101話
【塔の反撃】
先程からサムカは、先程から森の上空を飛んでいる『化け狐』の群れに、何度か〔闇玉〕を撃ち込んで〔消去〕していた。攻撃をするたびに、『化け狐』が仲間を呼んでいて、森の上空を飛び回る数が徐々に増えている。
学校の保安警備システムが不完全だった時期に、パリーが代行して森の精霊や妖精に命じて学校と周辺の警備をしていたのだが、これにレブンやサムカ熊も協力していた。
レブンは自身のシャドウに命じて、森の中や学校敷地内を巡回警備させていたのだったが、同時にヒドラの越冬洞窟の奥で眠るワームゾンビ群にも同様の命令を出していた。その彼らの発する死霊術場に釣られて、『化け狐』が集まってきたようだ。
幸い、レブンとペルが〔ステルス障壁〕をゾンビ群にかけていたおかげで、『化け狐』がワームゾンビに襲い掛かる事態には至らず、今は元の洞窟に戻っている。
しかし、まだ未練があるのか、『化け狐』の群れが森の上空に残っていたままだった。姿は野生の狐よりも小さく、帯びている魔力量も少ないので、放置しても良いだろうというパリーとサムカ熊の判断で、今に至っている。
パリーは、つい先日まで『化け狐』の駆除に躍起になっていたのだが、今は飽きたのか放置してしまっていた。駆除しても駆除しても、後から後からやってくるせいもあるのだろう。しかし、先生の身分で生徒たちと遊ぶことができるようになって、そちらに興味が移ったのも大きな理由だろう……というのがエルフ先生とノーム先生の共通した見解であった。
エルフ先生〔分身〕が、サムカに空色の瞳を細めて忠告する。
「『化け狐』の駆除をしてくれて助かります、テシュブ先生。ですが、キリがありませんよ。私も最近は放置していますし。大型の『化け狐』でなければ、環境破壊も起きないようですからね」
サムカが、また1匹の小型『化け狐』を〔闇玉〕で〔消去〕して、エルフ先生にウインクした。
「まあ、私もたまには役に立っておかないとな。それに、授業の後片付けを彼らにしてもらおうと思っていてね。まあ、気にせずにいてくれ」
そうこうする内に、高さ20メートルの窓無しの塔が、洗濯機のようにうなりを上げて振動し始めた。サムカが塔を見上げる。
「基礎を打たずに、地面に直接塔を建てた理由がこれだな。塔の内部空間が運動場と直接接するから、〔錬成〕に必要な素材である水や土を容易に得る事ができる」
とは言え、基礎をつくっていても運動場と直接接するように設計する事は容易だ。単に面倒臭がっただけだろう。サムカが塔の内部を〔検査〕してから話を続ける。
「今、この塔内部は泥水で一杯だ。これに、木材の有機成分が加わる。錬成用の魔法陣からは、外部から〔召喚〕した金属が供給されている」
ミンタが少し呆れたような顔になって、洗濯機のように振動し続けている塔を見上げている。振動によって、塔の外壁から粉のような汚れが舞い上がっていて、それが生徒と先生〔分身〕たちにも降ってきていた。〔防御障壁〕を展開して、それらの粉埃を静電気で弾くミンタだ。
「鍵を作り直すだけなのに、ずいぶんと大掛かりにしたわね。無駄が多すぎると思うけど、どうなの」
サムカが錆色の短髪を軍手でかいて、言い訳する。
「済まないね。アンデッドだから、使いにくい魔法の種類が多いのだよ。今回も、大地や水の精霊魔法に似た魔法を行使している。数多くの迂回路を術式に組み込んでいるから、ちょっとした儀式魔法になってしまった」
ノーム先生が銀色の垂れ眉を上下させて、手袋をした両手を顔の前で軽く合わせた。「ポフ」と小さく音がする。
「そうか、なるほどね。儀式魔法に似ているのか。確かにそうだな」
鍵を〔修理〕するためだけに、このような大規模な儀式魔法を使うサムカに、小豆色の瞳を輝かせて白い歯を見せて微笑む。
「まあ元々は、オークの建築技師を探すための鍵だから、このような試験めいた事になるのは分かるよ。今やっているのは、僕たちのような不遜な魔法使いを排除する仕掛けでもあるからね」
サムカが軍手で頬をかいた。
「魔法使いであっても、建築に造詣が深い者であれば歓迎だからね。このような〔罠〕に引っかからずに、塔を建てるような魔法使いであれば、私も歓迎するよ」
その1分後には、すっかり洗濯機のような振動も収まり、塔が静かになった。早くも、ヒビ割れがあちこちに発生しているようで、ペルがジト目になって見上げている。
「やっぱり、こうなるよね。耐震性ないし。もう、近づかない方が良いよ。崩壊するから」
ペルの指摘に従って、生徒6人と先生〔分身〕にサムカが10メートルほど塔から離れる。既に、塔の内部からは、骨組み木材のヒビ割れる音が断続的にしている。確かにもう、時間の問題で倒壊するだろう。元々の木材が倒木や朽木だったので、強度はかなり低い。
他の授業の先生3人とその生徒たちに、サムカが視線を向けて安全を確認する。塔からは30メートル以上も離れていて、一般的な〔防御障壁〕も各自が展開しているので、危険はないだろうと判断したようだ。
「『鍵の修復錬成』は、無事に完了したようだな。おめでとう」
サムカに褒められて、照れているジャディとレブン、ペルだ。サムカが微笑んでから、少し口調を厳しいものに変えた。
「この塔だが……用済みになったので、このまま消滅する事になる。普通は〔闇玉〕などを大量に発射して、塔を消す手法になる。さて……1つ聞きたいのだが。ここまで達成できた魔法使いは、貴族にとっても利用価値が高いと思わないかね?」
ペルが真っ先に察して、隣のミンタの片手を「ギュッ」と握って知らせる。
ちょっと驚いた様子のミンタだったが、すぐに簡易杖を振り上げた。まだサムカが話している最中だが、お構いなしに術式を起動させる。
「警戒するわよっ、みんな!」
ミンタに話の腰を折られてしまったサムカだったが、特に気にしていない様子だ。それどころか、満足そうにうなずいている。
「うむ。良いタイミングだな。さて、塔が消滅するぞ」
サムカがそう言い放った瞬間。高さ20メートルの塔が音もなく穴だらけになった。〔闇玉〕による浸食である。直径2、3メートルにもなる黒い球状空間が、沸騰した湯のようにボコボコと100個以上も出現し、塔の外壁に丸い大穴を開けていく。大穴は別の大穴に飲みこまれて、塔があっという間に消滅していく。
エルフ先生〔分身〕が少し眉をひそめる。
「〔闇玉〕って脅威よね。光の精霊魔法で撃つと大爆発を起こすし、別の魔法は飲みこまれて消されてしまうし」
サムカが無骨なベルトを締めた古着のズボンの腰に、軍手をした両手を当て、少しだけ首をかしげた。
「貴族にとっては、光の精霊魔法や法術が脅威だがね。さて、そろそろ全て消え去る頃だな」
確かにもう、塔はほぼ消滅し終えていた。爆発も起きない。そして……運動場にピカピカ光る新品の銅の鍵が落ちているのが、10メートル以上離れていてもよく見える。
