話をする必要は、もうないはずだ」

 ハグは少し残念そうにしている。口を少し尖らせた。

「欲がないなあ、サムカちんは。ワシだったら、難癖つけて生体情報は保管して手放さないがね。使いようは、いくらでもある。エルフやノームとかな」


 聞き流すサムカだ。生体情報の話になったので、代わりにハグに質問する。

「亡くなった生徒の思念体は見つかったかね? 私の方では見つからなかった。死者の世界まで辿り着く事はできなかったようだな」


 今度はハグが呆れたような表情になった。

 自己流トラ刈りの銀髪が、日差しを浴びて鈍く反射する。服装も、いつものようにボロボロの古着を適当に体に巻きつけているだけだ。何となくテルテル坊主のようにも見える。今回は茶席という事もあったのか、靴底が抜けている革靴を履いていた。

「狐族のバントゥ・ペルヘンティアン、魚族のチューバ・アサムジャワ、それと竜族のラグ・クンイットか。他にも何名かいるな。確かに、死ぬには惜しい優秀な人材だったがね」

 名前をあんまり憶えていないようである。

「そもそもだな。獣人世界の主である墓所の連中と、死者の世界の創造主が、何も取り決めをしていないからな。ただ死んだだけでは、こっちへ自動転送されないぞ」


 サムカが深くため息をついて、腕組みをする。

「それは知っている。しかし、もしかしたらと思ってな。こうなる事が分かっていれば、死ぬ前に印をつけておくべきだったよ。そうすれば、死んだらすぐに私へ連絡が届くからね。〔召喚〕時に思念体を回収できた」

 そして、再び大きくため息をついた。

「まさか、タカパ帝国が墓の建立すら認めないとは予想していなかったよ。死体もどこにあるのか、不明のままだ」


 ハグが肩を軽くすくめて、サムカに木蓮の花の色の瞳を向けた。

「仕方あるまい。占道術でも使えれば別だがな。ワシの〔予知〕は、世界間環境が変わった今では大して役に立たぬ。魔力の弱い者は追跡できぬのだよ。ミンタやペル嬢ほどであれば可能だが……学校の隅に慰霊碑を建てて、冥福を祈る事くらいしかできぬだろうな」


 サムカが残念そうにうなずいた。黒マントの裾が、墓地の風に揺れている。

「……そうだな。ようやく学校も復旧が済んだようだし、校長に再び提案してみるとするよ。それでも、表向きは『アンデッドの供養と、その慰霊』という名目になるがね。バントゥ君らはタカパ帝国に刃向かった連中だから、ひっそりと慰霊するしかないのが歯がゆいところだな」


 執事が紅茶を入れ替えて、サムカとハグに注いで回る。穏やかな低い声で杏子色の目を伏せたまま、サムカに語り掛けた。

「旦那様がこうして無事である事が、私どもにとっては最上でございますよ。時折、無理をなされますから、心配の種が尽きません。先日も『化け狐』に単騎で立ち向かわれたと聞き、ますます禿げてしまいました」

 そう言って、薄い赤柿色の禿頭を日差しに反射させる。


 サムカとハグが顔を見合わせて、微妙な表情になってしまった。確かにその通りで、領主としては『蛮勇』とでも言える行為だ。サムカが錆色の短髪をかき上げて、バツが悪そうに新しく注がれた紅茶を1口すする。

「……調子に乗ってしまった事は認める。当時の金星が闇魔法を使うに適した環境だったのでね。ドラゴン退治でも〔分身〕を使うか、剣に糸を繋いで遠隔操作すべきだったと反省しておるよ。私本人が剣を持って戦うというのは、確かに大人げなかった」


 ハグがニヤニヤしてサムカの苦しい弁明を聞いている。

「〔召喚〕中は、魔力が大きく制限されるからな。ストレスが溜まるのは、ワシもよく分かるぞい」

 しかし、改善する気は全くない様子である。


 サムカが軽いジト目になっているのをよそに、ハグが手元の〔空中ディスプレー〕画面を操作して、金星の状況を色々と確認し始めた。すぐに、淡黄色の瞳をキラリと光らせる。

「今の金星だが、実に興味深い事が起きているな。強力な磁場のおかげで、精密機械の使用が困難になっておるのか。ドワーフどもにとっては難儀な事だ。さらに太陽に近くて月がないから、潮の満ち引きが地球以上に大きくなっておる。小さな島は、じきに波に浸食されて消えるぞ」


