砂場にて
駅前の大通りを歩くと、夏の風が頬を撫でた。夕餉の香りに混じり、クチナシの甘い芳香が鼻孔をくすぐった。額に滲んだ汗をハンカチで拭って、私は自宅へと向かった。
大通りを五分ほど歩き、路地を一本曲がると、街灯の疎らな道に出た。この通りが自宅までの一番の近道になる。だが、私はこの道を進むたびに陰鬱な気分になった。道の途中にある、大きな廃ビルのせいだ。
巨大な生き物の抜け殻を思わせるその廃墟は、たびたび怪談の噂が立っていた。昔、同じクラスの友人が昼休みに話していたことがある。深夜、同僚と浴びるほど酒を飲んだサラリーマンが、寿司折を片手に、一人で通りを歩いていたそうだ。そしてふと右手にある廃ビルに目をやると、三階の窓辺で漂う火の玉を目撃したそうだ。小さく灯った怪火はゆらゆらと揺れて、サラリーマンが何度か瞬きをした後、いつの間にか消えていたらしい。酔いが覚めた男は寿司折を放り出して、駆け足で我が家に駆け込んだという。
他にも、その廃ビルに入った人が消えるという噂があってね、と友人は面白おかしく喋っていた。しかし、自宅から徒歩で向かえる距離にその建物がある私にとって、それはあまり愉快な話ではなかった。
生温い風が吹き、肩口で揃えられた私の髪を弄んだ。前方を見ると、夜の黒よりも濃い廃ビルの影があった。ビルの塀には不審者出没注意と書かれた看板が立てかけられていた。道を挟んだ反対側には、繁茂する木々や団地で周りを囲まれた小学校があった。一ヶ月ほど前まで、学校の周辺は主婦や子どもたちで賑わっていたが、ある日を境にその近辺に住む人は減少してしまった。日が沈んだこの時間帯になっても、団地の廊下には蛍光灯のまばらな明かりが灯るだけで、人の気配はほとんど感じられない。
小学校の前を足早に過ぎようとしたとき、視線の端に何か気になるものを見つけた気がして、はたと止まった。学校の校庭に目を向けると、男の子が一人、サッカーボールを壁に向かって蹴り出していた。熱心にサッカーの練習に励むというより、暇を潰すものがボールしか無いからただ遊んでいる、といった蹴り方だった。
男の子は短めの黒髪と常磐色の半ズボンという出で立ちだった。こんな時間にどうしたんだろう、と訝しんでいると、足を止めた少年がこちらに気がついた。晴れやかな顔で右手を差し出して、おいでおいでとこちらに手招きをした。好奇心に駆られた私は、正門をよじ登り、彼に近づいてみた。少年は私を見据えたまま「お姉ちゃん」と声をかけると、「もしかして、僕のこと見えるの?」と訊いた。
質問の意味がすぐには飲み込めなかった。どういうこと、と尋ねようと口を開きかけたが、少年は朗らかな笑みを浮かべながら、「実は僕、死んでるんだよね」と言葉を続けた。
「いわゆる幽霊ってやつかな。死んでから毎晩、ここの校庭で遊んでたんだけど、誰も気づいてくれないんだもの、寂しかったんだよね。お姉ちゃんが僕を見つけてくれて助かったよ」
「ちょっと待って」
吐き出す息が多すぎたのだろう、自分で思っていたよりも大きな声が出た。夜の闇がより一層、色濃く感じられた。
少年の話は何一つ信じられなかった。映画やテレビドラマなどで見られる幽霊は、肌の色が青白かったり、足が消失していたり、気味の悪い容貌をしていた。しかし、少年からは不気味な気配が微塵も感じられなかった。彼の目は深海の水が注ぎ込まれているように澄んでいるし、呼吸に合わせて軽く上下する胸が、シャツの上からでも見て取れた。
軽く膝を折り、少年の目を正面から覗き込みながら、「お姉ちゃん、ちょっとまだ信じられないな。君、名前はなんていうの?」と訊いた。
「翔太です。羊に羽って書くほうの翔に、太いで、翔太」
「翔太くんね。私、確かに翔太君のことは見えているけれど、死んでいるとは思えないな」
「うーん、そう言われてもなぁ……」
