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未踏 18号 「繋がりの時を求めて」 

作者: 山口和朗

   「繋がりの時を求めて」 


 悲しさ、不幸、淋しさ、いつ来ても良いように、待ち構えているのだが、今に何かがと、平穏な今日という時が、いつまでも続くものではない、自分、家族の不幸は、たちまちにしてこの今日という日常を打ち砕くだろう、が、今しばらく、待って欲しいと、まだ充分には癒えてはいないのだから、

 病気以来、私は平穏というものが、長くは続かないもの、穏やかな時というものは、心して味わおう、または、朝に生まれ夕べに死す心で、今を生きよう、また、人に会うときは、一期一会で、再びは会えないものとして会おうと、予感するその時へ、

 始め妹の家に不幸があった。次に田舎で兄嫁が倒れた。続いて先生、Yが亡くなった。姪の悲しみ、Sの失踪と、次々と知る友人、知人の不幸。



   「繋がりの時を求めて」 



 悲しさ、不幸、淋しさ、いつ来ても良いように、待ち構えているのだが、今に何かがと、平穏な今日という時が、いつまでも続くものではない、自分、家族の不幸は、たちまちにしてこの今日という日常を打ち砕くだろう、が、今しばらく、待って欲しいと、まだ充分には癒えてはいないのだから、

 病気以来、私は平穏というものが、長くは続かないもの、穏やかな時というものは、心して味わおう、または、朝に生まれ夕べに死す心で、今を生きよう、また、人に会うときは、一期一会で、再びは会えないものとして会おうと、予感するその時へ、

 始め妹の家に不幸があった。次に田舎で兄嫁が倒れた。続いて先生、Yが亡くなった。姪の悲しみ、Sの失踪と、次々と知る友人、知人の不幸。


   キヨちゃんの病気


 突然に襲ってくるものが、脳梗塞や、心筋梗塞。妹の舅はみんなの見ている前で倒れ、これから定年後の生活がと言う矢先、あっけなく逝ってしまった。妻の実家の兄嫁、命は取り留めたものの、半身不随、言語障害が残ってしまった。

 あの日、妻と駆けつけたのだった。夜中に着いた病院は、ひっそりと寝静まっていた。ただ昏睡のキヨちゃんが横たわる、その一室だけ明々と灯りがともり、親戚、家族はベットを取り巻き、眠ることなく見守っていた。変わり果てた姿に涙を潤ませ声を掛けるエミコがあった。私はキヨちゃんの手を握るばかりだった。

 五日、十日、十五日、大学生の律子が付き添った。

「おかあちゃん、突然にどこへ行っちゃったの、私が歌うことを一番喜んでくれていたのに、これからだというのに、死なないで、きっと治って」

「ごめんね、甘えてばかりだった」

「弱音を吐くと、いつも叱ってくれた」

「我がままばかり言ってきた、心配ばかり掛けてきた」

 律子は生と死を彷徨う母に向かって心で呟いていた。はじめて見つめる母だった。貧しさに耐えて子供時代を生きた母は、弱音を吐くことがなかった。祖母亡き後、朝早くから夜遅くまで、何人もの職人の世話をし、働き詰だった。その母がいま倒れ、

 律子は初めて、今まで当たり前に思っていた、母や、母の居る日常と言うものが、危うい薄氷の上に在ったものなのだと思った。


   別れの挨拶


「先生には、残された時間は少ないのだから、エゴで先生の時間を奪うようなことはしないでよ」

 長期出張中と通信して、見舞を断っていた先生、

「見舞いに行きたいという皆を私は必死で止めているのだから」

「もし、貴方が行って、皆が次々行き出したらどうなるの」

「先生が誰にも会いたくないというなら仕方がないが、私は元気なうちに会って別れをしておきたいのだ、エゴでも何んでも行くよ」

 私は制止を振り切っていた。 

 夏の日盛り、私はまだ体調は本調子ではなかったが、妻と出かけた。会いに行かないではいられなかった。父ほどの年齢、何の慰めも出来るものではなかったが、小四で父と別れた私は、どこかで先生を知らぬ父と重ねているところが在った。一匹狼で、無頼で、それでいて気弱さもあり、私は最初に家を訪問した時より、慕った。

「父の呼び声は好いよ、誰がなんと言っても」

と私の作品を褒めてくれた。

私の癌体験には「お前は地獄を見てきたんだなー」と、「未踏」に賛意を送ってくれた。

 その先生がいま死の淵にある、

 一年程前、「どうも俺も癌らしい」と笑って言う先生だった。酔って話す先生の真否は何時もわからなかった。その後も「戒名付けたよ」とか、「癌は消えちゃった」とか、うそぶく様に話すのだった。私は癌と関係なく、先生は手回しよく、死ぬ日のことを考えているのだな位に取っていた。それが突然の病気の知らせ、


「尻に入れた金属パイプ、痒くてたまらんから、毎日フルチンだよ」

 直腸癌で肛門を取られた我が身を、嘲るように言う先生だった。

 奥さんからは「手遅れになる前に手術しないから、そう言うことになるのよ」

「どれだけ言っても聞かなかったのだから、自業自得でしょ」と叱責され、

 先生はこの一年間戦っていたのだった、生徒には他人事のように話しながら、何れ転移があるのなら、手術はしないと、最後まで生徒の原稿に手を入れ。

 癌は癌でやってくれ、俺には仕事があるとでも言うように、

「先生、僕は今日、抜け駆けをして来たのです。Kがエゴだと言ったけれど、見舞わないではいられなくて」

「おう、そうだよ、毎日忙しいんだよ」

 出張まえの準備に余念がないとでも言うように、 

私の悲痛さをからかう先生、

 今も最後になるかもしれないジャーナルの編集していたところだと。

 私はプラトンの境地だった、先生は毒杯を仰ごうとしている。生き様が自分であり、そのように生きている間が自分なんだと。師は早や死出の準備を済ませ、私はまだ何も出来ていない。