サムカがレブンの視線を感じて、山吹色の瞳を少しだけ輝かせた。
「うむ、『鍵の修復』は完了だな。おめでとう」
本来ならば、ここで歓声を上げてガッツポーズでも決める場面なのだろうが……生徒たちは誰1人として喜んでいない。真剣な表情をしたままだ。
ペルの薄墨色の瞳が白く輝き、鼻先のヒゲが数本ピクリと反応した。
「きたっ」
地面に落ちている新品の銅の鍵の持ち手にある『透かし彫り』の中から、何か出たのをペルが〔察知〕したようだ。他の生徒と先生〔分身〕は、感知できていない様子で戸惑っている。
ミンタが冷や汗をかきながら、それでも不敵な笑みを口元に浮かべた。
「まったく、闇魔法って本当に厄介ね。ペルちゃんがいなかったら、私たち全滅だわ」
そう言いながら、ミンタがサムカの瞳を注視する。しかし、サムカは森の上空の『化け狐』の群れを見上げているだけだ。数はそろそろ40体になろうとしていて、中型の『化け狐』も数体ほど姿を見せていた。
そんなサムカの横顔を睨んで、落胆するミンタである。
「残念。テシュブ先生の視線を追えば、何か分かるかと思ったんだけどな。さすが貴族って所かしらね」
その次の瞬間。ペル以外の者には〔察知〕もできない『不可視の呪いの群れ』が、ミンタたち6人に襲い掛かった。
「ぎゃ……」
短い悲鳴を上げて、生徒たち全員が地面に倒れていく。同時に<ボン>と水蒸気の煙が発生して、生徒たちを包み込んだ。
【呪い回避】
エルフ先生とノーム先生〔分身〕が、顔を緊張させて事態の推移を見つめている。手元には、ライフル杖を出して、既に腰だめに構えていた。
〔呪い〕を〔ロックオン〕できなかったので、倒れている生徒たち6人全員に標準を固定しているようだ。射撃可能のサインが、2人の〔分身〕先生の手元に表示されている。
サムカも2人の〔分身〕先生に負けず劣らず、心配そうな表情で水蒸気の煙の中を見つめている。その山吹色の瞳が、驚きの色を帯びた。
「ほう、こうなるのか……」
エルフ先生〔分身〕がサムカに顔を向けた。一緒にライフル杖の先もサムカに向けてしまい、慌てて杖の先を上空に向ける。
「サムカ先生。どうなりましたか?」
隣のノーム先生〔分身〕も、小豆色の瞳をサムカにしっかりと向けて聞いてきた。
「〔呪い〕が発動したのは直感で分かったんだが、生徒は大丈夫かね?」
サムカがうなずいた。感心している。
「うむ。ミンタさんの作戦は正解だったようだな。確かに、ここまで変わると別物として〔認識〕せざるを得ない」
水蒸気の煙が、森からの涼しい風に吹き流されて消えた。その場所には、子狐が2匹、オオトカゲが2匹、トビに似た猛禽と肺魚がいて、キョロキョロと周囲を見回している。
エルフ先生〔分身〕が思わず可愛い声を上げ……慌てて咳払いをして取り繕った。
隣のノーム先生〔分身〕は銀色の垂れ眉をさらに垂らして、目を細めて眺めている。ほとんど祖父が孫を愛でるかのような印象だ。エルフ先生〔分身〕に遠慮なく感想をぶつけてきた。
「なかなか可愛い姿ですな、カカクトゥア先生」
エルフ先生〔分身〕が、もう一度咳払いをして、両耳をパタパタさせる。
「生徒たちに失礼ですよ」
サムカがそんな2人の先生〔分身〕に微笑みながら解説していく。
「『呪いの回避』に成功している。食らっていれば、今頃は死んでいただろう。今回の〔呪い〕は、全身を魔神への供物に指定してあるから、跡形もなく消える予定だった。〔呪い〕の術式に〔認識〕されなかったのだね」
また、とんでもない設定の〔呪い〕にしたものだが、今は指摘しない事にする〔分身〕先生たちだ。
早くも、トビが羽ばたいて森の上空を旋回し始め、2匹の子狐が揃って運動場を駆け回り始めた。オオトカゲ2匹は日向ぼっこを始めて、大きなトカゲの口を半開きにして静止している。肺魚は口をパクパクさせながら地面を這っている。肺呼吸ができる魚なので、しばらくの間はこのままでも問題なさそうだ。
ライフル杖を肩に担いで、機能を一時停止させたエルフとノーム先生〔分身〕が、ほっと安堵の息をついた。エルフ先生〔分身〕の金髪からも、静電気の火花が飛ばなくなる。
「サムカ先生、『呪いの回避』に成功したのですね? まあ、獣人族ならではの対処でしたが、無事で良かった」
ノーム先生〔分身〕も緊張した肩をライフル杖で叩いてほぐしていたが、ふと気づいてサムカに聞く。
「そういえば、テシュブ先生。〔呪い〕はどうなったのかね?」
サムカが錆色の短髪を森からの風になびかせて、森の上空を見た。『化け狐』の群れが空中の1ヶ所に集まって、狂喜して飛び回っている。
「〔呪い〕は『化け狐』たちに食べられている最中だ。あの喜びようを見るに、美味いようだな。〔呪い〕自体も、対象物を見失ったので自動的に解除消滅する。普通の魔神であれば、供物が得られないと怒って暴れるらしいが……死者の世界の魔神は放任主義だからな。心配は無用だ」
「なるほど、そういう目的で『化け狐』を呼び寄せていたのか」と理解する2人の先生〔分身〕であった。
早速、パリー先生が感づいたようだ。ヘラヘラ笑いを浮かべて、草で編んだサンダルでスキップしながら、両手を振ってこちらへやって来ている。
「なになに~? なにかしたの~?」
エルフ先生〔分身〕がライフル杖の柄で金髪頭を軽く叩きながらジト目になる。
「こういう事には、本当に勘が良いんだから。パリーは」
ノーム先生もまだ一応警戒を続ける事にしたようだ。ライフル杖を出したまま、その杖で肩たたきを続けている。
「運動場に大きな塔ができて、それが消えて、生徒たちが全員『先祖返り』してしまってはね。興味を引くのが自然でしょうな」
バワンメラ先生とタンカップ先生も、気になるようでチラチラとこちらを見て授業を行っている。さすがにパリー先生よりは、先生としての自覚があるのだろう。こちらへ駆けてこない。
ノーム先生〔分身〕が、手元のタイマー表示を確認した。
「さて、そろそろ魔法の効果が切れる。テシュブ先生、〔呪い〕はまだ残っているかい?」
サムカがルンルンしながらやってくるパリー先生から視線を外して、ノーム先生に向ける。同時に自身の手元にも同じタイマー表示を出す。
「いや。全て『化け狐』たちの餌になって食べられてしまったよ。もう残っていない。元の姿に戻っても、問題ないだろう」
ノーム先生が銀色のあごヒゲを手袋をした左手で一撫でして微笑んだ。
「そうかね。では、〔復元〕の実行術式を入力……っと」
ノーム先生が、手元の〔空中ディスプレー〕画面を操作する。すると、運動場と森の上空で遊んでいる6匹が、再び水蒸気の雲に包まれた。
その様子を、手元画面の観測情報と照らし合わせて、何か術式上の異常が発生していないかどうか確認する。すぐに笑顔になり、サムカに小豆色の瞳を向けた。
「元の姿に戻る際に、最終確認をするようにミンタ嬢から頼まれたんだよ。狐に戻っている間、彼女は魔法が使えないからね」