こめかみの辺りを掻きながら、翔太が考えあぐねいた。そして、くりくりと動く目と大きな口、汗の匂いが、唐突に私の中にあった弟の面影を呼び起こした。一ヶ月前に失踪した弟の顔が翔太の顔に接近し、重なりかけたとき、背中の方から話し声が近づいてきた。
振り返ると、少年が二人で談笑しながら通りを闊歩していた。翔太と同じくらいの年嵩に見え、一人は瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、もう一人は坊主頭だった。そして二人の顔は私にとって見覚えのあるものだった。会話こそ交わしたことはないが、塾の帰り道で方向を同じにすることが何度かあった二人組だ。
あ、そうだ、と翔太が声を漏らし、駆け出していった。
「どうしたの」
「ちょっと見ていてよ。僕が幽霊だってこと、証明するから」
何をするつもりだろう、と怪しんでいると、翔太は二人の少年の前に出て、大げさに両手を振ってみせた。おーい、と声をかけたり、手を打ち鳴らしているが、少年たちには翔太が全く視界に入っていないように会話を続けていた。
「ね、見えてないでしょ?」と言いながら、翔太は坊主頭の少年の頭部を撫でていた。短い髪の毛が手のひらに刺さる感触を楽しんでいるようだ。翔太は戯けた表情を浮かべながら、釣り餌に群がる小魚のように少年たちの周りを飛び跳ねていた。
辺りの暗い雰囲気に似合わない、あまりに滑稽な光景に、つい不随意的な笑い声が漏れてしまった。少年たちの話し声が断ち切れて、刺すような視線が降りかかってきた。熱を孕んだ夜の空気が、ガラスのように固くなった。少年たちは私の目をじっと見つめたまま、じりじりと歩を進めた。そして一定の距離を置くと、脱兎のごとく走り去っていった。
「行っちゃった」闇に溶けていく少年たちの背中を眺めながら、翔太は嘆息した。「夜中の学校で笑ってる女の人を見たら、誰だって怖がるに決まっているよ」
「心外だなぁ、笑わせたのは君なのに」
「えー、それって、八つ当たりじゃないの?」
当意即妙な翔太の話に、再び胃の腑から笑いがこみ上げてきた。それに同調するように翔太も笑った。
少年たちの目に映らず、声も届かなかった翔太は、確かに幽霊なのかもしれなかった。しかし、不思議と恐怖心はなかった。
笑いの余韻が引き始めた頃、実はね、と翔太が喋り始めた。
「お姉さんに、お願いがあるんだ」
「なに?」
「あまり、明るい気分になる頼みではないんだけど……」子ども特有の媚びた気配は感じられない、落ち着いた声。
「大丈夫よ。私にできることなら、遠慮なく言って」
「本当に?」翔太の目は深い井戸の底のような黒みを帯び、こちらを真っ直ぐに見据えていた。「あのね……。僕の死体を、砂場から掘り出して欲しいんだ」
私は翔太の目を見たまま、糊で固めたように身体を硬直させた。
何度か浅い呼吸をして、学校の隅にある砂場を見た。常夜灯に照らされた砂場は、暗闇からぼんやりと浮かび上がって見えた。
「わかった、良いよ」夏の暑さがじんわりと、呪いのように皮膚にべったりと張り付くのが感じられた。
「本当に?」
「うん、掘り出せばいいんだよね? ……あなたの、死体を」
翔太の目が一段と大きく開かれ、ありがとうお姉ちゃん、と翔太は言った。幽霊とはとても思えない、無邪気な笑顔を浮かべていた。
何処からか、翔太がシャベルを二本持って来た。体育倉庫から持ってきたらしい。片方のシャベルを私に手渡すと、翔太は砂場を指さした。
「あの砂場の、ちょうど真ん中にいるんだ」
「どうして分かるの?」ずっしりとしたシャベルの重みを感じながら、砂場へと歩を進めた。
「分かるんだから、仕方がないよ」鳥になぜ飛べるのか尋ねるようなものだよ、とも翔太は言った。
砂場に着くと、私は砂場の縁の石にカバンを置き、翔太と共に砂を掘り出しにかかった。シャベルが砂に突き刺さるたびに、霜柱を踏みつけるような音が辺りに響いた。
