一・澄川涼香、最初のあいさつ
人間の記憶において最も残りやすいのは嫌な記憶だといいます。なぜなら自分の身を守るのに過去の失敗や傷ついた経験ほど、役に立つものはないからです。
手痛い失恋、ノートに書いた自作の詩を親に見られたこと、カラオケでサビしか知らないせいでそれ以外のところが全く歌えず、しどろもどろになってしまって大恥をかくだとか……みなさん、経験ありますよね?
そんな忘れてしまいたい経験も、きっといつかは皆さんを助けてくれるかもしれません。大切にしましょう。
二宮浩太郎でした。
天照女学院高校といえば、創立百五年の歴史を誇る名門女子高である。
女子高というと、近年の少子化の流れで共学化する高校も多くなってきているが、この天照女学院は全国トップレベルの学力、そして難関大学への進学率が高いことから毎年入学希望者が絶えず、高等部の編入試験合格倍率は十倍を切ったことが無い。勿論授業内容は難解で、校則も“男女交際禁止”という時代錯誤としか言いようのないものがある程の厳しさであるが、栄光ある将来を掴むために生徒は勉学に励んでいるのである。
そんな天照女学院であるが、別に生徒たちは四六時中勉強だけをしている訳ではない。この学校でも普通の公立高校と同じように、部活動が行われている。運動部ではソフトボール、バレー部、文化部では茶道、吹奏楽部などが代表的だ。こちらも県大会や全国大会に出るなど優秀な成績を収め、輝かしい栄誉を得ている。
さて、それらの部活を運営していく上でどうしても必要になるのが部費だ。天照女学院では学期ごとに
各部活の予算を決める部活動予算会が行われ、各部活の部長、そして生徒会役員が会議室に集められ、生徒会が作成した予算案を基に話し合いがされる。
「では、平成二十九年度、三学期部活動予算会を始めます」
生徒会長、井ノ原琴音の言葉でこの日の部活動予算会が始まった。
生徒会長の琴音は、この学校で二年生の学力トップの座に立つ秀才である。頭脳明晰で、純情可憐な琴音は周囲から推薦されて生徒会会長となった。真面目で清純な彼女は、生徒から多大な支持を集めている。
「皆さん、お手元の資料をご覧ください。お配りした資料は今学期の部活動予算案です」
各部活の部長がそれぞれ自分の前にある予算案を手に取った。
「今回、卓球部が二万円、演劇部が一万五千円の予算の増加を要求しました。今回確保できた全体の部活動費は二学期の六十一万円から二万五千円増加して六十三万五千円となりましたが、これでは要求分の一万円が足りないので、不足している一万円分を、全体の部活動費から最も多く支給されているソフトボール部から補填されることになりました。これによりソフトボール部は二学期の部費、二十三万五千円から二十二万五千円となりました。なお、他の部活での部費の変更はありません。これで通してよろしいでしょうか?」
琴音が場に居る全員に呼びかけた。しかし暫く経っても意見が出なかった。
「それでは、反対意見は出なかったので、これで平成二十九年度、三学期活動予算会を終わりに――」
「待ってください」
琴音の締めの言葉を止めたのは、ソフトボール部部長、高畑菜乃であった。
「ソフトボール部を代表して、言いたいことが幾つかあるのですが」
「判りました。では、お願いします」
「はい。ではまず、今回の予算案を作成した役員を出してほしいのですが」
「予算案の作成者ですか」
「ええ」
「皆さんから出た要請を基に生徒会で作成し、最終的にわたしが責任者としてOKを出しました」
「つまり会長が作成したと受け取ってよろしいですね?」
「その通りです」
「そうですか……」
菜乃がはあ、と溜息をついた。
「失望しました。生徒の意見に耳を傾けるべき生徒会がこんな暴挙をとるなんて」
「暴挙ですか」
「信じられません。我が名誉あるソフトボール部の予算を削って、それを他の無名に等しい部活に回すだなんて」
「無名に等しい、という言い方はどうかと」
「すいません。しかし予算を削るなら他の部活からも平等に削ればいい話です。ですがこの予算案では予算が削られたのはソフトボール部だけです。これは屈辱としか言いようがありません」
「しかし、全体から一番多くの金額を受け取っているのはソフトボール部です。ですから予算の少ない卓球部と演劇部に予算を回しました」
「そうですよ!」
卓球部部長の川伏ゆかりが声を出した。
「あたしたち卓球部はぼろぼろになったラケットを購入するために部費の増加を……」
「黙って。今は会長とわたしで話しているの」
菜乃がゆかりを睨む。睨まれたゆかりは曇った表情で椅子に戻った。
「わたしはこんな予算案を作った会長に抗議します」
「ちょ、ちょい待ち」
琴音の隣に座る副会長の河野瑠衣が立ち上がった。
「この予算案を作ったのはあたしたちもです。文句を言うならあたしたちにも――」
「あなたもちょっと黙ってください」
菜乃にきつく睨まれた瑠衣はしょぼん、と落ち込んで席に戻った。
「とにかくソフトボール部は生徒会に抗議すると共に、予算案の修正を……」
「待ってください」
会議室に凛とした一声が響いた。声の主は副会長の瑠衣の隣に座る生徒会会計、澄川涼香だった。
一年生の涼香は、琴音と同じように学年トップの成績を誇る生徒である。生徒会には二学期から加入し、生徒会会計となった。
「生徒会の会計として、高畑先輩に言いたいことがあります」
「何よ、あんた」
「私は今回の予算案でソフトボール部の予算削減を提案しました。文句は会長ではなく、私に言ってください」
「ふうん、なら、そんな生意気なことをした訳を教えてもらおうじゃない」
菜乃を始めとする周囲の人々から涼香に視線が集まる。しかし、涼香は緊張することなく凛とした目つきで目の前の人々を見ていた。
「判りました。では、この資料を見てください」
涼香が手元のファイルから一枚の紙を出した。
「これはあなた方ソフトボール部から提出された二学期の部費の内訳です。ここに注目してください」
涼香が指差したのは”その他”の欄だった。
「”その他:七万八千円円”……二十三万五千円からこんなに『その他』の割合が占めているのは、はっきり言って異常だと私は思います。ではこの『その他』の七万八千円は何に使われているのか、教えてもらえませんか?」
「……別に関係無いでしょ」
「当てて見せましょう、これは食事代ですよね?」
「どっ、どうしてそれを……」
菜乃の表情に狼狽の色が浮かぶ。
「一年生の部員から聞き込みをした結果、大会終わりのお疲れ会でファミリーレストランを利用した際に、部費をその支払いに利用しているとの証言を得ました」
「それは……」
「確かに、天照女学院のソフトボール部は全国トップクラスの成績を誇っています。しかし、だからといってそんな部費の使い方をしていいはずがありません!」
「……」
涼香の迫力に菜乃は圧倒されて黙ってしまった。
「……これが部費削減の理由です。文句はありませんね?」
「……え、ええと……」
「ありませんね!」
「は、はいっ」
「ありがとうございます。では、私からは以上です」
涼香は席に戻って、自分の席に戻った。その時、部屋の中にいる誰かが拍手をした。そしてその拍手は会議室全体に広まって、菜乃を除く全員が拍手をした。