 サムカが首をかしげた。

「ん? そのような印象はなかったぞ。島の海岸線は地球と似たようなものだったが」

 ハグがジト目になって指摘する。

「あのな……金星の映像を見ると正午に近い時刻だ。太陽は真南に位置していたのではないかね?」

 そういえば、そのような気がする。サムカが錆色の短髪をかいた。

「太陽は直視しない癖がついているからかな。位置は覚えておらぬが……確かに真上から日が差していたような気がする」


 ハグが軽くため息をついた。手に持っているカップが急激に劣化して、粉を噴き出してくる。慌ててハグがカップを「フーフー」吹いて粉を吹き飛ばした。それでも若干、紅茶に混じってしまったようだ。少し険しい表情になっている。

「……いくらアンデッドでも、太陽の位置くらいは確認しておけ。真南に太陽が来ている時が、オマエさんがいた場所と太陽との距離が最短なんだよ。つまり、満潮時に当たる。まあ、厳密には金星の自転もあるから前後するがね。太陽の引力で金星の海が引かれているせいだな」

 紅茶に混じった粉を〔消去〕していくハグ。

「逆に深夜が干潮だ。月がなくて太陽に近い分だけ、潮の干満差は地球よりも大きくなる。砂浜ではなかったのだろ? 地球よりも強い波に洗われて、岩の磯になっておるのも同じ理由じゃな」


 サムカがまだ半信半疑の様子ながらも、ハグに手を挙げて質問してきた。

「……と、いう事は、干潮時の岸辺は10メートルも下という事なのかね? 確かに潮の流れが激しくないのに、砂浜が全くない事が不思議だったのだが」


 ハグが当然という顔でうなずく。

「金星の海ができて、まだ間もない。液体が周期的な運動を繰り返し、それが安定するには、時間がかかるものだ。次回、次々回と金星へ行くたびに、海水の運動が規則性を増してくるから、よりはっきりと観察する事ができるだろうさ。海流も生じるから、金星全体の温度差も緩和されるよ」


 サムカが腕組みをして感心している。隣では、執事も口を半開きにして聞き入っている。

 その執事が湯を卓上コンロで沸かしながら、ハグに尊敬の視線を向けている。死霊術場をエネルギーにするパイプラインがまだ通っていないので、カセットボンベに詰めて使っている。なので、中身は可燃性ガスではない。

「さすがでございますね、ハグ様。私には半分も理解できませんが、金星の海についても詳しくご存じの様子」


 執事の感想に、サムカも素直に同意している。

「うむ。私よりも先生に向いていると思った、直感は正しかったようだな」


 ハグがトラ刈りの銀髪頭をかいて、淡黄色のジト目になった。

「褒めても何も出ないぞ」

 そして、まだ紅茶が残っているカップを無造作に〔消去〕した。リッチーが触れた物には、魔法場汚染がついてしまうので、こうして〔消去〕するしかない。サムカのような貴族や騎士であれば別なのだが、執事などの生者が触れると精神障害を起こして、最悪の場合死んでしまう。


 執事もその事は了解しているようで、落ち着いたままで丁寧に立礼をした。

「ご満足いただけたようで安堵いたしました。もうしばらくしますと新茶の季節となりますので、いくつかの産地から取り寄せる事にいたしましょう」

 ハグが満足そうに微笑む。

「うむ。楽しみにしておる。飲食の欲は絶えて久しいが、香りを楽しむ趣味はまだ残っておるのでな」

 そして、「騎士シチイガにもよろしく」と言い残して姿を消した。


 執事が移動茶席を小間使いに命じて片付けさせながら、サムカに柔和な笑みを向ける。

「旦那様は、いかがなされますか? 緊急の要件は今のところ入ってきておりません」

 サムカが墓地を巡回警備している騎士シチイガに、手を振って呼び寄せる。

「そうか。では、もう少しここに残るとしよう。エッケコは通常業務に戻ってくれ」

「仰せのままに、旦那様」

 執事が恭しく禿頭を下げた。既に茶席は片付けられて、小間使いたちによって館へ運ばれている。


 それと入れ替わりになるように、騎士シチイガが歩いてやって来た。腰に吊るしている厳つい戦闘用の長剣が、鞘の中でゴトゴトと鈍い音を立てている。

「我が主。周囲には不審な物や術式の類はありませんでした」


 サムカが鷹揚に応える。

「うむ。ご苦労だったな。館で寛いでくれ。エッケコよ。シチイガにも茶を用意してやってくれ」

 執事がにこやかに微笑んで、頭を下げる。

「館にて、ご用意してあります」


 そのまま、先に館へ戻っていく執事の後ろ姿を見送った騎士シチイガが、サムカに振り返った。黒錆色の短髪が、墓地の風に揺れて日差しを鈍く反射する。その淡い山吹色の瞳には、好奇心の光が灯っている。