 まもなく先生は居なくなるのだということ以外は、変わらぬ時間がそこには流れているのだが、

 繋ぐ言葉が見つからない、何を話しても無意味、

 私は何も話せなくなっていた。

「どうして、もっと早く手術しなかったのかしら、今はどんどん良い治療法が」

「いくら言っても聞かなかったのよ」

 妻と奥さんの会話が先生と私の間を漂う。

 悲しみはなかった。ただ淋しさが、再びは会えないのだという。

 出来るなら、出会いからの時を話したかった、良き師弟のように、が、先生には師の意識はなく、私も打ち過ぎた。

 手遅れになり、遣り残したことは一杯ある、だが、所詮それが何だという。元気だったらそのように言う、先生の気配がそこに在り、

ただ、受け入れるしかなかった。どうすることも出来ないし、何を言っても虚しい、「お元気で」も、「お大事に」も、意味を為さない。

「又来ます」

 そう言う私に

「又はないかもよ」とニコニコっと笑う先生だった、

「ぐうたら物語」と題した先生の半生の記そのままの、最後まで人生をおどける先生だった。

 道の角で振り返ると、先生夫妻が手を振り、まだ見送ってくれていた。

 私と妻は、並んで頭を下げ、別れの挨拶をした。


   Yさんの死


 Yさんが忍不の池で亡くなったと、Iより電話があった。知り合い、意気投合し、親交がこれから始まろうとしていたのに、突然に私の前から消えてしまった。

「こんな所で人は溺れ死ぬのかなあ、でも酔っていれば判らないか」

 私はその池の縁にしゃがみ、考え込んでいた。

「自殺だと思うは、溺れたのが原因だけれど、彼は助かろうとしなかったのよ」

 Yさんの友人たちに現場を見せるために案内していたIは、私の側に来ると、何かに怒っているようでもあったが、さばさばとして言う

「うん、そう言うことも考えられるね、溺れているのに、岸に這い上がろうとしなかった」

 Iに紹介され二度ほど会ったYは人と話す時は屈託がなかったが、人の視線が遠のくと、打ち沈んだ。書いているものも、重い原風景と、生涯背負う障害者の子供を抱えての生活がモチーフだった。

「私もこの何ヶ月、会ってないの、私への依存が強くなって、厭になっちゃたの」

 付き合っていたIはYの精神状態を一番知っていたはず。

「私に振られたのが原因かも」

 不遜なIだった。哀しみを見せないIの様子は、そこに在った、男と女の確執を思わせた。

 外灯の光がそこまでは届かない、太い柳の木が覆い被さるその場所、Iに飽きられ、夜桜の宴会を楽しむ気分など沸かず、一人抜けたYは、電車に乗る前に立小便をと、その柳の根元にフラフラと、地面には根が隆起して這い、酔った足は躓き、その根の上を滑るようにして池に落ちた、それは何者かが足を引っ張ったかのように。

「父が呼んでいるのだ、兄も、そしてSも、皆がおいで、おいでをしている。もう充分戦ったよ、これからまだ戦うなんて、それは疲れるよ、喜びだったIにも、嫌われたのだし、子供達も、もういい大人になっている、君の役目は終わったのだ。おいで、おいで、力なく水を掻く音が心地良い呼び声に聞こえた。

遠のく意識に、冷たい池の水は、生まれてくる前の、母の羊水の温もりに、ゆらり、ゆらり、ぷかり、ぷかり」

 YはIとの関係の友人だった。政治の季節の無数のSや、別れた妻、自閉症の子供のものだった。私に、まだ何ほどの関係も出来てはいなかった、が、虚しく、淋しく、


「Yさん、今私の手元には古本屋で手にした二冊の貴兄の著作が在るばかりです。今となっては、その本を通してしか貴方と話すことは出来ません。貴方が生きて、私と繋がりが始まっていたとしても、私に何の慰みが出来たか、何が貴方を生き難くさせていたのか、どれほどの現実が貴方に被さっていたのか。今はただ辿るばかりです」


    見果てぬ夢


 世界の不条理との戦いに、敗れ死んで行った友人と、夢の中で会う。みちのくの飢饉の日、間引きするくらいなら俺にくれと、村人たちから、それらの子どもを貰い受け、子どもたちを喰ってでも、強かに生き、後に一揆の首謀者となった善界坊という坊主の話。

 貴方も、貴方の友人も、嵐の去った現代、善界坊のように、強かに生きたかったのだね。

 

    穴


 好奇心から、都会に掘られた地下鉄工事の穴に入った私が、そこで遭遇したものは、荒れ狂った政治の季節の中で死んで行った、   KやS、W、O、P、らが、会議をしているところだった。革命を夢見た時代が終わり、挫折、覇権争い、リンチがはじまっていた。生き延びた私はスパイの容疑で裁判にかけられ、石つぶてで殺されるのだった。

 どれだけの青春が屈折したことだろう、きけわだつみの声から十五年、彼らの無駄死にを拭わないではいられなかった。貧しさ、不条理。理想し、反抗しないではいられなかった。倒れていった仲間達への鎮魂と、生き延びた己の自責。私より八歳年上の貴方、

 

    匕首


 夢で、僕は大きい兄が刃物を振り回すのを見ていた。兄の前に母が坐っていて、やれるものならやってご覧なさいと、手におえなくなった兄を、家族も僕も見放した。うらぎったな、と怨みを一心にこめた兄の眼だった。これでいいのよ、だって仕方がなかったじゃないのと母。家族の一人の狂気が、全員を苦しめる。我が家もそうだった、父の事件で親戚中が苦しんだ。


    天皇の箪笥


 離婚して生きる支えを失った大きい兄の世話をしている母は、まるで幼な子にいうように四十四歳の兄に、「将棋ばかり強くても偉  くはないのよ、将来のことを考えないとね」と、問題を抱える兄をもつ家族の懊悩。