果たして……水蒸気の煙が風に吹き流された後には、元の姿に戻った6人の姿があった。ブレザー制服まで完全に〔復元〕されている。
「うおおおおおぉ!? ど、どこだここはあっ」
ジャディが飛行バランスを失って、悲鳴を上げながら森の中へ墜落していった。トビから飛族に戻ったせいだろう。
レブンは、完全な魚頭になって地面を転がり回っている。
「……あれ? 僕はどうしてこんな……あっ。〔呪い〕はっ!?」
狐族と竜族は、比較的順当に元の姿に戻ったが……やはりレブンと同じく慌てている。サムカと2人の〔分身〕先生が顔を見合わせた。
「……『先祖返り』中の記憶は無いようだな、クーナ先生」
サムカの問いにエルフ先生〔分身〕が同意する。少し口元が緩んでいるようだが。
「そ、そうですね。脳の構造が変わるほどの身体変化ですから、仕方ありませんね」
エルフ先生〔分身〕が空色の瞳を優しく細めて、ライフル杖を〔結界ビン〕の中に収める。
「後で、精密検査をしましょう。重要な記憶や身体の欠損は無さそうですけどね」
「うむ」と同意するサムカ。ようやく混乱状態から回復して地面に座り込んでいるレブンに言葉をかける。
「回復できたかね? では、パリー先生が来る前に鍵を取りに行きなさい。それで実習を終えよう」
レブンが慌てて立ち上がった。地面を転がっていたせいで、制服が土まみれになっている。
「は、はい!」
魚顔を急いでセマン顔に変えて、小走りで塔があった場所へ向かう。
それを見て、スキップしながらやって来ていたパリー先生が頬を膨らませて立ち止まった。ウェーブがかった赤い髪の先が、森からの風になびいてフワフワと動いている。
「え~……もう獣人に戻ってる~狐狩りしようと思ってたのにい~」
森の妖精にあるまじき発言を平気でするパリー先生である。「ギョッ」として、簡易杖をパリー先生へ向けて警戒するミンタたち。エルフ先生〔分身〕がジト目になって、パリー先生に注意した。
「こら、パリー。混乱から回復したばかりなのに、煽ってどうするのよ。まだ授業時間中です。さっさと授業をしに戻りなさい。あなたの生徒たちが呆れて待っているでしょ」
実際その通りなので、パリー先生が大袈裟な身振りで落胆を表現した。渋々ながらもエルフ先生〔分身〕たちに背中を向ける。それでも肩越しに振り返り、その松葉色の右の瞳をチラリと見せた。興味が失せたせいか、瞳の色がコケ色に褪せてしまっている。
「わかりましたあ~。森の妖精だって~たまには~森の獣を~狩ってみたくなるものなのよ~。庇護されて当たり前~みたいなバカどもばかりだし~」
エルフ先生〔分身〕が、金髪の先から静電気の火花を散らし始めた。こちらは空色の瞳を怒りの色に染めている。
「気持ちは分かるけど、そういう事は大声でいっちゃダメでしょっ。以前に飛族を〔妖精化〕したじゃないの。それで我慢しなさい」
当のジャディが、慌ててパリー先生から飛んで離れていく。パリー先生とエルフ先生〔分身〕に罵詈雑いを放ちながらなのは、さすがだが。パリー先生が更に頬を膨らませた。彼女が歩いた足跡から草が芽吹いてくる。
「あれは~ついカッとなっただけ~。〔妖精化〕した飛族も~元の姿に戻したし~」
とりあえず、森の上空を飛んで逃げていくジャディを、何かの魔法を放って撃ち落すパリー先生。
「ぐぎゃあああ……」
断末魔のか細い悲鳴を上げて、ジャディが森の中へ墜落して見えなくなった。それを、パリー先生が鼻で笑って機嫌を直す。
「まあ、今日はこのくらいにしとく~じゃあ、またね~」
ペルとレブンが急いでシャドウを森の中へ放ち、救助に向かわせた。ラヤンがジト目になって頭と尻尾の赤橙色のウロコを膨らませ、パリー先生の背中を見つめる。
「また無駄な法術を使う羽目になるわね。パリー先生、先程の攻撃魔法の術式を、法力サーバーに上げておいて下さい。わざわざ術式の〔解読〕なんかするのは、面倒ですから」
「はいはい~」
適当な返事をラヤンに返して、そのままピョコピョコ歩きで授業を再開しに戻っていくパリー先生だ。
彼女の赤毛が生意気にヒョコヒョコ跳ねているのを見て、さらにジト目を細めるラヤン。紺色の瞳が、ウロコと一緒になってギラギラと光っている。
「アンデッドよりも、ある意味で性質が悪いわよね」
ミンタが早速ラヤンに絡んできて、ニヤニヤしているのも気に食わないようだ。何もまだ言っていないミンタだが、ラヤンがジト目を向ける。
「悪かったわね。どうせ私は法術の成績が良くないわよっ」
ミンタがわざとらしく驚いて、両手と尻尾をパタパタさせた。
「え~……私は、そんな失礼な事なんかいってないわよお。私たちって友達でしょお~先輩~」
ペルが慌てて駆けつけてきて、ミンタの制服の裾を引っ張る。
「ミ、ミンタちゃんっ。ケンカになるから止めてよお」
ラヤンの睨みを心地よく受けながら、ミンタがペルに引きずられるようにズルズルと引き離されていく。
「術式の〔解読〕でしたら、私が代行しますわよ。遠慮なく仰って下さいね~ラヤン先輩~」
「後で、ぶっ殺す」
ラヤンが地団駄を踏んで悔しがっている様子を、ほのぼのしながら見ているサムカと2人の〔分身〕先生である。
早くもペルとレブンが送ったシャドウから報告が入ったようだ。ペルがラヤンに情報を渡し、レブンが代表してサムカに報告する。
「テシュブ先生。ジャディ君の容体ですが、気絶しているだけです。数秒間ほど、赤血球から酸素をはぎ取って、全身を酸欠にさせる魔法のようですね。同時に、全身の神経信号が暴走する魔法も併せて使われた模様です」
サムカは特に表情を変える事もなく普通にうなずいて、エルフ先生〔分身〕の顔を見る。
「ふむ。私は死体なので、今ひとつ理解できないと思う。クーナ先生、感想を1つ頼めるかな」
エルフ先生〔分身〕が呆れた表情になって、サムカの藍白色の白い顔を見返した。
「サムカ先生、あなたね……まあ、いいや。そうですね、ショック死しなかったのが幸運という程、危険な魔法です。パリーを懲らしめても構いませんよ。私が許可します」
ラヤンが早速、自身の紙製の〔式神〕を〔結界ビン〕の中から取り出して、応急措置の基礎的な医療法術一式を装備させた。そして、ペルの狐型シャドウに案内させて、森の中へ〔式神〕を飛ばす。
それを終えたラヤンが振り返って、サムカに一応告げた。
「大した事態にはなっていませんよ、テシュブ先生。何度も撃ち落されているおかげで、慣れているみたいですし」
それを聞いて、サムカが錆色の短髪を軍手でかく。
「ふむ、そうかね。無事であれば、私がパリー先生に抗議する必要もあるまい。これも有益な経験になるはずだからな」
(まあ、確かにそれはそうなんだけど……)
無言で口元を緩ませて視線を交わす、エルフとノーム先生〔分身〕である。生徒たちも似たような反応をしている。ミンタがペルの肩に、手袋をした手をそっと乗せた。
「貴族の先生を持つと大変よね、ペルちゃん。常識が通用しなくて」