「我が主。金星の開拓ですが、この世界でも可能なのでしょうか」


 サムカがキョトンとした顔になった。想定していなかったようだ。腕組みをして考え始める。

「そうだな……可能ではある。生命がいないし、水もないから闇魔法が使いやすい環境だな。だが、オークが住めないので、館を建てたり日用品を調達する事が困難になるぞ。森の妖精がこの世界にはいないから、〔地球化〕も時間がかかるはずだ。何よりも、我が連合王国軍が演習で使っている。魔法場汚染が尋常ではないぞ」

 騎士シチイガが落胆し始めた。背筋が少し曲がってくる。

「……そうですか。かなり難しいようですね」


 サムカが軽く肩をすくめた。

「まあな。オーク独立王国が魔法世界やドワーフ社会から支援を受けて、金星に移住して〔地球化〕するのであれば、可能性は高まるだろうがね。まあ、連中はそんな事はしないだろうな」

 そう言いながらも騎士シチイガにウインクするサムカである。

「魔法の実験や試し撃ちをするには、良い星だと思える。星を壊さない程度の魔法であれば、遠慮なく使えるだろう。館と自治都市の復興が終わったら、一度行ってみるかね?」


 騎士シチイガの目に再び光が灯った。今度は好奇心というよりは、闘争心の色になっているが。

「はい! ぜひに、お手合わせをお願いいたします、我が主」

 サムカが山吹色の瞳を細めてうなずく。

「よい返事だ。私もすぐに館に戻る。君は先に館で、執事が淹れた茶を楽しんでいなさい」


 そう言って騎士シチイガを館に向かわせて、地面に視線を落とす。ハグが〔浮遊〕していた下の地面が、見事に〔風化〕していた。芽吹き始めていた雑草も全て粉になって、土に還ってしまっている。アリなどの虫も1匹も見当たらない。

「……除草と殺虫効果は大したものだな。今後は作付前の畑で会う事にするか。魔法場汚染の残留具合を低く抑えれば、何とか利用できそうだ」


 そして、手元の〔空中ディスプレー〕画面を操作し始めた。すぐに、磁器のようにきめこまやかな藍白色の白い整った額にしわを寄せる。サムカ熊からの定期連絡が入ってきていたので、今はそれを読んでいる。

「……金星は獣人世界でも難しいようだな。次の〔召喚〕では、熊人形の手入れを念入りにしておくとするか」




【金星ワンダーランド】

 その頃。金星ではアイル部長が悲鳴を上げて、海上を逃げ回っていた。

 大きなうねりが絶え間なく続く青い海には、無数のクラゲ型や魚型の海の妖精と精霊がひしめいている。上空には巨大なトンボのような虫が1万匹もの大編隊を組んでいて、断続的に攻撃小隊を放ってきていた。虫の大群の周囲には10以上もの竜巻が発生していて、雷まで放っている有様だ。


 そのアイル部長は、タイヤの無いバイク型の魔力駆動の乗り物にまたがっている。しかし、磁場の影響なのか、時々出力が大きく下がったりして上手に飛べていない。それでも海中に潜ったり空中に飛び出しながらも、妖精たちの攻撃を回避している。

 周囲には他に10台の同じような無人バイクが編隊を組んでいて、アイル部長を護衛しながら飛んでいる。その中にサムカ熊の姿が見える。


「うわわわあああっ。聞いていないよおっ」

 アイル部長が大泣きしながら、必死でバイクを駆って逃げ回っていく。しかし、時々止まってしまうバイクでは速度が充分に出せない。あっという間に囲まれてしまった。


 海中と上空から、次々に溶解液や氷筍、雷撃が襲い掛かり、空中が突然爆発する。これは風の精霊魔法の一種で、気圧差を極端にする事で爆発のような現象を起こしている。

 それらが1つ、また1つと護衛の無人バイクを仕留めていく中、サムカ熊が呑気な声で感心していた。

「さすがに〔妖精化〕や〔精霊化〕攻撃は控えてくれているな。アイル部長、連中は本気ではないぞ。遊んでいるだけだ。このまま逃げ切れ」


 そういったものの、40秒後には全ての無人バイクが撃墜されて海の藻屑になってしまった。ショックで顔面蒼白のアイル部長である。

 バイクの爆発で生じた大小の機械の破片が彼のバイクにも当たっていて、バイクとアイル部長が傷だらけになっている。法術を込めた〔結界ビン〕を使って、身体じゅうに負った傷を自動〔治療〕しながら天を仰いで嘆いた。