    魚になった妻


 私に水が必要なように、あなたには言葉が必要なのねと、魚になってしまった妻がいう、

離婚の風景を水槽の魚に見立て、家庭を顧みられない、文学で家族は養えない、挙句は離婚と、文学青年の理想と現実。


    浄土


 美しい端正な文章、十八歳の若い僧は、観音浄土補陀落の存在を信じたからではなく、むしろ信じられないがゆえに渡海を決意する。死ねば死にきりだと、学徒出陣のように、愚劣さを身を持って示すかのように。


    言葉のない童話


 ことばをもたないミホはいま、やわらかな陽射しそのもの、一本の樹木そのものとして、ひっそりと立っていた。

「ミホ、さ、あまいって言ってごらん」

「ミホ、もうひと息だ。おまえのママはどんなに、ママと呼ばれたがっているか」

「ミホ、あれはねボロボロ蝶っていうんだ。秋になっても生きのびている蝶だ」

「ねえ、ミホ、空気がきれいだね。」

「ミホ、不思議だね、水って」

 呼びかける彼のなんという優しさ、刹那さ、

言葉に繋がるわが子を求め、奇跡の人を。大江氏とも辻氏とも違う、ことばをもたない子を持つ親の祈りがそこには。リアリズムで、日常の中の誠実な魂の声が。


 このリアリズムの作家が、自殺するはずはない。きっと生きたいと必死で、もがき、手を伸ばしたが、滑り、足はとられ、岸にたどり着けないまま、水を呑み、酔っていた身体はいうことをきかず、溺れたのだ。子どものことも、離婚のことも、書くことで深め、見つめ、生きるということのバリエーションを肯定して行くはずだった。そこへの途上だった。


   Sの失踪 「悲しい殺意」


 その女の自殺に至る日常を、手記風に描いたSの渾身の作品。その女とはSの元妻で現実に鉄道自殺している。その女とSは共に作家をめざしている仲だったが、互いが依存し合い暮らしが立たなくなり、遂には離婚を決意する。そしてSは再婚するのだが、その女は父の自殺、叔父との外的心傷の強迫観念に囚われ、Sのようには変わり身が出来なかった。食い詰めてはSを頼り、最後には落伍者、余計者との思いを強くし自らを消していったのだった。

 Sには殺意を抱くほどのその女とのしがらみがあり、再婚しても忘れることは出来なかった。ときに金銭的な助けもしてやり、しかし、そんなSの曖昧な態度はその女を一層苦しめた。自立しようとしても甘えてしまう、又やり直せるのでは、出来るならやり直したい。いや駄目だ。その女は自らで断ち切ったのだった。

 死後十数年を経て、Sが自責と、罪意識から書いた作品。

 そのSが、再び離婚し、私の前から忽然と消えてしまった。夜警程度の仕事しかしなかったSは、再婚相手からすれば犬の散歩係り位だったのか。犬の死を契機に二人は別れてしまった。


 この虚しさは何だろう、元気になっている証拠か、転移に怯えていたとき、生命の危機意識があって、世界は輝いて見え、天国とはこの世のこと、どのような痛みの中であっても、消滅ではなく、存在していたいと、

 あの頃、肝機能は落ち毎日が精一杯だった。今完治し、怠惰な時と、倦怠に囚われる時、人は死に、友は去り、私に繋がる、私の時は失われていく。そして間もなく私自身も失われ、

 悲しさよりも、虚しさが覆う。人の営為は虚しい、生きている間だけが楽しみというが、生きている間には徒労があり、喜びの時は少なく、一分一秒を算盤ではじいて暮らすなんて、生身の今日のその時に、誕生しているだけでいいと、気を取り直しても尚、

 喜びが欲しかった。家族、人の喜ぶ姿でもいいのだが、私自身の喜ぶ姿が欲しかった。


 喜びの時を生きたいと、イタリア旅行を敢行したのだった。


   「繋がりの時」


 少年の日、私の求めに応じて、父が作ってくれたグライダー。青竹を裂いて、鉈を器用に動かし、竹ひごを作り、それを火で曲げ、障子紙を貼って、重くてあまり飛ばなかったけど、魔法のように、見る見る出来上がっていった世界で只一つの、私のグライダーだった。父の輝いた瞳と、穢れ無き時の私。

 幾月か後、私は小遣を貯めて、本物の模型飛行機を買っていた。父を真似て、竹ひごをセメダインとニューム管で繋ぎ、紙には霧を吹きかけ、はやる心を鎮め、大事に大事に作り上げていった。友達がやつていた飛ばし方を真似て、田んぼに向かってタイミング良くプロペラを離すと、勢いよく滑走し、暫くしてふわりと空中に浮き上がった。、風を捉えてはグングン上昇していく。ゴムが終わったところで、上昇を止め、ゆっくり、ゆっくり滑空して来た。初めて作った飛行機が、生き物のように。


 加速する飛行機の圧迫、地上を離れる時の無重力、わたしは鳥に、少年の日の模型飛行機になり、飽きず小窓に顔を押し付けていた。程なく高度一万メートル、眼下の景色は箱庭。砂漠、タイガ、アルプス。テレビ、映画、小説の世界と、存在が今繋がっていく、チッポケな私の目が、世界を見渡す時を得ている、地球と人々と、コバルト色の大気圏と、愛しい実在、いずれ私はここを去るのだが、私は私を育んだこの大地を抱きしめるように見つめ続けていた。


   惑星ソラリス


 タルコフスキーはきっと飛行機の旅のイメージでソラリスを撮ったと思える。わずか地表10キロメートルを飛んでいるに過ぎないのだけれど、想像される宇宙と時間、窓から覗く海、山、川は、地球が大きな生命体として感じさせる。雲間の景色など、ソラリスの俯瞰撮影そっくりだった。何より飛行機の気分は、少年の日一度は乗ってみたいと、憧れたもの、今地球の重力を無視すれば、宇宙旅行の世界。宇宙の片隅のこの銀河に生まれ、人DNAを生きている。