ペルが薄墨色の瞳をウルウルさせてミンタを見つめた。
「執事のエッケコさんの苦労が良く分かるの、最近」
ムンキンもレブンの肩や背中を《バンバン》叩いて慰めていたが、実習がまだ終わっていない事を思い出したようだ。もう一度、レブンの背中を≪バン≫と叩く。
「バカ鳥はラヤン先輩に任せて、鍵を拾いに行ってこいよ、レブン」
レブンがアンコウ型シャドウを自身の頭の上に乗せて、うなずいた。シャドウはアンデッドだ。ムンキンが不用意に触れると、死霊術場を受けてショックを起こす恐れがある。肩や背中が叩かれているので、今は頭の上に避難させている。
「そ、そうだったね」
レブンが塔跡地でキラキラ光っている銅製の鍵を拾いに駆けだした時、一斉に警報が鳴り響いた。同時に、生徒と先生全員の手元に、緊急を知らせる警報文が狐語で表示されていく。
授業が中断されて、運動場にいるパリー先生やタンカップ先生、上空で空中戦を続けているバワンメラ先生の生徒たちが、一斉にざわめき始める。
運動場のあちこちに設けられている下り階段の入口からも、生徒たちのざわめきが聞こえてきた。地下階の教室でも同じ警報が鳴ったようだ。
ミンタたちも手元に警報表示が出ているのだが、特にレブンの顔が深刻な表情になった。口元が魚に戻ってしまっている。
彼の手元には、狐語の警報窓と、もう一つ、故郷の自治軍からの知らせが表示されていた。いつもならば明るい深緑色をした瞳の色が濁って、若干、動揺している。
自治軍からの情報をサムカと、ここにいる他5人の仲間生徒に送って〔共有〕し、サムカに顔を向けた。既に、彼が故郷の避難所に設置しておいた防御魔法の起動キーを、自治軍宛に送信している。自治軍も持っているキーなのだが、手順としてレブンからも送信するように定められている。
「テシュブ先生。僕の故郷の陸上避難所に『津波』が向かっています。到着予想は3分後。多数のアンデッドも付随しているという観測情報ですね。日中なのに行動できているので、日光に耐性を有しているのかな。今から故郷の避難所へ救援に向かっても構いませんか?」
レブンを含めた6人の生徒と、2人の〔分身〕先生の視線がサムカに向けられる。同時に、ミンタにも別窓で緊急連絡が入った。狐語の文章を一読したミンタがレブンに告げる。
「レブン君、ちょっと待って。南の軍将校施設、この学校の緊急避難先だけど、そこのカチップ管理人からも緊急通信が入ったわよ。そこにも5分後にアンデッド入りの津波が到着する予定だって。レブン君がいた方が便利なんだけど。兼用できるかな? あ。情報部からアンデッドの日光耐性の術式を〔解読〕したって。皆に〔共有〕するわね」
レブンが緊張しながら鍵を拾ってきて、サムカに手渡す。ラッパ音がして、『おめでとう』とウィザード語で表示された簡易の横断幕型の立体映像が、レブンの頭上に表示された。
さすがに場の空気を読んだサムカが、すぐに立体映像を消去する。そのまま視線をレブンに向けた。
「実習は終了した。レブン君、故郷の避難所への〔テレポート〕を許可しよう。南の施設もな。ただし、この授業時間内だけの許可だ。次の授業には参加する事。それが条件だ」
【津波来襲】
授業の残り時間を確認したレブンが、サムカに礼を述べた。
「まだ5分ほど残っていますね。それだけあれば充分です、テシュブ先生。次の授業までには戻ってきますね。自治軍に日光耐性を無効化する術式を提供しないと」
そして、ミンタに顔を向けた。すでに気分は落ち着いた様子で、きちんとしたセマン顔になっている。
「ミンタさん。そちらには、僕のシャドウを送るよ。それで、海中に待機している100体ほどのアンデッドを〔操作〕できるから」
ミンタが不敵な笑みをレブンに返す。金色の毛が交じる尻尾が優雅に地面を掃く。
「私の広域〔殲滅〕魔法でアンデッドの軍勢を消し去る事ができるけれど、現地のサーバーが弱くて連続攻撃ができないのよね。消し漏らしのアンデッドが出るはずだから、そいつらの掃除をしてくれると助かるわ」
レブンの手元に小さな〔空中ディスプレー〕画面が生じた。映っているのはアンデッド教徒で占道術級長のスロコック3年生だ。いつもは黒いフードを頭から被っているのだが、今は外している。
緊張と興奮とが入り混じったような、青緑色の瞳を輝かせてレブンに告げてきた。
「レブン殿。ついに始まったようだな! 我も故郷へ一時戻り、現場の指揮を執る。日光耐性持ちのアンデッドか。敵として不足はないなっ」
レブンが深緑色の瞳を同じように輝かせる。
「スロコック家の頑張りに期待していますね。僕の町は、当初の作戦の通りに矢面に立ちます。申し訳ありませんが、広大な沿岸部の魚族や人魚族の町の事を、よろしくお願いしますね」
スロコックが画面の中で、セマン顔を緩ませた。
「任せろ。我がスロコック家の威信を見せてやろう。迎撃訓練や避難訓練を何度も行っているからな」
そして、ちょっと考えて、小声でレブンに聞いた。
「なあ、レブン殿。それぞれの町村や避難所との通信網は、ドワーフ製の通信器を使うのだが……我らアンデッド教としては、ゴーストにも期待したいところだ。どう思うかね?」
レブンが頬を緩めて賛同する。
「良い案だと思いますよ。通信手段は多く確保すべきだと思います。こういっては何ですが、ドワーフ製の機械には、全て盗聴器が仕込まれていると思いますし」
スロコックが青緑色の瞳を細めて微笑んだ。
「であるな。まあ、我々アンデッド教徒が使用しているゴーストは、高性能ではない。伝書鳩のような形式になる。『化け狐』と大地の精霊に対する回避術式を装備するから、なおさらだな」
レブンも同意して、肩を少しすくめた。
「ですよね。まだアンデッド教徒の人数も少ないですし。利点としては、死霊術を使える人が少ないので、伝書鳩方式は安全性が高いという事でしょうか。そもそも魔法適性がないと、ゴーストを見る事が難しいですし、情報を読み取る事もできませんからね。期待しています、スロコック先輩」
スロコックが鷹揚にうなずく。大商人の家という雰囲気がよく出ている表情だ。
「うむ。後詰は任せろ。レブン殿は、存分に大ダコと戦ってくれたまえ。では、吉報を待っておるよ」
スロコックが映っていた小窓画面が消えた。セマン顔で黒髪をかくレブンだ。
「ははは……あんまり期待されても困るんだけどな。でも、頑張るか」
ペルがレブンに心配そうな顔を向ける。
「私も一緒に、レブン君の故郷の避難所のお手伝いに行こうかな」
レブンが明るい深緑色の瞳を細めて、魔法の手袋をした両手を小さく振って遠慮した。
「その必要はないと思うよ。もう、防御魔法の起動術式を送信したから、後は自治軍大将の判断になる。僕が町の避難所へ戻ってする事は、起動している防御魔法の微調整をするくらいだよ。あ。もう起動されたな」
そして、ちょっと考えてからペルに微笑んだ。
