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 彼がその『店』を見つけたのは翌日のことだ。それは雑居ビルの中にひっそりとあった。

 このビルの前は幾度となくとおったが、中に入ったのははじめてである。夜勤明けの少しけだるい体を引きずるようにして駅から家へ向かう途中、トイレを探して何気なくこのビルに足を踏み入れたのだ。

 小汚い共同トイレで用を済ませると、ようやくこのビルがどういうところかを落ち着いてみる気になった。

 ここは小さな飲み屋の集まった、いかにも場末の飲兵衛ビルである。廊下に出ると並んだ板切れのようなドアの上にはバーやスナックの文字と共にこじゃれた店名が書かれているが、五枚あるドアのうちの一枚はいたが打ち付けられて完全休業、二枚は看板の文字が薄れて消えかけていて営業しているかすら怪しい、一枚はまっとうな看板がついてはいるが店の前に雑多に積み上げられた空き瓶が汚らしくて入る気が起きなかった。

 残る一枚、一番奥の店はドアもきれいに拭き上げられていて、いかにもここが営業中の店なのだとわかる。ただ、看板は飲み屋にふさわしくない地味さで、ただ大きく『お母さん屋』と書いてあるだけだった。

「皮肉だな、本当にあるとは」

 彼は苦笑してドアの前に立つ。

 別にここで『お母さん』が買えるなどとは期待していない。お袋の味と家庭的な雰囲気を売りにする飲み屋が『お母さん』という単語を店の名に組み込むのはよくあること、ここもそうした店なのだろうと。

 それにこんな早い時間、飲み屋は開いていない可能性もある。ただの冷やかしだ。

 あまり期待もせずにドアに手をかけて引いたのだが、彼が思いもしなかった軽さで、その扉は開いた。

「ほう?」

 驚きの声をあげて店へ一歩踏み込めば、その内装も彼が思っていたものとはかなり違う。

 壁は白く、カウンターは入り口の近くに作られて店内はひどく狭い。つんと鼻をつく消毒薬のにおい。

「ここは?」

 カウンターの向こうには人がすっぽり入るほど大きな円筒状の水槽がいくつも並んでいて、その中のひとつずつにひとりずつ、裸の女が目を閉じて浮かんでいた。

「ひどい悪趣味な内装だなあ」

 どうせマネキンに決まっている。本物の人体のように見えるのはあまりに成功に作られたモノだから、肌が柔らかそうに見えるのは水槽を満たす薄いワイン色の液体を通る光の加減だろう。

 カウンターには、まるで水槽の番をするかのように一人の老人が座っていた。

「いらっしゃい」

 いかにも無愛想にそれだけを言って、老人は手でドアを閉めるしぐさをする。

「え?」

「さっさと入って閉めてくれ。外の空気は毒だ」

「はあ」

 彼は言われたとおり、ドアを閉めてカウンターの前に座った。

 老人は「ふん」と鼻を鳴らして立ち上がる。

「お客さん、ウチは初めてだね」

「はい」

「ウチはごらんの通り、母親を売っている店だ」

「はい?」

 声が裏返ってしまったことに、彼はひどく慌てて咳払いをした。

「え~、コホン。もう少し詳しく教えてもらえませんか?」

「だから、ごらんの通りだっつうの。ここに浮かんでいる母親、これを売っているんだよ」

 よくみれば、水槽の中の女たちは確かに生きているようだった。気まぐれに目を開けるもの、水の流れに逆らって手を動かすもの、かすかに呼吸の泡を吐き出すものもいて、マネキンなどではないことは明らかだ。

「これ、みんな母親ですか?」

 彼がひどく冷静なのは自分の理解を超える事象が目の前にあるという驚きと、ここならば娘の望むものが手にはいるかもしれないという期待とで心が麻痺してしまったからに違いない。

 彼が質問する声は静かなものだった。

「そこに若い女の人がいるじゃないですか、どうみても十代に見えるのに、あれも母親なんですか?」

「子供を生んだことがある女は、みんな母親だろうよ」

「この女の人たちは誰に買われるんですか?」

「母親を失くして困っている家庭にさ」

「それって、俺でも買えますかね……」

「ああ、買える。だからここへの扉が開いたんだろうよ」

 すでに興奮しはじめた彼は、老人の言っていることのおかしさになど気づかない。カウンターの向こうに転がり落ちそうなほど身を乗り出して、ギラギラした目で老人を見据える。

「値段は? 高いんでしょう?」

「なあに、金銭的な負担はさほどないさ。人間なんていうのはしょせんは肉の塊、水とたんぱく質と、それから諸々のアミノ酸があればいくらでも構築できるからな。ただな、そうやってできた肉塊はただの生きた肉塊だ、これを人間にしてやるには金銭以上の対価が必要となる」

「金銭以上の?」

「魂だよ。出来上がった肉塊に魂を入れてやらなくちゃ、それはただの人形だ。呼吸もするし、動き回りもするがね、ただそれだけのおもちゃだ」

「魂ですか……」

「そう、できれば近親者の魂が望ましい、親とか、子供とか、血が濃い方がより望ましい」

「それなら、心当たりがあります。用意できます」

「そうだろうよ、だからここへの扉が開いた」

 老人は手近な水槽をコツコツと叩いてみせる。

「ちょうど今夜からこの水槽が空く。そこから作業を始めて肉体を構築するのに二週間、取り込んだ魂を安定させるのに一週間ってところかな。娘さんの誕生日に間に合うだろう?」

「どうしてそれを!」

「知ってても不思議は無いだろう、この扉は『望む者』を見つけ出して開くんだから」

「良くわかりませんが代金はお支払いします。妻を作ってください」

「ああ、ご注文、確かに承りました」

「魂のほうは? それはどうやってご用意すればいいのですか?」

「回収には『本人』が行くから、あんたは支払うべき魂を指定するだけでいい」

「どうやって……」

「いまから呪文を教えるから、それを一字一句間違えないように気をつけて唱えるがいいよ。その呪文を唱え終わったときに指差していた者、それが支払われるべき魂となる」

「わかりました」

「この呪文は肉体が完全に完成する前に唱えなくてはならない、つまり期限は二週間だな。できるかい?」

「大丈夫です」

「よしよし、じゃあ呪文を教えよう」

 彼はこうして、老人から呪文を教えられて家へと帰ったのである。


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