   初体験なもの


この世界に生まれ出てきた私たちは、全て初体験な時間の中を旅しているのだが、昨日と同じに見える今日という一日の中へ、場所を変え、生活を変え、暫しの旅行に出ると、未知が現れ、初体験な喜びを持つ。目に、心に、耳に、伝える為の旅行、

 降り立った夕方のローマ空港は埃ぽかった。映画とTVと紙の上で見てきたイタリア、何がどのように繋がるのだろうか。フィレンツェの紅い屋根、聖フランチェスコのアッシジ、ベニスとカンツォーネ。


「律子、今無事ローマに着いたよ」

オペラの勉強でホームスティしている姪への電話、異邦で心地良い感情。

「フィレンツェのレストラン判るだろうか」

「大丈夫、狭い街だから」

「フィレンツェに着いたら直ぐ電話するから」

 今回、姪が居なかったらイタリア旅行に来なかっただろう。胃全摘の身体のこともあったし、海外旅行への特別な感情と言うものも無かった。最初エミコと律子の姉と二人で行く予定だった。その姉が行けなくなって急きょ私が一緒に行くことに。

 私の声は弾んでいた。

イタリアに行くと決めてから、ずっと笑いがこぼれていた。元気になっている。生きるのが楽しくなっている。この笑いは以前にも経験がある。左肺尖腫瘤影を告げられ、すっかり肺転移を疑い、エミコと覚悟した。それが誤診とわかり、笑い転げた。又生きられると。


  私へ、イタリアが最初にやって来た日


 失恋から自殺未遂までした妹と、一緒に暮らすことになった。明るさを取り戻していた妹が聴かせてくれたレコードがカンツォーネだった。ひまわりのサラダボールと妹の笑顔。眩しいほどのイタリアの光だった。

危機的な年代、私も友人の多くも、初恋の挫折から、自殺未遂や、失踪を経験している。

 律子も適齢期を過ぎようとする時にあたって、歌と結婚との岐路に立っていた。歌を最期にするためにイタリアに来たのか、結婚と決別するために来たのか、共同生活しているという男との暮らしに、異変が起きているようだった。


 初日のローマ、自炊設備の付いた山小屋のような部屋、薄汚いと言えば薄汚い、エミコは不満を漏らしていた。でも格安料金のパックツァーで来たのだから文句は言えない。

「なかなか良いじゃない、天井は高いし、部屋は広々としている」

 荷物を出して、シャワーを浴びて、テレビを付けると、イタリア語が飛び込んでくる。早口の、歌でも歌っているような会話。コメディ、シネマ、オペラ、全部イタリア語。

「遂に来たね」

パスポートに、旅行社選びに、旅行用品の買い揃え、国内旅行とは訳が違った。エミコも頷き、笑いを噛みしめていた。


   手紙を焼く律子


 公園を二人で歩く、

「性格なんて変える必要ない」「性格なんて楽しければ明るくなり、悲しければ暗くなるだけのもの」

 律子は俯いて話を聞くばかり。暗い自分の性格をセミナーに行って変えたいと言ってるのと律子の母より電話があった。私は律子に手紙を書いた

 声、吐息のよう、瞳、フェルメールの絵のよう、静かな時の中で、素直に、健気に育まれ、私が愛する1/4の血を持つ姪という形を、私は春風のように味わい、愛でてきた。

 真っ赤なホッペ、ピッコロのような声、いつも私とエミコの後を付いて来た律子、昨日のことのよう。いま湿度を持った女に成長し、淋しさを見せる。淋しさ、哀しさは、そこに人が在るということ、草や木が、人知れずそこに在るように、それは人の気配。男を愛し、男に去られ、傷つく、そんな自分を泣いている。私を泣く涙を、世界の不幸への涙に、もう一人の私が、世界のそこここに、彼が私で、私が彼でないはずはなく、世界はボロボロ涙を流して愛するもの、性格を変えたいなどと、変えることなどない、いい女だよ、私が愛する1/4の血、私を愛してやらないと、私の良さはわからないもの、時と歳は、求めたから、悩んだから、現れる重さ、今自覚へと、蘇る日々、愛されないなんて、愛せないなんて、音楽を、草木、風をこんなに愛していて、愛されないなんてありえず、まだ見ぬ男は光の中で待って、心に誠実であり、その誠実さが、何よりの自由だと、、そして、在るということに於いて人は平等であり、北風に耐えている木、南国でスクスク育つ木、在ることに於いての等しい共感をこそ、人へも、自分へも、無重力の自由、在ることの驚き、律子がんばれ、健気な魂の持ち主、一人の男に注がずとも、一人の男に支えられなくとも、そこに在るだけで、草木、鳥、人々が優しくなれる、歌の翼を持つ律子、どこへでも飛んで行けるはず、風は決して抵抗物ではなく、それは翼を支えてくれる神の腕、存在という風を自覚したものにとって、空は自由の大地、ゆったりと、世界を翼に受けて、高く高く、あのヒマラヤ超えの鶴のように。


 「叔父さん手紙焼くの手伝って」突然転がすような可愛い声で律子が言った。ポケットから手紙を取り出すと、砂利石の上で手紙を破り始めた、律子と私は向かい合って座り、私がライターで火を点けてやった。思い出を一つ一つ消すように

「さあもう忘れよーっと」

 こんな思い出を持つ律子が今イタリアに一人暮らす。


   天国モード


 元気になっている、天国のようなこの世、見るもの、聞くもの全て実在、病後の回復の喜びが蘇る。空間に身体を浸しているだけで喜びのモードに、

 イタリアの街中で、観光客がいい笑顔で、生きていることを味わうように、人はこのようにいられるのだ、生命はやはりこのように使うべきだ、せっかくもらった生命、奇跡の存在なのだから。