「ジャディ君の回復を見守ってあげてよ。今回も、役に立たなそうだし」
ペルが口元を手袋をした両手で覆って、薄墨色の瞳を細めて吹き出した。黒毛交じりの両耳を数回パタパタさせて、レブンにうなずく。
「じゃあ、そうするね」
そして、キラリと薄墨色の瞳を輝かせて、サムカに顔を向けた。もちろん、両手は口元から胸元へ移動している。
「テシュブ先生、私はここに残ります。ですが、私もシャドウを南の学校の避難施設へ向かわせたいのですが、許可できますか?」
サムカがあっけなく許可した。余りにもあっけないので、2人の〔分身〕先生が眉をひそめる。
「うむ。シャドウであれば、本人ではないからな。反対する理由がない。思う存分やってきなさい。しかし、暴れ過ぎて現地に迷惑をかけない事と、ペルさんが次以降の授業中に集中できる範囲内での魔力の行使に限定する事。いいかね?」
ペルがパッと明るい表情になって笑った。
「はい、テシュブ先生っ」
すぐに、レブン本人と彼のアンコウ型シャドウ、ペルの肩に留まっていた子狐型シャドウが〔テレポート〕して姿を消した。それぞれ、レブン本人が故郷の町の避難所、ペルとレブンのシャドウが南の学校の避難所へ向かった事になる。
「じゃあ、私はちょっと森の中へ行ってきます」
ペル本人が、皆に断って運動場から森の中へ駆け入っていった。ジャディの看病のためだ。
その一連の迅速な行動を見守っていたミンタとムンキンが、一斉にエルフ先生〔分身〕にすがりついた。身長差が40センチほどなので、見上げるような形になる。
「カカクトゥア先生っ。私も南の学校避難所の救援に向かいたいですっ。許可して下さい!」
ミンタが明るい栗色の瞳をキラキラさせて、エルフ先生〔分身〕の空色の瞳を見上げる。
隣でエルフ先生〔分身〕に一緒にしがみついているムンキンも、その濃藍色の瞳を真っ直ぐにエルフ先生〔分身〕の瞳へ向けている。
「ぜひ、僕もお願いします。ここで救援に向かわないと、竜族としての……ん?」
ムンキンの手元に、新たな緊急通信窓が開いた。そこに書かれてある狐語を読んで、表情が強張っていく。そして、そっと体をエルフ先生〔分身〕から離した。
「すいません。もっと緊急の事態になりました。僕の故郷の自治軍からの『帰還命令』です。津波が河を遡って街へ襲い掛かるという予報が出されました。多分、一緒に敵の大ダコ軍のアンデッド群も押し寄せてくるはずです。命令ですので、僕はこれから故郷へ一時帰還します」
同じ知らせをラヤンも受け取ったようだ。彼女は1人離れて立っていたのだが、尻尾を1回だけ≪バシン≫と地面に叩きつけた。
「私の故郷からも『帰還命令』が来ました。これより私も戻ります」
エルフ先生〔分身〕が、サムカとノーム先生〔分身〕とで視線を交わす。すぐに、エルフ先生本人が、〔分身〕の肩上に小窓画面で顔を見せた。彼女の教室も騒然としているようで、生徒の騒ぎ声が小窓画面を通じて聞こえてくる。
「仕方ありませんね。間もなく、シーカ校長先生から発表があります。それを聞いて判断しなさい」
ムンキンの手元に小さな〔空中ディスプレー〕画面が生じ、党員で力場術級長のバングナンの顔が映った。彼もスロコックと同じように緊張と興奮が入り混じった表情をしている。
「よお、ムンキン! 俺にも故郷から『帰還命令』が出たぜ。お互いに忙しくなりそうだなっ」
ムンキンが濃藍色の瞳を細めて、柿色の尻尾を「パシン」と地面に叩きつける。
「おう。今回は、故郷初の自治軍だからな。装備も組織も格段に良くなってる。暴れるには絶好の条件だぜ。バンナも力場術のお披露目だろ。自治軍のド肝を抜いてやれ」
バングナンが、ちょっと照れた表情になった。褐色の視線が少しムンキンから外れる。
「そのつもりだ。ただ、俺の故郷はまだ自警団に留まっているけれどな。やれるだけの事はやってみるさ」
ムンキンが柿色のウロコを冬の日差しに反射させて、不敵な笑みを浮かべる。
「期待してるぜ。じゃあ、次に話すのは戦勝パーティだな」
バングナンが褐色の瞳をギラリと輝かせて応えた。
「おう。それじゃあな。色々と準備をしなきゃならん」
画面が消えて、ムンキンが大きく背伸びをした。柿色の尻尾が16ビートのリズムで地面を細かく叩いている。
「さて、俺も術式の再確認をするか」
その時、生徒全員の手元に新たな小窓画面が生じて、そこに沈痛な表情の校長の顔が映し出された。両耳を垂れて、顔じゅうのヒゲを苦悩で揺らしている。
しかしそれも数秒間の間だけだった。すぐに、両耳がピンと立ち、ヒゲも全てこちらに向く。しかし、黒い瞳には相変わらず苦悩の色が残っているが。
「生徒の皆さん。軍情報部から知らせが入りました。我がタカパ帝国の沿岸部全域と、河川の低地全域に、津波が到達する見込みです。同時に、推定で数万のゾンビ型アンデッドが襲来するという観測です。今回のアンデッドは日光への耐性が付与されているという事ですね」
運動場で実習授業をしている3クラスの生徒が、決定的になった状況に騒然となった。同時に地下の教室からの騒ぎ声も大きくなっていく。
大きな騒動が起きそうな予感がするのか、バワンメラ先生とタンカップ先生、それにパリー先生が生徒たちを煽るように喜び騒いでいる。
その彼らを微妙な表情で見つめながら、ノーム先生〔分身〕がサムカとエルフ先生〔分身〕に告げた。
「これは、テシュブ先生の即断が功を奏したかも知れませんな。津波の到着までの貴重な時間が、どうも無駄に浪費されてしまいそうだ」
エルフ先生〔分身〕が、生徒と先生たちの混乱じみた騒ぎを見て、素直に同意する。
「そのようですね。まあ、私たちを含めて、緊急事態に対応した『スクランブル出動の訓練』なんかは全くしていません。こうなるのは当然ですよ」
サムカも同意する。
「そうだな。私の領地のオーク自治都市の自警団でも、緊急出動の訓練を半年間以上は積んでおかないと、実際に使えなかった。半年経過しても、まだ私のアンデッド兵部隊の後方支援しかできなかったものだよ。一般人の学生では、そこまでは期待できない。現地の自治軍や自警団に期待するしかあるまいよ」
そのような、やや冷めた雰囲気の3人だ。反対に、生徒たちは気合いが入り過ぎている様子だが。
なおも校長の話が続いているが、概要は次のようなものだった。
帝国軍情報部の調べによると、帝国の沿岸部の沖合い16ヶ所で同時に海底地すべりが発生した。海底地すべりは、一般的な地震と違って地面の揺れが及ぶ範囲が狭い。なので、地震の揺れが帝国沿岸部でも自覚されていない町や村が多いようだ。
しかし、海底の変形は起きているので、大きな津波になる場合がある。今回は、起きた津波に対して、さらに大ダコが水の精霊魔法を同時多発で発動させる恐れがある。魔法で津波の破壊力を大きくするという危険性だ。当然ながら、この魔法を使ってくるだろうという情報部の予想である。
