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02

 確かに、本草学の授業で習ったと思う。

 ドルセ・コンフェシオン。甘い告白と呼ばれるこの薬は、自白剤として知られている。

 飲ませても嗅がせても効果が見られ、その名の通り甘い香りが特徴だ。まさに今、トゥルキアが身にまとうような甘い香りが。

 そして告白をうながす自白剤であると同時に、暗示の作用を合わせ持つ薬でもあった。

 状況からすると明らかに標的は私だが、そんなに価値のある情報を自分が持っているとは思えない。ならば、目的は暗示かも知れない。利用する価値くらいならあるのかも。

 半分くらいしか自信のなかった勘が当たって、実はちょっと困ってしまった。それ以上は何も分からないからだ。暗示を掛けて、彼は私に何をさせたかったのだろう。

 授業中のようにあいまいに笑って見詰めると、彼は困った顔で肩をすくめた。

「ちょっと協力してもらおうと思ったんだよ。ゲパルド先生への復讐にもなるし、フェアな取り引きだと思うけど」

「そうかしら。暗示を掛けようとする時点で、自分でもフェアとは思ってないでしょう?」

 本当にそう思っているのなら、普通に取り引きを持ち掛ければ済む話だ。

「ごめんね」

 否定もせずに謝りながらほほ笑む彼が、言葉を続けようと口を開いた時だった。

 ピシリと亀裂が生じたような、壊れた何かに尖った空気が肌を刺す。

 魔術に必要なのは才能だ。掛けるにも解くにも、見て感じると言うことでさえ。才能がなければ、何一つ満足にできはしない。しかし、破られてしまえば話は別だ。

 弾けた瞬間色あせてしまう火花のように、壊れた魔術はわずかに瞬き消えて行く。その様子なら、落ちこぼれの目でも見ることができた。ちょうど今の私のように。

 壁を床を天井を、びっしりと埋め尽くしているのはおびただしい量の術式呪文だ。それらがわずかに輝きながらひび割れて、はがれ落ちた瞬間から溶けるように消え去った。

 ここはトゥルキアの家だから、術式を構築したのは彼だろう。見れば、元から青白い顔色がさらに青ざめほとんど死人だ。

 唐突に、音もなく。

 トゥルキアの姿が消えると同時に、視界が漆黒に閉ざされた。

 反射的に息を飲み、後ろへ下がる。それで気付いた。私の眼前をふさぐのは、黒衣に包まれた男の背中だ。頭から全身を隠す漆黒のローブは、正式な魔術師の装束だった。

 降ってわいた人影は二つ。その大きな背中の片方に、私は迷わずしがみ付いた。

「お兄ちゃん!」

 ぎゅうぎゅう力いっぱい抱き締めていると、横からわざとらしい口笛が聞こえる。

「さっすがエリサ。間違わねーなあ」

 からかいを含んだ男の声は、チャカールに違いない。一石の魔術師だから腕は確かだろうけど、軽薄な上に性格も悪い。お兄ちゃんの親友だが、大嫌いだ。

「……お兄ちゃん?」

 チャカールと表情だけでいがみ合っていると、そう小さくつぶやく声が聞こえた。

 抱き付いていた腕をゆるめ、お兄ちゃんの後ろからそちらのほうを覗き込む。するとそこには、めずらしく表情をつくろっていないトゥルキアがいた。

 ――初めて分かった。

 彼を苦手だと思う、そのわけが。

 どうしてなのか、自分でも不思議だった。トゥルキアは優等生だ。一緒にいると女子に嫉妬されるのが唯一の難点で、迷惑ばかり掛けているのに一度も嫌な顔を見たことがない。

 だって、それは全て嘘だから。

 青白いほどの彼の顔を、クラスの女子は白皙と言う。取りつくろったほほ笑みを、花のように優しいと言う。確かに花だ。それは日陰に咲いて、恐ろしいほどの毒を持つ。

「エリサ……それは、誰?」

 この問いに、返事は必要ないだろう。ほとんど分かっている口ぶりだ。

 今、トゥルキアの顔に浮かんでいるのは憎悪だと思う。ぬれたような黒髪の下、こちらを向く彼の目はまるで深い穴だった。赤い唇の間で噛み締める歯が、欠けそうにきしむ。

 私は、彼が苦手だった。

 それはお兄ちゃんを見る目にいつも、憎しみがひそんでいたからだと気付いた。

「エリサが迷惑を掛けましたね」

「謝罪には及びませんよ。ゲパルド先生」

 答えてトゥルキアは薄く笑うが、それはどこか苦々しい。悔やんでいるのか、自嘲だろうか。むりもない。ゲパルド先生への復讐を持ち掛けた相手が、その妹なんだから。

 そこまで考えて、はっと気付く。