   何を見ても ベッキォ橋の石垣に咲いていたタンポポの黄色、素晴らしい色をしていた。いつか柿田川で見た色だった。 ローマの町並みの夾竹桃、薄汚れて、でも夏には次々と花を咲かせ。その名を最初に知ったのは歌声でだった。夏に咲く花、夾竹桃。


   トレビの泉


 背を向けて、泉にコイン、投げようと

   妻の笑顔は 少女の恥じらい

ミラノ大聖堂


 大聖堂、二人並んで、写真撮り、

    新婚旅行が、又来たようねと

 

 無数の美術館、壁一面に吊り下げられた絵、所狭しと並べられた彫刻、圧倒的な量、

 街の此処かしこが美術、音楽、歴史が流れている。六百年かけて作ってきたというドーモ、天上へ、天上へと。世界中から人々が、

神の国、デザインの国、太陽の国と。


 イタリアに居て色々なものが思い出と対応している。それらがフゥーと浮かび上がってきて心地よい気持ちになる


   ティベレ川で日向ぼっこ


 木曽川を思い出していた。青春の日、何かの折に、歩いた川沿いの道、渡し場、祠、清水の洗い場、欅の古木、バチカンは見ておきたかったと不満そうなエミコに、鈴懸けの並木の下で日向ぼっこ

「いいねえ、あの風景」

 私は川岸に繋がれた船の甲板で、椅子に腰掛け読書する女性を示した。観光客の喧騒をよそに、静かに時がそこには流れ、


   ケルト音楽


 私のイタリア旅行中、ずっとなり続けているケルト音楽、イタリアの光と、建物、人々の笑顔、それらと対照的に、悲しげで、大自然の壮大さ、私の中で奇妙にバランスが取れていた。

   

 ケルト音楽がいつから私へやってきたのだろうか、ケルトの前はファドだった。ロドリゲスの哀切と情熱は私を奮い立たせた。その前はマヘリアジャクソンだった。スケールの有るその声は私を鼓舞した。その前はヴィゾツキー、叩きつけるような声、こうした流れとは別に、喜多郎、サイモンとガーファンクルの流れがあった。清逸感、透明感、安らぎといった流れ、その延長に流行していたエンヤがあった。舞踊の陽気さがあって、意識や感情が、曇や風の流れのように、伸びやかに歌われていた。大自然に向かって、両手を広げ、賛歌、畏敬を込めて。極北の、山や湖、その自然の中で生きてきた思い出、感謝が歌われていた。聖霊に呼びかけるような、大地の精気を、

 そう、大地に生を受け、生きてあることの喜びを、太鼓のリズムに乗せて、踊るように、戯れるように、自由に、人と自然が共感しあっている、人が自然を友としている。横笛のような笛の音、ハープに乗せて、暮らしの中の様々な喜び、悲しみを、こんなこともあった、あんなこともと、生きてきた様々な記憶を讃へ探るように、自然に向かって、自分に向かって歌っている。ケルトの歌が、独白の歌に聴こえる。聞き手は自分、時に妖精だろうか。歌が誰かに聞かせるためのものではなく、生きてきた自分、生きていく自分に話し掛けるように、哀しみが、嘆きや怒りではなく、鼻歌のよう、いつか見た映画、病院では死にたくない老夫婦が、病院を抜け出し、アイルランドの凍てつく自然の中で死んでいくシーンがあった。死が自然なことのように、生き物たちがするように、自然の中で、抱かれるように、生命を全うしていく姿が描かれていた。

 死に対する感情が、覚悟や、悲壮感ではなく、自然な、喜びのことに。


   「我が青春のフローレンス」


 何故この映画を懐かしく思い出すのだろうか。新婚間もない時二人で見た映画、社会運動の困難さの中で。主人公のメテロは浮気をする。悩む妻のオッタビアはしかしメテロを責めるのではなく、相手の女を責める。間もなくメテロは囚われの身となり、オッタビアに生活難が襲う、女はそれを知ると援助の手を差し伸べる。活動家が生身の姿で描かれていたことが、共感を呼んだのだろうか。闘いが女の許しの中で支えられ、「もう二度と活動はしないよ」と言いながらまた闘いに赴くメテロだった。闘い続けるメテロの姿に、青春の日の自分を重ね、そんな男を支える女にエミコを見、、青春というものを、闘いの中に捉えている世界に共感していたのだろうか。

 その町並みが、今目の前に、朱色の屋根、鐘の音、薄汚れた狭い路地、磨り減った石畳、これがフィレンツェなんだ。


   うたごえ喫茶


 道の三角地に古いお堂があった。アコちゃんことアコーディオン弾きのSさんを中心に、数人の男女が合唱の練習をしていた。そんな中にエミコは居た。うす汚い室内に美しいソプラノで歌う娘。月一回のうたごえ喫茶のための歌唱指導曲を毎週練習していた。活動を始めたばかりの私は、歌が自分の目覚めていく感情を歌っていることに魅せられ、熱心に通うようになっていた。

 エミコが、多い時は四、五十人の前で、両手で指揮をしながら、歌をリードしていく。

拙い歌も、美しい声にリードされると、綺麗に聞えた。合唱することの喜びを、時に肩を組んだり、手拍子を取ったり、気持ちを一つにすることを通して、知っていった。


   「やまぐちくーん」


 私が東京に行くといった日、窓の下に、つば広の麦藁帽子を被った、水玉模様の白いワンピース姿のエミコがいた。獄死した私の父を一緒に泣いてくれた。田舎にいることの意味を見失った私は、活動の困難さから逃げるように、再婚した母のもとへ行き大学受験に向かおうとしていた。冷めてしまう不安を持ちながらも、励まし、見送ってくれたエミコだった


