一・葉桜香織、走る
突然ですが。
レンタルビデオ店の会員になるときだとかに利用規約って書類を読まされますよね。
アレ、結構長いですけど、ちゃんと全部目を通していますか? みなさんいい加減に流し読みしていませんか?
よっぽど無いと思いたいですが、何か変なことが書いてあるか分かったもんじゃありません。めんどくさくても見落としが無いよう、きっちり読むようにしましょう。
さて、見落としが命取りになった話といえば……
春から夏に差し掛かったある日の朝、葉桜香織は毎朝通学に利用している笹ヶ峰駅へ向かって、ひとり走っていた。
香織が向かっている笹ヶ峰駅は、この辺りではそれなりに規模の大きい駅だ。毎朝多くの人々が通勤、通学に利用するので、毎朝それなりに混雑する。だから香織が走って駅に急ぐことは、全くもって普通の光景だと言えるだろう。
はあ、はあと息を荒げながら無我夢中で走っていた香織だったが、その時、目の前で携帯の画面を凝視しながらふらふらと歩いていた学生に勢いよくぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさい」
学生にぶつかった香織は、学生に謝った。
「すいません。こっちもうろうろしちゃって」
その学生は奇妙な少年だった。更に七月に入ったというのに、詰襟の学生服を涼しい顔で着ているのだ。髪は襟足にかかるほど伸びていて、おまけにぼさぼさなので、あまり手入れをしていないように見える。丁寧な物腰をしているが、あまり真面目な学生ではないのだろう。
彼には怪我もなさそうだったので、香織は急いでその場を立ち去ろうとした。だが、学生はその場を去ろうとした香織の背中に向かって声を掛けた。
「あのう、聞きたいことがあるんですけど」
「ええと、何?」
急いでいた香織だが、学生の話を聞くことにした。
「道に迷っちゃいまして、笹ヶ峰駅へ行くにはどちらへ向かえば……」
「ああ、笹ヶ峰駅なら今あたしが向かってる所よ。一緒に行く?」
「良かった、僕、方向音痴なので。ではナビゲーションお願いします」
学生は香織と一緒に走りながら駅へ向かった。
一緒に走っていると、学生の走りはすぐにのろのろとみっともないものになり、ぜえぜえと彼は荒い呼吸を始めた。
「こんなに急がなくても良いんじゃないですか、苦しいですよ」
弱音を吐いている学生を香織は無視して走った。今は彼の体力の都合を考えてやれるほど、香織には心の余裕は無い。
数分後、二人は笹ヶ峰駅に着いた。学生は息を切らしながら香織に礼を言った。
「ど、どうもありがとうございました。しかし毎朝こんなに急いでいるんですか」
「……まぁ、いつもこんな感じかな」
「そうですか、さすが毎朝走っている人はタフだ。では失礼します」
券売機の方へと向かう学生を見て、妙に丁寧な言葉遣いをする男子だったな、と香織は思った。自分と同年代だろうに。
さて、いつもの香織なら改札へ行き、電車を待つ。しかし香織は腕時計を見た後、いつもなら足を向けない連絡通路へと向かった。
――時間はまだある。大丈夫、必ず上手くいく。
香織は手袋をつけ、鞄から折り畳みナイフを出し、ポケットにしまった。
彼女の普通ではない朝が始まろうとしていた。