五分ほど経つと、砂の深さは一メートル三十センチほどになった。熱に浮かされるように、夢中で掘り進めていると、砂とは異なる物にシャベルが突き刺さる感触が掌に伝わった。砂を掻き分けてみると、スイカに似た形の物体が汚れた布に包まれて出てきた。
「それだ!」穴の周辺をシャベルで固めていた翔太が叫んだ。「それが僕だよ、間違いない!」
スイカの周りをある程度堀ると、人間の肩のような突起が見えてきた。タールのように粘つく唾液を飲み込み、手に持っていたシャベルを置くと、私は布に付いた砂を丁寧に払い、布を掴んだ。上方向に力を加えると、砂に埋もれていた布が取れた。饐えた臭いが湧き上がり、胃が喉元までせり上がってくるような嘔吐感を覚えた。私が掘り出しのはどす黒く変色し、毛髪が抜け落ち、腐敗が進んだ子どもの死体だった。そして、私はこの子どもに見覚えがあった。両目が潰れ、唇は爛れていたが、この子は失踪していた弟にそっくりだった。
どうして弟がこんなところにいるのだろう、と当惑していると、頭上から翔太の声が降ってきた。
「兄弟で仲良く寝ていろよ、お姉ちゃん」
頭に衝撃を受けて、私は顔から砂地に倒れこんだ。目の裏に火花が走り、鉄臭い血の匂いがした。身体を起こそうとしたが、視界がぐるぐると回転し、上手く立ち上がることができなかった。後頭部が焼けるように熱く、皮膚の裏まで冷や汗をかいていた。そして薄れていく意識の中、私は視界の端に三人の少年を捕らえた。それはシャベルを持った翔太と、先ほど私と目を合わせて逃げ出した二人組の少年だった。
「今回は楽勝だったな」計画を成し遂げた充足感を語尾に滲ませながら、翔太が言った。「こんなあっさりと事が進んだのは初めてだぜ」
本当だな、と坊主頭の少年が笑い、「お前が幽霊だってすぐに信じたよ、この女。高校生にもなって、そんなオカルト話を信じるかね、普通」
翔太の演技が良かったんだよ、と眼鏡の少年が言葉を続け、「俺なんて途中で笑いそうになっちゃったよ、翔太がこいつの頭をぐりぐりと撫でてるとき。気づかない振りするの大変だったんだから……」
「悪かったって、あれはちょっとやり過ぎたわ」
「全く、次からはもう少し抑えてやれよな」坊主頭がシャベルを足元に刺し、大きく息を吐いた「よし、こんなもんだろ」
砂場は再び埋め立てられていた。表面を綺麗に慣らすため、三人は砂場の上に立ち、両足を強く踏みしめた。
「次のターゲット、どうする?」無意識のうちに口ずさんでいた鼻歌のような軽い口調で、翔太が言った。
「サラリーマンで良いんじゃない」シャツの袖で汗を拭いつつ、眼鏡が言った。「俺たちの遊びが大人でも通じるか、試してみようよ」
「それ良いね。じゃあ来週、今日と同じ時間にやろうか」
笑みを浮かべた少年たちはある程度砂場を踏み固めると、シャベルを手に正門へ向かおうとした。すると突然、三人の足首に痛みが走った。下を見ると、砂場から伸びた手が少年たちの足を掴み、爪を食い込ませていた。手は四本あり、干からびて細くなったものと、白い女性のようなものがあったが、鎖のように彼らの足に食らいついた。絶叫した少年たちは地面に爪を立てて抵抗したり、シャベルを手に突き立ててみたが、為す術もなく砂場へ引きずり込まれていった。少年たちの骨が軋み、枯れ枝を折るような音が鳴ると、痛みのあまり彼らは失禁した。そして少年たちの身体が絞り上げられた雑巾のようになると、三人の姿は砂の中へと消えていった。
老人斑に似た染みが地面にできた。降りだした雨は次第に強さを増し、失禁の跡や血を綺麗に洗い流していった。小学校の校庭にはシャベルとサッカーボールが転がり、それを常夜灯が仄かに照らしていた。そしてこの日以降、廃ビルに出現する幽霊の噂は立ち消えた。しかし、夜になると学校内を彷徨う兄弟の霊が出るという噂話が、密かに囁かれるようになったという。
<了>