   モコ湖


「見て見て、デモ行進やってるの、」エミコが上気した声で私を呼ぶ、

「私が手を振ってあげたら、みんな振り返してくるの」

 夕暮れ近い、美しい湖の町、窓の下の湖に沿った道路を、散歩でもしているような人の行列、手には電光キャンドル、プラカード、組合旗、家族連れ、子供も一緒、歌声も聞こえている。高級別荘が立ち並ぶこの地で、この時に、良く知っている労働歌、エミコはイタリア語に合わせて、日本語の歌詞で歌い始めた。子供を生むまで歌っていた歌、何年ぶりに聞くエミコの歌声、

「私ね、日本語でがんばれーって叫んじゃった」エミコの興奮が伝わって来た。初めて長期の休暇をとって、新婚旅行以来の二人だけの旅、デパートの地下の食品売り場で働くエミコが、いつか話してくれた話。「昼休みにね、食事をしに地上へ出る時、空がぽっかりとビルの谷間に広がっていて、思わずワーッと叫びたくなるの」と、歌うことの無くなったエミコ、働く人への共感はひとしおなのだろう。


   サンマルコ広場


「モンテカテーニでは学生たちが合唱しててね、ブラボー、アンコールって言ってやったの、そしたら、次々と歌ってくれてね」

 エミコは声のトーンを上げて話す。舗道にテーブルを並べ、高校生ぐらいの男女が輪になって歌っていた。一本のギターを中心に、

ティティロー、ティティローと、手拍子を打ち、皆で音を楽しんでいた。ハーモニー、笑顔、かつてエミコが味わった喜び、エミコも手拍子とハミングを始めていた。

「カメラ向けると、はにかんじゃってね」

「本当にみんな素朴でねー」

「これボレロだよね」

 流れていた音楽にエミコがまた興奮していた。

「イヤァー、私この曲聴くと、思い出すのあのダンサー、エイズで亡くなっちゃった」

「ジョルジュ ドン、愛と悲しみのボレロ」

「あのダンス、思い出すとぞくぞくしちゃう」

「これは美しきドナウ川だったかしら」 

 曲に乗って話しているような、エミコの喜び。次々と生バンドの演奏、

音と、光と、雑踏、数々の映画の舞台となったベニス、ゲーテも通ったというそのサンマルコ広場。

「おばさんたちのイタリアって楽しいなー」

恨めしそうに律子。

「ほんとにイタリアの人っていい人ばかりって感じ」

「さっきのかばん屋の人もコーヒーご馳走してくれたでしょ、昨晩なんかはパブに入ったら、隣のお兄さんがカクテル奢ってくれちゃってね」

「犬を連れたおばあさんが来ていて、これプードルって聞いたら、うんって言うから

「うちの犬、ジャパニーズ柴って言ってやったの、いい歳のおばあさんでねー」

「ミーキャーモ ヤマグチ」

「シーシーシー」

「アルベディルチ」


 青年の男女三人が 歌いながらやってくる

「チャオ ボナセーラ」

「サヨナーラ、ナカタ」

「アンコール」と私。

「アンコーラ?」

「ベルカント」男が囃す。

 歌ってくれる、腹の底から出てきたようなソプラノ、歌を通して心が通じていく。

 アルベデルチローマを私が歌う。


「うちの会社のと一緒なんだよ、デザインも、味も」洋菓子屋に勤めるエミコは、勝手知った店のように、

「これを三個、これ五個、と日本語で買っている」

手振り、身振り、アイコンタクトで通じてる


「律子、私の音楽、私のイタリアは見つかったの?」

「昨日まで、少々落ち込んでいた、このままいつまで居ても、仕方がないし、そろそろ、日本に帰ろうかと思ってるの、お金もなくなってきたし」

 私やエミコのはしゃぎょうとは反対に、沈み込む律子だった。

「でも今日、叔母さんたちが来てくれて元気が出たわ」

耐えてイタリアに留まっているような律子だった。

「早く帰っておいでよ」

 桟橋でいつまでも手を振る律子が在った。


   ベニスの波止場

 

 私は助かったんだ。潮風に吹かれて のどかな夕暮れの海を見ている 波 鳥 人々 教会の屋根の輝き、天国のよう

私は生きてきたんだ そしてまだ生きている


   「私の文学」


 私が書き始めるということは、書きたいこと、探りたいことを決め、生活をそれらを深め考え続けるスタイルに切り替えるということ。半年、一年と、考えること、感じることを、ノートに書き付けていく生活。実際に作品化するのは、そのノートを写し、原稿にする時。私にとって書く作業とは、この探りたいことを、考え、感じた生活を送るということ、私の体験された時間なだけ。私が選んだ私のテーマを、私の心で味わう、

 文学を生きるとは、私という者を、状況とシュチエーションの中に置くこと、そこでの喜怒哀楽、時間への奇跡的な、刻々の私の眼が、体験された私の文学ということ。


   律子の音楽


 エミコ叔母さんや、お父ちゃんに繋がる音楽という形で、私の音楽を考えていたの。叔母さんがよく話してくれた、昔家族で、うちのお父ちゃんを中心に、皆でオペラや、カンツォーネをよく歌っていたという話。長男だった父が好きな歌を止めて、家の後を継いだから、お祖父ちゃんは、お父ちゃんがどれだけ高いレコードを買っても文句を言わないで、むしろ、自分が三味線弾きだし、お祖母ちゃんは唄が得意だったから、皆が歌う姿を喜んで見ていたとも。叔母さんが、町の音楽会に出て入賞した時の、みんなの喜びのこと。指揮者になりたかったという進太郎叔父さんの事。歌声の活動をしていた叔母さんが、いつも優しい声で私に子守唄を歌ってくれたこと。

中学生になり、声がいいということで叔母さんの卒業した高校に進んだ。でもまだ歌う喜びはなかった。大学に入り、学ぶうちに、人の声のもつ美しさ、自分の声、声量はないけれど、鈴のような声が出せる。もっと大きな声を、もっと綺麗にとレッスンに励み、卒業後もプロへの道を目指し、ステージに、バイトにと張り詰めてきた。そんなところへ、突然の母の病気、付き合っていた彼との別れ、私は一度に燃え尽き症候群に落ちてしまった。私の音楽なんてわからない、聴こえて来ない、何もかも嫌に成り、疲れてしまった。