「資源探査機械があ……全滅。高価なドワーフ製だったのに。うう、やばいな。上司から怒られる、減俸されてしまうよお」


 次の瞬間。アイル部長が乗っているバイクも、海面からの溶解液や氷筍攻撃を食らってしまった。あっという間に、バラバラに砕かれて溶けていく。

 空中に放り出されたアイル部長が、新調されなかった作業着に付着した溶解液を必死で振り落としながら、そのまま海中に落下した。かなりの速度で逃げていたので数回ほど海面上でバウンドして、頭から海中に突っ込んでそのまま沈んでいく。

「!!!!がぼげぼ」

 狐族は泳げない者が多い。アイル部長も例外ではなかった。声もなく手足と尻尾をバタバタさせながら沈んでいく。


 それをサムカ熊が爪で引っかけて、空中に引き上げた。そのまま、ぬいぐるみの背中にアイル部長を乗せて〔飛行〕していく。ホウキの複製を体内に差し込んでいるので、今は自由に〔飛行〕できる状態だ。


 激しく咳き込んでいる部長に声をかけながら、海面と上空からの集中攻撃を華麗に回避していくサムカ熊。サムカ熊には機械類が組み込まれていないので、磁場の影響は受けていないようである。

 どんどん加速して音速を突破し、爆音を轟かせながら敵からの離脱を図っていく。青い海面が衝撃波を受けて白く波立ち、空中を取り囲んでいる虫や精霊群が吹き飛ばされる。しかし、さすがに竜巻は吹き飛ばせないので、これは慎重に回避しているが。

「探査機器が全滅してしまったか。作業は中断して、地球へ退避すべきだな」



 雷撃を〔事前予測〕で回避しながら、虫の大群と竜巻群からついに抜け出した。青空が広がり、視界も回復する。海面からの攻撃も、音速を超えてからは届かなくなった。

 サムカ熊それ自体にはロケットエンジンのような推進装置は付いていないので、純粋に魔力だけによる埋め込みホウキ〔飛行〕になっている。


 音速超えによる爆音と衝撃波を海面に刻みつけながら、10秒間ほど飛ぶ。それでようやく、敵を振り切った。雷も海面からの攻撃も止んでいく。

 アイル部長は魔法適性がないので、サムカ熊が背中にしがみついて咳き込んでいる。その彼には〔防御障壁〕をいくつか被せている。そうしないと、音速超えの風圧で彼が大変な事になってしまう。


 しかし、この〔防御障壁〕で生じる魔法場も彼にとっては有害なので、〔飛行〕速度を落として音速以下にしていく。周囲の様子を伺いながら、〔飛行〕速度を時速40キロにまで落とし、彼にかけていた〔防御障壁〕を全て解除した。

「ぶはあ……はあ、はあ……」

 大きく口を開けて、深呼吸するアイル部長である。気分が悪くなったのか、いくらか吐いてもいる。


 2分ほどかけて、ようやく落ち着いたようだ。ヘナヘナとサムカ熊の背中に頭から倒れ込んだ。

「た、助かりました……ありがとうございます。テシュブ熊先生」


 進路方向に新たな虫の大群と、妖精の群れが集まっているのを〔察知〕したサムカ熊が、進路を大きく変えた。不意に、海中から体長10メートルもの巨大魚が浮き上がってきて、大きな口を開けてサムカ熊を一呑みにしようとした。が、その鋭い歯をすり抜けて回避する。

「もう、このような巨大生物が発生しているのか。妖精の魔力は凄いものだな」


 高度を150メートルにまで上げる事にする。サムカ熊が背中のアイル部長に声をかけた。

「アイル部長が死んでしまうと、悲しむ者が多くなるからな。落ち着いたかね?」

 気分が落ち着き始めた部長が、今度は怒り始めた。

「教育研究省に猛抗議しますよ。こんな怪物だらけの星で、資源採掘なんかできるわけがない!」


 サムカ熊がアイル部長の憤慨を背中に聞きながら、熊耳についた溶解液と氷の破片を熊手で払い落とす。その仕草は本当に熊のようだ。

「死者の世界と同じくらいに機械類が作動しないな。これは闇の魔法場ではなくて、ドラゴンの残した魔力のせいだろう」

 サムカ熊が眼下に広がる広大な青い海に視線を向けてから、背中に乗っているアイル部長に両耳を向けた。

 ついでに、再び大きな口を開けて海面から顔を出した、体長10メートルを超えそうな巨大魚が放った水鉄砲の放水攻撃を回避する。今は時速40キロしか出ていないので、魚に簡単に追いつかれてしまうようだ。