前回、南の学校避難所である帝国軍将校の避暑施設で起きた事例では、津波の高さは10メートルだった。しかし、津波の高さは地形や波の重ね合わせによって大きくなる。
そのため、安全対策として海抜40メートル以上の高台に避難するように指示されていた。レブンの故郷の住民が陸上避難している沿岸部の高台避難所も、海抜40メートルの場所だ。
残念ながら現状では軍や警察の指揮機能が満足とはいえないために、最近は各町村の自警団や自治軍が治安活動をしている。今回も、軍や警察は帝都などの重要都市の警戒に集中するという事だった。
一方で『穴埋め』といっては何だが、各地の竜族や狐族、魚族の自警団が緊急に自治軍として登録し直される事にもなっている。ムンキンの故郷の城塞都市の自警団が自治軍に昇格されたのも、その一環だ。
しかし、いきなり昇格されても自治軍としての実務経験はない。そのため、情報部の手助けというか介入で、これら自警団と自治軍のネットワークが構築されていた。それを通じてドワーフ製やソーサラー協会製の魔法具が大量に流通しているようである。
事前予想では、津波発生から沿岸部まで到達するまでに、最短で2、3分という事だった。そのため、魔法具は主に〔テレポート〕関連の商品になっているようだ。安全な高台まで転移するための〔テレポート〕魔法具である。
そのおかげで、沿岸部や河川流域の低地部の住民の避難が、迅速に進んでいると校長が知らせている。
「一時帰省の希望者は、私宛に申し出て下さい。今日の授業は、こういった事態ですので、ここまでとします。ですが、明日からは通常通りの授業を再開しますので、そのつもりでいて下さい」
呻き声が生徒の間から上がる。
「一時帰省の必須条件として、自身の生体情報を最新版にして法力サーバーに保存しておく事と、〔蘇生〕や〔復活〕用の生体組織を最新版にして、これを〔結界ビン〕の中に保管して、担当教官に預けておく事。この2点です」
校長の話が終わると、一斉に生徒たちが慌ただしく動き出した。ミンタとムンキン、それにラヤンも、校長にいわれた2点の更新をしに地下階へ駆け込んでいく。
「カカクトゥア先生、じゃあ、私は南の学校避難所へ行ってきます」
ミンタが駆け去りながらエルフ先生〔分身〕に告げた。ムンキンとラヤンは、共にそれぞれの故郷へ向かう事に決めたようだ。
「僕は、故郷へ向かいます。では」
「私も。マルマー先生は、どこにいたっけ」
運動場には、サムカと2人の〔分身〕先生だけ残った。運動場にいた他の3人の先生は、校長の指示に渋々従って、〔結界ビン〕を預かるために地下階へ戻っていく。
エルフ先生〔分身〕が、地下に降りていくパリー先生の後ろ姿を見送って、ため息をついた。
「授業がまた遅れますね。まったく、大ダコには迷惑を被ってばかりです。バワンメラ先生とタンカップ先生は、どうせ後でアンデッド群と戦いに行くのでしょうね。パリーは妖精なので、この森から出ないという自主規制を信じるしかありません。でも、破って勝手に見物に行ってしまうかも」
ノーム先生〔分身〕が銀色の口ヒゲの先を手袋でいじり回しながら、垂れ眉を愉快そうに上下させた。
「ほぼ確実にするじゃろうな。ははは。僕らの本体も、ここで寛いでいるつもりは無さそうだ」
エルフ先生〔分身〕の手元に、新たな〔空中ディスプレー〕画面が生じた。エルフ語で何か表示されている。それを見たエルフ先生〔分身〕が顔を曇らせていく。
「たった今、津波の第一波が沿岸部に到達しました。水の精霊を、帝国の沿岸部各地に配置しておいたのですが、彼らからの観測情報です。攻撃が始まりましたね」
そして、サムカに顔を向けた。もう完全に警官の表情になっている。
「では、〔分身〕である私もここで消えます。以降は、エルフ世界のブトワル警察の指示に従う事になりますね。早速、色々と命令が来ています。何かありましたら、今後は本体の私に知らせて下さい。では」
エルフ先生〔分身〕が〔液化〕した。体の一部は光に〔変換〕されたようで、光る液体になっている。そのまま運動場の地面に吸い込まれて消えた。
ノーム先生〔分身〕も大きな三角帽子を頭から外し、軽くサムカに会釈する。
「僕も失礼するよ。沿岸部の住民の避難が済んでいる事を祈っている。彼らは死んだら終わりだからね」
彼の姿が泥人形に変わって、これもそのまま運動場に吸い込まれて消えた。
運動場に残されたのはサムカ1人だけになっていた。授業の残り時間を確認して、顔を冬空に向ける。
「ハグ。私も残った方が良いと思うが。何とか〔召喚〕時間を延長する事はできないかね?」
ハグ人形が、サムカの頭上で<ポン>と水蒸気の煙をまとって出現した。そのままサムカの錆色の短髪の上に着地する。
「可能ではあるが……あの怠け羊が引き受ければ。だな」
サムカが腕組みをして顔をしかめた。
「それは、かなりの難問だな。〔精神操作〕や〔行動操作〕をしても構わないかね?」
ハグ人形がニヤリと笑う。
「それは禁止だな。召喚ナイフの販売促進上、よろしくない」
【校長室】
校長室は地下階の旧教員宿舎側に設けられていて、教室のある区画の隣にある。
今は生徒と先生、それに事務職員で大混雑している最中だ。校長が大汗をかいて生徒たちの一時帰省の申請を処理している姿が、サムカの手元にある〔空中ディスプレー〕画面に映し出されている。
サーバーが機能不全に陥った場合に備えて、コハクの中に羽ペン型の魔法具を使って書き込んでいるのだが……大変そうだ。見た目は、手の平サイズの平たいコハクに、模様を刻み込む工芸職人の工房のようにも見える。
鼻先の汗を校長がスーツの袖で拭いて、画面向こうのサムカに謝った。
「すいません、テシュブ先生。今は、私もこのような有様でして。〔召喚〕儀式を指揮する余裕がありません。サラパン主事も、学生食堂で食べ過ぎで動けない様子です」
確かに、別の小窓表示では、食堂内で大きな毛糸玉になって呻いている羊の姿があった。調子に乗って、食堂で供されている牧草5種を全て一気食いしたらしい。
周りでは学校の事務職員と、サラパン主事の部下の羊族の役人が10名弱ほどいて、同じように食べ過ぎて転がっている。
食堂に居合わせた生徒たちが呆れた表情をして、整腸の法術やソーサラー魔術をかけているのが映っていた。
その様子を見てサムカが整った眉をひそめて、右の軍手で後頭部をかく。
「……予想以上の事を平気でするのだな、この羊は」
頭の上で愉快そうに笑っているハグ人形を無視して、サムカが校長に礼を述べた。
「忙しいところ、済まなかったな。考慮してくれただけでも感謝するよ。シーカ校長。私は召喚契約上、この学校の敷地の外に出る事が難しい身だが、遠隔魔法は可能だ。少しでも戦力になれば……と思ったのだが……」
校長が再び鼻先の汗を拭いて、画面向こうからサムカに微笑んだ。さすがに事務仕事は手慣れているようで、数秒で1個のコハクへの書き込みを済ませている。
