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それは朝食の席でのこと、食パンをかじっていた由美香は、何の疑いもないまっすぐな目をして向かいに座っている父親を見上げた。
「あのね、ぱぱ、今年のお誕生日に何が欲しいか、聞いてくれないの?」
父親は食べ終わった自分の皿を持って無言で席を立つ。
「ねえ、ぱぱってば、由美香、お誕生日に欲しいものがあるの」
それは彼がいちばん恐れていた言葉だった。だから娘に背を向けて洗いものをはじめる。
「ちゃんと聞いてよ、ぱぱ!」
「いいから早く食べちゃいなさい。保育園に遅れるだろう」
「やだ、由美香のお話聞いてくれないと、食べないもん!」
父親は大きなため息をついて、くるりと振り向いた。
「わかったよ、じゃあ言ってごらん、由美香の欲しいものを」
娘は手に持っていたトーストを投げ出さんばかりにして、椅子の上でぴょこんと跳ねた。
「あのね、『お母さん』が欲しい!」
案の定だ、と父親はため息をつく。
「由美香、お母さんはお店では売っていないよ」
「そんなことないよ。いつもお買い物に行くお店に売っていないだけで、お母さん屋さんがあるかもしれないもん」
「あのね、由美香も来年は小学生になるんだぞ。もう少しお姉さんなものの考え方をしなさい。お母さん屋さんなんて、聞いたことがあるかい?」
「ない……けど……」
「じゃあわかるね、プレゼントはお店屋さんで買えるものにしようね」
「それでも、由美香は『お母さん』が欲しいもん。こんな、焼いただけのパンじゃなくて、ちゃんとした朝ごはんを作ってくれるお母さんが欲しいんだもん……」
「由美香!」
「うそつき! お誕生日には何でも欲しいものをくれるって言ったのに、うそつき!」
由美香は椅子から飛び降りて、ぱたぱたと部屋を出て行った。
「あ、おい、由美香! ちゃんと保育園へ行く用意を!」
父親が怒鳴る声をかきけすほど大きく、寝室に飛び込んでドアを閉めた音が響く。きっとお気に入りのぬいぐるみを抱えて泣いているのだろう。
入れ替わりにキッチンに入ってきたのは客間から出てきた姑で、これは夜勤のはいった彼に代わって夜の子守をするために機能から泊り込んでくれている。
「カズユキさん、あの子のことなら気にしなくていいのよ」
この姑が『あの子』と呼ぶときは、決まって死んだ妻のことを指している。だから彼には、姑の言いたいことがすぐにわかった。
それでも応えずに次の言葉を待ったのは、この老親もこれを言うのにどれほど傷ついているかを知っているから、言葉が見つけられないからだ。
「あの子のことなら気にしなくていいの。由美香ちゃんのためには、後妻さんを探した方がいいんじゃないかねえ」
「それでも……お義母さん、それはあの子の欲しがっている『お母さん』じゃないんですよ」
「わかってる、わかってるよ。それでも、あの子はもういないんだから……」
妻は悪質な病で、長く床に臥せった後での死だった。
あれは妻が死ぬ少し前、由美香はその年の誕生日に『元気なママ』をねだった。そのときにはもう、医者に余命を宣告されていたのだから、妻は少し寂しそうに笑って、小さく「ごめんね」とつぶやいたものだ。
そのひとことが耳の奥からいまだに消えない。
彼は声を掻き消そうとするかのように頭をかきむしり、食卓の椅子に座った。
「俺だって、亡くなった妻に操をたてるとか、そういうつもりはないです。ただ、いまはまだ……」
「ああ、わかってる、わかってるよ、酷なことを言って申し訳なかったね」
姑はわっと泣きだした。
「どうして……代わりに私が死んだってよかったのに!」
寝室からも由美香の鳴き声が聞こえている。その両方をわずらわしく思いながら、彼はただ、頭を抱え込むようにして座っていることしかできなかった。