 アイル部長が目を丸くして驚いている。

「海面から150メートルですよ、ここ。とんでもない射程じゃないですか。げほげほ……」

 サムカ熊が次々に海からの水鉄砲攻撃を回避しながら、のんびりとした口調で答える。

「せっかく〔地球化〕された金星だが、移住や採掘には不向きだろうな。野生の楽園としては魅力的であろうがね。生体情報を採集するには良い星だ」


 〔結界ビン〕を1つ開けて、口を飲料水で洗ってうがいしたアイル部長が同意する。

「そうですね。そういう内容で上司に報告しますよ。部下を連れてこなくて正解でしたね。大惨事になっていたところでした」

 アイル部長によると、ドワーフ製の資源探査機は全て破壊されてしまったらしい。

「損失額がどこまで出るのか、私にも予想できません。宰相閣下の派閥は、これまでの混乱を上手に乗り切って最大勢力になりましたが……金星で泥がついてしまいそうです」


 サムカ熊が両耳を数回だけパタパタさせて答える。

「私も、ここまで巨大生物だらけの星になるとは予想していなかったよ。ティンギ先生だけは違ったようだがね。ほら、今もあそこで遊んでいる」


 そう言って、サムカ熊がアイル部長にも見えるように、大きめの〔空中ディスプレー〕画面を前方に発生させた。座標表示から見て、ここから1000キロほど離れた海上に浮かぶ森のようだ。

 森もあれから急速に成長を続けていて、ティンギ先生の印がついた森の画像は直径100キロにもなる巨大なものになっていた。森の木々の樹高もそれに比例するように高くなり、15メートルほどもある高木が林となってチラホラ見えている。


 その映像を見ていたアイル部長が、驚きと共に呆れた表情に変わった。

「もしかして、生徒も一緒なのですか、これって」

 確かに、ティンギ先生を示す記号の周囲には30個ほどの別の種類の記号が表示されている。サムカ熊が再び巨大魚の溶解液入り水鉄砲を回避して、丸い熊尻尾をフリフリさせた。

「うむ。実習授業をしているのだろうな。危機〔予測〕と事前回避を行うには、良い環境だ」

 その30個の反応記号の中にラヤンの魔法場を〔察知〕して、熊耳を数回パタパタする。しかしそれだけで、特に何もしない。


「くしゃん!」

 アイル部長がくしゃみをした。サムカ熊が両耳を再び向ける。

「海に落ちて冷えたのかな。〔地球化〕の際に、森や風の精霊などが、地球の細菌やウイルスまで持ち込んでいる恐れは否定できない。明日以降の体調に留意する事だ。今日はこれで切り上げて、地球へ戻った方が良いだろう」

 部長がハンカチで鼻と口元を拭きながら同意した。

「そうですね。最近ですが、体調を崩す者が急増しているのですよ。検査しても異常は見られないのですが、症状は風邪ですね。パリー先生によると、森や海の妖精が金星へ大移動したので、地球の精霊場が不安定になっているせいだという事ですが……嫌な予感がします」


 サムカ熊も即座にうなずく。

「そうだな。あの妖精は、騒動しか起こさないからなあ。風邪ではないとなると、なおさら用心した方が良かろう。仕事も大事だが、無理はせぬようにな」


 そして最後に、海面から顔を出して狙っている巨大魚に向けて熊手を振る。それだけで、体長10メートルもの巨大魚が6枚に切断されてしまった。たちまち他の巨大魚の群れが殺到してきて、6枚の切り身となった魚を奪い合って食べ始める。

 海面が血で真っ赤に染まっていくのを尻目に、サムカ熊が〔飛行〕速度を落とした。ほぼ停止する。すぐに〔テレポート〕魔法陣を呼び出して、背中に乗っているアイル部長に告げた。

「では、帰るとしよう。もう観測機器も残っていないしな。これ以上ここに居ても有意義ではなかろう」


 アイル部長が周囲を見渡すと、全方位から黒い雲のように見える虫の大群が押し寄せてきていた。総数は100万匹にも上る勢いだ。

 眼下の海面では、切り身を貪っている巨大魚や巨大イカで海面がひしめき合っている。その数は、優に1000匹にもなる。上空には雷雲が湧き上がり、雷鳴が轟き始めていた。精霊によっても完全に囲まれつつある。


 その映像を一通り撮影したアイル部長が、力強くうなずいた。

「はい、帰りましょう!」


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