「お気持ちだけで充分ですよ、テシュブ先生。しかし……そうですね。教育研究省の中で一度検討するように提言します。テシュブ先生の〔召喚〕儀式は、最近は要領良く行えているのですよ。先生を〔召喚〕するまでの所要時間が、2時間を切る寸前まで効率化が進んでいます。もう少し時間短縮ができれば、テシュブ先生の連続〔召喚〕も可能になるかも知れません」
「ほう……」と感心するサムカとハグ人形だ。手元に〔召喚〕終了までのカウントダウン表示が出たので、話を急いで切り上げる事にする。
「そうかね。サラパン主事も意外と有能なのだな。では、期待しておくよ。そろそろ、〔召喚〕時間切れだな、ではまた」
校長が画面向こうで白い魔法の手袋をした両手を振った。
「はい。では次の〔召喚〕で、また会いましょう。テシュブ先生」
<パパラパー>とラッパ音がどこかで鳴り、サムカの全身が水蒸気の煙で包まれた。
【墓地の一角】
煙が消えて視界が回復すると、そこはいつものオーク墓地の一角だった。サムカの館からも近く、周囲にはオークの墓もない。そのため最近では、ハグ本人と会って話す場所になっていた。
サムカがため息を1つついて、頭上のハグ人形に山吹色の視線を投げかける。
「ハグ。私の〔召喚〕時間だが、こういった場合には延長できるようにしてもらえないかね? どうも、最近はいつもいつも、騒動の輪の外に置き去りにされている気がするのだが。生徒やクーナ先生たちに任せきりというのは、心苦しい」
ハグ人形が<ポン>と音を立てて消滅して、代わりに本人が上空に出現した。やはり一気に気温が下がって暗くなり、生命力が弱い枯れかけた草が粉になる。
そのまま、「スイッ」と音もなく地面スレスレまで降りて、足を地面につけない〔浮遊〕状態で静止した。地面に立つと、それだけで地面を浸食してしまうからだ。
「そう簡単に言うな、サムカちん。この世界間移動魔法の術式が、どれほど高度なのか知らぬだろ。ホイホイと〔召喚〕時間を変えて良いような簡単な魔法ではないのだぞ」
サムカがジト目になる。
「知る訳がないだろう。私程度の田舎貴族では、〔解読〕する事も不可能だ。だからこそ、文句をいっておる。あの羊ですら効率化に励んでいるというのに、リッチーのハグが諦めていてどうするのかね」
ハグが淡黄色の両目を閉じて、腕組みをして低く呻いた。そのまま2、3回転ほどゆっくりとサムカの目の前で回っていく。
ちなみに今回の服装は、古着をドブに10年くらい漬け込んで、そのまま洗わずに砂漠で数年間ほど天日干しして悪臭を飛ばしたようなシャツと長ズボンである。サンダルも相変わらず底が擦り切れ尽そうとしている代物だ。どこからどう見ても不審者であるが、サムカは特に何も指摘しない。
「……痛いところを衝いてきたな。他の召喚ナイフを運用しているリッチーとの兼ね合いもあるのだが……そうだな、考えておこう」
そして、執事がオークの使用人を数名引き連れて、こちらへ駆け寄ってくるのを眺めた。騎士シチイガも執事の後ろから小走りでやって来ている。
「どうやら、何か問題が起きているようだな。では、ワシが先程収集した情報から適当にいくつか、サムカちんに知らせておこう」
ハグが執事と騎士シチイガに愛想よく微笑んで両手をヒラヒラ振りながら、同時に圧縮した観測情報をサムカに渡す。それを2秒ほどで読み終えたサムカが、やや険しい表情になった。
「ハグ。何がどう転がるか、分からぬものだな」
情報の内容は、大ダコについてであった。
チューバの故郷の町への攻撃を、どうやら大ダコはタカパ帝国による攻撃だと誤解したらしい。さらに、魔力源であった海の妖精も、岩への破壊攻撃で逃げられてしまっている。
この海の妖精はかなり弱っていたようで、その後まもなく再び大ダコによって捕獲されている。しかし衰弱が激しく、大ダコ自身の魔力源としては使用できない状態だった。そのため、前線のアンデッド群への魔力供給源の『電池』として送られた……とあった。
サムカが素直に感心している。
「さすがはリッチーの調査能力だな。ここまで分かるものかね。シーカ校長には……今は知らせない方が良さそうだな」
ハグが少し拍子抜けした顔になった。うっかり地面に着地してしまい、慌てて空中に浮かび上がる。地面は見事に〔風化〕して粉状の砂にされていた。その砂も消滅していき、直径50センチ弱で深さ10センチほどのクレーターになる。
「おっと、すまんすまん。一瞬触れただけだから、大丈夫じゃろ」
適当な口調で、ハグがサムカに謝る。しかし、反省の色は欠片も感じられない。
「それよりも……」とサムカに淡黄色の瞳を向けた。象牙色の顔にかかる銀色のトラ刈り髪が、季節風でサラリと揺れる。到着した執事と騎士シチイガたちに、再び愛想よく微笑んで手を振った。
「校長に知らせてくれると、騒動が大きくなりそうで楽しみなのだが……まあ、よいか。ワシが調べた情報を出したところで、信じてもらえぬだろうしな」
サムカが無骨なベルトに両方の軍手を添えて、軽いジト目になった。どうやら、ハグも日頃の行いが悪い事を自覚してはいるようだ。改善する気は全く無い様子でもあるが。
「まあ、日頃の行いの積み重ねもあるが……我々とリッチーとでは魔力差が大きすぎるからな。調査方法を理解できない以上、シーカ校長やタカパ帝国の連中も情報を信用する事には、ためらうだろう。私もハグだから信じているが、他のリッチーが知らせてくれたら信じていないよ」
とりあえずハグを擁護するサムカであった。そんなやり取りに、首をかしげて視線を交わしている執事と騎士シチイガである。
ハグが「スイッ」と上空1メートルまで浮き上がった。同時に姿が薄くなっていく。
「では、ワシはここで去ろう。エッケコ殿や使用人のオークに障るからな。あの大ダコだが、『かなり追い詰められての反撃』という認識で良かろう。トドメを差すには好都合じゃな。ではまた」
サムカが応じて返事をすると、そのまま煙のようにハグの姿が消えた。同時に気温と明るさが平常に戻る。
(そういえば、エッケコとオークの使用人たちが鳥肌になっていたな……)と気づくサムカである。やはり寒かったのだろう。ハグが残した魔法場汚染を、学校で覚えたソーサラー魔術の〔旋風〕魔術で吹き飛ばして希釈する。
突然発生した突風に、面食らっている執事たちに気遣ってから、サムカが大ダコ襲撃の報を知らせた。
執事が深刻な表情になって、ペルとレブンを心配している。
今も復旧作業中なので、執事服ではなく作業服である。さすがにもう、安全ヘルメットや安全靴に手足のプロテクターは装備していないが、結構な日焼けだ。元々、薄い赤柿色の顔だったのだが、日焼けして今は干し柿色になっている。
「そうでございましたか。負傷しない事を、祈っております」
そうして、騎士シチイガに話題を促した。騎士シチイガは普段の巡回指導用の古着姿である。黒い黒錆色の短髪の先が季節風に揺れて、淡い山吹色の瞳が鈍く輝いている。