 でも見つけたの、叔母さん叔父さん、私の音楽、ペルージャでのイースターに参加した夜のこと、旧市街の高台にある教会に、押し寄せるように町中の人が集まってくるの、一度聴いてみたいと思っていたミサだった。春を迎え、どの顔も嬉しそう、ざわめき、笑い、雑踏、町が湧き立つ音の中にあるようだった。教会の中では、蝋燭を手に手に持った人々が集う中、響き渡る神父の声、始まるミサ、厳かに、高らかに、喜びと感謝の歌声、

祭壇の両側にある高台にソプラノの女性、テノールの男性が立ち、真ん中に何人かの合唱隊、独唱、輪唱、合唱と次々に歌われていく、

 あやふやだった私の心に、病んでいた私の心に響いてきたの、癒されていたの、隣に居た男の子も、その前の老夫婦も、小声で歌っていた、祈りの歌、互いが互いを労わっているような優しさ、人の顔がやっと見えるほどの暗がりの中、音の残響が、私を包み、私を持ち上げ、教会の中に浮いているような安らぎがあった。心が自由になっていた、歌はここに、こうしてあるもの、歌はここから生まれ、育って行ったもの、歌の揺りかごを私は見ていたの、何をどのように歌っていったらいいのか、幼い頃からの、父や母、祖父、祖母、家族の、歌への心が、今私の中に、今までやってきたし、これからもやっていける、私はうたい続けていこうと。


   アッシジのジョット


 物を持たず 教会の建設に生涯を費やした

鳥に説教するフランチェスコの絵が掛かる、アッシジの聖フランチェスコ教会

 フランチェスコが富や地位、家族を捨て、貧しい人の福音をと教会を建てていく姿を、ジョットは子供のように描いていた。白墨のような埃っぽい白、深い湖のような青、黒い服の神父と生き物たち、「天使の詩」のマルセリーノに見せる絵のように。

 丘の上に立つ教会は要塞のようだった。付け足し付け足し造られた様な、中に入ると迷路のような通路と階段、威厳さや、神秘さを称えるのではない、かくれんぼでもしたくなるような、迷路のような廊下。


   北原怜子の思い出


 この世界に、人を愛で受け入れる人がいるのだという発見、母や家庭という愛から遠ざかり、養護施設での暮らしの中へ、夜の校庭での映写会で見た映画が、アリの街のマリアだった。アリのように屑拾いをして暮らす人々の町へ、天使のように舞い降りたマリアは、その時の私の所へも降りたのだった。この世の中に私を受け止めてくれる人が居るという、安心、喜び。映画の中の子供たちも、マリアのように慕っていた。そのマリアが町に教会を建てようとする。教会は立つのだが、

マリアは過労のうちに死んでしまう。

 禅寺の養護施設の私には、慈愛に満ちたキリスト教が印象付けられた。この印象が、「聖フランチェスコ」や、「天使の詩」の映画に繋がり、ジョットのフレスコ画へと。


   聖浅田教会


 家の近くにある、カトリックの教会、木造校舎の廃材で作った粗末な造り、そこに、フランチェスコ、コルベ、ゼノン、北原怜子に繋がる、木を植える男のように、生涯をかけ、イエスを生きようとしている神父が居り、地下水脈のように、人の意志は受け継がれ、


   あの日の涙


 野毛の大道芸にエミコと出かけ、シャンソンを歌うというコーナーに出会い、隅のピアノの側に腰掛ける、化粧をしたホモっぽい人が、集まった観客の何人かに声をかけられていた。どうもその人は癌を患っているようで座っているのも辛そうだった。病状を説明しながらも、息を切らしていた。私は聞いてみないではいられなかった。好きなシャンソンを大道芸で、癌の歌手がどのように、若い男性のピアノの伴奏に乗せて、その人がマイクで語り始めた。病気のこと、戦争体験、歌ってきた半生のこと、生きて来たことの悲哀がそこには、

 柔らかい、女のような声、病気のせいなのか、その人の、歌いあげないで唄うシャンソン、独自だった。瞳は、意識は、観客の頭上を巡っていた、時々観客と目を合わせることはあっても無表情、観客に唄っているのではなく、自分に向かって唄っているよう。ムスタキの「私の孤独」を唄うにあたって、その思いは一層強く見えた。


 私は私の孤独を

 ほとんど友だちみたいに

甘美な習慣みたいにしてしまった

彼女は影のように忠実に

私から一歩も離れようとはしない

あちこちの世界のすみずみまで

私につきまとった 

 いや私は決して一人じゃない

 私の孤独と一緒だから


 病んだ日、孤独がべっとりと私にも張付いた、去るのは私だった、一人で去らなければならなかった。孤独だけが道連れだった。その人は実感していると思えた。私からは去った私の孤独、が、その人には今、メロディーに載せて、マ・ソリテュードのフレーズに合わせて、

 私の瞳から大粒の涙が溢れた、止めようがなかった、その人への共感と、去った私の孤独、

 私の嗚咽をその人は見た、私は涙であたりが霞んでいたが、その人が私を見て歌っているのがわかった。取り巻く人も、私の涙を見ているのがわかった。ハンカチを取り出し目を拭う人が何人もいた。その人のファンなのだろう私と一緒に泣く人々。