 慌てて黒いローブから手を離し、後ろへ下がった。抱き付いてどうする。よく考えたら、昨日のことがあってからお互いに気まずいままだった。

「お、何? ケンカ?」

 フードの中に隠れているが、チャカールはこげ茶の目を輝かせているに違いない。

 私がどれだけお兄ちゃんを大好きか知っていて、普段なら自分から離れるなんてあり得ないと思ってでもいるのだろう。

 事実だから、否定はしない。言い返さずに黙り込んだら詰まらなくなったのか、チャカールはふいっと顔をそらしてトゥルキアに声を掛けた。

「お前、本当に知らなかったのか? こんだけベタベタしてたら、何かあるって解りそうなもんだろ」

「……思ってましたよ、何かあるとは。だから利用したかった。裏切られたと思い込んだら、女の人は恐ろしい事も平気でやるから」

 学院で、私とお兄ちゃんはただの学徒と教授だった。劣等生が教授の身内だなんて恥ずかしくて言えないし、そもそも魔術師は家族のことは明かさない。

 理由は簡単。危険に巻き込まないためだ。

 だから今回のことは、魔術師を志す者として最悪の展開だと言える。何かあると知られた上に、まんまと利用されそうになった。我ながら、もう本当にだめかも知れない。

「……兄妹とはね」

 ぼそりとこぼしたトゥルキアの顔が苦しげで、私は思わず聞いていた。

「どうしてお兄ちゃんのことが嫌いなの?」

 彼はおどろいたように目を開き、それから少し困った顔でほほ笑んだ。

「どうして僕に付いてきたの? 本当に、ゲパルド先生に復讐したいと思ったの?」

「エル、わたしに復讐を?」

 自宅でもないのに、愛称で呼ぶ。そのお兄ちゃんの静かな声に、私は震えた。そっと素早く移動して、チャカールの陰に隠れる。勘弁してよと嫌がる声が聞こえたが、関係ない。

 三つの頃から大好きで、十五になった今でも変わらず大好きだ。そんなお兄ちゃんに復讐なんてするわけがない。

 でも、私を誘ったのはクラスで一番の優等生だ。勉強のできる彼なら、弱点くらいは教えてくれそう。そう思うと、誘惑に勝つことができなかった。

 言いわけも思い付かずに黙っていると、お兄ちゃんが問い掛けた。私にではない。

「君は? わたしに復讐を?」

「そうです」

 トゥルキアは、真っすぐに答えた。

 意外だった。深い穴のような目だと、思ったのはついさっきだったから。

「君がわたしを恨むのは、姉上の事が理由なのだろうね」

「……はい」

「では、君も魔術師になるべきではない」

 おどろいたのは私だけではなかったし、彼だけでもなかった。あら大変、と焼き菓子を山のように積み上げたトレイを持ってトゥルキアのお母様がのんびりと声を上げた。

「お客様がたくさんね。お茶はいかが? お菓子も召し上がって。お二人は魔術師? うちの上の子も魔術師でしたのよ」

 そう言って、彼女は暖炉に目を向けた。その上には置き物や、燭台が飾られている。

「母さん」

「あら、ごめんなさい。……あなたが魔術師にむいてないと聞いて、喜んではダメよね」

 トゥルキアの頬をするりとなでて、母親は悲しそうにほほ笑んだ。

「あれはお姉様の?」

 彼のお母様が台所へ下がったあとで、暖炉の燭台を見ながらに問う。

 丸い台座を囲むように、小さな魔法陣が描かれていた。魔法で守られたこうした明かりを、魔術師の影と呼ぶ。この灯火が消えるのは、魔法陣を描いた人間が死んだ時だ。

 ある意味で残酷な道具だった。明かりが灯っている限り無事だと知れたが、今にも火が消えるのではないかといつも不安でたまらない。魔術師の家族は皆そうだ。

 そして今、この燭台の火は消えている。

 誰も何も答えなかったが、そうなのだろうと納得していた。

 トゥルキアの姉は魔術師で、お兄ちゃんを恨む理由がその人なら。消えてしまった魔術師の影が、誰の物かはすぐ分かる。

「あなたは、お姉様のために復讐しようとしているの?」

「そうだよ。……魔術師にはよくある事だと人は言うけど、僕はどうしても許せなかった。姉を死なせて、自分だけ無事に戻った貴方が。どうしても。エリサには悪いけど」

「……分かるわ」

 私の同意に、男三人が一様におどろく。

「お兄ちゃんが死んでチャカールさんだけ戻ったりしたら、私も絶対殺したいもの」

「えー!」

 非難の声を上げたのは、本人だけだった。

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