「我が主。ルガルバンダ殿からの緊急通信が先程届きました。国境の外ですが、魔族の盗賊団がオーク自治都市に向けて大型の魔法兵器を展開しているとの由。展開完了まで、あと数分ほどかかる見通しでございます。いかがいたしましょうか。迎撃の用意は整えてあります」
「また、盗賊団か……」と小さくため息をつくサムカ。しかしすぐに領主の顔に戻って、山吹色の瞳を鋭く光らせた。
「警告なしの先制攻撃での迎撃を許可する。同時に、近隣の領主への通知もしておくようにな」
シチイガが直立不動になり、それから折り目正しく立礼した。
「は! 御意のままに」
すぐに執事に振り向いて、オーク自治都市の自警団には都市防衛の警戒レベルを一段階上げるように指示する。執事に従っていた数名のオーク使用人が、転がるように自治都市へ向けて駆け出していった。
続いて、騎士シチイガがカラス型の使い魔を3羽呼んで、ルガルバンダ軍に攻撃許可を命じる。最後にサムカに振り向いて、淡い山吹色の瞳を鋭く輝かせた。
「私は、アンデッド兵を100体引き連れてルガルバンダ殿に合流します。では、後ほど」
アンデッド兵が騎士シチイガの愛馬を引いて駆けつけた。それに華麗な所作で騎乗する。流れるような手綱さばきで、地響きを立てずに墓地から国境へ向かっていく。
100体のアンデッド兵が馬と全く同じ速度で走って追随し、これまた全くの無音で駆け去っていった。
上空では、使い魔とシャドウの群れが隊列を成して、館から四方へ飛び去っていく。その様子を眺めながらサムカが1つ咳払いをした。
「さて……今は盗賊退治に集中するとするか」
【レブンの町の避難所】
「ふう……間に合ったか」
レブンが口元を魚に戻しながら、セマン顔に浮かんだ汗の玉を制服の袖で拭いた。
彼の町の陸上避難所は、海岸に突き出た高い岬の上に移動していた。前回の敵襲を分析したところ、この場所では敵ゾンビの侵入を許しやすい斜面が多数見つかったためだ。
さらに、学校で以前に起きたリベナント騒動の映像を見て、町長や自治軍将軍たちが衝撃を受けた事も大きい。こうして、この場所へ移動する事になったのであった。
もちろん、前回のような半分スケルトンと化しているゾンビは、通常の獣人よりも動きが格段に遅い。
そのため、レブンも避難所を移動しなくても特に支障は出ないと感じていたのだが、町長と将軍の決定なので従う事にしていた。
新しい避難所は天然の要害になっていて、海に突き出た岬の先端にあった。岬はそのまま山の尾根に接続しているので、攻め込むには細い1本の尾根道しかない。
水や食料などの物資は、レブンが術式を書き換えたドワーフ製の〔テレポート〕魔法具を使用している。
この魔法具は誰でも使用できる仕様になっていたのだが、レブンが特定の人しか使えないように改善していた。所有者認証には、その人に割り振られたパスワードと、精神状態が安定している事が必要になる。
加えて、〔テレポート〕の出口に当たる、避難所側にも担当者を置いて、その彼からの許可も必要になっていた。
おかげで、時々物資の〔テレポート〕輸送が詰まる事があるのだが、自治軍大将と町長とで何とか対処しているようである。
実際、魚族の海賊一派の潜入を何度か防ぐ事ができていた。この海賊は大ダコの仲間ではなく、ただの火事場泥棒だったのだが……海賊は海賊だ。
今はレブンが〔石化〕させて、岬の下の海中に沈めている。
そんな〔テレポート〕出口の魔法陣からは、次々に武器や医療品が出てきていている。その搬入作業を手伝うレブンだ。ここでは、彼は一介の学生という身分に過ぎない。
大きな木箱に入った対アンデッド用の攻撃魔法具を、2人がかりで岬の先端にある避難所の迎撃陣地の周辺に並べていく。
使い捨ての〔紫外線レーザー〕魔法具で、フルパワーで照射すると1回で使えなくなる。仕様上はサムカ熊相手でも、かなりの被害を与える事ができるほどの兵器だ。敵が〔防御障壁〕を展開していなければの話だが。
(それでも、十字砲火を繰り返せば、充分に敵を無力化できるだろうな……)と思うレブンである。
相手がいくら高速で攻め込んできても、光速には及ばない。いったん〔ロックオン〕すれば、サムカが使うような幻術でも使われない限り必中だ。
面倒な点としては、これらは『使い捨て兵器』なので、射撃手は次々に新しい魔法具を受け取る必要がある。これはそのための配置だった。
しかし、まさか敵が日光に耐性を持つとは予想していなかった。前回同様に日没後から襲撃を開始するとばかり予想していたので、自治軍も慌てた。それでも今は、全ての攻撃魔法具の術式を修正して対応済みだ。
(情報部に感謝だな。事前に分かって良かったよ)
次の問題点は上空からの敵の攻撃だが、これはレブンが7体のゴーストを飛ばして警戒している。何となくヒラメに見える。
飛行してくる敵があればゴーストが体当たりし、その魔法回路や電子回路を機能不全にするという作戦だ。敵がゴーストであれば、体当たりする事で支配下に置く事ができる。また、敵が飛行船などを繰り出してきた場合でも、体当たりによって機械の故障を誘発できる。
一通り迎撃陣地の追加補給を済ませて、一息つくレブン。その足元に《ビリビリ》とした振動を感じた。
「ん?」
崖に向けて歩いていく。陣地の下は、海に突き出た絶壁になっている。その海が真っ黒に染まって盛り上がってきていた。
「あ。既に津波が到着していたのか」
その真っ黒に渦巻く海面をレブンが崖の上から見下ろす。崖の上には既に15名ほどの町民が、興味津々の様子で集まっていて、レブンと一緒に海面を見下ろしていた。
見慣れない町民も数名いるので、軽く挨拶を交わす。チューバの故郷出身者だ。町長や自治軍大将からは、「刺激しないように近寄るな」と命令されていたのだが……早速破っている。
しかし、町長たちが危惧していたほど、彼らはレブンに対して敵視していない様子だ。安堵するレブンである。チューバの町民やレブンの町民と更に話をして、それほど緊張も恐怖もしていない事を確認する。
(まあ、今まで立て続けに騒動が起きたからね。度胸はつくよね)
迎撃陣地に配置されている自治軍の兵がメガホンを使って、レブンたちに立ち去るように警告し始めた。津波が警戒水位を超えたらしい。確かに、真っ黒い海面が急速にせり上がってきている。
周囲を見渡すと、いつの間にか海岸線があっという間に津波に飲みこまれて、真っ黒な海に変わっていた。津波の第一波は高さ10メートル程度のようで、今や眼下の入江を飲みこんで、マングローブの森を破壊しながら内陸部へ押し進んでいる。
マングローブの森の木々は根が浅いので、容易く津波に引き抜かれてバラバラの木片にされているようだ。マングローブの森の土は泥炭土なので津波に巻き上げられて、海面の色がさらに真っ黒に変色していく。