 終わって、その人と話した、私もガンだったこと、今は治っていること、私の孤独が痛いほどわかると、

「大事にしなさいね」

 私の身体を労わるその人だった。


   「四季」第四楽章「冬」


 過去の様々な記憶が呼び起こされ、

懐かしさ、忘れ得ぬ、私を作ってきた、

過ぎ去った出来事の、昨日のことのような、私がそこに生きてきたことの、長い道のりの、

私に語りかけるような、音の言葉が、

音は揺れ、音は共鳴し、この速さ、この煌き この力強さ、

記憶の中の健気な私の、哀しみ、喜びの、

私は労わり泣いていた。

?人がどこまでも優しくなれそうな、ソネステベネティの音


   フォーレのパバーヌ


 病気以降の、十五年の思い出が様々に浮かんでくる、最高の時を私は過ごして来たんだと、人へ、物へ、時へ、共感と、哀切とをたっぷりと味わい、いま生き生きと蘇る記憶、

 どうしてあんなに美しい心でいられたのだろう、どうしてあんなに物が輝いて見えたのだろう、この美しい心、この美しい思い出を描きたい、イタリア旅行はその頂点だった、どれほど多くの人に支えられ、心配されて来たことだろう、その思い出される人々の感情の上に、私は包まれ、浮いていた。


   私の歎異抄考


 一人残らず救いたい、人を救うという本願は最高のものであり、本願を妨げるほどの悪行はないのだから、誰でも救われる、往生の仕方は知らない、ただ法然を信ずるだけ、念仏が正しいか、正しくないかは知らない、法然を信じて、地獄に落ちても後悔はしない、ただ法然には、釈迦、阿弥陀如来の本願が来ているから信じる、信じるか信じないかは人それぞれ、だが自力の善を当てにするよりは、本願を頼みに、任せ切る人の方が往生を遂げる、先ず本願を信じること。


 いのちとは頂きものであり、授かりものであるから、死で以って終わることは当然なこと、が、不安や、苦しみから逃れたい、安楽に死にたい、死んだら天国、極楽に行きたいと願い、救いを求め、安らぎを求め、信仰を、

 信仰するということと、信ずるということの違い、キリストという存在への、人としての理想する姿への信仰と、救われることを信ずるという、原罪ではなく、慈悲の宗教、善人なおもって往生す、いわんや悪人をやと、善悪の定義は、業のままに従えと、人間の放下、全ての衆生を救いたいと阿弥陀仏、悟りとは、一切を救う事の出来る者のことと、阿弥陀仏の慈悲こそがその悟りだと、

 生まれ出たことが、早極楽ということ、奇跡ということ、救いなどいらないと、癌を生きた者、アウシュビッツを生きた者、助かった者に救いなどいらない、存在が全ての救いとなり、世界は天国となる。


 衆生を救いたいと願った親鸞、何故にそれほどに願ったのか、父を八歳で亡くした、父を求めてか、何より救われたい自分が在り、求道へ、そして本願の大肯定へ、


 もし私に、救いを求めてくる人あらば、私の心を伝えようとはする、が万人に、普遍に伝えようなどとは考えない、その時代に生まれたのなら、悲惨を生きたのなら、わからないが、世界に宗教を必要とする人々が居る、その人々に応えられるものが、歎異抄に果たしてあるのか、批判するなら、自ら示せるのか、私対世界の認識が何の役に立つと言うのか、自力による、他力の大肯定、人の私とは、その人の自力の現在の地点であると、この私の意志が私対世界、なにしろこの世が極楽、この世は天国との意識が、理解されないなら無理なこと、どのような状況においても、存在が天国などと、自分に、人に、言えるのかと、あらゆるところが痛み、苦しみ、飢え、喜びもなく、苦悩の中にあり、世界の不幸の只中にあっても、尚自説を説けるのか、


 あと十五年ばかりの人生、多くは、喰って、寝て、遊んでの人生になるだろう。使命感を持って、生き、愛し、書くなど起こらないだろう。何を感じても、何を書いても、人を苛むのは、真理と、使命感、言えば言うだけ、書けば書くだけ、使命感に囚われ、そこからの自由、自在が難しい。親鸞の時代、救済は求めであり、喜びであり、人の願いであった。


 現在の私の地点、私対世界の認識が在るばかり、病気以来の、肉体化された感情、意志で、世界を私に対置して、生身の刻々を生きているだけ、これは私の時間であり、私の世界なのだから、一人で完結する世界、人とは一人で完結していくところのもの、自分と、自分の在る今日と言うその中で、社会、世界を完結させていく。どのようにかは知らない、ただそのような私に対して世界は在るばかりという見方、考え方なだけ。明日死ぬという状況にあって、世界に残す言葉であっても、音でも、絵であってもいいが、私というエネルギーを味わうだけ。残された時を、妻、子を愛するであっても、犬、花を愛するであってもいい。


 目に飛び込んでくる景色が、網膜に映り綺麗、耳に飛び込んでくる音が、鼓膜を振動させ、心地良い、食物が舌の味覚神経を、風が皮膚の触覚細胞を撫でてと、生きているその時の、存在を味わうばかり。


 存在のバリエーションとしての人、大した知性でもない、たかだか二千年の考え、歴史なだけ、それも、只存在の周りを飛び回る孫悟空のようなもの、存在を超えることなど出来ない、釈迦はそのことに至って始めて、存在が、慈悲と悟ったのだろう。竹取物語の、人魚伝説、人間に生まれたいと願った。釈迦が極楽をインドの田園風景に模したのも、存在が天国であることの、大肯定の上にイメージされたもの。


 釈迦、イエスより二千年、病魔に苦しんでいる人に、飢えて死を待つ人に、絶望し死に行く人に、人類が執ってきた態度は、科学で、政治で、宗教でと、救済と、闘いの歴史であった。現在その享受を得ている人と、いない人とはあるが、人の意志は本願、愛、が組成で、人誕生のその日より、この組成の下に生きてきた生き物、存在を意味で捉える、人というもの、悩んでも、苦しんでも、世界に誕生したということ、石ではなく、人に誕生したということにおいて、慈悲も、福音も、遍く降り注がれてあり、

 私は何も成す事はない、私は何をも言う事はない。

          2003、12、6、


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