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 それから一週間、彼は姑が家族と十分な別れの時間を持てるように最大限の配慮をした。

 お母さん屋のことは、もちろん他の者には秘密である。急によそよそしくなったりして怪しまれぬように食事会と銘打って親戚一同を集めたりもした。近場ではあったが、いとこたちと、そして由美香を連れての旅行もプレゼントした。

 そのどんなときでも姑はニコニコと笑って、まるで怖いことなど何もないかのように振舞った。

 姑が本当は死を恐れていることを知っているのは、彼ただ一人である。

 子供たちとの旅行を楽しんだ次の日、姑は言った。

「ありがとうね、カズユキさん」

「いや、俺は何も……」

「あらやだ、今までのこと全部にありがとうなのよ」

「今までのことですか?」

「そうよ、香澄と結婚してくれて、あの子を幸せにしようと努力してくれたこと、可愛い孫の顔をみせてくれたこと、それに、今もこうして私の大事な娘と孫の幸せのために努力してくれていること、その全部にありがとうなのよ」

「とんでもない、香澄も由美香も俺の大事な家族で、むしろ俺の家族のために魂をくれるお義母さんにこそ、俺は感謝していますよ」

「そうね、じゃあお互いに『ありがとう』でいいんじゃないかしら」

 しかし、ころころと屈託なく笑う姑の眉間には薄っすらと皺が浮いている。笑い声の最後もひどくむなしく呼吸をかすれさせて、まるでため息みたいだ。

「やっぱり、怖いですか?」

 彼の言葉に、姑の両の肩がわずかに震えた。

「それは怖いわよ、死んじゃうんですもの」

「じゃあ、やめますか?」

 これはひどく意地悪な質問だ。彼も人の親であるのだから、親というものがどういった愛情を子供に向けるのかを知っている。

 果たして……

「やめないわ、やめるわけがない。あの子が帰ってくるのよ」

 その声は凛としてゆるぎない。

 体のほうは震えを止められないのだろうか、寒い日に裸で外に放り出されたかのように両腕で自分を強く抱いて、それでもなお小刻みに揺れている。

「やめないけれど、怖い……」

 それでも期限の決まっていること、明日でいよいよ二週間目という日の夜、その儀式は行われた。

「いいですか、お義母さん、唱えますよ」

「はい」

 正座した姑の額に人差し指を突きつけて、彼はうなるような声を出す。

「オーネル、コーネル、デスカリマソ、ヤグトゥエハ」

 ズズッと、なにかを引きずる音が聞こえたような気がした。

「ディスカッタラ、ヤグウェク、デスレストク」

 ビチャリ、と重たい水音がしたのは……どこか水道でも閉め忘れていたからだろうか。

「ヤクトゥク、セクラシス、トネ!」

 不意に、気配を感じた。リビングの扉の、すぐ向こうに。

 気のせいなどではない。扉のガラス戸を透かして人影が見える。

「か……す……み?」

 姑の呼びかけに応えるように、扉は静かにひらいた。

「ああ、香澄、やっぱり香澄だ!」

 姑が涙ぐむのも当然だ。そこには生前そのままの、傷ひとつない娘の姿が立っているのだから。

「そうか、私の魂を回収しに来たんだね、いいよ、持ってお行き」

 その女はとつぜん、床に両手をついて獣のように四つんばいになった。

「いったい、何を……」

 二メートルほどの距離を一気に跳躍して、女の形をした獣が飛び掛る。姑はなす術もなく床に引き倒され、小さな悲鳴をあげた。

「いやだ、こんな死に方は嫌だ。せめてもとの、優しいあなたを一目みてから……」

 懇願もむなしく、白い歯が姑の骨ばった喉につきたてられた。呼吸の漏れる音と血しぶきを撒き散らして、姑は絶命する。

 彼は、目の前の惨劇に声もなく立ち尽くすばかりだ。

 その間にも、女の姿をした獣は老いた母親の体をむさぼり食らっていた。喉もとをつたう血をすすり上げ、容赦なく噛み付いては肉片をのみ子に、あまつさえ骨までをベリベリ、バキバキと音立てて噛み砕く。

「香澄……」

 彼がやっと言葉を取り戻したときには、姑の肉体はすでに右の手首から先を残すだけとなっていた。

「香澄……だよな?」

 その言葉に、彼女はわずかに微笑んで答えた。

「どうしたの、お化けでもみたような顔をして」

 その声は明るく、翳りない笑顔も、全てがかつて彼の愛した女のものだ。

 だがその肉体は返り血にまみれ、己の母親の手首をしっかりと握り締めているのだから……

「違う、違うんだ……こんな君を望んだわけじゃない」

「知ってるわ。あなたが望んだのは『母親』としての私でしょ」

 女は手首の先を一口かじりとって、モチャモチャと咀嚼しながら言う。

「人食いだって、母親には違いないでしょ。大丈夫よ、あの子のことは食べたりせず、大事に育てる自信があるわよ」

 とんでもないものをこの世に連れてきてしまったことに気づいて、彼はよろりとひざを折った。

「それは君の母親だったはずだ、それをそんな風に……心が痛むとか、悲しいとかは思わないのか?」

「あら、どうしてそんなことを思わなくちゃいけないの? 母親っていうのは子供のために何を投げ出しても惜しくない生き物でしょ、お母さんはきっと喜んでくれているわよ」

「そんな……君はそんなことをいう女じゃなかった」

「だって今は女じゃない、母親だもの。例えば由美香に必要なら、今度は私があの子に食べられてあげるわ」

「そんなことには絶対にならない!」

「そうだといいわね」

 また一口をガジリとかじりとって、その女はふらふらと扉に向かって歩き出した。

「お、おい、どこへ行くんだ!」

「私はもう少しの間だけ眠らなくてはいけないの……あんしんして、由美香のお誕生日の日までには帰ってくるから」

 ぞっと冷たいものが彼の背中を伝った。

「帰ってくる……」

「ああ、そうだ、私はあの子の『お母さん』だから、あの子のことは全力で愛してあげる。でも、あなたのことは、そうね……あなたの態度次第じゃないかしら」

 妖しい笑いを残して、女は出てゆく。後に残された彼は、このことを娘にどう伝えるべきかを悩んで、がっくりと頭を垂れるのだった。


 翌朝早く、父親は娘のうれしそうな声で起こされた。

「ぱぱ、ぱぱ! みて、ママからのお手紙だよ!」

 由美香にも読めるようにひらがなだけで書かれたはがきの文字は、いかにも母親らしい優しさに満ちた丸っこい書体である。

「よんであげるね、ええと……おたんじょうびにはかえります、まっててね、だって! ぱぱ、ままが帰ってくるよ!」

 娘はとびきりうれしそうな笑顔で振り向いたが、父親は、声もなくただ震えているばかりだった。


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